ミニレポ第142回 奥羽本線旧線 第二小繋隧道 

所在地 秋田県能代市 
探索日 2008.10.29
公開日 2008.11. 5

オブローダーの手に戻った明治の隧道




2008/10/29 10:24 【所在地(別ウィンドウ)】

皆様の中で、この場所のレポートを覚えている人がいるとしたら、それは驚くべき記憶力である。
前にここをレポートしたのは、かれこれ5年も前の2003年7月だった。(→「隧道レポート 奥羽本線 小繋の廃隧道群」

この「奥羽本線旧線」とは、明治34年に官設鉄道「奥羽北線」の一部として開通したものの、トンネルの老朽化や複線化および電化のために昭和46年に現在線へ切り替えられて廃止された、全長3.9kmの区間である。
二ツ井駅から前山駅の間にあり、旧線には七座(ななくら)信号所という信号所も設置されていた。

前回のレポートでは、「小繋第4隧道」から「小繋第1隧道」まで、4つの隧道跡を捜索しているが、その結果は…

 第4隧道=現存していて、通り抜けた。
 第3隧道=未発見(埋没)
 第2隧道=現存するが、再利用(用途不明)のため内部立ち入り不可能
 第1隧道=一部現存するが、再利用(畜舎)のため内部立ち入り不可能

…となっていた。


そして最近になってこのうちの第2隧道の様子が変化し、おそらくは通り抜けが出来そうだという情報を、ジモティのミリンダ細田氏が持ってきてた。
それが、今年(2008年)の9月頃。

そして私は、10月末から11月いっぱいの里帰り期間中、まずはこの廃隧道の再訪を試みた。
一度は分厚い扉に阻まれ、為す術も無く撤退した「小繋第2隧道」だが、どのように状況は「好転」しているのだろう。

…この探索は、当然細田氏も一緒である。







今回のターゲットの至近地、国道7号脇の今は営業していない(と思われる)石置き場を出発地とする。

全長141mあまりの小繋第2隧道は、大平山の山脚が小繋集落へと下ろされる、その先端にある。
より集落側を通る国道は掘り割りで“済んで”いるが、鉄道の方は隧道となった。
なお、地図中には入っていないが、複線電化の現在線は大平山の直下をまっすぐ貫く長大な大平トンネルによっている。




石置き場から山裾に沿って走る旧線跡を遠望する。

目的の第2隧道を出た列車は、写真奥の鞍部をサミットとして、次の前山駅へ下っていた。
当時、サミットの手前には七座信号所があって、今も簡易なホーム施設が残っている。
そして、サミット自体は小繋第1隧道(243m)で抜けていたが、この隧道の西口(こちら側)の坑口は国道改良によって埋め戻され、東口は畜舎としての利用が続いていて立ち入りが出来ない状態である。




雑草を掻き分けて一段高くなった旧線路盤に登る。
そこから西側を見ると、目指す隧道がぽっかりと黒い口を開けていた。

煉瓦が見て取れるアーチ環の内側には、後付の遮蔽物が取り付けられており、廃止隧道が何らかの転用を受けていたことを物語っている。
事実、5年前の探索では両側とも扉が閉ざされ、中をのぞき込むことも難しかった。

それが、今回は扉の部分が開いているばかりでなく、その上の換気扇が吹く風の緩急に身を任せて、回ったり止まったりを繰り返している。
それは、隧道を風が吹き抜けていること、すなわち、完全に開通していることを意味している。

不景気の風が吹き抜ける北秋の地で、廃隧道は二度廃止されたのか。





接近、2号隧道。

明治34年に、青森から南進をつづけてきた奥羽北線(明治38年に全通して奥羽本線になる)のうえに作られた、秋田県内では数少ない明治隧道の一つである。

その姿は、これまで見てきたとの隧道とも異なる、一風変わったものであった。

また坑門自体もさることながら、その前面に続く煉瓦の擁壁も大がかりで、その形状も目新しい。
垂直の煉瓦の擁壁を支えているのは、大きな石を積み上げた支え壁(バットレス)である。
目の細かい煉瓦と巨大な組石の組み合わせは、少々一体感が乏しく見える。

大きな石が使われているのはバットレスだけではなく、擁壁の笠石もそうだ。
10cmも張り出していて、相当にゴツい。



そして、これが巨大な煉瓦・石混合の擁壁を結する坑門だ。

驚いたことに、この坑門は主要な部分がコンクリート製であった。
にもかかわらず、アーチ環および要石のみが旧態を留めており、この組み合わせは異様。
はっきり言って不格好である。

煉瓦とコンクリートという明治と現代の主要な部材を大胆に組み合わせた結果は、さすがに違和感が強すぎるものになった。
先の擁壁も含めると、煉瓦・石・コンクリートのそろい踏みである。
さらに後付だが鉄と木を使った扉もあって、この一角は建築部材のオンパレードの様相を呈する。




横に目を遣ると、壁柱を模したコンクリートの一角に、「1955−6 工藤組」との彫り込みが見られた。

1955…昭和30年に大規模な坑門の改修が行われたのだろう。

廃止は、この16年後である。






10:28

はじめて、洞内へ。

土の洞床には湿り気があるものの、水没していると言うこともなく、歩きにくさはない。
もっとも、細田氏が真夏に来たときには水が溜まっていたそうだ。

内壁はコンクリートの吹きつけによって施工されているが、一部は剥離崩壊の状態にある。
ただし、崩れ落ちた残骸が見あたらないので、最近までこの場所を利用していた占有者の手で片付けられていたのだろう。

洞内は緩い右カーブになっていて、西口は直接見通せない。



東口の扉は、開けられているのではなく、倒されていた。

洞内にブルが入った形跡があるので、壊されたのかもしれない。

巨大な換気扇が、風でプロペラのように回っていた。

坑口付近には、雑多なものが残されている。




一方の洞内は、ほとんどもぬけの殻である。
洞床にはブルで均した跡があり、その中に廃材の木っ端が無数に紛れている。
どんな用途に使われていたのかを即座に判断させる遺物は無い。

それにしても、今まで転用後に廃業したこの種の廃隧道を多く見てきたが、その際に再度通れるよう「整理」された例は珍しい。
「もう二度と内部を見ることは出来ないだろう」と諦めていた場所だけに、こうした配慮?はうれしい。



完全に片付けられていたわけではない。

かろうじて残っていたものの一つが、待避口の側に設置されている、水槽のような金属の箱である。
表面には赤ペンで「水位注意!」と書かれていて、モヤシなりキノコなり、何か水を与えて育てるようなものの栽培が行われていたことを匂わせる。
ほかに、蛍光灯も残っていた。




隧道は通路として今も問題がなく、我々二人を速やかに西口へと誘った。

この外は確か森の中の掘り割りで、その先には自動車教習所があったように記憶している。

前回はこんな風に【写真】なっていて、とても立ち入れなかったのである。




10:33

脱出。

景色は5年前と変わっていない。
もともと、こちら側の坑口は塞いであっただけで、通路としては使われていなかった。




第2小繋隧道の西口坑門である。

森の中にポツンと取り残された様になっていて、なかなか絵になる。

東口のようなコンクリートによる大規模改修は見られず、全面的に煉瓦が露出している姿には明治の煉瓦隧道らしい威厳があるが、それだけに経年劣化は進んでいるようだ。




あれだけごてごてとしていた遮蔽物、閉塞物は綺麗さっぱり取り除かれている。

そのために、私は初めてこの坑門をじっくりと観察する気になれた。

すると、これはなかなかに味わい深い。

いや、“味わい”どころか…

こいつは、熱いぞ!




前回は全く気づかなかったのであるが、煉瓦坑門の壁柱上部には、煉瓦の表面に深く刻まれた「NO2」の文字があったのだ。

煉瓦に刻まれている状況から、これが建設当初、すなわち107年も昔の文字であることが分かる。
そして、「NO2」とは「ナンバー2」、すなわち、「小繋第2隧道」を示しているに違いない。

全国的に見ても鉄道の連続する隧道にこうした表示が残されることは珍しく、これまで見たものでは、同じ奥羽本線(奥羽南線)で忘れられない激戦地であった、赤岩駅付近の旧線【写真】(福島県福島市)が挙げられる。
そこには、7号隧道や5号隧道などにこれと同じようなトンネルナンバー表示が残っている。もっとも、向こうは煉瓦への彫り込みではなく、金属製プレートであった。




煉瓦への彫り込みは、最も手間のかかった表示方法であり、意匠としても美しい。
この表示を見つけられたことが、隧道が通り抜けできたことよりも、一番うれしかった。

4本の隧道がある小繋隧道群だが、東口(起点福島側の坑口)が原型を留めているのは、この2号隧道しか無いのである。
4号はコンクリート巻き立てに取り替えられているし、3号、1号はいずれも現存しない。
もしこの坑門が崩壊してしまえば、トンネルナンバーの存在は未来永劫失われてしまうのだ。

…というふうに貴重なものだと思うが、両側の壁柱は5年前と比べ目立って崩壊が進んでおり、上部の帯石で崩壊が止まってくれるかもしれないものの、自然崩壊への坂道をかなり転げ始めている。




壁柱以外の箇所は、ほとんど崩壊もなく、よく残っている。

楯形の大きな要石も、大きく出っ張った帯石の意匠も、このように壁面全体を煉瓦が覆っているからこそ安定感がある。収まりがよいのだ。

ただし、左半分の笠石を含む坑門の頂上部は、無装飾のコンクリートに置き換えられている。
これは、かなり古い時期に更新されたようにみえる。




手直しは、坑門上部だけではない。

アーチ部も本来は五重の巻き厚であるものが、内側の二重まではコンクリートに置き換えられている。

もっとも、この置き換えは奥行きにして煉瓦1つ分だけのようで(左写真参照)、全体から見ればわずかな改良である。

右写真は、このコンクリートによる置換が行われた年を示しているだろう彫り込みだ。
人の手で「建設 ○和拾年八月」と刻まれているのが分かる。
一部欠けているものの、おそらくは昭和10年であろう。
鉄道省が女子車掌を初採用した年であるが、この北秋地方で地震などの被害があった記録は残っていない。




図らずもオブローダーの手へと返還された明治の廃隧道。

我々は、期待以上の収穫を手に現地を離れた。



調査完了




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