隧道レポート 小渋ダムの旧々県道隧道 机上調査編

所在地 長野県中川村
探索日 2020.04.19
公開日 2020.10.23


今回の探索により、小渋ダム脇の県道には少なくとも3世代のトンネルが存在することが判明した。

新旧名称竣工年全長
(3代目)現行西下トンネル平成30(2018)年878m
(2代目)廃止西下隧道昭和39(1964)年362m
(初代?)廃止????????80m(探索による推定値) 

なお、「西下隧道」のデータは「平成16年度道路施設現況調査(国土交通省)」によるが、竣工年は昭和39年と記録されており、小渋ダムが昭和36年着工、昭和44年完成であるから、ダム建設中に完成していることが分かる。
幅員5.5m、高さ4.5mというサイズは、当時のダム付替道路として一般的なものであったが、現代としてはいささか窮屈となっており、本県道が中央リニア新幹線の工事用道路として活用される機会を得て、晴れて新トンネルの建設が果たされた。

こうして平成30年という最近に“旧々”隧道になったのが、今回探索した隧道であった。
そして、本編のなかで私はこの隧道について、「『道路トンネル大鑑』に記載がないので名称も竣工年も分からない」と書いたのだが、これは誤りだったかもしれない。




『道路トンネル大鑑』巻末トンネルリストより抜粋

右図は同書からの抜粋だが、ここに記載されている「八十八隧道」は、本隧道を指している可能性がある。

路線名は一般県道松本松川線、箇所名上伊那郡中川村八十八、延長202m、幅員3.1m、高さ4.5m、そして竣工昭和18(1943)年度。

はっきり言って、箇所名にある「中川村」という村名と、幅員と高さ以外のデータは、どれも現存する隧道と食い違っているように見える(それゆえ一旦はスルーしていた)が、机上調査を進めると、これが本隧道を指すものである可能性が示唆されるようになった。

なお、同書には、同じ路線の同じ中川村にもう1本、「滝沢隧道」という隧道もあった事が記載されていた。
こちらも同じ断面サイズと同じ竣工年で、長さはわずか18mしかないのだが、この隧道もまた謎の存在として、調査の前に立ちはだかった。


それでは、机上調査の成果をお伝えしよう。
内容は大きく分けて、小渋川沿い交通路の歴史、小渋ダム建設の経緯、ダム建設中の道路の変化という3章構成とした。





第1章 小渋ダム建設以前における小渋峡の道路整備史


小渋川が流れる谷は、伊那山地を横断して赤石構造谷と伊那谷を結ぶ典型的な横谷の一つであり、二つの谷を行き来する交通が自然と集まる地形的必然性がある。
右図を見ていただきたい。赤石構造谷に立地する大鹿村から流れ出た小渋川が、おおよそ12kmの流程で伊那山地を横断して、伊那谷を潤す天竜川に合流している様子が分かるだろう。

本編で紹介した隧道は、小渋川という谷のスケールから見ればピンポイントの存在に過ぎないが、その由来は小渋川の交通路の歴史と切り離せない。そして小渋川の交通史とは、大鹿村の交通史とも切り離せないのである。同村は明治22年の立村以来一度も合併を経験せず同じ位置を占めているが、この山村が外と結ばれる数少ないルートの一つが小渋川だった。

それゆえ、本章の内容は主として『大鹿村誌 中巻』(昭和59年)に依った。



右図は、明治44(1911)年のもので、後に小渋ダムが建設される地点の周辺を描いている。
当時、小渋川沿いの道は、大鹿村の中心地である落合から松除(まつよけ)を経て、現在はダムの湖底に沈んでいる四徳(しとく)(四徳川出合にあった集落)まで通じていた。
しかし、四徳より下流は谷を離れ、右岸の山上にある桑原集落へ登ってから、天竜川沿いの渡場(どば)へと下る、山越えのルートであった。
したがって、ダム建設地付近にまだ道はなかった。
(ちなみに、西下トンネルという名前の元になったのは、桑原地区にある西という小字であろう。西の下を潜るから西下隧道と名付けられたのだと考えられる。)

この地形図では、一連の道は里道(聨路)として描かれており、まだ県道には認定されていなかった。
また、大鹿村と伊那谷を結ぶ当時のメインルートは、この道ではなかった。
落合から松除までは上記と同じだが、そこから左岸の上峠へ登り、福与で天竜川沿いに下るという、現在の県道22号松川大鹿線に近いものであった。だが、上峠へ登る北条坂の道が非常に険しく、車両による交通は不可能だった。小渋川沿いの道も同様の状況で、大鹿村が初めて車両交通の恩恵を受けたのは、大正時代の久原鉱業による開発を待たねばならなかった。


大正6(1917)年、日立鉱山などの経営を行っていた久原鉱業株式会社が、大鹿村南部の青木谷の山林を入手し、製材所を設けて大々的に伐採をはじめた。会社は従来の小渋川を利用した流材よりも遙かに効率的な軌道による運材を計画した。

同社の当初の計画では、前述した小渋川沿いの落合〜四徳間の里道を改良し、さらに四徳から渡場まで右岸伝いに新道を開削し、これらにレールを敷設することとしていた。この事業には大鹿村も土地の無償提供などの形で全面的に協力し、代わりに事業終了後の軌道を里道として利用することになっていた。

だが、隣村の南向(みなかた)村(現中川村)に属する四徳〜渡場間の用地取得が上手くいかず、会社は計画を変更。代わりに松除から左岸へ移り、ずっと左岸伝いに生田(いくた)村(現松川町)部奈(べな)へ至る(そこから索道で上片桐駅(大正9年に伊那電気鉄道が開設、現JR飯田線の同名駅)へ搬出する)ルートに決定し、軌道を開設した。




『大鹿村誌 中巻』より

この軌道の松除以下の区間は会社の専用線であったが、木材輸送の合間に村の物資の輸送も行われ、初めて村内に車両交通の恩恵がもたらされた。
もっとも、運材は無動力のいわゆる乗り下げ式で行われており、空車の運び上げは洋犬による牽引だったというから、まだまだ現代的な車両交通とはほど遠いものだった。

右写真は今も残る松除橋の跡だ。軌道が小渋川を横断する地点に建設された。現在は小渋ダムの堆砂に埋没しかかっている。橋より下流の軌道跡は堆砂や湖底に沈み、次に地上に現われるのはダム直下である。

会社による伐採は契約期間内に伐れるだけ伐るような方法で行われ、昭和4(1929)年に早くも事業を終了すると、即座に軌道は撤去され、せっかく作った松除以下の専用線部分は荒廃に帰した。軌道跡を活用しようという村の思惑は外れた。
これが現在もダムの下流の崖壁に形跡を留める【軌道跡】の正体である。

会社の撤退により、再び村に静寂が訪れたが、人々は一度憶えた車両による輸送の便利さを忘れることはなかった。
すぐさまこれに代わる車道の開削が企てられたのである。


前述した通り、大鹿村と伊那谷を結ぶ伝統的なメインルートは、現在の県道22号線と近いものであった。しかし明治29年に開削されたこの径路上には北条坂という難所があって、大正8(1919)年に県道粟沢時又線に認定されてからも、車両を受け入れなかった。

そこで久原鉱業の軌道運材が終了した翌昭和5年、大鹿村は生田村と協議して、県道粟沢時又線の福与〜落合間を、県の補助を受けたうえで自動車道へ改良することに決めた。

工事は昭和6年に始められ、同11年11月に全線が完成した。北条坂を迂回する岩洞自動車道という道が開削され、これが現在の県道になっている。(右図の破線のルートから今の県道のルートに切り替えられた)
当初は落石が多く自動車の通行は難しかったが、次第に整備され、昭和23年には路線バスの運行が開始された。
こうして大鹿村にもモータリゼーションがもたらされたのである。
(この道は、昭和30年に一般県道飯田茅野線、41年に主要地方道飯田高遠線、51年に主要地方道松川大鹿線へ改名および区間の変更を経て現在に至る)


右図は昭和27(1952)年の地形図だが、初めて四徳から渡場まで小渋川の右岸谷底を通る道路が出現している。
「幅員3m以上の町村道」を示す記号で描かれており、自動車道を示唆しているが、今回探索した隧道は描かれていない。
『道路トンネル大鑑』に登場していた八十八隧道がここにあったなら、描かれていなければならないが…。

この道が整備された経緯も『大鹿村誌』に出ていた。
きっかけは、大正14年に小渋川上流の塩川で中央電化工業による水路式発電計画が起こったことにある。この計画は伊那電気鉄道(社名の鉄道を運行していた鉄道会社だが発電事業も行っていた。同鉄道の国有化(飯田線)により昭和18年に解散)に引き継がれ、やがて小渋川本流を対象とした大規模な発電計画に変わっていった。

伊那電気鉄道の計画は、大鹿村役場のすぐ下流に堰を設けて取水し、導水路で部奈の高台へ導いた水を一気に天竜川へ落として発電しようとするものだった。


県を通じて発電計画の打診を受けた村は、南向村と協議を行い、いくつかの条件を付けて承諾することにした。
最大の条件は、取水が行われれば小渋川の水量が減少し、近世以来行われてきた流材が困難になることは明らかだから、会社の負担で小渋川沿いに林道を整備することだった。(南向村も小渋川の流材を行っていた)

村が要求した林道は、県道粟沢時又線との分岐地点となる松除を起点に小渋川右岸を下り、南向村渡場の終点に至る、幅3.6mの自動車道であった。
四徳より下流の小渋川右岸に林道を開削しようという計画は、こうして誕生したものだった。

難工事が予想されることもあって協議は難航したものの、昭和13年2月に至り伊那電気鉄道(および後継の中央電力)と大鹿村および南向村の三者間で覚え書きが交わされ、さっそく発電所の建設がスタートした。補償の林道工事については、県の林務課に設計を依頼し、そのまま県営林道事業として行うことになった(ただし地元負担分の全額を会社が肩代わりする)。
しかし実際に設計が進むと、当初の予想の3倍近くも工費が掛かることが判明したので、会社側は幅員を3mに縮小することを要求し、これを村は承諾した。


昭和15(1940)年8月に関係3村(大鹿村・南向村・大島村(現松川町))と県の間で協定が整うと、「県営林道小渋線」に着工し、1ヶ年以内に竣工するとの内示があった。
この間にも発電工事は着々と進み、昭和14年には取水堰がほぼ完成したが、そのために堰上流の河床が上がり、村の中心部である落合地区が洪水に晒されやすい状況が現われた。先に会社と村が交わしていた覚え書きには、河床の上昇を防ぐ内容が含まれていたが、実情はこれに反し、会社からも補償は得られなかったという。

こうした問題を孕みながらも発電所は昭和15年12月に完成し、取水が開始された。
右写真は、落合にある大鹿村役場から目視した落合取水堰の姿だ。
これほど近くにあるから、河床の上昇はたちまち村中心部の治水に影響を与えた。

チェンジ後の画像は、生田発電所の落水路。大鹿村と伊那谷の間にある落差を一気に駆け下る。

発電所の運転開始により、たちまち小渋川を流れる水は枯渇し、川下げ業者からは村に対ししきりに林道開削促進の陳情が出るようになった。
この事態を受けて村が県に宛てた工事促進を催促する文書には、「地元民に疑惑相生じ、このままに放置せば(中略)木炭増産にも至大の影響を及ぼすのみならず、関係村民の感情悪化いかなる事態を惹起するやも計りがたく…」と、村民感情の極度の悪化を訴えるものになっている。
日中開戦を控えたこの時期、発電も木炭増産も国の重大事であったはずだが、結果として林道開通よりも発電開始が先行したところに、山村民の蔑ろにされたような鬱屈した思いがあった事は想像に難くない。久原鉱業によるある意味略奪的な伐採の記憶も忘れられるほど昔ではないだけに、なおさらだったろう。

村民の苛立ちをよそに、林道工事はなかなか着工されなかった。
この頃、県の林務課と道路課の間で設計についての意見の相違があったという。その内容は明らかでないが、道路課としては、県道粟沢時又線の整備を県の補助で実行したばかりであり、並行路線となる小渋線の整備に難色を示したのかも知れない。
だが、村にとって小渋川の安価な流材を前提とした林業経営は根幹的な産業であり、簡単に手放せるものではなかった。
林道工事の遅延に業を煮やした村は、会社に対しても流材を行う際に取水を止めることを要求したが、会社としても呑める話ではなかったと思われる。

昭和16年4月小渋林道は再測量となった。これによって林道開削となり、大鹿村特産物の木炭が、木炭自動車にて搬出された。
『大鹿村誌 中巻』より

紆余曲折あったが、村誌における小渋林道に関する記述の最後は、このような短い文で終わっていて、明確な開通年は明かされていないし、写真なども全くない。
戦時中の出来事であったことが、記録が少ない最大の原因と思われる。
なお、中央電化、伊那電気鉄道、中央電力と事業者が変遷していた小渋川水系の発電事業者も、戦時中に統廃合を経て、終戦後に中部電力所管となって現在に至る。現在も生田発電所は現役である。

その後の経過は村誌にはあまり述べられていないが、昭和25(1950)年に路線バスが林道を通るようになり、23年からバス路線になっていた県道粟沢時又線と小渋林道の2ルートを交互に運行したという。さらに、この林道は昭和34(1959)年に県道に昇格している。
路線名は、一般県道松除松川線。

ここで見覚えがある路線名だと思った人はちょっと鋭い。
『道路トンネル大鑑』に、八十八隧道と滝沢隧道という2本の昭和18年生まれの隧道が記録されている、一般県道松松川線とは、松松川線の誤記だった。
同じ長野県にある松本という有名な地名が、松除というマイナーな字名と入れ替わっている間違いは気付かれにくいもので、私もだいぶ時間が掛かってしまった。

だが、この誤りに気付き、『大鑑』の既述と『村誌』の既述を合致させると、昭和16年4月に再測量から着工となった小渋林道の完成は、昭和18年度であったことが頷かれるだろう。
私が潜った右の隧道は、戦時中に建設された小渋林道の忘れ形見であり(ここまで確定)、おそらく昭和18年の生まれである。

ただ、『大鑑』にある八十八隧道の全長は202mであるのに対し、現存する隧道の長さはせいぜい80mほどでしかないという大きな食い違いがあり、この謎は持ち越しだ。
また、前掲した昭和27年の地形図に描かれている小渋林道には隧道は1本もなかったことも食い違う。ただ、村誌の記述や現地の地形と照らしても、これは単純な地形図の誤記なのだろう。



こうして大鹿村はようやく、開村以来の夢だった、小渋川沿いに伊那谷へ通じる、峠のない車道を手にした。
この道は、久原鉱業といい伊那電鉄といい、村の財産である潤沢な自然を外部の大資本による開発に引き換えることで拓かれてきた。
村の単独の力で、この道を開発することは出来なかったとも思う。

だが、村は便利な道と引き換えに大きな代償を払った。
青木谷ははげ山と化し、落合取水堰は小渋川の河床を上げた。
いずれも、村に洪水のリスクを高める結果をもたらしたのである。
その先に待っていたのは、開村以来最大の苦境であった。
小渋川総合開発という名の新たな槌音が、三度村を揺るがす。





第2章 小渋ダム建設と大鹿村の苦悩


小渋ダムが着工された昭和36年から、完成に至る44年までの間に、県道松除松川線および県道飯田茅野線における小渋川沿いのほぼ全区間(渡場から落合まで)で路線の付け替えや拡幅を伴う大規模な改良工事が行われた。ダムより上流については主に水没補償として、下流については主に工事用道路として、これら県道の改修が行われている。

右図で見ると、破線の道から実線の道へ切り替えられた。
この過程で今回探索したダム直下の隧道も廃止されたのだ。
本章では、小渋ダムがなぜ計画されたのかを見ていこう。


昭和32(1957)年、長野県から大鹿村に対して小渋川総合開発についての打診があった。
これは現在の小渋ダムがあるほぼ同じ地点に、高さ78mのダムを建造し、治水、発電、灌漑など多目的に利用しようとするものだった。
後に建造された小渋ダムの高さは105mあるから、一回り小さな規模だったが、それでもダムが完成すれば、建設予定地に近い南向村の四徳や滝沢集落に加えて、大鹿村でも桶谷集落の一部が水没することになる。

県の打診に対して村はダム対策委員会を組織し、各地の事例を視察するなど研究の末、二つの条件を付けて了承する方向となった。その条件とは、奥地の治山治水対策と、河床上昇に対しての対策を徹底することであった。
このことは、過去に村が村外からもたらされた開発計画(久原鉱業・中央電力)によって蒙った治水面のダメージを忘れておらず、これ以上村の環境を悪化させることは許さないという強い意志の現れのように見える。

協議が進んだ昭和35年の時点で、計画されたダムの規模は高さ89m、堤長190m、アーチ形式という所まで決まり、現在のダムの姿にだいぶ近づいてきている。また、事業主体は県ではなく国になることも決まった。建設省は昭和28年頃から小渋川に治水用のダムを建設する調査を進めていたが、これが長野県による小渋川総合開発計画と合流した形である。また、当初は発電事業も県で行う予定だったが、これも(この時点で戦前の生田発電所も引き継いでいた)中部電力が行うことになった。

ここで国が昭和28年という早い時期から小渋川にダムを建造する計画を持っていた事情を説明したい。
小渋川が合流する天竜川は、もともと「あばれ天竜」と呼ばれるほどの急流河川であり、洪水を多発させてきたが、発電面では早くから有望視された。昭和10(1935)年に最初の本流ダムである泰阜(やすおか)ダムが完成し、昭和31年には国内最大の佐久間ダムも出現している。だがこれらのダムが出来たことで、堆砂問題が明るみになった。これはダムの上流に土砂が堆積し河床が上がってしまう現象である。
もっともこの堆砂問題が深刻だったのは、伊那谷の出口に築かれた泰阜ダムで、沿岸にある飯田市川路や竜丘地区では僅かな出水でも洪水が頻発するようになってしまった。ダムの建設が洪水の遠因となってしまったのである。

天竜川における堆砂の原因は、流域に崩壊地が極めて多く、出水の度に大量の土砂を本流へ送り込む、赤石構造谷から流れ出る支流にあった。それが三峰川と小渋川である。
いずれも国内有数の急流河川(小渋川は流長約30kmで2000mの落差を流れ下る)であり、これらの支流にダムを建造して洪水と土砂が本流に流れ込むことを防ぐ事が計画された。
三峰川においては昭和34(1959)年に美和ダムが完成したことで目的は果たされた。残るは小渋川だった。

このような理由で、当時の小渋川は、本流筋(特に飯田市周辺)の人々からは“洪水の元凶”のような忌まれる存在となってしまった。
一方の大鹿村民としては、小渋ダムの建設によって村内に堆砂が進み、河床が高くなることを恐れていたが、本流筋の一部の人々は先に同じ恐怖を味わっていたことになる。


大鹿村百年の計を考えるときに、飯田大鹿間の距離短縮以外にはない。現在の所要時間を1時間短縮することによって、村の文化経済は必然的に興隆し、又高校の通学、工場通勤も可能となり、ここにはじめて教育の均等、労務問題の抜本策が図られる。ダム建設によって付替道路は考えられるが被害村として、大きくこの要望は貫徹すべきと思う。尚、欲望には限りはないが巷間の一説には発電所を設置して無償電気の配給と諏訪地方の精密工業の発展と相まって下請負工場誘致説もある。
『大鹿村誌 中巻』より、昭和35年の村民アンケートからの抜粋

上記は、昭和35年に村が村民から聴取したダム建設に対する意見の一部である。
交通の改善に対する依存の大きさや、自らの村をダム開発の「被害村」と呼んでいることなどが印象的である。
村の人口は昭和30年頃までは5000人前後で安定していたが、この頃から急速に減少が始まり、昭和45年に3000人、昭和60年に2000人となり、現在は1000人をも割り込んでいる。半世紀で5分の1になっている。
このような過疎の現象が見え始めていた昭和35年当時、若者が定住できる村にするためには、ダムという大規模開発を受け入れるしかないという声も村内には根強くあった。
村は小渋ダム建設を受け入れると見られた。


だが、自然は人の決断を待たなかった。





『大鹿村誌 中巻』より

『小渋ダム工事誌』より


“36.6伊那谷大水害”昭和36年梅雨前線豪雨


昭和36年6月に異常発達した梅雨前線が日本列島に豪雨をもたらした。
中でも伊那谷では被害が甚大で、特に大鹿村は県下第一の被災地となり、「死の村と化した」(村史より)。
6月23日から断続的に7日間降り続いた村の総降雨量は523mmと記録されており、村内各地で洪水や山崩れが発生。死者41名、行方不明14名、重軽傷者621名、被災戸数518戸、村外に通じる県道・村道・林道は全て崩壊し不通となった。

もちろん被害は大鹿村に留まらず、隣の南向村も小渋川沿いにあった四徳集落や滝沢集落が壊滅的被害を受けたほか、飯田市街の広い範囲が(泰阜ダムの堆砂も遠因となり)水没した。

この伊那谷を襲った未曾有の災害は、小渋ダムの建設に一気に緊急の色を帯びさせることになった。
だが、最大の“被害村”である大鹿村は、ダム建設は河床を上昇させて災害を累加させるものとして、転じて絶対反対の意を強く表明するようになる。
建設省および県もこれに対応し、従来の多目的ダムよりも防災機能に重点化したダムへ計画を変更する方針を示した。堤高を従来計画より10〜18m上昇させて、洪水調節力を大幅に増やすこととしたのだ。
村はなおも絶対反対を議決したが、「国の大方針である国土保全に全面的な反対もならず、奥地砂防、村の経済対策を明示することを条件として」(村史より)、村内への立入調査を承諾した。


その後も様々な交渉が持たれたが、動き出したダム計画は加速度を得ており、昭和44年に中部地方初のアーチ式ダムとして小渋ダムは完成した。
谷を埋め尽くした巨大工事の中で、未だ名前のはっきりしない隧道は、“恐るべき最期”を迎えることになる。
最後の章では、このダム工事に焦点を当てる。





第3章 ダムに消えた旧隧道


だいたいの机上調査編で最初に見る航空写真が、このタイミングで登場。 これがトンデモナイ問題作(?!)でして……。


まず見ていただきたい昭和23年版
当時まだ県営林道小渋線と呼ばれていた道が、小渋峡の険しさのおかげもあって、解像度の粗い航空写真でありながら、とてもはっきり見て取れる。

後に小渋ダムが建設されるのは、写真中央付近のひときわ川が狭くなっている場所だが、その辺りに、どう見ても隧道が2本ある。
そして位置的に見て、私が潜ったのは下流側の隧道だ。上流側の隧道は間違いなく湖底である。

これはどういうことだということに当然なった。机上調査のほとんど最初、『道路トンネル大鑑』くらいしか調べていない段階で、これを見たのだから。

これが『大鑑』に記載されていた県道松除松川線の2本の隧道、八十八隧道と滝沢隧道であるのなら話は単純だが、絶対にそういうことではなさそうだ。
八十八隧道は202m、滝沢隧道は18mの記録があるが、航空写真に見える2本の隧道はどちらも100m程度に見える。とても200mはないし、18mということもない。それに、八十八という地名(字名)は不明だが、滝沢というのは四徳よりも上流にある、今は湖底に沈んだ集落の名前である。その近くの現県道上に滝沢トンネルもある。

この1枚の写真で、大鑑の隧道が一気に2本とも行方不明となってしまった感があった。

隧道が2本あったことに較べれば小さな驚きだが、私は写真の河床が余りにも広く真っ白に写っていることにも驚いた。ダムが出来る前から、こんなに堆砂の進んだ川だったのか。なんとなく普通の渓流が沈んでいると思っていたが、そんなことはなかった。天竜川の堆砂を抑えるには、この川にダムを造る必要があったということが納得出来る風景だった。


次は昭和40年版

ダム本体工事に先駆けて、昭和38年度から県道松除松川線の付替工事が開始され、41年12月に一部(四徳大橋)を除いて開通している。

したがってこの写真でも、「半の沢」で旧道の上手に分岐した新道が、崖下にある旧道を残土で埋めながら東へ進み、ダム予定地にある2本のトンネルの上方を通過して、後のダム湛水線の上に姿を現わしつつあるのが、はっきり見える。
ダム周辺には様々な工事用施設も見えており、今回の探索で私がアプローチに利用した進入路(桃線)も見える。

また、まだダムは造られていないにもかかわらず、川底の白い部分が前の写真より大幅に増えているのも印象的だ。特に四徳川合流地点付近は一面の河原となっている。これは昭和36年6月の水害の傷跡であり、約750年の歴史を持っていた四徳集落は、ダムによる立ち退きの前に、自然の猛威で消え去った。



最後は、ダム完成翌年の昭和45年版と、着工前の昭和23年版の比較である。

小渋峡を塞ぐ巨大なアーチ式ダムによって、上流と下流に世界が二分されたような変化を見せている。

しかしなんといっても印象的であり、強調したいのは――

2本の隧道の生き別れがあったこと!

――これに尽きる。


なお、特徴的な地形ゆえ、この生き別れた……いや、どっちも死んでいるじゃんというのはナシで……、湖底にイった方の隧道があった位置は、とっても明確で――



↑間違いなく、ここに沈んでいる。

堤上からよく見える小さな半島状の尾根だが、この日の水位であれば水面下3〜40mの辺りに、隧道は沈んでいると思う。
(写真には試掘坑らしき穴が見えているが、もちろん旧道はあのような高い位置ではなかった)

……正直深すぎて、探索は余りにも絶望的だ。もし仮に水量がゼロになっても、堆砂線の下ではないかという気もする。
当然、反対側の坑口もほぼ同じ水深だろうから、絶望度に違いはなさそうである。
せめて、隧道名が分かる資料や、水没前の写真を見つけ出したいものだが…。





ダム建設によって、ここにあった2本の隧道が廃止されたことは明らかであるから、その最期の姿がダムの工事記録に残っているのではないかという期待を持った。
そこで私は、昭和44年に建設省中部地方建設局が刊行した『小渋ダム工事誌』を確認することにした。




『小渋ダム工事誌』より

『工事誌』の巻頭グラビアを飾る、ダム完成直後の風景。
暴れる川を文明が制圧した、堂々たる勇姿がこれだ。



『小渋ダム工事誌』より

完成したダムの平面図。
非常に緻密に描かれているが、今回探索した隧道も、そこへ通じる道も、全く描かれていない(ションボリ…)。
図に赤○を付けた2箇所に、出入口があったのだが……。

ページを遡って、建設前の図面を探した――




『小渋ダム工事誌』より

やっぱり隧道は2本あった!


だが、そのこと以上の驚きが、このダム建設予定地を描いた極めて詳細な図面にはあった。


私が潜った隧道って……

ダムに断ち切られていたのか?!



なんとこの隧道、現役時代には今の1.5倍ほどの長さがあった模様。

詳細な図面から距離を測定すると、この“隧道@”の長さは約120mであった。
しかも洞内は直線ではなく、上流側の出口付近には右カーブがあった。現存するのは直線部分だけである。

これまでの机上調査編の段階的な更新で、『大鑑』の隧道の長さと現地の隧道の長さには大きな差があるということを書いた時点において、複数の読者さんから、「ダムによって隧道が切断されたのではないか」というご指摘を受けている。結果まさにその通りのことが起きていたわけだが、現地レポだけの段階で、このことに思い至った方はどのくらいいただろう。

恥ずかしながら、私は現地で全くこういうことは考えなかった。
旧隧道がダムの建設によって地中で(つまり隧道の途中で)密閉・閉塞されるというパターンは、これまで各地で目にしてきたから、当然意識していたのだが、まさか隧道が掘り起こされた上で、ダムの本体に断ち切られていようとは、考えもしなかったのだ。


この驚くべき隧道の切断が、如何にして行われたかは後ほど改めて追求するとして、現在は近づく術が全くない2本目の(上流側の)“隧道A”について先に追求したい。
図面から読み取れるこの隧道Aの長さは約60mである。
そして、2本の隧道の間にはおおよそ40mの短い明り区間がある。
2本の隧道の長さを足し合わせると約180mだが、もし明り区間がなくて一連の隧道だったとすると全長220mほどになる計算だ。
ここで初めて、『大鑑』にあった「八十八隧道」の202mという長さと近い数字が導かれることになる。
もちろん、普通であれば2本の隧道は別々に記録されるべきだが、図面に描かれていないロックシェッドのような構造物が工事以前には存在していて、隧道同士が外見的に接続していたとしたら、1本として扱われることは不思議ではない。

それでもぴたりと長さが合うわけでもなく、若干の気持ち悪さは残っているが、今回の調査において、『大鑑』に記録された八十八隧道に該当しうる規模の隧道があるとしたら、ここの他はないと考えている。
現時点の結論として、私が探索した隧道の正体は、八十八隧道(の南側部分のみ)である。
(現在、さらなる詳細情報を求めて『中川村史』の入手を手配中)

(また、『大鑑』は昭和41年度末のデータなので、既にダム工事が進展し旧道が通行不可能になっていた時点で、旧道上の隧道が記載されていることへの疑問もあるかもしれない。だがこれについては実際に通れたかどうかは重要ではなく、道路法上に存在していたかどうかの話であるから、新道の全線供用開始が昭和42年であることや、新道上の西下隧道(昭和39年竣工)が記載されていないこと、八十八隧道の竣工年が昭和18年であることなどを総合すれば、八十八隧道が旧道にあった隧道であることは間違いない。)



『小渋ダム工事誌』より

この写真は、ダム建設前のダム地点を上流側から撮影したものである。

中央に大きな砂防ダムが見えるが、これは県が整備していた生田一号砂防堰堤と呼ばれていた構造物で、ダムの邪魔になったので撤去された。
小渋ダム建設以前から小渋川の堆砂に対するこうした取り組みはあったが、膨大な土砂の前に、ほとんど焼け石に水だった。

注目はなんといっても、右の崖壁に見える坑口の存在だ。
これは、現時点で確認できている、旧隧道が写った唯一の写真だ。

2本の隧道があったことを既に述べたが、ここに見えているのは下流側の“隧道@”の上流側坑口で、“隧道A”との間にあった短い明り区間も写っている。
ただ、そこにロックシェッドのような構造物は見当たらない。やはり2本の隧道が別々にあったように見えるが、同時に、大量の土砂が路上に山積していて、既に通行不能の状態だったように見える。
ダム準備工事が既に始まっていたからなのか、昭和36年の大水害によって荒廃したままなのか、おそらく後者だろう。

また、よく見ると、この隧道には横坑があったようだ。
横坑らしき小穴があるのは、まさに現在のダム中心線辺りに見える。
あの辺りを境に、ダムによって断ち切られて、今ある半身の姿になったらしい。




『小渋ダム工事誌』より

右写真は、詳細な地点名は不明だが、昭和36年の大洪水直後の県道松除松川線の荒廃した状況を写したものである。
徹底的に破壊された状況が見て取れるが、全線にわたってこのように破壊されたという。

本来ならば災害復旧事業で復旧が行われるはずだったが、ダム計画が動いていたことから執行は見送られ、最終的に災害復旧事業とダム公共補償事業を合併して、付け替え県道が建設されたことが『工事誌』に出ている。
したがって、付け替え県道の大部分が開通する昭和41年12月まで、小渋川沿いの県道の通行は再開されることがなかった。災害から丸5年以上も通れなかったわけだ。

ダム計画がある中で発生した大災害のために、別れの機会を与えられることもなく、なし崩し的に廃止されてしまった旧県道は、とても哀れな存在だと思う。
昭和18年に開通してから、18年間の活躍だった。

しかも、ただ廃止されただけなら、私のような者が行って慰めの言葉を掛ける余地もあるが、ほぼ全線が直後のダム工事で失われたので、それも難しい。
その非常に数少ない残されたものが、今回の探索で訪れた隧道だった。



『小渋ダム工事誌』より

これは完成間近になった付け替え県道の姿だ。
背後の高台に桑原集落が見えており、中央の高さを横切っているのが付け替えられた県道だ。左端は西下隧道なので、線が見えなくなっている。

一番下に見える線が旧県道だが、当たり前のように、おびただしい斜面崩壊や県道工事の残土で埋没している。通行止めの状態のまま工事が行われていたことが分かる。写真左端の尾根には“隧道A”があったのだが、遠すぎてよく見えない。




『小渋ダム工事誌』より

最後に、『工事誌』の記述をもとに、隧道がどのように消えていったかを解説しようと思う。
ただし、700ページを超える長大な工事誌の本文中に、具体的にこの隧道の存在について言及した箇所は、なんと一箇所もない。
個人的に、このことにはとても驚いた。

ダム本体を建設する地点に、旧県道の隧道が存在していた。
そのことは明らかだったし、先ほど紹介した工事前の詳細な図面にも描かれているが、工事関係者がこの隧道に何か意識を向けたことが分かる記述は、全くなかった。
ただ、ダム地点の岩盤を整地する工程については、準備も含めて詳細に述べられていた。本当に詳細に。

それでも、その過程で撤去された隧道については、全く触れられない。
役目を終えた隧道は、ただ削り取るべき岩盤の一部でしかなかったということを、暗示しているようだった。


右写真は、工事開始直前のダム地点を、今度は下流から撮影したもの。
谷にあるのは高さ17mの生田第一堰堤で、2本の旧隧道は、隧道@の東口から隧道Aの西口までが見えるはずのアングルだが、光の影の関係でなんとなくしか見えないのが残念だ。
ただ、当時の隧道があった地形をよく知ることが出来る写真だ。

ダムの本体工事は、付け替え道路の建設と並行して進められた。
最初に行われたのは、ダム地点を迂回する仮排水トンネルの建設で、次に完全に水が引いたダム地点で、ダム打設の前段階である基礎掘削工事が行われることになった。
この工程が、隧道の姿を未来永劫変えることになる。

写真を見ても明らかだが、生田第一堰堤は膨大な量の土砂を堆積させていた。そして、右岸には旧道の高さに達するほどの巨大なガレ場も出来ている。このガレ場の土砂は、上部にコンクリートプラントその他のダム工事施設を建設したズリ(残土)であり、このまま堰堤を撤去すれば、河床にある大量の土砂が不安定になって収集がつかなくなる。
そこで基礎掘削に先駆けて、これらの土砂を取り除く必要があった。


『小渋ダム工事誌』より


河床にある膨大な土砂やズリを取り除くために、両岸の地下にズリ出し坑が開削され、ここから土砂やズリをトラックで搬出するという、グローリーホール工法が用いられた。

図は右岸側のズリ出し坑を描いたものだが、役目を終えた旧隧道のほぼ直下に、L字型のズリ出し坑が描かれている。途中の突起は、トラックが方向転換する部分だろう。

それにしても、まさか旧隧道の下に、もう一つ隧道が掘られたことがあったとは……。
大鹿村が林道1本作るのに、何年も交渉して大変な苦労をしていたというのに、国の事業の大盤振る舞いぶりは……、なんともすがすがしい。




『小渋ダム工事誌』より

『小渋ダム工事誌』より

続いて、両岸の掘削と、生田第一堰堤の除去が行われた。

地表に近い地盤は、風化作用によって軟弱になっているので、その影響のない深部まで掘り下げてダム打設の基礎を露出させるのが、基礎掘削である。
この基礎掘削でも両岸のグローリーホールが活躍した。

旧隧道は、ダム地点でおそらく側面の崖から5m程度の浅い部分を通過していただろうから、この基礎掘削で掘り出されることになり、呆気なく断ち切られたのだが、既に述べたとおり、工事誌にはそのことに対する特段の言及はない。

左右の写真は基礎掘削完了時の風景である。
左は河床の様子で、あれだけあった堆砂が綺麗さっぱり取り除かれている。人物と較べても、スケールの大きな景色だ。

右の写真は掘削後の右岸だとあるが、こちらはいまひとつ写真のスケールが掴めず、断ち切られた隧道の断面がどこかに露出しているとしても、残念ながら見分けはつかない。

隧道に無頓着すぎるよぉ……。





付け替え県道の全線開通は、ダム完成よりも一足早い昭和42年3月のことで、久々の開通を喜ぶ大勢の車列が、たけなわを迎えるダム工事現場を見下ろし行き交ったことだろう。
昭和43年7月25日に小渋ダムは湛水の日を迎え、翌年5月13日に盛大な竣工式が執り行われた。
昭和36年の未曾有の災害以来、姿を消していた八十八隧道の変貌した姿を、ダムを訪れた村人の幾人かは、感慨を持って目にしたことだろう。

あれから半世紀、ツイッターという現代の利器によって、再び存在が明るみになった八十八隧道。
兄弟ばかりか、その半身をもダムに捧げて、それでも貫通し続ける、不屈の名隧道だった。




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