[この橋の正体は? 利賀村誌を紐解くと…]
仙納原大橋は、利賀谷への通行の最大の難関である庄川に架かっていた長大橋で、ここを渡ると利賀村である。
砺波平野から利賀村へ入るには、必ずどこかで庄川を渡らなければならない。古くは〜藤掛の渡りを利用したが、近世初めには仙納原大橋が架けられ、以後雪害などによって度々落橋したものの、その都度藩費によって架け直されていた。
ここが長く架橋地点とされたのは、杉谷峠からの最短地点という位置上の理由のほか、両岸が絶壁をなして川幅が極端に狭くなり、比較的短い橋長でことたりたことにもよる。これは同時に、高所でかつ水深が増していて、橋脚を立てられないというデメリットにもつながったが、刎橋の技術で渡河を可能にしていたのである。
ちなみに橋の規模は、正保4年(1647)の「越中道記」では、長さ11間(約20m)・幅6尺(1.8m)・高さ5丈(15.2m)・深さ2丈5尺(7.5m)とある。
古老の話によると、この付近は激流が逆巻き、橋から下方を見ると怖ろしく高かったという。
これにより、「仙納原(せんのうはら)大橋」という橋が近世初期から当地に架けられていたことが明らかとなる。
しかもそれは、利賀村周辺の庄川における最も古い架橋地点であり、「牛岳車道」が通っていた「藤橋」(近世末に最初の架橋)や、その下流にあった「藤掛渡り」をおさえて、砺波地方と利賀村を結ぶ第一の要路であったというのである。
この段階で早くも、本橋には十分すぎるほどの「架橋の動機付け」があったということを理解する。
右図は明治42年に測量された5万分の1地形図である。
これより古い版の地形図はなく、また次の版となると「小牧堰堤」が出現して川筋の様相は一変している(この後でお見せする)ので、これがダム完成前の唯一の地形図といえる。
明治時代には、砺波平野と利賀村を結ぶルートに極めて大きな世代交代が起きている。
それは何かといえば、近世までの「井波→杉谷峠→仙納原大橋→仙納原→九里ヶ当→利賀」というルートが、「青島→藤橋→九里ヶ当→利賀」に変わったことである。
これは言うまでもなく、明治23年に「牛岳車道」が開通し、さらに同38年に無料化を経て公道となったことによる。
馬車も通れる牛岳車道のまえに、人かせいぜい牛しか通れぬ江戸時代のルートは敗北したのだ。
左の写真は村誌に掲載されていた、昭和初期に撮影された仙納原大橋の貴重な写真である。
極めて深い庄川の谷を渡る細い刎橋(はねばし…現存する例→「猿橋(外部リンク)」)と、それに繋がる屈曲した道が写っている。
この九十九折りの先は仙納原集落(後に仙野原に改名)に繋がり、それからもう一度利賀川を渡って九里ヶ当(後に栗当に改名)に達していたのが江戸時代からのルートだった。
また、写真の左下には利賀川を渡る小さな橋が写っている。
これは「仙納原小橋」(村誌掲載写真)で、この先は直に二ツ屋集落へと登り、九里ヶ当へ循環ルートを形成していたし、牛岳車道開通後にはその短絡路にもなった。(上の地形図では緑色の矢印で示した位置…図中には描かれていない)
仙納原大橋と小橋は、いずれも車両の通行出来ない隘橋だったが、牛岳車道が出来るまでは利賀村の一番重要なルートだった。
この状況は、昭和5年の小牧堰堤完成によって、次のように変わることになる。
小牧堰堤の完成によって、庄川の水位は一挙に60m以上も上がった。
そのため、従来の仙納原大橋や仙納原小橋は水没してしまったが、牛岳車道には影響がなかった。
また、仙野原や栗当といった利賀村の各集落も山上にあったので無事だった。
加えて、従来は木樵や曳舟夫がようやく通れるくらいだった庄川沿いの道が、自動車の通れるレベルにまで改築され「庄川沿岸道路」と呼ばれるようになった(現在の国道156号)。
だが、この昭和26年の地形図には、かつての仙納原大橋とほぼ同位置に湖面を渡る橋が描かれている。
この橋こそ、今回私が探索した橋に違いあるまい!
この橋が誕生した経緯を、村誌は次のように伝えている。
仙納原大橋は昭和5年、小牧ダムの湛水によって潜没し、電力会社が代替に吊橋を設置した。
その際に村と電力会社の間で壮絶な争いがあった。
次に掲載するのは、この壮絶な争いの最中に利賀村が発行した「行政訴訟参加決議書」の一説である。
一.本村道第一号線の道路の一部及同線路中庄川本流に架設する大橋並に利賀川に架設の小橋の潜没に対し屡々(しばしば)本村は道路法に根拠を有する橋梁の施設、道路の築造を企業者に需(もと)むるも、自家経済に立脚したる幾多の欠陥を有し、然も冬期間氷結のため事実上交通遮断に陥るべき時代に逆行したる渡船設備を以て之に代へんとして譲らず、湛水開始の時期既に目睫に迫れるとき尚橋梁施設に応ぜんとする毫も誠意を認むるべくもあらず、之将に交通機関を無視し公安を害するものなり
二.(以下略)
「利賀村誌」より、昭和5年完成の「仙納原大橋」。
あ、あれ? アーチはどこ?
牛岳車道が既に開いていたとはいいつつも、やはり歴史ある道路(村道1号線)の水没を看過できない村の憤りが感じられる決議文だ。
事実これらの橋がなければ、利賀川左岸から庄川右岸にかけての仙野(納)原や長崎などの集落が完全に孤立することになるし、冬期間は牛岳車道が雪崩のためしばしば通れず、尾根上の“冬道”から仙野原へと下り、さらに尾根伝いに仙納原大橋を渡るルートは、相変わらず村の生命線だったのである。
だが、この橋の整備方針については、県および電力会社と村の思惑が食い違ったために、先の決議文を出すような事態となったのである。
この細かい経緯は省くが、要するに補償を最小限度にしたい電力会社と、水没補償を機会に幾らでも立派な道を欲する村との対立であり、その仲裁を県が果たすこととなった。
しかし結局は元の大橋の位置に吊り橋の「仙納原大橋」を設置し、小橋は上流に再架設された(現在の仙野原橋の位置)のだった。
いずれも経費は電力会社の負担である。
村では、この「元もと出来たことが出来るだけ」という補償内容を恨み、この訴訟問題は暫く後を引いた。
だが、これで終わりとはならなかった。
「ところが、この新橋が2年半後の昭和8年5月3日、未明の突風で湖水中に落下してしまった。」
というから、さあ大変!
これでは村民の立場としては、「電力会社め!!散々渋った上にテキトウな橋を作りやがって!」となったに違いない。
昭和5年の大橋架け替えにおいて電力会社と村が締結した契約では、架け替えの費用は全て電力会社が持つが、その後5年間の維持管理および架け替えの費用は78%を会社負担、残り22%を村の負担ですると決めていた。
そして、今回の落橋は5年以内であったから、このまま行けば村は架け替え費用の22%を負担しなければならなかった。
だが、「当初から村が修繕や架け替えの費用がかさむことを心配して、架設費3万円の立派な橋を希望したにも拘わらず、会社が独断で1万8000円で完成させてしまった。その粗漏な工事のために落橋したのだから、村は1銭も出さない。むしろ賠償してもっと立派な橋を架けてくれ」と、契約の変更を迫ったというのである。(これは受理されなかった)
村は応急措置として渡船で連絡を図るとともに、早速復旧の計画を練ったが、折からの不況下で失業対策に追われ、同年はやむなく復旧を断念した。翌9年は、雪害・水害などの被害が続出し、加えて県費補助が認められなかったこともあって復旧を見送り、翌々10年7月10日付で長文の遅延事由書を付して8万6000円の補助を再度申請した。
この時県に送られた「災害復旧費補助申請遅延事由書」は、本当に切々と村の窮状を訴える非常に長い文章であるが、復旧計画に触れた後半の一部のみ抜粋して掲載する。
先年来継続開鑿中にありし利賀川左岸並行幅員3.6m、延長数里の一大林道は上流より漸次下向し〜本件橋梁架設の村道路線に到達するの日既に目睫に迫り、該林道及村道を一連とする一大縦貫線を形成するに及び、まことに咽喉を閉ざしたるに似たるこの橋梁復旧のことたるやいよいよ喫緊事の急務たるに至り、永く幽閉交通運輸に恵まれず、全く死蔵されたる県下に冠絶せる一大資源の門扉は初めて開放せられ、期せずして本村の開発発展を見、ひいては県政躍進〜 (略)
という具合に、「いままで復旧していなかったのは、決してこの道が必要じゃないからではなくて、村にはいろいろ事情があったんだよ!」と言い訳した後に、「西岸林道がいよいよ開通しそうになってるんだけど、橋が無いと困るよ。この橋が開通すれば利賀村の膨大な資源が開放されて、県はめちゃくちゃ栄えちゃうよ!」というな甘言を述べているのである。
そして、実はこのとき村に一計があった。
それは、復旧橋は従来の人道専用の吊り橋ではなく、西岸林道と同程度の規格を有する車道橋としたかったのである。
そして見事この県費補助の申請は通り、昭和11年に架橋工事に着手、翌12年3月に完成した。
天晴れ利賀村。
そして、この新橋の名前は由緒ある「仙納原大橋」から、次の名称に変更となった。
利 賀 大 橋。
(「村誌」より、昭和12年開通の利賀大橋。)
利賀大橋は、従来の橋脚をさらに6mかさ上げして、延長170m、塔柱径間115m、有効幅員3mとしたもので、双竜湖にかかる長大橋として名所の一つとなり、西岸林道の完成とあいまって小型貨物自動車での物資輸送に大いに利用された。吊橋とアーチ橋を連結した例は全国的にもまれであった。
以上が、「利賀村誌」の教えてくれた「利賀大橋」の誕生記録である。
なんとここには、湖底に沈んだ橋のほかに、昭和5年からわずか3年足らずの間だけ架かっていた吊り橋があったのだ。
そして、現在形を留めている橋は、それをどういう具合にやったかは定かではないが、とにかく6mかさ上げして建設されたものだというのだ。
私が探索中に出会った「アーチ橋の下へと潜り込む小道」や、「辿り着けなかった石橋台」などは、この先代吊り橋へと至る廃道の可能性が高いだろう。
まったく、見た目以上に奥の深い橋だった…。
[謎に包まれた、廃止の実態は?]
さて、本橋「利賀大橋」についての残された謎は、廃止された経緯についてだ。
平成16年に刊行された村誌だが、橋の末路については不思議となにも語っていない。
だから私もただ漠然と、老朽化のため橋が通行できなくなり、その後観光船の安全のために吊り橋部分を撤去したのが現状であろうと、そう考えるよりなかった。
だが、私と皆様は幸運である。
本レポート初回の公開をはじめた直後、富山県にお住まいの大橋さんという方から、ある情報がもたらされた。
その内容は、橋の終焉を伝える貴重な証言と、あまりに衝撃的な1枚の写真である。
利賀大橋ですが、
私が小学生の頃(昭和55年頃)は
まだつり橋のワイヤーと木製の部材がぶら下がっている状況であったのを良く覚えています。
R156を家の車で通るたびに、『この先は何処へ行っているのだろう〜』と子供心に思ったものでした。
そして、『渡ってみたい!』と。
5〜6年前に行った地元の福祉保養センターに
利賀大橋の写っている写真があったのを覚えていましたので
写真を撮ってきました。
センターの職員さんによると、
『この写真は橋が既に使われなくなってしまった頃のもので、
原因は分からないが、
火災により橋が使用できなくなった』
と仰っておられました。
利賀大橋の廃止理由は、火災。
衝撃で放心する私のモニタに、だめ押しとばかり、送られてきた写真が開いた。
この応接室はやばい!!
「福祉保養センター」ヤバウイ!
みんなも俺と一緒に死んでくれ。
オブローダー悶絶死の一枚。
ラスト。