http://yamaiga.com/mini/253/ の公開中コメント一覧

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コメント
45,2782020-08-26 07:32:59/mini/253/main.html10
単なる新旧道の関係なら、わざわざ旧道の扁額を保存しない気がします。しかも現地から離れた資料館に。大工事によって地形自体が大きく改変されていて、現地ではもはや往時を偲ぶことが出来ないとか?例えばダム建設とか。
45,2772020-08-26 07:24:16/mini/253/main.html9
ちょっと北には「大切通し」などという気になるものもあるが、、、
45,2692020-08-25 22:06:10/mini/253/main.html10
本籍地が旧坂北村で、役場の割と近くに今でも実家が有るので、この建物前は月に数回通っています。今回は寄られなかった様ですが、資料館の中にはうちが提供した資料もありますよ。そんなこと思いつつ、前編を読ませていただきました。
45,2662020-08-25 20:38:58/mini/253/main.html10
ミニレポにしては,なかなか濃いな…当初はミニレポだとは気が付かなかったww
38,0652021-03-29 18:32:59/mini/253/main2.html10
この軒下の扁額···。スマホで改めて見る(読む)と“陽刻”じゃんか!字だけ彫れば良い陰刻とは違って、陽刻は彫る面積が広いから、すごい手間がかかると思うんだけど、短い隧道に何でこんな立派な扁額を作ったんだろう···。長野県トヤ
37,3412021-01-08 23:52:50/mini/253/main2.html9
失われ、忘れ去られていく隧道ってけっこうな数あるのかもしれないですね。扁額との偶然の出会いが素晴らしいです。
36,1272020-09-11 11:43:03/mini/253/main2.html9
素朴ながら大きな扁額、愛されていたのですね。それにしても昭和38年の村道の舗装道路延長が20mですか…時代を感じますね。
36,0872020-09-05 18:12:24/mini/253/main2.html8
扁額が野ざらしな理由は聞かなかったんですか?
36,0162020-08-28 15:26:44/mini/253/main2.html7
扁額はそもそも野晒し。本望かと。
36,0142020-08-28 15:00:39/mini/253/main2.html10
現代では別所隧道(故)より高い位置に小仁熊ダムがあり、更にその上を長野道が通っている訳で土木技術の進歩って本当に凄いですね
36,0122020-08-28 12:48:44/mini/253/main2.html10
道路元標なんて日本橋のもの以外気にしたこともなかったので、扁額が落ちてる下りまで読み進めるのに、あちこちのサイトを見て回って時間かかりました(笑)扁額を見つけたときのヨッキさんの喜びようが気になりますね。明らかに変質者だったんじゃなかろうかと(笑)
36,0112020-08-28 10:37:07/mini/253/main2.html10
地元長野県の話題ということで興味深く拝見いたしました。前編を終えたところで、ストリートビューで別所線をオンライン散策したのですが、湯仏炭鉱跡なる場所があることを発見し、今度行ってみようと思っているところです(笑)
36,0102020-08-28 09:42:10/mini/253/main2.html10
となると、小田急線柿生駅近くにあったあの柿生トンネルの扁額はどこかに保管されているのだろうか
36,0092020-08-28 09:00:55/mini/253/main2.html10
・・ちっ・・イイ事言うねぇ。さすがだよ。
36,0072020-08-28 05:14:00/mini/253/main2.html10
たしかに扁額トンネルのサイズに似合わず随分と大きいですなあ(笑)この偶然の出会いがなければ歴史の闇に埋もれて忘れ去られてたと思うと感慨深いものです
36,0062020-08-28 01:38:05/mini/253/main2.html10
旧村役場に移設された道標と廃止された隧道の扁額ですか?この村はずいぶんと道路に対する熱意があるように思います。ひょっとして銅像の先生のおかげでしょうか。そして、小粒ネタながら再訪されたヨッキれん氏の熱意もたいしたものです。前編読んでるときは再訪すると思いませんでした。
36,0052020-08-28 01:31:18/mini/253/main2.html10
「別所」だの「中里」だのと、横浜市南部にある地名と重なるだけでなく、地形もよく似ている。現地の「長田」も、横浜の「永田」とルーツは同じなのではないかと思う。やはり似たような地形の場所には、似たような地名が付けられるものですね。
36,0042020-08-28 00:26:07/mini/253/main2.html9
昔は隧道があったけど切通しになってる場所って萌えますよね
36,0032020-08-27 23:04:37/mini/253/main2.html10
ちくしょー俺がどこへも行けないうちにー
36,0002020-08-27 21:34:47/mini/253/main2.html7
消えゆく隧道を不憫に思ったか、扁額を取り外して運び出したはいいが保存場所を設ける所までは気が回らず軒下にだだ放置というあたりに田舎の自治体の限界を感じますが、故・岡本太郎氏の大型彫刻作品を行方不明にしてしまった兵庫県の例もあるので田舎とか自治体の規模とかではなく日本の文化行政全体の問題なのかも。しかし倉庫などに仕舞い込まず軒下に放置していたことで、ヨッキれんという奇矯な変人の目に止まって、わずかながらでも光が当たったのは塞翁が馬とでも言いますか、運命の不思議を感じます。そうでなければこのまま 別所隧道 を知る人がすべて世を去り、この扁額の由来を誰も知らないという事にもなりかねなかったようですから。この扁額、このまま軒下に放置は不憫過ぎますが、どこかの資料館に仕舞い込むよりも隧道跡地の切り通しの法面あたりに掲げて保存したらいいんじゃないでしょうかね。そうすれば、変哲もない切り通しにも歴史があるのだと示せるでしょうし。あと、もう一枚あったかもしれない扁額はどうなったんでしょうね。
35,9972020-08-27 19:00:51/mini/253/main2.html10
時局匡救事業ですかね、時期的に。
35,9962020-08-27 18:16:34/mini/253/main2.html7
推測ですがコンクリートの感じから切り通しになったのは昭和40年代前半〜中ばという気がします。40年代後半になるとブロックが多くなる。舗装の感じから、現在の舗装はそれよりもだいぶ後で、側壁はそれよりもだいぶ以前かな?と。小仁熊ダムの着工が1989年なので、少なくともそれより前に道は広がっていたのでは?ダンプや建機は西城側から入ったのでしょうけど。
35,9942020-08-27 16:07:46/mini/253/main2.html10
30年は現役隧道だったのですから、愛ゆえに、扁額が残されたのでしょう。でも時間は残酷で、漬物石扱いになった。切り通しには、確かに隧道の姿が見えました。
35,9932020-08-27 15:33:30/mini/253/main2.html10
小粒だけど成果がはっきりしてていいですね。
35,9902020-08-27 11:13:56/mini/253/main.html10
>とんちを効かせて、「514年」という訳ではないだろうしな。無意識の悪戯ならば仕方ない。(+114514点)後編はよ!
35,9812020-08-26 19:57:17/mini/253/main.html8
別所川 小仁熊 西条とくれば篠ノ井線の廃線跡別所川の大滝 別名:不動の滝 脇に有る小仁熊隧道 坑口は河床より低いし 河床は石敷きこんな所に隧道を通した、明治の先人に敬意 遊歩道化された明科側よりこちらが好き。矢越峠を貫通する矢越隧道は、埋められている・・筑北側の旧道 探索してみたいです。 
35,9762020-08-26 14:39:53/mini/253/main.html8
ストリートビューでこの立体交差を見ると照明が1つだけ付いてますね所謂かさでんと言う照明です
35,9742020-08-26 07:46:31/mini/253/main.html8
昭和元年に3月はありません。
35,9732020-08-26 07:32:59/mini/253/main.html10
単なる新旧道の関係なら、わざわざ旧道の扁額を保存しない気がします。しかも現地から離れた資料館に。大工事によって地形自体が大きく改変されていて、現地ではもはや往時を偲ぶことが出来ないとか?例えばダム建設とか。
35,9722020-08-26 07:24:16/mini/253/main.html9
ちょっと北には「大切通し」などという気になるものもあるが、、、

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