隧道レポート 信州新町日原西の明治隧道捜索作戦 後編

所在地 長野県長野市
探索日 2015.10.07
公開日 2015.10.30

土塊(つちくれ)の穴と大河


2015/10/7 8:28 《現在地》【旧地形図での現在地】

結果だけを振り返れば、さほどの試行錯誤も苦労も無かった。
市道から藪に紛れ込んで、まだ15分もたっていない中での「隧道発見」という理想のゴールである。
この道のりは一度分かってしまえば難しくなく、危ない所も少ない。脇目を振らずに引き返せば5分で市道まで戻れるだろう。そのくらいにスケールの小さな廃道探索であった。

だが、犀川の大きな流れを当て所なく見下ろす所から始まった今回の探索には、精神的に楽観出来る場面がまるでなかった。
そして、隧道を発見できず、「跡地の推定」程度の成果に妥協して探索を終えるという(ありがちな)未来が繰り返しイメージされていただけに、いまここで逆転勝利的な隧道発見を成し遂げたカタルシスは、かなり大きなものがあった。


ここに至る途中での周到なお膳立て、すなわち平場や掘り割りといったものが無かったら、単なる土壁の凹凸と見紛いそうな、ささやかな穴である。
そのような穴が、前後に二つ並んで見えていた。
そしてこれらは、一つの坑口に属する二つの開口部である。

本来は手前に見える穴よりも手前に坑口があったのではないだろうか。それが天井の崩壊に伴って、坑道の大半が埋まると同時に地上化したのだろう。その際に僅かに埋め残った坑道の天井付近が、左手前に見える穴の正体だと考えられる。したがって奥行きはない。
それに対して、奥に見える穴の先には、今も地下の坑道が残っていることが期待された。
期待に胸に、奥の穴の内部が見える位置まで前進する。



光が見えた!

これはほとんど、いや、全く期待していなかったのだが、なんと隧道は貫通していた。

まさかこの隧道は、さきほど犀川を挟んで遠望した“あの崖”とは違う、どこか想定外の場所に繋がっている?!
“あの崖”には、隧道の坑口は感じ取れなかったし、まして今も口を開けているようには全く見えなかったのだが……。

そして、この光の近さから分かると思うが、残されていた坑道の長さは、驚くほど短かった。
もともと短い隧道であったことは間違いないが、それでも5万分の1という縮尺の古地形図に記載されていたくらいだから、崩壊が進むまではもう少し長かったのだろう。
現状では、目測5mに満たない。

そしてこの短さを裏付けるように、土被りの小ささも驚異的レベルだ。
常識的に考えて…なんていう表現は、明治の車道にはしばしば通用しないが、あと3mも掘り上れば切り通しに出来るほど土被りが浅いうえに、隧道が掘られている辺りの地質は軟らかそうに見える。
敢えてこれを施工の容易な切り通しにしなかった理由があるとしたら、もともとはもう少し長さがあったからだと考えるのが最も容易い。



というわけで


次に私がすることは、大方の皆さまの予想通りのことである。



いざ、にゅう洞!!!

柔らかな土が積もり重なった開口部には、立ったまま入れるような広さはなく、下半身から滑り込むような動きで侵入した。
土の斜面を最初に踏みつけた片足が、ズルズルと奥へ埋もれていく。
“土塊の穴”という目視での印象は、実際の手触り足触りでも、全くその通りと確認されるのであった。
よくぞこのような脆弱そうな穴が、少なくとも築100年以上も残っていたものだと感心する。

写真は、洞内に前進を潜り込ませた時点で、すぐに振り返って撮影した。
この場所には何とか起立できる天井の高さがあったが、それでもかつて人々が往来した本来の路盤(洞床)は、外からなだれ込んだ土に隠されて見えなかった。



私が滑り込むようにして狭い隙間から入洞したのは北口だが、なんとかその洞内の少し広い場所に辿りつくと、、もうそこには、南口からなだれ込んできた大量の土砂の斜面が待ち受けていた。
あまりにも短い隧道は、その洞床の全体が、両坑口を頂点とする二つの崩土山が作る“裾野”に覆われていて、自由に立って歩き回れる余地は無かった。

その証明として、左の写真を撮影した私のポジションが、上の写真と同一であったことを記録しておく。ただ、カメラの向きを180度反転しただけなのである。
如何に洞内が狭苦しいか、そして隧道として如何に風前の灯火であるかということがお分かり頂けただろう。
冗談抜きで、息苦しい狭さだった。(しかも土臭さMAX)

だが、それでも大きく崩れているのは両坑口部だけで、中央の天井や側壁に大きな崩壊の形跡は見られなかった。
さすがに長時間の風化により、往時の壁面(建設当時や現役当時に直接人が手を加えたり触れたりした壁面)そのものではないと思われるが(壁面は滑らかで鑿痕も見られない)、少なくとも洞内の横幅だけは旧状を濃く受け継いでいると思われた。
すなわち、この明治隧道の幅はとても狭く、1間(1.8m)からせいぜい1間半(2.7m)しかなかった。
本来の天井の高さは既に不明だが、この幅を見ただけで、今の国道19号の遠い祖先は、本当に本当に“ささやか”な道路であったことが分かる。



そして南口は、北口よりも遙かに堆(うずたか)い土砂に埋もれていて、辛うじて地上の光が漏れ来ては入るものの、短時間の作業で人が出入り出来る状況までの拡幅は、期待できない状況にあった。
それでもじっくりと時間をかけて取り組めば、一人でも脱出を果たせない量ではないと思われたし、もしこの隧道の先に、隧道を通り抜けなければ進めない道が続いているとしたら、そうした作業をすることも吝(やぶさ)かでは無かった。

が、私の想像がもし誤りでなければ、ここを頑張って脱出したとしても、結局どこにも行けなければ、隧道を振り返って撮影する余地さえもないと思われた。
その想像を支える二つの根拠が、隙間から入り込んでくる外の光のいかにも空に直接面しているらしい豪快な明るさと、絶え間なく入り込んでくる極めて至近な川の音であった。

この隧道の先がどこなのか。
今からそれを、“別の方法”で確かめてみることにしよう。
体をひねって向きを反転し、元来た北口から外へ這い出した。


今回の立地であれば、わざわざ大がかりで危険な作業をして隧道を再貫通させなくても、南側の坑口の在処を確かめる事が出来る。

それは、僅かな隧道上の土被りを乗り越えさえすれば良いのである。

私は早速、斜面に生えた木々の手掛かりにして、隧道直上の凹んだ尾根へ登り始めた。
ほんの5mも上ればもう頂上だが、かなりの急斜面なのと、その全体が滑りやすく緩みのある土であるため、事はそれなりの慎重さを要した。
とはいえ、今さらこんな所で躓くこともなく、僅かな時間で頂上へ達した。


し、しかし、これは……




せまい!!!

尾根の上、頂上は猛烈に狭かった!!

下からも痩せ尾根っぽい感じは見て取れていたが、そこはナイフかカミソリの刃のように細い尾根であった。
あの隧道の短さも、これならば肯くよりない。

そしてやはり、私が今いる場所は、少し前に対岸から見た“あの尾根”の上に他ならなかった。
突風が吹いてきたら為す術なく落とされてしまいそうな狭い尾根から見下ろす南面は、いま登ってきた北面よりもさらに切り立っていて、ほとんど直角に10mほど下の犀川に落ち込んでいた。
水際の陸地はごく僅かで、少しでも増水すれば、直ちにこの尾根の根元が洗われるに違いなかった。



というわけで、これが隧道位置に関する最終決着的な対岸画像である。

隧道が埋もれている位置は、現在私が立っている痩せ尾根の直下で間違いなく、既に内部からこの犀川に面した南口にも僅かに開口していることを確認しているが、この写真で分かるとおり、遠目にはどこに坑口があったのか、まるで分からないのである。
急な川岸の崖の一角、いくつもある草付きのうちの一つがそれなのだが、そこに連なるべき道の姿と共に、完全に消滅していた。

今になって見れば、初めに道の跡かと疑った斜面を横切る水平に近い線は、ただの地層の模様であったらしい。
道はそれよりも少し低い位置にあったはずなのだが、ご覧の通りである。
唯一、この道の痕跡ではないかと疑われるのは、周辺に散乱している大きなコンクリートの残骸である。




対岸からの写真をもう一枚振り返る。

これは坑口周辺を拡大したものだが、エスパーでもなければ、ここに坑口があるとは絶対に気付けない。
有ると分かっていて眺めても、周辺の似たような草付きと、隧道が埋もれている草付きの区別は極めて困難だ。
そして、道もやはり見あたらない。
この一見何の変哲もない川岸の崖に隧道が隠れていることを知っているのは、レポートの読者や探索者を除けば、地元住民だけだろう。

それにしても、隧道や道が確実に現役だった昭和8(1933)年(川口橋開通年)当時から見て、現在どのくらい川岸は後退しているのか。
浸食に伴って坑道も輪切りに削られ、今ではたった5mにも満たない長さになっている。
しかし、今後の浸食の進み方次第では、崩土が流れて再び坑道が鮮明に見えるようになる日が来るかも知れない。
その時には、地元紙の三面記事くらいにはなると思う。「幻のトンネルがぽっかり」なんていう見出しで。



隧道の“現場”にレポートを戻す。

この極めて狭く、辛うじて人が一人歩ける幅しかない尾根の上からは、隧道の北口の南口も直接見る事は出来ない。
ただ、空間知覚的にその位置を把握し、俯瞰することは出来るので、その体験をもとに隧道の大まかな位置や大きさを図示したのが左図である。

現存する隧道は全長5m弱、坑道の断面は四角形と半円形の中間くらいと推測され、高さ幅とも2m前後と見られた。
明らかに自動車が通れるようなものではないが、歩行専用の人道(歩道)よりは上等な、人力車や荷車そして牛馬くらいが通れる道、いわゆる明治車道の範疇に含まれるものだろう。




足元にばかり目を向けていないで、尾根からの眺望も堪能する。

探索開始からわずか1時間ほどの間に、すっかり快晴に近い空模様に変わった犀川畔。敢えてその眺めを犀峡と呼ぶ人もいる。
なるほど、明るい日射しと開放的な気分をもって眺めれば、そうした美称に恥じない風光の良さだ。
人目に隠された険しく狭い山峡も良いが、このような大河が村や田畑を潤しながら山間をゆったりと流れる山峡も格別である。

しかしこの美しい流れは時に暴力的な力を発揮するため、とうに役目を終えた道は削り取られて、見わたす限りにおいて完全に失われてしまっていた。
仮に隧道を掘り抜いて突破しても、どこへ行く事も出来ない。
また、この尾根から隧道が埋もれている草付きに近付く事も出来ないし、岸まで降りることも出来ない。
結局、これ以上前進できる余地はないと分かった。

前進は諦め、心ゆくまでこの眺めとせせらぎの音を楽しむ事にした。


尾根から眺める対岸の川口集落。少し前までは、あそこに見える堤防に私はいた。

広大な松本平と、その周囲を画する北アルプスを初めとする山々から流れ出た清澄で膨大な水は、
こうした下流の長い長い流域に対して、過去、どれほど多くの恵みと破壊をもたらしてきたのか。
水は高きより低きに流れるという極めて単純な現象でしかないはずの河川だが、その偉大さと、
失われつつある隧道や道のささやかさが、ここに立っていると、見事に対比される気がした。
現代の我々は、数多の橋を自在に操り、ダムを拵えて、川の大半を支配してしまったが、
依然として私一人の身の丈に較べれば、大きく怖ろしく、はねのけてくるのであった。





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終章: むかしばなしの中の隧道


8:47 《現在地》

それから私は隧道に別れを告げ、来た道を置原集落へ戻った。
そしてその道すがら、旧道沿いの畑でお仕事をしていたお爺さんを発見し、声をかけた。
「コンニチワ〜! 私は昔の道路を調べているのですが、今この先の古いトンネルの跡を見てきました〜。」

この時の私の「知る人を見る」目に狂いはなかったらしく、古老の口から次々と紡がれる昔日の隧道譚。それをここに一挙披露しよう。

  • 隧道があった道は、大町街道と呼ばれていた。
  • 大町街道は、大町(現大町市)で採れたお米を、新町(現長野市信州新町)へ輸送する馬喰(ばくろう:馬に荷物を乗せて歩く行商人)の道だった。
  • かつては一人の馬喰が十数匹の馬を連れて隧道を通ったという。自動車は通っていない。
  • 隧道の開通は非常に古く、正確な時期は不明。名前も特に無いと思う。
  • お爺さんが子供の頃(6〜70年前、昭和戦前)には既に隧道はあまり使われておらず、崩れはじめていた。今よりもだいぶ長かったと思う。また、当時既に隧道の先の道は犀川に削られて通れなかったが、時々隧道を通って川岸に行って魚釣りをした。
  • 隧道の数は1本だけだった。


古老の証言には、私が予想していた以上の内容が含まれていた。
例えば、隧道が非常に古いものであること(大正1年の地形図に描かれている)や、古老が子供の頃には既に廃道状態だったこと(昭和28年の地形図で既に旧道化している)などは予想の範疇だったが、「大町街道」に関する内容は予期していなかった。
私はてっきり、この隧道の初期の利用者は少なく、犀川沿いの集落の住民が、隣村との交通に使う程度の生活道と考えていた。古地形図には「里道」として細々と描かれているだけだったし、広域的な交通路ではないと思っていたのだ。

だが、古老の証言によれば、この道は犀川沿いに長野と松本を結ぶという後の国道19号の性格より、筑摩山地を貫いて信州新町と大町を結ぶという山越えの交易路としての需要があったという。
確かに大町周辺は古くからの米処であり、犀川の谷間で耕地面積が少ない新町近辺に米を運ぶための交易路があったという話には信憑性がある。
「角川日本地名大辞典」にも、信州新町と大町を結ぶ新町大町街道という交易ルートが近世から存在していたことが書かれている。(なお、大町街道と通称されている道は、大町の周辺に多く存在しており、新町大町街道はそのひとつである)

ここで改めて、冒頭で見たよりも広い範囲の旧地形図を掲載する。
図版は同じ大正1(1912)年版と昭和28(1953)年版である。

ここで注目して頂きたいのは、古老が証言する大町街道(新町大町街道)と、今回の隧道の位置関係である。
新町をスタートしたこの道は、犀川の左岸に沿って置原に達し、隧道を潜って橋木まで来ると、突如進路を西に転じて、筑摩山地の山越えに入っていた。
何れの旧地形図でも「里道」として描かれているに過ぎない道だが、古老が崩れ始めた隧道を通って魚釣りをしたという昭和初期よりもさらに古い時代には、多数の馬喰がそれぞれ10頭以上の馬に米俵を付けて、この道と隧道を通って大町へ行き来したというのである。
あの小さな土塊の穴のような隧道に、広域交通路として往来の非常に盛んな時代があったというのだ。

大正1年の地形図では、この大町街道のルートを一連の「里道」として綺麗になぞることが出来る。
対して昭和28年の地形図では、この前年に指定された一級国道19号が幅を利かせており、「里道」は存在感が失われている。
それだけでなく、川口橋(昭和8年架設)や橋木橋(昭和11年架設)によって、隧道は旧道化して見える(そして当時既に廃道状態だったらしい)。

ここで注目したいのは、偶然にもこのレポートのスタート地点となった橋木橋の歴史である。
冒頭では紹介を省略したが、現在も橋木橋の川口集落側の袂に、次の写真のような立派な竣工記念碑が存在している。


【橋木橋竣工記念碑の位置】

地上から台石を含めた天辺までの高さが4mもあろうかという巨碑であり、橋木橋を通行する誰もが目に留めるはずのものである。
そして裏面にも碑文があり、本碑の経歴を刻んでいる。

曰く、本碑は昭和11年5月に橋木橋の初架に伴って建立されたもので、昭和55年に架け替えが行われた際、現在地に移転されている。
しかし碑自体は昭和11年当時のものである。

注目して頂きたいのは、この巨碑の表面の文字「橋木橋竣工記念碑」の揮毫者として、同じ碑面に名を残しているその人物の役職である。
大町長 福島幸重書」とある。

私は恥ずかしながら、はじめてこの碑面を目にした段階では、「どこの町長かは存じないが、自ら大町長と呼ぶとは(笑)」と、大変失礼な想像にほくそ笑んでいた。
だが今になって思えば、これは「大町」の町長という意味であった。
橋木橋の所在地は、いまだかつて大町の町域に含まれた事は無い。長野市に合併される直前は信州新町であった。

要するに、この橋木橋が大町へと往来する重要な路線であったからこそ、その竣工記念碑を隣町である大町の町長が揮毫した(当然、事業の推進にも重要な役割を果たしていた)のであろう。
ちなみに、現在の橋木橋は長野県道394号川口大町線の一部となっているが、そのルートは明治以前の大町街道とほぼ同じのようだ。

以上をまとめると、昭和11年以前の川口橋と橋木橋の相次ぐ開通によって、犀川左岸の隧道を含む旧道は完全に大町街道の役目を終え、せいぜい魚釣りのための小径に落ちぶれたということが理解される。
現地で出会い、あるいは見つけた様々なものが、一つの整合した“ロードストーリー”に集約されていく快感は、何度味わってもたまらない。




8:56 《現在地》

さて、最後にオマケ程度の扱いで申し訳ないが、スタート地点となった橋木集落の側から、明治の道を行けるところまで辿ってみようと思う。

ただ、既にこの区間は隧道へ近付く事が出来ない事が分かっていたし、さらに古老の証言により、隧道は1本しかなかったことが明らかになっているので、あくまで自転車で走れる所までをもって終わりとする。

写真は、橋木橋へ登る坂道から見渡す橋木集落で、正面右側の目立つ建物(集会所)の角から右へ行く道が大町街道の旧道である。
まっすぐは大町街道の順路で、正面の山を越えて大町方面へ通じるが、15kmほどもある結構な山越えだ。




これが分岐地点。
旧道方向を指して、「この先300メートル 行止まり Uターン出来ません。」との、かすれた看板が設置されている。
行き止まりなのは予想通りだが、わざわざ看板があるところに、昔はちゃんと通りぬけ出来る道だった名残を感じた。

それでは、入ってみよう。




予告された行き止まりは300m先であったが、実際そのくらい進むと、もう車は入り込めないくらいに狭くなってしまった。
そして、橋木集落の一番奥にある民家の門前を境に、鋪装も終了。
車道としては事実上の行き止まりであるが、自転車の機動力を頼りに、さらに前進。



9:00 《現在地》

未舗装になった所から30mかそこいら進むと、猛烈な密度をもった竹林に突き当たる。
道は今度こそ本当に行き止まりである。
竹林に首を突っ込んで薄暗い林床の地形を覗いてみたが、視線が通らず、どうにもならない。
ここから既に見た隧道の南口までは300m程度だが、どうせ突破出来ない廃道にこれ以上首を突っ込む気になれなかったので、ここで探索終了を決断。

以上、長野市信州新町日原西の現場より、明治隧道捜索作戦の模様をお伝えいたしました!





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