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隧道レポート 富山県道42号小矢部福光線旧道 小森谷隧道 後編

所在地 富山県南砺市〜小矢部市
探索日 2018.11.12
公開日 2024.09.18

 北口より、ヘドロ沼と化した洞内へ……


2018/11/12 15:04 《現在地》

坑口から覗き込んだ洞内は、一面の沼地と化していた。
天井や壁の様子には、坑口のような朽ちた感じがあまりないのだが、とにかく路面の状況が良くない。
水が溜まっているというのは廃隧道で良く見る光景だが、ここは水よりも泥の量が凄い。
そしていうまでもなく、水より泥の方が障害物としては厄介である。

一応、長靴を履いてきているが、この感じはおそらく、踏み込めば長靴の敗北は確定的だと思う。
しかし、ここまで来て、泥沼だから立ち入りませんでしたというのも癪に障る。
ここで終わりが目視できるならそれでも納得したと思うが、見えないし、今回は反対側の埋没を既に確認済みなので、ここで引き返せば洞内は永遠に謎で終わることになるだろう。(当時、中に入ったという探索記録を見たことがなかったしな…)

両足の清らかさを贄に捧げる覚悟をもって、突入!



ぬっちゅぁ…



ぶりゅぐぽっ…


ってか、 待て!

なぜ、自転車を道連れにした?!

うんこれが分からない。
貫通出来ないことを知っていながら、なぜ自転車を入れたのか……。
5年も前の探索だから忘れたとかじゃなくて、現地でも即座に分かんなくなった。なぜわざわざ自転車を押しながら行き止まりの泥沼に突撃したのか。

……手癖で突入させちゃったんだ。
で、一度入れちゃったからには、そこで間違いでしたって止めるのも悔しくて、そのまま道連れにした。引き返すのが下手クソな私だから。



ともかくこうして、長年連れ添った一人と一台は、仲良く闇のヘドロ地獄へ足を踏み入れてしまった!

突入と同時に、ヘドロの強烈な臭気が鼻をついた。
トンネルの断面は十分に大きいので、さすがに酸欠になったりはしないだろうが、まったく風は吹いていない。
やはり、非貫通ということで間違いなさそうだ。

そして、最初の4歩か5歩を踏んだ辺りで、もう長靴は限界を迎えた。



長靴が私を裏切って泥沼への居残りを決め込んだからタマラナイ。

深く嵌まって抜けなくなった長靴を抜こうと悪戦苦闘をするうちに、敢えなくその靴は脱げ、私は靴下のまま勢いよく泥海を踏んだ。

……終わったのだ。

直後、両手まで泥まみれにしながら何とか長靴は回収して履き直したが、一瞬で、どちらが靴の内か外かも分からないほど徹底的に泥まみれとなった。



15:07 (入洞3分後)

突入から約3分後の状況。
その後も何度か靴を取られそうになったが、なんとか進んでは来ている。
いまのところ、洞内の様子に目立った変化はない。一面の泥沼が続き、沼にも、隧道そのものにも、終わりは見えない。
洞床がこの有様なのに、壁面や天井はとても平穏で現役さながらだ。それが有り難いのやら、退屈で憎らしいのやら、よく分からなくなった。

もう取り返しが付かないレベルで足は汚れたが、それでもまだ恐れていることはある。
それは、泥の深さだ。
これ以上深くなると、私はもう進むことが出来なくなるだろう。
悲惨な戦争映画よろしく、泥の海を這いつくばって進む気力まではさすがにない。
これ以上深くならないことを祈るよりなかった。



入洞から3分を掛けて、進めたのはたったこれだけ。
なんとも難儀な隧道である。

それはともかく、ひとたび人間が足を踏み入れれば、これほど盛大に足跡が残されるのだ。
今は私が刻んだ痕だけが見えていて、すなわち洞奥より生還した者はまだ一人もいないことを物語っているようだった。
これは本当に、私よりも前に立ち入った人はないのかもしれない。
泥が昔からこの通りだったわけもなく、もちろんそれはあり得ない想像だったが。



15:09 (入洞5分後)

あまりの難儀さに呼吸が自然と荒くなり、吐き出した熱息がカメラのレンズをたびたび白く濁らせた。
果たして、この泥の海に終わりはあるのだろうか。
吐息と共にそんな弱気も漏れ出るが、もちろん終わりはある。
この隧道の長さは168mと記録されており、それ以上長いことはないはず。
入洞から5分が経過し、おそらく半分以上は進んだろうが、まだ終わりは見えていない。

相変わらずの一面の泥の海だが、その細部には変化が生じつつあった。
泥の上に水の流れた痕が無数にのたくっているのが見えるだろう。
これは水位が少し下がっている証拠である。
一般的な隧道の傾向と同じく、この隧道も奥へ向って微妙に上り坂であるらしく、勾配に従って水位が下がってきているのである。
少しだけ救いが感じられた。



にゅ〜〜…



15:10 (入洞6分後)

だいぶ泥は浅くなってきたが、それでも本来の洞床を露出させるには至っていない。
しかし、ようやく少し落ち着いて洞内を観察できる余裕が出てきた。
本来なすべき事、なしたい事を、ようやくする。

まず壁面だが、コンクリートで覆工された上にモルタルコンクリートの吹付けが行われている。
そのため本来の壁は隠されている。昭和24年当時はまだ吹付け工法がなかったはずだから、後年の補修によるものだと思う。
車が擦ったような傷はほとんどなく、漏水によるひび割れはいくらかあるが、全体的には現役のように綺麗だった。
あと、ぜんぜん見えないが舗装されているようだ。洞床の踏み心地に凸凹がぜんぜんない。

天井に照明は見当らない。昭和55年に現トンネルが開通し、旧トンネルは実質的に役目を終えたと考えられるが、最後まで照明のないトンネルだったようだ。
断面のサイズは、1車線の道路トンネルとしては多少余裕が感じられる。数字で言うと幅3.6m、高さ4.0m。これが『平成16年度道路施設現況調査』に記録された数字であり、実際その通りであると思う。

一方、昭和40年代の『道路トンネル大鑑』だと、高さは変わらないが、幅員は2.7mとなっていた。
この数字が正しいとなると、坑門が作り替えられた形跡がないのに、幅員だけ90cmも広げられた事になる。
当初は坑口附近だけが覆工されていて、素掘りの部分があり、その部分が幅2.7mしかなかったという説を考えたが、『大鑑』でも「覆工あり」となっていたので、そういう訳では無さそうだ。竣功年が異なっている事も含め、単なる誤記という可能性が結構ある。『大鑑』には誤記が多い。




15:11 (入洞7分後)

でッ、 デターーッ!!!

泥の海に聳え立つ、太陽系最大の火山オリンポス山(標高約27000m)を思わせる扁平なる山体は、見るもおぞましき“グアノ堆積山”であった。
平たく言えば、こんもりのうんこ山!
裾野を含めた直径は2mを越えており、高さも4〜50cmはありそうだった。
稀に見る、巨大なグアノ山だった!



洞奥に進んだことで、グアノ堆積の凄まじさが、洞床一面の泥を覆い隠すまでになってきた。写真の黒く見える部分は全てグアノである。
幸い、既にヘドロの匂いで鼻がバカになったせいか、耐えられないほど臭いとは感じなかったが、いやそもそも一面の糞の原を踏み歩く行為自体が普通じゃなかった。これはもはや、私全部がバカになっているといえるかもしれない。

それはともかく、これほど大量の糞を残したコウモリたちの姿が、ほとんど見られないのは奇妙であった。
私が立ち入った事で一斉に逃げ出したわけでもない。
壁を見ると、ちらほらぶら下がっている個体はいたが、せいぜい数十匹に過ぎなかった。
彼らの生活はよく分からないが、何かの事情があって、大半は住み家を移したのかも知れない。



15:13 (入洞9分後)

閉塞地点が見えてきた!

この少し前から洞床の泥の厚みが急速に増していた。
そしてそのまま泥の厚みはどんどん増して、この先20mほどで天井に着く高さとなり、隧道を閉塞させているようだった。
この状況より、隧道全体を泥の海へと変えてしまった真の元凶が、この先の閉塞地点であることが容易に窺えた。

幸い、ここまでずっと上り坂であったせいか既に水気は少なくなっていて、深く堆積した泥はあまり泥濘まなくなっていたから、歩いて進む事が出来た。



15:14 (入洞10分後) 《現在地》

閉塞地点へ到達。

最後は泥だけでなく石混じりの土がみっちみちに詰まっていた。
全体的に黄色っぽい土砂で、黒く見えるのはグアノである。
入口を振り返ると(チェンジ後の画像)、150mくらいは来ているように見えた。



この距離感や、閉塞末端部の天井や壁面に壊れた様子がないこと、さらによ〜く見ると(チェンジ後の画像)天井の小さな亀裂から植物の根らしきものがはみ出していることから、ここが地表に近い部分の地下であること、すなわち、ここが埋没した南口であると考えられた。
ここが【これ】のすぐ傍なのだ。景色的な繋がりは実感できないが。

この状況を見る限り、南口は地表の土砂崩れに巻き込まれた結果、一瞬で姿を消してしまったようだ。
坑口を閉塞させただけでなく、168mある隧道の洞床全部を一瞬で泥の海に変えてしまうほどの大量の土砂が流入しており、泥流というべき流動性を持った崩壊だったようだ。
この崩壊が、廃止後の出来事なのか、現役当時の出来事なのかでニュース性は大きく変わるだろうが、その辺は帰宅後に調べてみた。
ただ、洞内にはこの埋没以外に目立った崩壊はなく、坑門の酷く老朽化した姿とは裏腹に、構造物としてはまだ堅牢性を保っていそうだった。



15:21 

戻りは、往きの踏み跡を最大限利用して時短。約7分で洞口へ戻った。
しかし、自転車と下半身は猛烈な泥汚れに侵されたため、何者かが坑口からの水抜きに用意してくれていた塩ビ管より流れている洞内水(当然ながらグアノ水である)を使って、乾いたら大変なことになりそうな固形の泥だけは落としてからこの場所を離れた。
地面に跪いての孤独な洗い作業には10分を費やした。



今回、取り立てて語りたくなるような洞内での遺構発見はなかったから、予期できていた閉塞を確かめる為だけに払った犠牲としては大きいと感じたが、こんなことだって誰かが入って確かめない限り分からないことだったのだから、これとて誇るべき成果だと自分を慰めた。

帰宅後の机上調査の成果の方が、語りたいことが多い。
次回、お楽しみに。




 ミニ机上調査編 〜小森谷に残された“最大の謎”とは〜


ここからは帰宅後の机上調査の内容だが、まずは現地探索のまとめだ。

探索により、小森谷トンネル(昭和55年竣功、全長222m)の隣に、旧トンネルである小森谷隧道(全長168m)が存在することが確かめられた。
なお、小森谷隧道の竣功年については、冒頭の前説で紹介したように、昭和24年とする資料(『平成16年度道路施設現況調査』)と、昭和29年とする資料(『道路トンネル大鑑』)があったが、現地の【扁額】には前者の竣功年が刻まれていた。

小森谷隧道の現状は完全なる廃トンネルであった。
南口は山崩れにより完全に埋没し、北口は開口しているものの、そこへ通じる旧道は藪に埋れて本来の路面は全く見えない状況だ。トンネル内については、壁面は意外と綺麗で落盤などもないが、南口の崩落時に一挙に侵入したとみられる大量の泥流によって洞床は全て泥に埋れていたほか、排水が上手く行っておらず、低くなっている北口付近は特に泥沼化が進んでいた。

ところで、これも前説で取り上げた内容だが、『平成16年度道路施設現況調査』には、現トンネル(小森谷トンネル)と旧トンネル(小森谷隧道)が併記されていた。
そのことから、平成16(2004)年3月31日時点でも、旧トンネルが県道の認定を解除されていなかったことが分かっている。
昭和55(1980)年に新トンネルが開通し、供用を開始したにもかかわらず、その後も長らく旧トンネルが県道であり続けていたことになるわけだ。
これは何か理由がなければ解せない“不思議”である。

このことに関連して、富山県GISサイト上の道路台帳図面を確認してみたところ……


富山県GISサイトより道路台帳の抜粋

……平成5(1993)年4月調製となっている道路台帳上でも、確かに旧トンネルが前後の旧道を含めて県道の一部とされていることが分かった。

上の図の灰色の部分が県道敷であり、青と赤はそれぞれ私が判別のため色塗りした現トンネルと旧トンネルである。
台帳の調製は平成5年と少し古いが、その後に更新されていないので、道路台帳としてはこれが現在も最新版であるはず。
土砂崩れによって跡形もない南口が平然と描かれていることも含めて、ちょっと衝撃的であった。

また、本編とは直接関わりがないが、前回紹介した県道285号西勝寺福野線へのアクセルルートとして、昭和60年前後に整備されたことが航空写真等から判明している「県道285号のダミールート(仮称)」は、この図面には全く反映されておらず、そこが県道でないのは良いとして、実際に地形上に存在している道が等高線にすら反映されていないことから、測量自体がダミールートの建設よりさらに前のものであることが窺えた。

とまあ、簡単に見られる場所にあったので道路台帳まで引っ張り出してみたが、結局のところ、なぜ旧トンネルが現トンネルの供用開始後も長らく県道であり続けているのかという謎は、謎のままである。例えば、将来的に旧トンネルを自転車道や歩道としてリニューアルして再利用する目論見があったなんて説が考えられるものの、記録は見当らない。
加えて、2024年現在がどうなのかも不明だ。(道路台帳は更新されていないが、県道の区域の変更だけは行われて公示されているかもしれない)


この“謎”の追究はここまでにして、次は本題であるところの、これら2世代の小森谷トンネルの歴史についてだ。
だが、これについても今のところは、新旧トンネルの存在を後年の視座から分析・解説した文献が見つかっていないので、各時代の複数の資料にある断片的な情報を組み合わせることで、なんとか歴史と呼べるものを紡ぎ上げてみたいと思う。

まずは、(あまり興味のある人は多くなさそうだが)現トンネルの由来に関する資料を紹介する。
日本道路協会の機関誌『道路 第478号』(昭和55年12月号)に、本トンネルの開通を伝える次のような短い記事が掲載されていた。

・主要地方道福光安楽寺押水線の小森谷トンネル開通

富山県において建設を進めていた主要地方道福光安楽寺押水線の小森谷トンネルが完成し、11月12日開通した。本路線の現道は、幅員が狭く急峻な山岳にはばまれ土砂崩れ等の危険が多く地域住民の日常生活はもとより安全かつ円滑な交通の確保に大きな障害となっており、その整備が地域住民より強く要望されていた。

<事業の概要>
路線名主要地方道福光安楽寺押水線
位置小矢部市小森谷地内
延長774m(うちトンネル部222m)
幅員9m
事業費約5億円
『道路 第478号』(昭和55年12月号)より

当時の路線名は現在と異なり、主要地方道福光安楽寺押水線といった。これは現在の福光小矢部線の終点である小矢部市石動からさらに北西へ、石川県宝達志水町(旧押水町)の国道159号までの区間を含んでいた。平成5年に石動以北の県境区間が国道471号へ昇格し分離したため、短縮されて現在の路線となったものである。

小森谷トンネル開通以前の旧道は、幅員が狭く土砂崩れ等の危険が多かったと記事には出ているが、旧トンネルが埋没するような土砂災害を直接のきっかけとして整備されたわけではないようだ。それならそうと記事に書くだろう。

むしろ、トンネルの更新を含む路線全体の大幅な改良が行われた最大のきっかけは、本県道と国道359号が接続する小矢部市平桜地区に昭和49年の北陸自動車道の開通に伴って設置された小矢部ICの存在であろう。
昭和50(1975)年の『広域営農団地総合診断報告書 昭和49年度』という資料には、次のような表記がある。

この小矢部ICと直結する(中略)福光安楽時押水線は、石川県押水町で国道159号線に直結し、南は国道304号線を通じて福光・城端をはじめとして南砺一体に通じ、さらに中部山岳国立公園と連絡するので、産業開発はもとより観光ルートとしての利用が増すであろう。現在、金沢礪波線(引用者注:現国道359号)の国道昇格および福光安楽寺押水線の小森谷トンネル改良(中略)が期待されている。

『広域営農団地総合診断報告書 昭和49年度』より

このように、県道福光安楽寺押水線は、小矢部ICの開設によって、能登半島―北陸自動車道―南砺―中部山岳地帯を南北に連絡する産業・観光ルートとしての重要度を高めることを説き、路線上にある小森谷トンネルの改良が既に計画されていることが述べられてるのである。
またこれとは別に、富山県が昭和53(1978)年に作成した『住みよい富山県をつくる総合計画修正計画』という資料においても、県内交通網整備の一環として、北陸自動車道との連絡をテーマに、小矢部ICに通じる小森谷トンネルの整備を急ぐことが記されていた。


現トンネルについてはこれで良しとして、次は旧トンネルに関する資料探しだが、ここから一気に量が乏しくなる。
新しいものから順に見ていこう。

昭和37(1962)年に北日本新聞社が刊行した『北日本年鑑 1962年版』に、富山県内の国道および県道にある長さ50m以上のトンネルの一覧表があり、合計18本のトンネル名、路線名、全長、幅員が列記されている。その中に次の記述を見つけた。

◇福光石動線
  小森谷隧道  全長167m  幅員4m

『北日本年鑑 1962年版』(昭和37年)より

内容はたったこれだけだが、昭和37(1962)年当時、旧トンネルが県道福光石動線として供用中であったことがはっきりした。
この路線名も初出だが、別の資料により、昭和29(1954)年の現行道路法下における主要地方道の第一次認定時に、県道石黒石動線ほか2本の県道を一本化して指定された主要地方道であることが判明している。ただ、昭和42(1967)年3月31日時点のデータを記載した『道路トンネル大鑑』において、同トンネルは主要地方道福光小矢部線に属するものとなっていたし、さらに前述の通り昭和50年の資料では主要地方道福光安楽寺押水線となっていたので、この路線名は後に頻繁に変化したことが窺える。

ここからは旧道路法の時代となる。

『富山県議会四カ年の回顧 1947-1951』という資料に、「昭和二十二年度陳情書及び請願一覧表」として、昭和22(1947)年度に富山県議会が取り上げた陳情書や請願書の名目一覧が掲載されている。そこに次の内容を見つけた。

昭和二十二年度陳情書及び請願一覧表

提出月日陳情・請願の要旨提出者氏名紹介議員
(略)
8月18日県道石黒石動線の隧道全通促進方について西礪波郡東蟹谷村村長 名越 栄雄 
(略)
『富山県議会四カ年の回顧 1947-1951』より

これまた、たったこれだけの内容であり、具体的な陳情・請願の内容もここでは分からないのだが、それでも読み取れることがある。
それは、昭和22(1947)年8月時点で、県道石黒石動線の“隧道”が全通していなかったということだ。

石黒石動線は、小森谷隧道が建設された県道の旧道路法時代時代の路線名である。
小森谷隧道の北口坑門に「昭和24年9月竣功」を記した銘板が取り付けられていたので当然と言えば当然だが、昭和22年当時はまだこの隧道が全通しておらず、現地の村長が建設促進の請願をしているということだ。この時点で着工されていたのかについても分からないが、わざわざ請願したくなるくらいには、順調ではなかったのかも知れない。ちなみに東蟹谷村(ひがしかんだむら)は隧道の北口一帯、現在の小矢部市小森谷を含む地域に、明治22(1889)年から昭和29(1954)年まで存在した自治体だ。同年に栃中町となり、さらに昭和37(1962)年に小矢部市となった。

資料だ文献だと勿体ぶりながら、結局はこんな実に乏しい情報しかないのかと、皆さま徐々に興が削がれているかも知れないが……、
全く仰るとおりである。
ただ、もう少しお付き合いいただきたい。

『富山県議会史 史料編』には、県議会での議論のきっかけとなった各年代の主要な建議書が掲載されている。
そこに昭和14(1939)年に建てられた次のような建議書があった。
なお、提出者は谷村金四郎 外2名、賛成者は八尾菊次郎 外8名となっているが、彼らの出身は分からなかった。

 府県道石黒石動線小森谷隧道完成ノ儀ニ付建議

府県道石黒石動線は西礪波郡福光町ヨリ石黒村ヲ経テ石動町ニ達スル重要路線ナルモ石黒村東蟹谷村界ハ隧道ニ依ルノ外ナキヲ以テ郡道当時一部ノ開鑿ヲ企図サレタルモ県道編入後之レガ完成ヲ見ザルハ交通運輸上不便少カラズ延(ひい)テ地方産業開発ヲ阻害スルモノト被認(みとめらる)ヲ以テ速ニ之ガ完成ヲ期セラレムコトヲ望ム
        昭和十四年十二月十三日

『富山県議会史 史料編』より

昭和22年にも「隧道全通促進」を陳情されていた小森谷隧道が、太平洋戦争を挟んでその直前の昭和14年にも完成を求める建議がなされていたのである。
これにより、少なくとも完成の10年以上前から、継続的に県議会への請願が行われていたことが明らかとなった。
時間を長く費やした産みの苦しみがあったのだと分かる。
しかも今度は具体的な建議(請願)の内容が明らかになり、そこに予想以上に興味深い内容があった。

それは、「隧道ニ依ルノ外ナキヲ以テ郡道当時一部ノ開鑿ヲ企図サレタルモ県道編入後之レガ完成ヲ見ザル」という部分だ。
分かりやすく言い換えると、県道石黒石動線が認定される以前の郡道だった時期に“一部の開鑿を企図”したが、県道となった現在も未だに隧道が完成していないということになる。

この“一部の開鑿を企図”というのがどんな状況を指しているのか、非常に興味深いのである。
隧道の一部の開鑿をはじめたが完成に至らなかったのか、隧道以外の一部の開鑿をはじめたが完成に至らなかったのか、はたまた“企図”しただけで実際の工事は行わなかったか。どのようにも読めてしまうのが悩ましいが、もし前者であれば、小森谷隧道には未成隧道として過ごした時期があったことを想定しうる。

ここでさらに時代を遡り、県道石黒石動線の認定がいつ行われたのかを調べていくと、一つの資料に行き着いた。
それは大正12(1923)年に西礪波郡役所が郡制廃止を前にまとめた『富山県西礪波郡要覧』である。
ここに郡内の国道、県道、郡道が掲載されており、そのうち郡道について次のような記述を見つけた。

 郡 道
大正12年3月郡制廃止と共に従来郡費支弁道路よりその大半は県道に移管されたり。即ち大正12年3月31日新に県道に移管されたるもの左の如し。延長は本郡内の延長を記載せり

 (……以下路線名16本列記のうち……)

・石動、福光線
起点、西礪波郡石動町後谷、終点、同郡福光町荒町 延長1里28丁16間
『富山県西礪波郡要覧』(大正12年)より

大正8(1919)年の旧道路法公布後、一旦は郡道という道路区分が出来たが、大正12年に郡制が廃止されたため郡道がなくなり、従来郡道であった路線は重要度に応じて県道へ昇格するか町村道へ降格するかが決められた。その際、郡道から県道へ昇格した路線の中に、県道石動福光線というのがあったのだ。
その区間を見る限り、これが後の県道石黒石動線の前身であることは明らかだ。したがって、「郡道当時一部ノ開鑿ヲ企図」は、大正12年以前の出来事だと推測できるのである。

大正時代という早くから小森谷隧道の建設が計画(あるいは一部は実行?)されていたとしたら、これは結構なニュースだと思うが、なんといっても現地は明治16(1883)年生まれという県内最古級の蔵原隧道のお膝元であるから、その存在に刺激を受けて早くから隧道が計画されたとしても不思議はない。

それどころか、昭和13(1938)年の時点で既に小森谷隧道が存在したことを示す資料すら見つかってしまった!

それは、以前の県道285号のレポートでも引用した『富山県統計書 昭和13年 第1編 土地・戸口・其他』である。
同資料の「道路一覧」に県道の一覧があり、そこに県道石黒石動線のデータが、次のように記載されていたのである。

路線名道路延長隧道延長橋梁延長渡船場延長
県道石黒石動線9144m74m88m0m
『富山県統計書 昭和13年 第1編 土地・戸口・其他』より

な、なんだって―――!?

これは衝撃的だ。

昭和13(1938)年の時点で、県道石黒石動線には合計延長74mのトンネルが存在したことになっていた。
本数は分からないが、おそらく1本であろう。
そしてこれが小森谷の峠にあった証拠はないが、本県道の径路を見ると小森谷の峠以外は平坦で、天井川のような地形もないから、74mという長さのトンネルが掘られそうな場所が全く見当らないのだ。

消去法的にこれは小森谷の峠にあった隧道だと考えられるが、問題は、今回探索した旧トンネルは168mあったことだ。全長74mとはあまりに差が大きい! 普通に考えれば別のトンネルであろう。
すなわち、旧旧隧道が存在した可能性がある!

このことは、以前の県道285号の机上調査時に“謎”とした、同県道の前身にあたる県道小森谷福野線の認定に関わる次の記録と結びつく。
『富山県議会史 第4巻』より、昭和4(1929)年11〜12月の通常県会の記録の一部だ。再掲する。


『富山日報社編纂 富山県管内図(昭和8年1月15日発行)』より

  府県道路線の認定
別紙調書ノ路線ヲ府県道路線ニ認定セントス

 ・府県道路線認定調書
路線名 起 点 終 点 延 長 
……(略)……
小森谷・福野線西礪波郡東蟹谷村小森谷墜道除東礪波郡福野町二里
……(略)……

『富山県議会史 第4巻』より

この資料には、新たに認定される県道小森谷福野線の起点の位置を「西礪波郡東蟹谷村小森谷墜道除」と書いてあった。

昭和24年に誕生したはずの小森谷隧(墜)道が、なぜ昭和4年の資料に登場するのかが“謎”だった。

だが、昭和4年当時、既に小森谷隧道が存在していたのなら、謎ではなくなる。
単純に、小森谷福野線の起点が、当時存在していた「小森谷墜道」の附近であった(“除”の意味は判明していないが)と解釈できよう。

右図は、昭和8(1933)年の『富山県管内図』である。
県道が二重線で表現されているが、特に赤く着色したのが県道石黒石動線(路線名の注記もある)で、緑が県道小森谷福野線だ。
小森谷福野線は、その起点で石黒石動線と繋がっており、ここが「西礪波郡東蟹谷村小森谷墜道除」と呼ばれた地点だと考えられるものの、蔵原隧道(全長120m)は描かれているのに、石黒石動線の隧道(全長74m)は、どこにも描かれていない。

仮に、小森谷隧道に旧旧トンネルが存在したとすると、それは大正9年から12年ごろ、すなわち郡道だった時期に掘られたもの(「郡道当時一部ノ開鑿ヲ企図サレタル」の解釈として)の可能性がある。

その全長は74mとみられる。位置は、昭和4年当時の県道福野小森谷線の起点付近だったと考えられる。そしてその場所は県道285号の探索時に通っている(右写真)が、尾根上の小さな分岐であり、隧道があるような場所には見えなかった。


本当にこのような旧旧隧道が存在したのかというのが、いまのところ“小森谷最大の謎”である。


地形図と航空写真を使った机上での捜索は行っているが、擬定地の特定には至っていない。

そもそも、今回紹介した資料の解釈に誤りがあって、旧旧トンネルは存在しなかった可能性や、旧トンネルと同じ場所にあった可能性もあるだろう。
ただ、断定するには情報不足なので、本件に関しては一旦保留としたい。
今後、現地へ再度赴いて、さらなる文献調査や聞き取り調査を行った結果、もし旧旧トンネルの擬定地が見えてくれば、追加の捜索を行うつもりだ。
いずれ結論に至れるように頑張りたい。皆さまからの情報提供も引続きお待ちしております。(代わりに捜索して見つけたという情報でも、もちろん!)


いやはや…、何気なく気軽にはじめた前作ミニレポをきっかけに、未だ知られざる深い迷宮の扉へ手を掛けてしまったのかもしれない…。
現地には、物を隠すような細かい凹凸はあまり多くない比較的単調な地形という印象があり、旧トンネルよりも高い位置に別の峠越えのトンネルがあったと言われてもピンと来ないが、もしもあったなら本当に面白いと思う。
みなさんは、どのくらい期待できると思います?





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