2009/5/12 17:58
藤橋の旧道ルート探索は、只見川の川べりにある平井集落に到達した。
これからいよいよ渡河地点であるが、現在の地形図には、この先の道が描かれていない。
一方、大正6年版の地形図では、県道を意味する二重線ではっきりと道が描かれ、その先には木造橋の記号で藤橋が示されている。
道は平井集落の前後でくり返し蛇行するように描かれているので、集落自体が九十九折りの途中にあるようにも見える。
ところで、ここから3km東にある七折峠の旧道に実際は5つのカーブしか存在しないこととあわせると、本来藤橋袂から数えての“七折れ”だったのではないかという想像をたくましくさせる。だが、単に「たくさん」という意味で“七折れ”と呼んだのかも知れないし、今の読みは“ななおり”であるが、これが“しおり”の転化だとしたら、各地にある枝折峠(旅人が枝を折って峠の神に手向けた←峠という言葉の語源のひとつとされる)と同じルーツかも知れない。
デリニエータに「会津坂下町」と書かれた町道は、平井集落の中ほどで左へ逸れていく。
その行き先は現在の国道であり、先ほど通った九十九折りよりも、
今はこちらの道が平井集落の主要な進入路となっている。
だが、言わずもがな、
旧藤橋へ通じる道は、ここを直進していた。
直進後は、街村の雰囲気を留める街路が二軒分だけ続くが、そこで再び左折を主とし直進を従とするような分岐となる。
藤橋への道は、ここも直進である。
古地形図を知らなければ、誰しも自信を持ってこの先へ進むことは出来ないだろう。
そして集落はここで終わり、さらなる直進の先には、水を張られた猫額の水田と、湖のような只見川に加えて、水面と背景の山と空のいずれにも近い色に身を包む藤大橋が待ち受けている。
ふたつめの分岐を直進すると、すかさず舗装が途切れた。
もはやここは右に見えるお宅の庭先といった感じで、実際にも私有地化していると思われるが、
間違いなくここは、
大正初期から昭和28年まで、
会津と北陸を結ぶ第一の要路であった。
特に前回も書いたが、昭和28年5月3日から同年8月7日までの約3ヶ月は、国道115号に指定されていた。
昭和28年5月3日に指定された二級国道115号「新潟平線」は、昭和38年に一級国道49号に昇格し、同時に二級国道115号は「相馬猪苗代線」に変更された。昭和40年にこれらの国道は、それぞれ一般国道49号と一般国道115号に再指定されて現在に至る。【2本の国道の位置はこの図の通り】である。したがってこの旧藤橋ルートは、二級国道115号の旧国道であると同時に、現行道路法下で最も早く廃止された二級国道かもしれない。
“庭先ゾーン”を通り抜けつつ、道はほぼ直角に左折している。
そして今度は右に只見川を見つつ、緩やかに下る。
半世紀以上も昔に役目を終えているとはいえ、ここを磐越間の長距離トラックが疾走していた風景を想像するのは難しい。
そのくらい落ちぶれてしまっている。
しかし線形的な特徴は、旧地形図に描かれている道と完全に一致している。
路傍の水田が途切れると、僅かに残っていた轍も無くなり、側溝だけが排水路として活かされているものの、車道としては完全な廃道になる。
依然としてゆるやかな下り坂が続き、先ほど水田越しに見えた川面との高低差は、もうほとんど零になったのではないか。
そう思われるあたりで、側溝のカーブに促されるように、道全体が右へ折れていた。
緑の道は右に折れて、そのまま進路を180度転回させた。
旧地形図に存在する、橋手前の最後の切り返しだろう。
ここまで来ると、濃厚に川の匂いがした。
ザーともちゃぷんとも聞こえないが、ここはもう水面すれすれで、少しでも増水すれば水没してしまいそう。
だが、実際にはあまり水位の変動が無いようだ。
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18:02 《現在地》
切り返すと、そこで水没、サヨウナラ。
下り続けた道の最後は、灌木など親水性の植物のせいで明瞭でないが、いずれにせよ只見川への水没して終わった。
その傍らには一艘のモーターボートの残骸あり。
発見を期待していた旧橋の痕跡は、橋脚橋台含め、何も見あたらない。
現在地を旧地形図と対照するに、橋はもう数十メートル下流側に架かっていたと思われるので、橋台を含めて、その痕跡は完全に水没してしまったようである。
少なくとも此岸には、これ以上探索出来る旧道はない。
来た道を引き返し、旧道脇の水田の畦から、只見川の切れ落ちた岸に近付く。
ここからは長大な支間を誇る藤大橋のランガーと、対岸の柳津町「藤」集落がよく見えた。
写真上に示した黄色いラインは旧道。ただし破線部は水没しており想像による。
そして、もうひとつ、
この場所から、
非常に気になるものが、
発見された。
水面に立つ、逆U字型のコンクリート。
川の流芯を避けるように、手前と奥1本ずつ。
合計2本が立っている。
水面に立つ2本の柱の上には鳥居型に組んだ架線柱があり、そこに1本の電線が架け渡されていた。
すなわちこれは、只見川を渡る電線の支柱ということになるが、
絶対に、最初からその目的で作られたものでは無い。
この形には、見覚えがありすぎる。
どう見てもこの柱は、吊橋の主塔である。
その上端部には、主索を受ける役割を持った、金属製の受け器具も残っている。
古い藤橋の一部とみられる吊橋主塔が、
半ば只見川の水面に没しながら、
電信柱としての余生を送っていたのである。
…じーんと、来るじゃないか。
只見川の大幅な水位上昇の原因は、下流約2kmの地点にある東北電力の片門(かたかど)ダムだ。
このダムの堤高は29mあり、現在地でも10m以上の水位上昇があったと想像される。
片門ダムの完成は昭和28年で、これはちょうど現在の藤大橋の位置に国道が付け替えられた(8代目藤橋が完成)年である。
つまり国道の切り替えは、片門ダムによる水位の上昇(=旧道水没)が直接の原因だったのである。
(なお、平井集落は水没を免れたが、左岸の大巻集落は一部が水没し、全戸移転した)
なおこの主塔は、昭和28年まで使われていた「旧旧橋(7代目)」のものではなく、さらに一世代古い「旧旧旧橋(6代目)」のものと思われる。
柳津町誌によると、この位置に架けられていた藤橋は6代目(大正4年〜昭和2年)と7代目(昭和2年〜昭和28年)であり、このうち6代目が吊橋だったという(7代目はRC桁橋)。
土木学会附属土木図書館「橋梁史年表」は、6代目相当を木鉄混合トラス橋、7代目相当を鋼索吊橋としているが、いずれも形式が町誌と矛盾しており、誤りである可能性が高い。ただし同資料は6代目の橋を全長116m、幅4.2mとしており、これは主塔の規模や位置と矛盾しない(現在の川幅は約150m、藤大橋の橋長は約220mある)。
また、柳津町誌によると、明治以来の初〜5代目藤橋は、6〜7代目藤橋の60間(108m)下流にあったというが、やはり水没しているようだ。 【藤橋架設位置の変遷図】
当然そこへ至る取り付け道路(会津三方道路)も両岸に存在したはずだが、この日は調査しなかった(この初代ルートは地形図にも描かれたことが無く、今後の課題である)
本編のタイトル 「国道49号旧道 旧旧藤橋」 は、
探索前に「こういうものだろう」と想像していた内容であり、
分かりやすさもあるので、レポートのタイトルにそのまま採用した。
だが、旧旧藤橋(7代目藤橋)は水没し、一切の痕跡を残していなかった。
したがって、このレポートの“より正確なタイトル”は、次のようになる。
「国道115号旧道 旧旧旧藤橋」
…分かりにくぃ…。
完結