16:27 鵲橋直上へ到達。
大平の道標地点から入山して1時間半後、遂に今回最大の目的地であった「鵲橋」に辿り着いた。
直線距離にすれば僅か数百メートルの距離だが、比高200mにおよぶ絶壁地帯に唯一と思われる進路を見出し到達するのには、初めてならばこその苦労があった。
間近に迫った鵲橋は情報提供者の証言通り、未だ健在な様子だった。
しかし橋の姿そのものよりも私の目をひいたのは、橋に連なるもの凄い急な階段である。
ここに橋を架ける意義を疑わせるほど、一気に谷底へ下っているのだった。
左岸の袂へ下り着いた。
白雲瀧と繋がるトラロープもこの傍から始まっていた。
この橋の健在については情報提供者の証言はもちろん、対岸高所の明智平展望台からの眺めでも分かっていた事だ。
しかし、橋の両岸にどんな道が接しているのかは、こうやって近づいて初めて判明したことだ。
安易に写真を公開してくれなかった情報提供者には、この感激の分だけ感謝したい。
それは新鮮な眺めだった。
そして、多分に奇妙な眺めでもあった。
橋は、歩道に対しオーバースペックに思われた。
階段…。
コンクリートの階段をここまで削ったのは、日光のネームバリューが呼び集めた観光客達の履き物ではない。
ときのしわざである。
昭和25年に建造されたと伝えられるこの歩道だが、廃止の時期はいまひとつはっきりしない。
しかし、さほど長く使われてはいないようだ。手元にある昭和50年代の観光地図からも既にこの道は消えていた。
階段の各段は半ばまでそぎ落とされ、スロープに近い状態になっている。
いかにも古いつくりの、大きな川砂利を骨材として含んだコンクリート製だ。
そして、両側の欄干も観光のイメージからはほど遠い、冷たい金属の棒っきれだ。
この荒れ果てた道がかつて、日光市街、清滝、馬返方面から華厳滝、あるいは中禅寺湖を目指すメジャーな遊歩道であり、中禅寺への信仰、ときには男体山への登拝の道でもあったはずだ。
橋上の様子。
なんて事のない、普通の橋である。
ここだけを見れば、本当に平凡な …古びてはいるが…。
ここへ立つ大変さを思えば、拍子抜けをするような橋ともいえる。
だが、決してツマラナイものではない。充実に満ちた橋でもある。
親柱二態。
「かささぎ橋」
カササギとはカラスの仲間の鳥で、日光地区での生息は確認されていない。
なぜ橋の名前に起用されたかは不明だが、五郎平翁が明治33年に名付けたと思われる初代吊り橋も同名だった。
奈良時代の歌人・大伴家持のものとされる「鵲の 渡せる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞ更けにける」の歌があり、「しろき」滝に架けた橋に“かけた”名前なのかも知れない。(歌心が無くてゴメンネ…)
向かい合う親柱は、橋に接する歩道が橋より狭いため一段奥まった場所になり、やや目立たない。
その銘板に記された文字は「白雲の瀧」というもので、通常ならば「某川」「某沢」というところを特異な例といえる。
確かにこの川に白雲瀧以外の固有の名前が有るというのを聞いたことはないし、前回見たとおり流れ始めの湧出地点からここまでずっと「滝」なのである。
そして、それは大谷川本流に達するまでこの先もずっと…。
そして、鵲橋も滝に架かる珍しい橋ということになる。
朽ちかけた欄干の向こうに見えるのは、霧の中より近づいてくる轟々たる瀑流。
世界の日光の、忘れられた光景だ。
久々の… 橋上からカメラを掲げる観光客の姿が、そこにあった。
橋よ…。
満喫してくれ。 この時を。
鵲橋。
ずいぶんもったいぶって渡っているが、残りはもう半分。
ああ、もう終わってしまいそう。
しかし、橋の先もまた随分とずいぶんな… また階段ですか…。
推測だが、この橋が前後の歩道よりも遙かに広々と造られている理由は観光客が立ち止まって観賞することの便宜を考えてのことであろう。
そして、前後を急な階段にしてまで橋を水平に架けた理由があるとすれば、技術的なことばかりではなくて、対岸の明智平から眺めたときの橋自体の据わりの良さ…美しさを考慮したのではないかと思われる。
現に橋は遊歩道としての役目を終えた今も取り壊されることなく、むしろ白雲瀧の良い添景となっているように思われる。
右岸の親柱も健在だが、下流側の銘板だけなぜか消失している。
自然に脱落するほど破壊された様子もないので取り外されたのだろうか。
竣工年が記されていたかも知れず惜しまれる。
他方は健在で、またも平仮名交じりで「かささぎ橋」とある。
ところで、この親柱の上に置かれたピンクの紐はなーに?
それは電線のようなゴムで被覆されたロープだった。
何に使うものだろうか。
実はこれと同じものが付近の急斜面に“垂らされた”状態で放置されているのを見つけている。
私がなぞったトラロープと似たようなものなのか、但し道具無しでは辿れないような急斜面にばかり残されている特徴がある。
そして、ロープの輪の中に置かれたラミネート加工された紙には、「ご迷惑をおかけします」「工事中」の文字が。
ラミネ加工を見るとさほど古いとは思えないが、いつ誰がどんな目的で放置していったのだろう。
この階段を上っていけばどこへ行くのか?
それは見当が付く。
情報提供者が特権を活かし通り抜けたという、華厳滝エレベータの地下通路途中にある“開かずの扉”へと続いているはずだ。
上手くすれば観瀑台にも踏み込めるかも知れない。
帰路として使える可能性のある道は後回しにしようということで、先に華厳渓谷へと下ってみることにした。
この歩道は鵲橋を経由して華厳渓谷へ下り、そのまま渓谷を通り抜けていたはずなのだ。
渓谷へ下れば、地形図にもう一本ポツンと描かれた“謎の橋”の正体も、明らかになることだろう。
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鵲橋から見下ろした下流側の眺め。
相変わらず透明感の無い水流。
流れる水の全てが白い飛沫となっている。
まさに、跳ね落ちるような流れ。滝だ。
しかし、霧に遮られてはいるがその先に一定以上の広がりを感じるというのは、私が地形図を知っているからだろうか。
華厳渓谷、すなわち大谷川の本流に合するまでの距離は残り100m。高低差も30mを切っている。
容易には辿り着けまいと思っていた谷底だが、確かに苦労はあったものの、翁は的確に導いてくれた。
…あれ。 そうだ。
翁の道の行方が最後の方で分からなくなったんだった。
翁の時代の鵲橋と現存する鵲橋とでは、その位置が変わっていたのである。
左の絵はがき(『郷愁の日光』(随想舎)所収)は昭和初期のものだが、ここに映されている鵲橋は木製の桁橋で、右の写真と比較すると現橋の大分上流に架かっていたことが分かる。
私が道を見失ってトラロープに先導役を切り替えたのも、ちょうどあの辺りだった。
なお、翁手ずから架けた初代橋は吊り橋だったということで、左の橋も二代目以降。
現橋は三代目以降ということになる。
最後に、鵲橋到達の喜びが弾むようなボイスに凝縮された動画をご覧頂き、鵲橋上レポートを締めたい。
相変わらず「旧遊歩道」とか言っているが、錯誤も含まれるのでヌルーして欲しい(笑)。
16:31 鵲橋を出発。
さらに下降を開始する。
この先の道は、もうさほど不安を感じる必要も無さそうだ。
…これまでに、較べれば。
しかし、鵲橋に接するこの階段は本当に急である。
著名な観光地ではバリアフリーが当たり前となりつつある昨今では、受け入れられ無さそうな道である。
いや、それ以前に現代的な感覚ではこんな道を遊歩道として解放しはしないだろう。
ここはそのくらい急な階段である。
また、落石などに対する備えも特に見られぬ道である。
たかが階段といえども、高所恐怖症の人は前を見ながら下れなさそうな勢いである。
階段で折り返すと、たちまち鵲橋を見上げるようになる。
この角度から見る姿は、厳密な意味で初めてである。
明智平から眺めた景色は上からだったし。
そして私は思った。
下からみると随分と… 薄っぺらだなぁ。
当初から(当たり前だが)人道橋として設計されたことが分かる。1トンくらいの落石が万が一直撃したら、それだけでポッキリいきそうである。
取り付け階段部分が橋であったことにも、ここで初めて気がついた。
その取り付け部分とアーチ形の橋本体とは継ぎ目のない構造になっており、つまりはラーメン?
そうだ。
この橋はアーチとしての力学的な強さを期待できないほどに薄っぺらで、かつ扁平である。
どうもこの橋は、単なるラーメンの桁橋であるように思われる。
折り返してからは谷底の滝へ向かって真っ直ぐ下っていくのだが、この辺りはさらに階段が狂気じみたものとなる。
写真に写っているコンクリートの平場は、まだ途中の踊り場なのだ。
よく見ると、その先にもまだ階段が続いているのが分かるだろう。
もはや最後の数段などは、私の靴のサイズよりもステップが狭く、横を向きながら下った方が下りやすいような有様なのである。
これでは流石に封鎖もやむを得ないと思った。
戦前までの、「ハイキングもまた体力修練の重要な場」というような思想がまだ残っている当時の設計だと感じられる。
これは家族連れがニコニコしながら歩く道じゃない…。
なお、この踊り場の部分でまたしても索道の地に落ちたワイヤが横切っている。
それは欄干を破壊しているので、歩道が廃止されてから索道も破壊されたことが分かる。
怖い階段を下りきって、遂に鵲橋の全貌を最も良く眺められる場を得た。
私は、またしてもその景観の荘厳さに息をのむ。
薄っぺらだけど… でもやっぱ、かっこいいぜ……。
鵲 橋
今や遠望する瀧の、小さな添景と成り果てた橋。
だが、近くで見ればこんなにも、大きな橋だった。
橋の下を流れるのは、やはり紛れもない瀧。
決して透き通った流れを見せない白さは、白雲の名にもふさわしい。
そう言えばこれは余談だが、現在、華厳滝を落ちる水量は全て水門で調整された人工的なものである。
だから、観光シーズンには敢えて迫力を出すために多く落としたりしているわけだが、この白雲瀧はそのような機構が働かない、自然のままの流れということがいえる。
階段から解放されると、道が消えてしまう。
よく見ると、河原の所々に折れ曲がった欄干の名残がある。
それらを結ぶラインが、河搬堆積物に埋もれた遊歩道跡ということになるだろう。
それにしても爆ぜる水流が近い。
まるで洪水のすぐ傍を歩いているようで、急に越流が起きて呑み込まれるのではないかという恐怖を覚えた。
いよいよ、本格的に行く手の広がる感じ。
大谷川本流が近い。
コンクリートでところどころ固められた歩道も、再び存在感を示し始めた。
知られざる絶景の地、華厳渓谷との遭遇は間近である。
ひとときのさらばだ。鵲橋。
無事にまた逢おう。
次回、
禁断の渓谷。
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