仙台と八戸を三陸海岸を縦断するように結ぶ国道45号が、昭和38年にそれまでの2級国道から1級国道へと昇格した当時、それはまだ海沿いの小さな漁村どうしを一筆書きでどうにか繋いだような、迂遠屈曲の連続する大変な道程であった。
昭和40年代にどうにか一時改良を終え、全線が大型車でも通れるようになったときまでに、その全長が200km(これは実に東京-長野間に相当)も短縮されてしまったのは今も語りぐさとなっている。
岩手県宮古市北部の、数年前までは田老町と呼ばれていた一帯もまた、海岸線に直交するように落ち込んでいく幾筋もの稜線を、有名無名の多数の峠で国道は貫いていく、元々は難所だった区間である。
今回はそのような峠の中から一つ、典型的な新旧道の成り立ちを見せる摂待峠を紹介しよう。
ここは、現在も未改良のままに残る小本の急坂からは南に7kmほどの地点である。
(山行がとしては)珍しく、車でも通過できる旧道峠であるから、肩の力を抜いてご覧下さいな。
ここは摂待(せったい)。
一度聞くと耳から離れない、何だか小気味の良い地名だ。
文字面を見るかぎり、だいぶ由緒正しい由来がありそうだが、残念ながら私の調べはそこまで付いていない。
ともかく、この摂待の町から、次の小成地区へと抜ける国道上に立ちはだかるのが、この摂待峠である。
三陸鉄道北線の摂待駅が国道の直ぐ隣にある。
鉄道は、峠と峠の間の短い平野部を、築堤と橋というゲタを脱ぐことなく、直線的に通過している。
駅もまた、巨大な築堤の上に設けられており、独特の景観を見せている。
これらの一見無駄と思えるような構造は、津波対策である。
旧田老町一帯もまた、かつて幾度と大津波で壊滅的な被害を受けており、全国トップレベルの津波対策先進地である。
その成果として、いまでは海沿いの各集落からも、直接海は見えない。
海岸線は全て、高さ10m近い防潮堤で塞がれているのだ。
国道から一歩集落内へ入ると、今も昔ながらの町割りが残る。
現在の摂待橋に対応する旧橋の位置が不明で、写真のこの道が旧国道だった可能性もあるが、橋の位置が分からない以上、特定には至っていない。
ともかく、今回は峠へと向かうことにする。
新旧道が峠に向かって二手に分かれる前にも、短い旧道区間がある。
ガソリンスタンドのある角を曲がると、1車線の直線の道があるが、この傍らに、もはやその形でしかそれが何だったのか分からなくなってしまった標識がある。
写真は集落中心部を振り返って撮影しており、正面の交差点を直進すると上の写真の町並み、右折すると現在の摂待橋である。
こんな状態になりながら、電柱の支えに預かり、辛うじて立ち残る。
電柱を設置したときに取り外されなかったのは、不思議なようにも思える。
よく見ていると、「45」の数字が浮かび上がって見えてくる。
さらに進むと、道端に集められた幾つもの石塔が目に付いた。
まだまだ勉強不足で、これらが何を意味しているのか分からない物ばかりだが、地域によって特徴があることは分かってきた。
一番目立っている「西国塔」と彫られたものは、日本海側では殆ど見られないが、この三陸では多い。(馬頭観音碑も多い)
一方、日本海側に多い「庚申塔」は余り見られない。
「西国」っていうのは、お伊勢様のことなのだろうか?
一度現国道の滑らかな大カーブに旧道は吸収され消えているが、間もなくそのカーブの外側に分岐していく。
この分岐自体は、国道の嵩上げに伴って取り付けられただろう部分で、左奥の田んぼの中の道が旧国道だ。
ここから先、旧国道は峠への取り付けを先延ばしにするように一時西進する。
道路自体は鋪装もしっかりしていて、現在も生活道路として盛んに利用されているようだが、傍らに残る標識はいい具合に錆び付いていた。
海岸線に近いこともあり、標識の保存状態は総じて悪い。
(写真は分岐を振り返って海に向かって撮影)
【B地点】
国道から500mほど進んだところで、山にぶつかり道は二手に分かれる。
右に向かうのが峠越えの旧国道で、左は沢沿いに上流へ向かう道だ。
特に標識などは取り付けられていないが、交差点内の広さや、安全地帯の大きさに、かつてはそれなりに大きな交差点だったことを匂わせる。
この摂待峠が旧道となったのは、トンネルの竣功時期から見て昭和46年頃と、比較的最近のことである。
しかし、この白線の挽き方では……、右折車はどこで待って、どう曲がったらいいのか??
つい白線を踏んでがさつな運転をしたくなってしまう。
通行量も殆どゼロだし。(まあ、私はチャリだが)
右折すると、何とも呆気なく砂利道に。
いよいよ峠への上りの始まりだ。
なんともワイルドな山側の処理。
ただ削っただけの法面が、ずっと続いている。
砂利道とはいえ、道幅は意外に広く、普通車ならば問題なく離合できただろう。
現在は両脇から自然に還り始めている。
摂待峠の最高地点は、海抜約100m。
スタート地点はほぼ0mなので、単純に高低差は100mほど。
三陸地方の峠の中でも規模の大きな方ではないが、旧道の状態の良さ(往時を感じさせるという意味で)はかなり上位にランクインされるだろう。
ただ荒れていればいいと言うわけでもなく、道としていまも気持ちよく?利用できることが、嬉しい。
上り始めれば直ぐに、目指す峠は稜線の切れ込みとして見えはじめる。
ここからしばらく、現道が旧道の直ぐ足元を通ることになる。
意外なのは、旧道よりも現道の方が勾配がきついことで、最初はこんなに離れていた両者の高低差は、徐々に詰められていくのだ。
なお、新旧道の特異な平行状態は、摂待駅付近からは右写真のように、顕著に見ることができる。
言うまでもなく、上のガードレールは旧道の物だ。
【C地点】
さらに進むと、旧道はまだ二手に分かれる。
見るからに直進が旧国道なのだが、左はぼろい鋪装がのこっているが、林道のようである。
この先は、元々少なかった交通量がさらに減り、轍が薄くなる。
普通車だと心細さを感じることだろう。
この辺まで登ってくると、ようやく海が見える。
摂待の河口部は両側を山に挟まれ極端に狭まっている。
摂待峠の道程から海が見えるのは、このほんの僅かな車窓だけである。
ぐわー!
4連装の強固なガードレール!
険しい崖筋を走る旧国道を行く旅人を守ろうという心意気……などと勘違いしてはいけない。
これなどは、単に旧道の直下にある現道に落石が及ばないための防護柵に過ぎないのだ。
言ってしまえば、今も廃道化されず存続している旧道の大きな利用目的は、落石の緩衝帯なのである。
…わたしは、そう見る。
いよいよ峠も近づき、現道はするりと足元へ吸い込まれるように消えていく。
延長288m、昭和46年竣功の摂待トンネルである。
旧道は、ようやく独りになった。
だが、静かな旅路は長く続かない。
稜線が近付き、アカマツの林に入るといよいよ峠は近い。
何もそんなに遠慮しなくても…、思わずそう突っ込みたくなるほど道路ッ端にある警戒標識は、かつての道幅を雄弁に物語っている。
美しいダブルトラックが一面の落ち葉の中に刻みつけられている。
深く刻まれた掘り割りが、摂待峠だった。
立ち止まり、軽く上がった息を整えている私の横を、カーブの向こうから現れた一台の大きくて古風な乗用車が、ゆっくりと通り過ぎていった。
乗っていたのは初老の男性。
よそ行きのカッコをしているのが窓越しに見えた。
なんとなく、セピア色の光景。
もしかしたら、昔を懐かしんで……。
私は、いまも生き長らえるこの道が、愛おしかった。
【D地点】
切り通しの峠を過ぎると直ぐに広い砂利道が現れた。
その砂利道は稜線上を海の方へ続くようで、入口には林道の標識が取り付けられている。
この先は、林道に上書きされた旧国道となるが、その下りも長くはない。
今度は鋪装された市道にぶつかる。
やはり右が旧国道である。
かつて国道だったという路線の繋がりは薄れ、いまや幅を利かせる市道の、わびしい枝道のようになってしまった旧国道の姿であった。
次々に上書きを繰り返される旧国道が最後に行き着く場所は……。
当然、現国道の喧騒である。
峠の頂点からここまで約800m。
チャリでもほんの数分の出来事だったが、峠で見た懐かしいような景色がもう随分遠い物に思えた。
現国道にぶつかれば、もはや旧道の出来事は、完全に過去の物になってしまうだろうという気がした。
現道のと合流地点はトンネルのすぐ傍であった。
【E地点】
このさき、沢沿いに集落へ下っていく区間にも、短いが廃道化した旧道区間があった。
轍はまるっきり消えており、夏場は歩いて踏み込むことも難しいだろう。
完全に取り残されたような旧国道。
沢の向かいには現道があるが、それほど険しいとも思えないこの区間は、なぜか放棄されている。
完全な廃道となっているのは、約300mほどの区間である。
小成の集落の端で、新旧道は合流して一つの峠道が終わる。
旧道の方は、最後まで道の体裁を成さないまま、軒先の共同スペースのようになって現道へ続いていた。