16:09
←翁が道を作るために崖を削ったのか、あるいは自然に崩れてこうなっているのかは分からないが、道が寄り添う絶壁は激しくオーバーハングし、しかも刃物のように鋭い切片が無数に突きだしていた。崩れ落ちた岩塊は板状である。
つい先ほどまではこの断崖の上にいたわけで、ここに下降ルートを提示した汚水まみれの梯子の価値は大きい。
→
梯子で滝を下ったあとも、道はかなりの勾配で崖伝いを下る。
途中振り返ると、件の滝の下部滝がいかんとも登りがたい角度で落ちているところだった。
翁の道は、もっとも緩やかな部分をちゃんと見逃さず、的確に下っているようだった。
←
巨木の森であった大平とはうって変わり、崩れた崖が堆積しただけの痩せた斜面であるここには灌木しかみられない。
進路を阻む枝を掻き払うと、反発した枝からたくさんの水滴が降りかかってくる。
かなり厚着はしていたのだが、気づけば地肌までじっとりと濡れていた。
こうして斜面を忙しく動き回っている内は寒いと感じることは無いだろうが、指先などはかじかんできた。
→
上から投げ捨てられたものである可能性もあるが、年季の入ったジュースの空き缶。なつかしの「つぶつぶオレンジ」。
道があるのかと問われれば、微妙と答えるより無いだろう。
本来の道が灌木の森をどのように下っていたのか、はっきりとした痕跡があるわけではない。
次々に供給される巨大な落石によって、埋もれているはずだ。
もともとの道もまた、そんな瓦礫の斜面を少し均しただけの簡単な道であったと思われる。
確信があったわけではないが、私は華厳滝や白雲滝がある上流方向へと山腹を緩やかに下りながら近づいていった。
左に進路を取ればいつでも渓谷へ急下降出来そうだったが、川縁の様子が分からない以上、安易に下ることは避けねばならない。
また、背後の“汚水滝”の音が遠くなるのに合わせ、行く手から別の渓声が届くようになっていた。
おそらくは、そこが鵲橋のかかる白雲滝なのだと思った。
16:11 尾根筋に出た。
お椀状の崖錐斜面をひとつ巻くと、隣の谷と隔てる小さな分水に達した。
二方は谷に落ち、一方は華厳谷の本流へと尾根を落とす。背後の一方は絶壁に隔てられている。
してやったりと思った。
この尾根は私を素直に華厳谷まで運んでくれる可能性が高いのではないか。
いやまて。 安易に走るな!
地形図はそんな緩やかな尾根をどこにも示してはいない。
この辺りにあるのは、テラスのような描かれ方をされた岩場のみである。
下手に尾根に頼れば、その険しい先端に誘い込まれる危険があるのではないか。
ここは“勾配を最も行程全体に均一に分散させることが出来そうな”、白雲の滝のある谷への進入というルートを選んだ。
それが正解であるかは、まだわからない。
だが、この選択は私に、気持ちの高揚を抑えられなくなるような…
本当にすばらしい景色と巡り逢わせた。
残雪ではない。
この擂り鉢状になった崖錐の斜面から忽然と現れる水流は、中禅寺湖の湖水であると考えられている。
湖畔は直線距離にして700mほど離れているが、溶岩層を浸透してここに湧出しているのだとか。
まるで霧が岩壁にぶつかり、凝縮して流れ出したような白さだ。
まさに、神秘の光景。
そして、この流れからもう「白雲瀧」は始まっている。
天然のダムである中禅寺湖の漏水は、私の想像を遙かに超える規模で起きていた。
それにもうひとつ。
このワイヤー。 見覚えがある。
あのとき「忍者大作戦」を行っていれば、この辺りに着地していたことになる。
…というのはもちろん冗談だが、さっきまで私はあの付け根にいたのである。
確かにあの辺からでは下りようが無い訳だった。
写真からも、現地の地形の険しさというものがお分かり頂けると思う。
“水漏れ”の谷へ入った私はすぐに、進むほどに大きくなる渓声の正体を知ることとなった。
待ち受けていた。
これほどの巨姿を、何かで隠せるはずもなく。
星野五郎平翁が、この道を作っていて初めて発見したとされる滝。
秘瀑 白雲瀧。