ミニレポ第206回で、静岡県菊川市の市道沿いにぽっかり口を開けている、牛渕隧道という廃隧道を取り上げた。
道路トンネルの古い教科書みたいな姿をしたコンクリートブロック造りの古隧道で、右書の扁額に「昭和六年十二月竣功」の文字が刻まれていたため、昭和6(1931)年竣工と判明した。
探索中、隧道の東口前(右の写真の矢印の位置)に「隧道之碑」と題された立派な記念碑を見つけていたが、漢文で書かれていたため現場では内容を確認せず、碑面の撮影をして写真だけ持ち帰った。
帰宅後に解読を試みると、碑文は次の通りであった。
隧道之碑 牛淵隧道係于明治二十五年之開鑿爾来従経年所修繕費漸如行人危険亦伴之放不乎有■ 者胥謀建新道開鑿之計而成者即此隧道也明 治四十三年十二月起工明治四十四年十二月 竣工所要費額壱千八百拾七円也于茲記其来 歴併録関係者之氏名以為記念 発起者 後藤平作 内田金作 内田良平 内田久七 後藤治作 近江虎蔵 内田牛松 後藤梅吉 加藤儀平 後藤傳次郎 後藤善作 後藤勇八 石工 (2名 …略) 土工 (2名 …略) 大正元年八月一日 六郷村牛淵区 |
牛渕(淵)隧道は明治25(1892)年に開削されたが、老朽化により通行が危険になったため、明治44(1911)年に新隧道が開削された。そのことを記念して大正1(1912)年に建立されたのが、この「隧道之碑」だった。
現在ある牛渕隧道よりも古い初代の牛渕隧道が存在したことを明かす衝撃的な内容だったが、そのような隧道を私は現地で見ていないし、気配さえ感じられなかった。
右図は、明治28(1895)年と昭和27(1952)年の地形図の比較だが、どちらも同じ位置に同じ長さの隧道が描かれている。
この地形図の表記と、現地探索で旧隧道の気配が感じられなかったことから、牛渕隧道は明治25(1892)年に開削されたが、それを再利用する形で明治44年に新隧道が建設され、さらにそれを昭和6(1931)年にコンクリートブロックで巻き立てたのが現在の牛渕隧道であるか、あるいは明治25年の初代隧道は現市道の切り通しに呑み込まれて破壊されたか、そのどちらかだろうと私は判断し、レポートでも「初代隧道が別に現存する可能性は低そうだ」と書いた。
だが、これは誤りだった。
レポート公開後、複数の読者さまから『遠州廃ものねだり』さんに、「初代隧道が実在するというレポートがある!」という衝撃的な報告をいただいたのである。
ぐぬぬぬ!
これは悔しい! 私は現地で初代隧道を見逃していたのか。
碑文を現地で読むべきだった。雨の夕方という悪条件に面倒がって、完全に後回しにしてしまったのが失敗だった。大雑把にでも読んでいたら、初代隧道を探す努力をしたかも知れない。
しかし、今さら後悔してもまったく仕方がない。
『遠州廃ものねだり』さんを読めば見つけるのは容易いかもしれないが、答え合わせは最後にしたい。自分で一度探してみて、どうしても見つけられなかったら、こっそり閲覧という形で助けを乞いたい。
再訪である!
2016/10/14 16:18 《現在地》
さあ諸君! どこに初代隧道が隠れているでしょうか?
前回来たのが2015年3月だったので、約1年半ぶりの再訪だ。
藪が浅い時期の方が本当は良かったが、通りがかりの“スキマ時間”探索なので贅沢は言わない。
それに、たいして広いフィールドではないから、藪の中をしらみつぶしに探しても見つけることはできるだろう。
できるだけスマートに一発で見つけてやりたいところではあるけれどね。
とりあえず、ここから眺めているだけで“見える”なら、前回だって気付けただろう。
ということは、ここからは見えないどこかに、初代隧道は隠れているはず。
どこから探すか、実はもう決めてきた。
初代の隧道は、牛渕隧道の北側のやや高い位置に並行して存在しているのではないだろうか。
…なんて、さも考え抜いた末に編み出した説みたいに書いているが、南側には市道の切り通しがあるため、隧道が現存しているというのならば、ほとんど北側一択だ。
切り通しのさらに南側という可能性もゼロではないが、そうなると明治28年と昭和26年の地形図で全く同じ位置に隧道が描かれていたことと矛盾してしまう。
新旧の隧道は、5万分の1地形図上では差が出ないくらい近い位置に並行している可能性が極めて高いのだ。
特に旧道との分岐は見当たらなかったが、「祠」と「隧道之碑」があるところから北の斜面へ、藪を掻き分け強引に入山した。
探しているのは、明治25年に誕生し、明治44年に早々と廃止されたという、廃止から極めて長い時間を経過した廃隧道だ。
道形なんてものはとうに失われていても不思議ではないし、そもそも簡単に分かるようならば前回見つけていただろう。
強引なくらいでちょうど良い(はず)。
道から3mほどよじ登ると、やや平らな土地を発見。
周囲は手入れのされていない竹林で、行動しづらいことこのうえないが、
どことなく、かつて道だった名残のような平らさが感じられた。そんな気がするだけ?
でも、このまままっすぐ10mばかり進んでから左を向いた辺りに、あるんじゃないか?!
16:21 《現在地》
あ〜、これはありそうだよ〜!
超凶悪な荒廃竹林が全身全霊で前進の邪魔をしてくるが、
私の進撃は止らない!!
―10分後―
16:31
隧道、見つかんなかったんだけど……。
あれ……、おかしいな。
隧道を探しながら、【竹藪斜面】の道なき道を登ってきたら――
完全に台地の上まで登ってきてしまった。
そこには、静岡県をして日本一の茶産地たらしめている、広大な茶畑の風景が広がっており、
さっきまでいた“地上”と一線を画する別天地に驚いたが、明らかに隧道はここじゃなさそう。
完全に見誤ったようだが、じゃあどこにあるのかという話。
やべぇ…。 侮ってたワケじゃないが、一筋縄ではいかない予感。
とりあえず、上まで来てしまったので、今度はここから西口へ下ってみるとしよう。
16:34 《現在地》
見渡す限りの茶畑に背を向け、その外周を巡る農道から逸脱する。
これは本当に文字通りの逸脱で、登ってきたときと同じく、やはり道は見当たらない。
明治25年に初代の隧道が掘られる以前の状況は分からないが、これだけ早く隧道が作られたくらいだから、それなりに栄えた峠越えの道があった可能性は高い。
しかし、その痕跡はもう分からない。
GPSを頼りに、道なき道を行こうと思う。
東側斜面は竹林が優勢だったが、西側斜面の高いところはスギとササが生い茂り、少しだけ下ると雑木林になった。
とりあえず適当に下っても牛渕隧道の西口へ通じる旧道のどこかへは下りられるだろうが、探している初代隧道は牛渕隧道よりもっと高い位置にあると予想しているので、あまり性急に下ることはせず、できるだけ高い位置をキープすることで広く視界を保ちつつ、牛渕隧道の西口直上へ下るようなイメージをもって、歩きづらい斜面を慎重かつ大胆に跋渉した。
―4分後―
私は、奇妙な場所 に辿り着いた。
16:38 《現在地》
なんだこれ?
まるで縦穴のように切り立った窪地が…。
向って左側が尾根で、右側が牛渕隧道の西口。
薄暗い森の中に忽然と現われた窪地の正体は……。
見つけたぞ…!
これが、初代隧道の西口跡だと思う。
台地から尾根伝いに下る途中で、西口前の掘り割りを“空襲”する形になった。
先ほど東口はなぜか発見できなかったが、私の予測位置自体は大きく違っていなかったようだ。
ただし、開口しているのかはまだ分からない。かなり際どそうに見える。
近づいてみよう!
16:39 《現在地》
掘り割り周囲の斜面が急すぎて、直接下りることはできない。
そのため、掘り割りの外の斜面を伝って、掘り割りの出入口を目指した。
(←)掘り割りの出入口に立って、西を撮影した。
この方向には、前回探索した牛渕隧道の西口があるはずだ。
GPSではいまいちはっきりしない新旧隧道の位置関係をはっきりさせるべく、初代隧道から離れはするが、一旦この方向(西)へ向うことにした。
猛烈な笹藪に悪戦苦闘を強いられたが、10mほど掻き分け掻き分け進むと、藪の向こうに“異質な直線”が見えた。(→)
藪が深すぎるので、時間が惜しいからこれ以上は近づかなかったが、この“直線”を見たことで、現在地がはっきりした。
私はいま、牛渕隧道西口の直上にいる!
(←)これは前回撮影した西口の写真だ。
私が笹藪の中で見た“直線”(図中の黄線)は、この坑口の天端であった。
つまり、初代隧道は牛渕隧道のほぼ真上にあった!
これは気付かないよ!(←自己弁護)
というか、あるかどうかも分からない状態で最初に見つけた『遠州廃ものねだり』の人すげぇ。
物凄い笹藪のため、ここからだと全く見えないし、行く道もないときている。
まだ見ぬ東口がどこにあるのかにもよるが、この西口を最初に探そうとしたら大変だ。
私はたまたま上から探すことができたことが、スピード解決に繋がった。ラッキーだった。
しかし、いくらトンネル工事に関する知見が少なかった明治の話とはいえ、こんなに上下に近接した位置に新たな隧道を掘ったというのは驚きだな。
高さは5mくらいしか離れていないだろう。
しかし、これなら明治28年と昭和26年の地形図で、同じ位置に同じ長さの隧道が描かれることになったのも、納得できる。
(これについてはもっと単純に、地形図が更新されていなかっただけという説もあるが…)
16:42 《現在地》
笹藪を引き返して、三方塞がりの掘り割りの奥へとやってきた。
ここは牛渕隧道の西口(背後)より20mくらいの地点であり、右の土山の20mくらい先にも市道の広い切り通しがあるはずだが、ここにいる限りそれほど近くに“現世”があるようには思えない。
それにしても、この周囲の土壁の高さよ。
本来の地表から最大で10mくらい掘り下げてあり、重機なんてものもない時代(繰り返すが明治25年生まれの隧道だ)にこれだけの土工をすることは、細い隧道を掘るよりも大変だったのではないかと思えてくるが、実際に当時の隧道の中には、このように深い掘り割りで坑口を尾根に近づけることで限界まで隧道を短くしようとしたものが数多く見られる。
掘り割りは上から順に掘っていけばいずれ完成するが、地中を穿つ隧道は特殊技術の世界だ。
当時はいまのように土木工事の専業化が進んでいなかったので、素人とあまり違わないような技術者が指導していることもあったようだ。
そして、土被りが浅い場所は落盤が起こりやすく、素掘り隧道の場合は非常に危険だった。
おそらく隧道を短くしたいという意図よりも、土被りの浅い場所を避けたいという意図が強く働いて、深い掘り割りの先に素掘り隧道を掘ることがよく行われていたのだと考えられる。
牛渕隧道の西口(意識の境界)と笹藪(物理の境界)という二重結界に守られたここには、明治44年から百余年を忘れ去られてきた空間の淀んだ闇に満ちていた。
これで、初代隧道が開口していれば、闇はさらに深くなるが……
!
開口してるぅ〜〜。
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