2009/4/29 14:56
現在地は栃折隧道内部。
西口より 300m付近 と推定される。
隧道がどの方角に向かっているのか、正確なことは分からないが、一つ言えるのは、ここまでずっと直線だったということだ。
そして、もし隧道が、峠の最も薄い部分を突いているならば、あと50〜100mも行けば貫通するはず。
相変わらず行く手に光は見えず、風もない。
表面的には、ただ単に深い穴の奥へ潜ってきただけのようである。
果たしてこの隧道は、どんな結末を私に見せるのだろう…。
決着は、遠くないはずだ。
振り返ると、今くぐり抜けてきた隙間が、ことさら小さく見えた。
速やかに通り抜けるべく、自転車だけでなく、ここでリュックも置き去りにしてしまった。
風もないくせに、背中がすーすーするのは気のせいか。
これで私は、完全に光を失ってしまった。
これからは後ろを振り返ろうとも、光はないのだ。
なお、右の画像にカーソルを合わせると、フラッシュを焚いて撮影した写真に切り替わる。
実際の探索中の明るさは、(カーソルを外して)この程度しかない。
かつて懐中電灯しかなかった頃に較べれば、LEDは闇を劇的に遠のけた。
だが、それとて本当の闇の中では小さな灯火に過ぎない。
闇は怖ろしいが、それ自体牙を剥いてくるものではなく、身を委ねればなかなかに心地よくもある…。
とはいえ闇と仲良しをしていては、先へ進むことは出来ない。
はっきり言って、この状況は長居すべきではない。
たとえ低い確率であっても、今この時に地震でも起きようものなら、これまで乗り越えてきた場面のどこかが本当に閉塞してしまうかも知れない。
そんな事はまっぴらごめんだ。
長居すべきではない。
闇の中へ光芒を放ち、照らし出された空洞へと緑のゴム足を進める。
自らの発する音の他は、全くの無音の世界だ。
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隧道はまたしても、コンクリートに包まれた。
これで、コンクリート覆工は5区間目だ。
あまりに優柔不断というか……、
とても「適材適所」とは言えない。
巻いてないところが、頻繁に崩壊している。
それはともかく、コウモリが少しでもいるのは、ちょっと安心した。
彼らがいれば、とりあえず酸欠の心配は少なかろう。
問題は、またすぐ先に見えている素堀区間だが…。
また、崩れている感じがする。
14:57
なんだありゃ??
めちゃくちゃ崩れたその先で、黄色いシートのようなものが隧道を塞いでいる…。
これ…か…?
これが、いままで風も光も通さなかった原因か…?
しかしこの壁…
通れそうにない…。
もちろん、
壊したら駄目だろうな。
でも、
この先は外なんだ…!
ライトを消してみると、うっすらと外の光が漏れ入ってきているのが分かった。
ふんぬっ!
もちろん、壁が壊れるほどは力を加えていない。
ただ、横の隙間をカメラのレンズが差し込めるくらい広げたかっただけだ。
そして、ファインダーを覗かないまま パシャ…
壁の向こうで悪い人たちが悪い取引の最中だったりしたら嫌だなぁと思ったが、幸いそんな物音もない。
すぐにカメラを引き上げ、再生ボタンを押してみる。
そうやって撮ったのが、左の写真だ。
なんかそんな感じはしたのだが、やっぱり壁の向こうはまだ“洞内”だった。
しかも、なんか巨大なモヤシのような(ウドかな?)芽が、プランターから這い出してきていた…。
少し、気持ちが悪い。
今度は、上の方も…
ふんぬっ!
パシャ…
そしてまた、再生ボタン。
本当の出口は、あそこだよ。
あともう15mくらいなんだが……
貫通を断念せざるをえない!
チクショウ…、 このオチは、ちょっと予想外だったぜ…。
15:01 撤収開始…。
【カーソルアウト時→】
結局、隧道の全長は350〜400mくらいであった。
脇目もふらずまっすぐ峠の下を貫いていたので、この隧道が峠越えを目的としていた物だということは疑いがなくなった。
そういえば、前話までをご覧になった読者さんから、全く思いもしないコメントを沢山いただいた。
「チャリがUターン出来ないのでは?」
というものだ。
確かにこの幅ではチャリはUターン出来ないが…
ハッピーターンで全て解決!
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| 【←カーソルオン時】
チャリが入り込めたのは、約300mまで。
この区間にも何箇所か崩壊はあったが、概ねチャリを運転することが出来る。
なんか、小さな光に向かって、狭い穴の中をチャリで走るのは、不思議な気持ちよさがあった。
神に選ばれた者にでもなったかのような、得も言われぬ快感があった。
足が濡れてもいい人で、コウモリが苦手じゃない人で、闇が好きな人は、チャリで入るとキモチイイカモヨ。
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現在地
ニャッパー!!
生還だぜ。
崩落に水没に閉塞にコウモリに、廃隧道のあらゆるエッセンスを非常に強烈に濃密に圧縮した隧道であったが、チャリを連れて入ったのが良い気分転換になったというか、(主に帰りが)楽しかった。
やべぇ。 なんか変な癖が付きそうだ…。
狭い廃隧道を、チャリで高速に走りたいという癖が。
15:11
今度は、先ほど無念の“おあずけ”を食った、富山側の坑口へ向かうことにする。
なお、片足だけ靴を濡らしてしまったので、ハンドルに挿して乾かしながら進むことにする。
しばらくはウォーターシューズで探索だ。
(写真は振り返って利賀側を撮影)
利賀側の坑口があった場所から栃折峠までは、わずか400mに過ぎない。
だが、上や右の写真のとおり、国道としては少々狭い。
冬期間も除雪されて通行は可能だが、利賀村地域にとっては生命線となる道だけに、バイパス建設の計画がある。
現地にはそれと分かるようなものは何もなかったが。
15:17 《現在地》
呆気なく、長い切り通しの栃折峠に到着。
海抜は630mあるが、隧道からはたった20mのアップに過ぎない。
400m近い隧道を掘りながら、峠の高さを20m下げただけとは、普通に考えれば相当物足りない。
平成17年に富山市と合併したが、それまでは「八尾(やつお)町」だったエリアに入る。
栃折峠はあまり見晴らしのある峠ではないが、空の広さが感じられる。
また、峠の傍らにお地蔵さまが祀られていた。(雪崩遭難者を弔ったものと直感した)
萎れかけた花が手向けられているが、この「手向(たむ)け」が「とうげ」の語源になったという説がある。
また、「栃折(とちおり)峠」という名前についても、峠を越えるときに木の枝を折って神に捧げる「手折(たお)り」という、古い風習との関連性を匂わせる。
地蔵の存在を待つまでもなく、名前だけでも相当に古い峠と感じさせた。
15:19 《現在地》
峠を乗り越し路面の傾斜に身を委ね始めると、ぐんぐんとスピードが増した。
20秒後、おおきなヘアピンカーブをひとつ越える。
すると、進路は良い具合に峠の方へと向き直った。
まるでスキーヤーの描くスラロームのようなカービングだ。
速度をやや制御しながら、まだ見ぬ坑口を脳内でイメージする。
峠を発って55秒後、2つめのヘアピンカーブの直前で、小さな枝道の分岐に気がついた。
怪しいじゃないか。
杉の下枝が降り積もった、幅2m弱の浅い堀割道。
ほぼ真南の方向へ、直線的に続いている。
ちょうどそれは斜面の傾斜方向だから、必然的に急勾配。
自動車道ではない。
これは、決まったか…!
15:21
見覚えのあるブルーのシートだ!!
坑門だ!
hana
「かたくり」 だそうです…
HANA
「しょうじょうばかま」 ですって…
Zui-Dow!!
15:22 《現在地》
とても首尾良く富山側の坑口を発見することが出来て嬉しい。
国道から丸見えの利賀側坑口はあんなに開けっぴろげだったのに、森の中にひっそりと佇んでいるこちらは厳重に塞がれていた。
坑口自体はあまり面白みのある作りではない(向こうと同じ形)が、坑口への道の取り付け方が長閑で好ましい。
どんなふうに土を盛って道にしたのかが手に取るように分かる、等身大の土木工事を感じる。
それに、こんな何気ない坑口から隧道が3〜400mも続いていて、峠の向こうまで抜けているとは…。
その意外性に惚れ惚れする。
お前、カッコイイよ。
(出来れば、チャリで爽快に通り抜けてみたかった…!)
ふんぬっ!
カシャ…
「ニャンコ技」も手が出ないブルーシートには参った。
仕方ないので、またしても「隙間技」(猫が見ている隙間から、棒のようなものを出し入れすると、やがて猫パンチが隙間を拡張してくれるという現象が、この技の発想である。)を駆使して、洞内を撮影。
奥にある、ムーミン谷で見た“ニョロニョロ”のようなものが生えたプランターが、やっぱり気になる。
ともかくこれで、目視を含め隧道の全貌を把握出来たと判断。
満足して探索を終了することにした。
―撤 収。
栃折隧道の特異性は、次の2点と言って良いだろう。
・人が通れるだけのサイズしかないこと。(人道隧道)
・にもかかわらず、竣功は昭和34年と比較的新しいこと。
いったいこの隧道は、誰が何のために建設したのだろうか。
ちなみに、お馴染みの「隧道リスト」はおろか、市町村道の隧道まで網羅した「道路トンネル現況調書(平成16年)」にも、栃折隧道は一切記載されていなかった。
もう頼るべきは、「利賀村史」しかない!
ということで、平成16年に出たばかりの「利賀村史3(近・現代)」を、実際に取り寄せて読んでみたのだが…
まあ濃いこと濃いこと!!
いままで百冊以上の市町村史に目を通してきたと思うが、これほど「道路について濃厚」な市町村史を初めて見た。
ページ数からして、全1132pのうち実に100p以上が交通に割かれているし、何よりその書き出しにある言葉が衝撃的だ。
あんまり感動したので、ちょっと引用する。
明治22年の市町村制施行から今日に至るまで、歴代の為政者が最も腐心してきた事業が道路の整備であった。
こうはっきり言い切っている!
大抵の市町村史はもっと総花的に「いろいろ頑張った」みたいになってるのに、利賀村史は潔い。
まさか村長は三島通庸の血縁者かと思ったくらいだ。
こんな道路に熱心な村史であるから、当然村内の主要な道路については、一通り以上のことを網羅していた。
ここでは基本的に「栃折峠」に関する話だけをするが、まず右の地図を見て欲しい。
冒頭にも書いたと思うが、利賀村は完全に2つの水系に分断されている。庄川水系の利賀川に属する部分と、神通川水系の百瀬川に属する部分だ。
こんな地形では自然と川沿いの低地が道となるわけだが、残念ながらどちらの川も村境付近では険しい峡谷になっている。
そのため単純に川べりを通る道は発達せず、比較的尾根に近い山腹をトラバースするような道が出来た。
これは、雪崩を避けたいという意図もあっただろう。
現在、国道471号が利賀村の中心部から砺波方面と富山方面の2方向へ出ているが、これがすなわち利賀の2大動脈であった。
細かいルートは変わっても、この2方向が利賀の玄関口であったことは近世以前から変わっていない。
栃折峠は、このうち富山ルートの最高地点である。
それでは、この2方向の道がそれぞれ「車道」となったのは、いつ頃だろうか。
これについては、利賀村史が明確な答えをくれた。
利賀〜庄川(砺波方面)ルート =大正8年
利賀〜栃折峠(富山方面)ルート=昭和12年
ここで注目して欲しいのは、栃折峠に車道が開通した年である。
昭和12年ということは、栃折隧道の開通より22年も前である。
そもそも、最初から峠に隧道が掘られたのならば、利賀村史が触れないわけはない。
やはり隧道は、後から出来たのだ。
逆説的だが、隧道が車道ではないこともこれを裏付ける。
それでは、峠越えの車道が開通した後に、改めて人しか通れないような隧道を掘ったのは、どうしてだろう。
右の図は、昭和46年以前の冬の利賀村のイメージである。
(当時まだ国道471号も472号も県道だったが、そこには目をつぶって欲しい)
なんということだろう。
昭和46年秋に除雪車の配備やスノーシェッドの設置が終わり、はじめて冬期間の通行が確保されるようになるまで、冬の利賀村は庄川沿いの僅かな地域を除いて、完全に車両交通途絶の状態になっていた。
一村丸ごとこういう状況にあったというのは、雪国秋田に住んでいた私にとっても驚きだ。
昭和46年といえば、オブローダーのタイムスケールではごく最近のことである。
それまでこの人口1000人足らずの村は、毎年11月末から4月頃までの約5ヶ月間も孤立したのだ。
村の中にはデパートも病院も電器屋もパチンコ屋もない。
にもかかわらず、5ヶ月間の隔離生活。
それが現実だった。
とはいえ、多くの人々は冬の間も内職をした。
人間は冬眠して過ごすなんて事が出来ない。
秋のうちに「アキアゲ」といって、大量の食料や生活物資を運び込んではいたが、それでも日々の生活で不足が出てくる。
だから、天気の良い日には数人が連れ立って、雪の道を踏み越えた。
「アワ」(雪崩)が何よりも怖ろしかったし、数年に一度は死ぬ者も出たが、どうすることも出来なかった。
庄川へ出るにも八尾へ出るにも一日がかりだったが、命を保つためには必要な旅だった。
そして、こんな大変な往来を、日常的に行わねばならない人々がいた。
それは、郵便逓送員 である。
冬期交通が確保されるまでの長い間、利賀村から出入りする冬の郵便物は全て、富山-八尾-利賀のルートで逓送された。
それは、冬期閉鎖区間の長さが、砺波ルートより富山ルートのほうが短かったためである。
南砺市に合併した現在とは違い、数十年前までの利賀村は、どちらかというと八尾や富山側との繋がりが深かった。
そして、その繋がりを維持するただひとつの道が、栃折峠であった。
相当詳細な利賀村史も、なぜか栃折峠の隧道のことは少しも触れていない。
だから、実際どの程度使われたのかは分からない。
誰が作ったのかも、いつ崩れたのかも、分からない。
しかし、これだけの背景が分かったならば、もう栃折峠の人道隧道は不思議でも何でもない。
クルマが通れないサイズの隧道でも良かったのは、それがクルマの通れない冬場の道として作られたからだ。
昭和34年などという竣功年も、なおその時代まで冬期閉鎖が続いていたことを思えば、理解できる。
ちょうど峠のてっぺんは吹きだまりやすい長い堀割で、利賀側の道は百瀬川の崖に取り付く、雪崩の多そうな所であった。
距離的には200m程度の短縮に過ぎないが、冬道のリスクを考えれば、峠の隧道はどんなに安心だったろう。
結論。
栃折隧道は、主に冬期間の徒歩による峠越えを目的とした、人道用の隧道である。
レポートの通り、現状は閉塞寸前となっている。
また、戦後の建造物である点で、「近代土木遺産」の対象にもならない。
だが、 こんな言葉があるのかは分からないが…、
これは、一種の「 雪国遺産 」だと思う。
観光化してくれとは言わないが、このままの姿で、末永く在り続けて欲しいものと思う。