2020/5/10 12:25 《現在地(マピオン)》
先日、ある調べ物のために長野県東筑摩郡筑北村にある筑北村図書館を初めて訪れたのだが、そこで目的の図書館以上に熱中する出会いがあった。
まずはこの写真を見て欲しい。↓
目当ての図書館は、写真中央の木造建築物の右奥に写っているが、注目は目の前にある水色の木造建築物だ。
絵に描いたような 役場建築物 だと思った。
もっとも、建築は私の専門外だし、「懐かしいものが残っているな」という程度の印象だった。
それよりも私の寄り道を誘ったのは、旧役場前に建つ、見慣れた感じの石標だった(矢印の位置)。
「きっとアレなんだろうな…」 と思いながら、近づいてみると――
道路元標、ではなかった。
役場前という立地と、見慣れた形状から、道路元標であることを期待したが、 もっと凄いものだった。
四面のうちの二面に深く刻まれた文字があった。
(←)向かって左側の面には
「縣道西街道」
右側の面には(→)
「郡道差切新道」
……とあった。
明らかに、明治時代以降に建てられた道標であった。
年号の記載がないが明治以降と判断できる理由は、「縣(県)道」や「郡道」といった、明治以降に登場したワードが使われているからだが、特に「郡道」というのは今では使われなくなったワードなので、この文字を刻んだ道標は数が少なく貴重である。(郡道は郡制廃止を受けて大正12(1923)年に全て消滅した)
「郡道の道標は珍しい」という一般論で、この話は終わらない。
2014年に探索した差切新道の道標が、この場所に存在していることは当時把握していなかったので、だいぶ遅れての新発見となった。
確かに差切峡はここから5kmほどの距離である。
そして、西街道(国道403号の前身)と差切新道(長野県道55号線の前身)の本来の分岐地点は、この近くであったが、ここではない。だから移設されたものだと思うが、それでも明治期の貴重な道標ということに変わりはない。
そして、この道標の発見と関連して、差切新道の机上調査についても大幅なアップデートを私は持っているのだが、これについては当該レポートを後日に追記・改訂の予定なので、ここでは扱わない。 →公開しました
まだ、このレポートの“表題”が、全く見えてきていないはずなので、話の先を急ぎたい。
さて、道路元標はスカされたかといえば、実はそんなことはなく、なんと反対側の角にしれっとあった。道路元標!
こちらは完全によく見る道路元標のサイズ感で、刻字は一面のみにあって、「東筑摩郡坂北村道路元標」と読み取れた。
現在、この場所は東筑摩郡筑北村であるが、平成17(2005)年までは坂北村であった。
そして、ここにある青色の古い建築物が旧坂北村の役場であることが、この道路元標の存在からも、より確信に近づいた。
道路元標は、大正8年に制定された旧道路法に附属する道路法施行令によって、全て市町村に一つずつ設置が義務づけられていた。その位置は府県知事が定めていたが、市町村役場前に置かれるケースが多く、他には主要駅前や幹線道路の交点ということもあった。当時の国道や府県道の多くが、こうした道路元標前を起点や終点にしていたのである。昭和27年公布の現行の道路法および同施行令で設置義務は失われたが、依然として「道路の付属物」として条文中に存在している。
道標(移設)があり、道路元標がある、旧役場の建物。
これだけでも「美味しい」が、これでは終わらなかった。
というか、まだ“表題のもの”が出ていないよね(笑)。
村役場にあらまほしきものベストスリー!(ヨッキれん調べ)
第3位 道路元標
第2位
郷土の偉人の銅像
コレは欠かせない!!
胸像なんていうケチはしていない。全身像だ!
果たして誰なんだコレは?!
“増田甲子七先生之像”
増田甲子七(ますだかねしち 1898-1985)は、戦後の大政治家で、衆議院議員としての当選10回。運輸大臣、労働大臣、建設大臣などの国務大臣を歴任したほか、福島県知事や初代の北海道開発庁長官といった地方行政をも総攬した。出身は旧坂北村の七ツ松という集落で、まさに郷土の大偉人であった!
彼の功績として、北海道開発庁長官として戦後の北海道における産業基盤整備を重点的に推し進めたことが挙げられる。彼が国会でした、「国家の総力を挙げて、国民的事業として、国民の代表者である国会に対して責任をとり得る体制において北海道の開発を行わなくてはならない。われわれは、国の総力を、物心両方面に総がかりで北海道に傾倒すべき時期である」という演説に、当時の道民の多くが頼もしさを感じたのではないだろうか。
旧役場ということで、ともすれば銅像は顧みられず、蜘蛛の巣まみれの不首尾に陥る場合があるが、さすが抜かりがない。(隣にある図書館は現役の筑北村役場坂北支所であるし、商工会も隣接している。ここは今も村政の副心である)
いやはや、至れり尽くせりの、とても良い旧役場ですねぇ!
……で、終わってはならない。
まだ“表題のもの”が出ていない。(しつこいぞ!)
なんと、風雲急を告げるか!
ここで突然の通り雨が発生!
たまらず、旧役場の立派な玄関庇の元に逃げ込もうとしたことが、次なる発見をもたらした。
改めて、
“村役場にあらまほしきものベストスリー!”(ヨッキれん調べ)
第3位 道路元標
第2位 郷土の偉人の銅像
第1位
↓↓↓↓↓
“道隧所別”
“工竣月三年 和昭”
扁額はコンクリート製で、サイズは縦横50cm×130cm(いずれも目測)の長方形である。普段扁額をこんなに間近で見る機会は少ないが、大きめだと思う。
文字は2列あって、内容は上記の通りだ。いずれも右書きの陽刻。揮毫者銘や印はなし。
また、扁額外周部にはあまり見たことがない装飾が施されていた。
隧道名は「別所隧道」であり、竣工年は「昭和 年三月」である。
竣工年のいちばん肝心な文字が欠落しているが、コンクリートの塑像でなぜ文字が欠けるのか不思議だ。
しかも、なぜかこの欠けた文字の所に直径4cmほどの孔が空いていて、そこに(悪戯だと思うが)小石が挟まっていた。とんちを効かせて、「514年」という訳ではないだろうしな。
竣工年が抜けた扁額……
一瞬、“未成隧道”が頭をよぎったのは、私だけではないだろう。
だが、どうやらそうではなさそうだ。
扁額の裏側を確認すると、かつて別の壁面にモルタルで接着されていた痕跡があった。
つまり、一度はあるべき位置に掲げられた扁額である可能性が大。未成ではないだろう。
竣工年の1文字欠けについては疑問が残るが、スペース的に1文字分であること、右書きであること、コンクリート造であることなどから、昭和2〜10年(昭和元年に3月はない)のいずれかの竣工である判断して良いだろう。
つまり、立派な古隧道の扁額だ!
まさしく旧役場にあらまほしきものの第1位は隧道扁額だなぁというのは当然冗談で、こんなものが軒下に転がっているのは初めて見たので、本当に驚いてしまった。
あまりの私の熱量のせいで、雨も一瞬で乾いたわ。
こういうものを見つけてしまった以上、別所隧道というのがどこかにあったわけで、それはおそらく廃隧道であるわけで、現状を確かめなければならなくなった。
しかも嬉しいことに、私はこの別所隧道というものに、心当たりがなかったし、すぐさまWEBを検索したが、近くに該当しそうな隧道情報も皆無だった。
すなわち、未確認廃隧道の遺物である可能性大!
「ちょっとちょっと、そこの軒下にある扁額はなんですか!?」
隣にある図書館&役場支所にてすぐさま聞き取りたい気持ちになったが、あいにくの事情により聞き取りは断念。また、考古資料館も開いていなかった。
役場への問い合わせは、帰宅後にオンラインで行うことにした。
な〜に、 ばっちり証拠写真は押えてある。もう逃げられんぞ、隧道〜。
別所隧道は、どこにあったのか。
人の助けを借りる前に、自分の頭でも探してみよう。
右図は、筑北村に所在しているか、かつてあったことを私が把握している、道路用の古隧道の位置を示したものである。
村の西と南と東は山岳であり、多くの隧道がこれらの方角から村外へ通じる峠道にある。
だが、そのなかに別所と名付けられそうな隧道は見当たらない。
また、ここが旧坂北村時代の中心地であることを踏まえれば、別所隧道も旧坂北村内にあった可能性は高いように思う。
そうなると、旧坂北村内で既知の古隧道は、差切峡にあるものしかないが、そこは以前探索してレポートもしているが、別所隧道というのはなかったし、扁額が取り外されたような隧道もなかった。
やはり、既知の隧道ではない可能性が高く、Increasingly期待が高まるが、さらによく地図を見ていくと、別所という「字」が、旧坂北村の西部山間部(筑北村大字坂北のうち)に存在しているほか、そこを流れる川が別所川ということが、判明。
俄然、このエリアがホットスポットになったのだが、これ以上地図をいくら眺めても、そして古い地形図にまで検索を広げても、それらしい隧道は見つからなかった。
……否。
一箇所だけ、気になる場所を見つけた。
図の「気になりスポット」というのが、そこなんだが……。
最新の地理院地図や道路地図には、ここに短い隧道が描かれている。
扁額発見地からは直線距離で2.5kmも離れていない。
しかも、別所地区内ではないものの、別所川の支流である小仁熊川の谷と国道403号を結ぶ村道の小さな峠上にあり、国道から別所に入る径路のひとつになっている。
ただ、旧坂北村の中ではなく、ここは旧本城村である。
また、小さいからかも知れないが、古い地形図には、隧道も前後の道も描かれていなかった。
とりあえず、突然発見してしまった扁額の前で考えた末に、すぐさま見に行けそうな候補地はここしか思いつかなかった。
そして実際に向かってみたのが、次の写真だ。
う〜〜ん…。
これは、どうなんでしょう。
隧道というよりは、立体交差みたいだな。
峠の切通しの上を、別の農道か何かが横断している。
その立体交差のためのボックスカルバートであった。
昔はこれがちゃんとしたトンネルで、扁額もあったが、拡幅のため今の姿になり、ミスマッチで用済みとされた扁額が、近くの考古資料館に置かれることになった?
十分あり得そうな筋書きではあるが、さすがに根拠がないとこれ以上は押せないな。
というわけで、第一次探索という以前の“きっかけ”の劇は、ここまで。
再訪を期して、一旦撤退。
(ミニレポなせいで結果が見えるって? まあそう言わないで……笑)
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