昭和34年3月31日、岩手県告示第280号によって、岩手県内の一般県道、158路線が告示された。
昭和29年に先だって認定を受けていた主要地方道20路線と合わせて、現行道路法下(昭和27年制定)における岩手県道網は、この合計178路線でスタートしたのである。
そしてこの一般県道の整理番号92番(これが現在で言うところの「路線番号」と呼べるかは不明)に、大荒沢停車場線という路線が記載されているのだが、現在この路線名を持つ県道は存在せず、それどころか大荒沢停車場自体、いくら地図を探しても見つけることが出来なくなっている。
92 一般県道 大荒沢停車場線
起点、大荒沢停車場
終点、二級国道大船渡本荘線交点(湯田村)
この大荒沢停車場、つまり大荒沢駅とは、国鉄北上線の駅であった。
しかし、昭和37年に北上線の路線が付け替えられた際、大荒沢駅は信号所に格下げ(その後廃止)されている。
おそらくこの前後に、県道の認定も廃止されたものと考えられる。
では、その跡地はどうなっているのか。
古い読者さんならば、もうお分かりかもしれない。
大荒沢駅は、湯田ダムによって生まれた大人造湖である錦秋湖(きんしゅうこ)に沈んでいる。
そして私は8年前の平成16年10月、ダムの修繕のため異常に水位の下がった湖底で、この大荒沢駅の跡地を目撃するという、得難い体験をしている。 (関連レポ1)/(関連レポ2)
ただ、探索当時の私は、この駅が“停車場線持ち”だったということを知らなかった。
このことが、今となっては悔やまれる。
もし知っていたら、廃駅とセットでこの廃県道をも探索しようと考えたかも知れない。
今さらではあるものの、机上調査によって、この失われた県道を想像追憶してみたいというのが、本稿の趣旨なのである。
さて、少し前提的な話しになるが、県道の中には“停車場線”と名付けられた大きな一群が存在し、道路と鉄道の橋渡しという、陸上交通上の重要な役割を担っている。
とはいえ、全ての駅に停車場線が認定されているわけではなく、しかも単純に利用者の多少のみで認定されるわけでもないようだ。
おそらくは旅客輸送や貨物輸送、そして地域開発上での“重要度(期待度)”を鑑みたうえで、停車場線の認定改廃が行われてきたようである。(このことを考える上では、駅、停車場、停留所といった用語の使い分けも興味深い。ウィキペディアの「停車場」は参考になる)
大荒沢駅についてみれば、大正13年に北上線の前称である横黒線(昭和41年改称)の全線開業当時から存在する歴史の長い駅で、近傍に大荒沢銅山が知られていた(明治末〜大正期が全盛で昭和初期まで稼行。鉄道開通以前には鉱山鉄道の終点だった。)ほか、当時の湯田村に属した大荒沢や杉名畑(すぎなはた)など約170戸人口900人(昭和31年現在)の最寄り駅であった。
さらに大荒沢地区には昭和15年に和賀川本流を堰き止める発電用の大荒沢ダムが完成しており、当局にあって大荒沢駅は鉱山および電源などの地域開発上、それなりに高い地位を有する駅と認識されていたと思われる。
しかし、そんな重要駅であっても、より大局的な重要度の上では犠牲にされるのである。
すなわちそれが戦後の北上川総合開発計画に伴う湯田ダムの建造(昭和41年完成)であり、前述した駅、県道、ダム、鉱山用施設、集落などが全て、約6平方キロの湖面に没した。
そしてこの際には、“より重要な存在”としての国道(二級国道大船渡本荘線で後の一般国道107号)と鉄道(北上線)だけが付け替えられ、人さえも追われたのであった。
昭和34年に路線が認定されるも、37年には目的地の停車場が移転・消滅し、41年にはその路線の全てが水没した“悲運の県道”を、探っていこう。
まずは、平成16年の探索で撮影された駅跡の画像から、県道の位置を推測できるかチェックしてみよう。
平成16年10月7日の夕方に撮影された大荒沢駅跡。
この日のダムの水位は通常運用時における最低の水位から更に6mばかり下がっており、その結果、大荒沢の平地がご覧のように現れていた。
そしてそこには、あまりに鮮明であるために当初我が目を疑ったのであるが、昭和37年に廃止された横黒線のまっすぐな路盤跡と、それを挟み込む大荒沢駅のホームが疑いもなく見えていた!
なお、視座は錦秋湖(和賀川)右岸の【ここ】で、私の背後には林道と付け替えられた北上線および秋田自動車道が通じている。
そして、対岸を横断しているのが付け替えられた国道107号だ。
思い出して頂きたいが、昭和34年の県道認定内容によると、起点は駅(停車場)で、終点は国道107号の旧道だった。
しかし、このアングルからだと分かり辛いが、両者の間には和賀川の深い谷が横たわっていた。
駅や集落は、和賀川右岸に発達した河岸段丘上にあったのだ。
探索当時は興奮のあまりか、あまり考察を試みた憶えがないが、その後の机上調査などの内容も踏まえた駅の構内配置を図示した。
跡地で最も目立っている手前の建物跡だが、実はこれは駅ではなく、7kmほど山を隔てた鷲合森(わしあいもり)鉱山から伸びる鉱石運搬索道の索道所(駅)だった。
左隣(フレーム外)には卯根倉(うねくら)鉱山の索道所が並んでおり、大荒沢鉱山が閉山した後も、大荒沢は鉱山輸送の一大拠点であったことが分かるのである。
では、駅の母屋(改札)がどこにあったかと言えば、それは意外なことに川側にあったという。
そして、その背後の川べりに連なる平地には、広い田んぼに囲まれるように大荒沢の家並みが点在していた。
家屋はいずれも木造であったのか、基礎などの跡は見あたらないが、蛇行した昔ながらの畝筋が、うっすら浮き上がって見えている。
一方の対岸に目を遣ると、そこは相当な絶壁であり、満水位〜低水位はおろか、今回の特別水位による汀線まで下がっても、旧国道の姿は見えない。
単純に瓦礫に埋もれているのか、なおも水面下なのかは不明だが(おそらく前者)、大荒沢停車場線はこの駅前を起点にして、対岸の国道へと接続していたに違いない。
途中には当然、橋も架設されていたであろう…。
しかし残念ながら、そういった道の跡は一切見えないし、現地でも何ら発見はしていない。
このことは、当時の鉄道と道路(県道はおろか国道でさえ…)の“大きさ”の違いを改めて考えさせるが、せめて机上調査により、その“位置だけ”でも明らかにしてあげよう。
繰りかえすが、それが今回の趣旨なのである。
まずは、水没前後の地形図を比較して見よう。
水没前最後の地形図は昭和26年の版で、水没後最初の版は昭和40年である。
そのあまりの“変化ぶり”に、きっとくり返し「オンマウスオゥバァ〜!」の快感を楽しんでいただけたのではないかと思う。
まさに、国道と線路以外の“全て”が消えてしまった。
さて、水没前の地形図の中央付近に大荒沢駅が描かれているが、今度はこの周辺を拡大して見よう。
昭和26年当時、大荒沢停車場線はまだ県道の認定を受けておらず、東西を結ぶ県道のラインは府県道時代の平和街道だ。
そしてこの旧国道から分岐して大荒沢駅へ続く道は、2本描かれている。
赤と黄色のラインがそれだが、おそらくこのどちらかが昭和34年に県道に認定されたのである。
では、どちらだったのだろう?
残念ながら、未だ確実な答えは判明していない。
しかし、私は赤線が県道だったろうと考えている。
というのも、一方の黄線が和賀川を渡っている地点にある橋。
地形図では「垸(石・コンクリート)橋」の記号で描かれているものの、実際にここにあったのは橋ではなく…。 ↓↓
昭和15年完成の大荒沢ダム(堰堤)なのである。
堤上路が県道や国道であるケースは、今日でこそ珍しいものではないが、それはいずれも車が通れる規模で、しかもそのダムの所有者は公的な企業(東北電力など)である。
だが、この大荒沢ダムの所有者は東北電気製鉄株式会社というバリバリの私企業で、階段を含むこの堤上路が県道だったとは考えにくいように思うのだ。
対して、赤線で示したルート上にも橋が描かれている。
この片側が破線の細い橋の記号は、明治24年図式から登場した「脆弱ナル橋」というもので、吊橋や板橋など、自動車のような重量物の通行が出来ない橋を示していた。
ということは、県道大荒沢停車場線は自動車が通れない道であり、大荒沢集落にも最後まで自動車が入ることは無かったのではないかと思われる。
とはいえ、橋が架かっている場所は天然の狭窄部であり、いかにも生活に即した感じがする。
また、大正2年版の地形図など、大荒沢堰堤完成以前の地形図にこの橋が存在しない事から、おそらく同堰堤建設にともなう地元補償的な性格を有する橋だったのではないかと想像出来るのである。
続いては、このルートを県道とした前提に立って、当時の空中写真などから、その実際の姿を探ってみようと思う。
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「湯田町史」に掲載されていた、水没前の大荒沢集落の空中撮影写真である。
この写真で驚かされるのは、本編と直接関係は無いが、大荒沢堰堤やそれが生んだ湖の予想以上の大きさである。
駅、鉄道、道路、集落、学校、郵便局、堰堤、その他もろもろ、この箱庭のような平和なる地上郷を跡形も無く消し去ってしまった湯田ダムの大きさには、現代土木が持つ威力に対する驚愕を禁じ得ないのである。
今度は大荒沢の背後にそびえる峠山辺りから俯瞰したと思しき水没前の古写真で、このアングルの方が分かり易い。
旧地形図と写真の町並みを比較から書き込んだ赤線が、言うまでもなく県道の位置である。
自動車の通行が無理だったとしても、なかなかそれっぽい県道のルーティングであり、ダムが無ければ今日まで拡幅程度で存続していた可能性が高かろう。
流石に路面の状態までは窺い知れない(未舗装に違いあるまい)ものの、なんだか胸が熱くなるぜ。
しかし、時空を飛び越す楽しい空想の旅行も、既に終盤戦である。
停車場県道の例に漏れず、この路線も推定1kmほどの短いものだったのである。
続いてこの左側、和賀川を渡る橋の真景に迫ってみたいと思う。
県道は湯田村立杉名畑小学校の近くで「尼瀬橋」という橋で和賀川を渡河。
そこから少し登って旧国道に接続していたようだ。
県道と旧国道の接続地点附近には「湯田ダム工事事務所」と書かれた建物群が写っていた。
ところで、尼瀬橋の読みは「あまがせはし」だろうか。
もしそうならば、この音に奇妙な符合を感じる事が出来る。
というのも、当地の約4km西方で錦秋湖を渡る県道ゆだ錦秋湖停車場線の橋が、同音の天ヶ瀬橋というのである。
この橋は旧称の陸中大石駅(平成3年改称)と国道を結んでいる現代の巨大橋だが、やはり陸中大石駅も湯田ダムによる移転を経験している。
だからなんだと言われればそれまでで、具体的な関連性にまでは、まだ届いていないのだが。
また、この尼瀬橋の形式だが、吊橋で決まりのようだ。
それも純粋な木造ではなく、コンクリートか鋼製の主塔を有する、「脆弱ナル」と評するにはやや堅牢な橋だったように見受けられる。
或いはオート三輪くらいの重量ならば通行し得た(幅員的にも)と思えるが、それ以上のことはやはり不明である。
これ以上は机上調査だけでは無理で、やはり集落と関係した方の証言を得たいところである。
最後にもう一度、今の“肥えた”目で、平成16年の現場写真を見返してみよう。
見える! 見えるぞ!!
今の私の目には、道が見えるッッ!!
さらに、駅前広場の入口両側ににょっきりと立っているのは、昔の写真に見える何かの樹木だろう。
それは、日本人のひとりとして、桜であったように想像するのだが、いかがだろうか。
正直、この展開には(ひとりPCの前で)興奮してしまった。
最初の写真とはアングルが違うから見えるのだとか、そういう寒いことは言わないで欲しい。
これぞ、知識武装の勝利なのである。(そうなんだよ!)
そして、改めて見えてしまったことで、もう一度(今度こそ)この場所に立ちたいという気持ちが強くなる。
でも、そんなチャンスはもう当分訪れないだろう…。
しかしそう思うからこそ、なおのこと… くッ!!
なお、これより先の区間は、写りが遠いせいもあり…残念ながら…明確な県道の痕跡を見つけることは出来なかったが、位置としてはこんな感じだったに違いない。↓↓
やはり駅の存在感は際立っている。
もしそれが無かったら、この湖底の風景を見ても、集落があったことに気付かなかったかもしれない。
そして、駅の存在感の影に隠れるように、現行道路法下の岩手県道としてもっとも短命だったろう大荒沢停車場線の痕跡は、あまりに小さく、現地でも見過ごしてしまった。
最後は尼瀬橋の痕跡を、これまでより西寄りの視座からご覧頂こう。(撮影当時も吊橋の跡だと思ったが、県道とは考えなかった)
古写真から想像したとおり、やはり主塔は鋼製だったのだろう。
残っているのは4つのアンカーと橋台部のみであり、主塔は見あたらない。
長さは目測であるが、30mといったところだろうか。
それにしても、橋の水面からの高さを見る限り、この時の特別水位とは、かつての大荒沢堰堤の満水位よりも少し高い程度だったと思う。
だから、この日見た湖の形は、昔時(昭和15〜41年)の再現だったのである。
川べりの風景は変化しすぎているが、関係者ならば十分に大荒沢の風景を偲び得たことだろう。
ところで、大荒沢停車場線の他にも、同じようなシチュエーションの廃県道があるかもしれない。
また、今後新たに生まれる可能性も十分あるといえる。
たとえば、群馬県道238号川原湯川原湯停車場線という路線は、国交省が進めている八ッ場ダムの計画が進展した場合、大荒沢停車場線のパターンになることが確実。
つまり、JR吾妻線の川原湯温泉駅と県道の全線が、ともに水没するのである。
レポートの公開後、かつて「第二次和賀計画」の探索でお手伝い頂いたcham氏より、メールが届いた。
なんと彼の大叔母さまは大荒沢集落に住まわれていた事があり、わざわざ聞き取り調査をして下さったというのである。
山行が史上でも稀に見る幸運すぎる展開だが、そのメールの全文を以下に掲載する。
本レポートの“こたえあわせ”の結果を、刮目して読め!
【“山行が”初の完全机上レポ おわり】