ミニ机上調査編
今回紹介した、埼玉県道76号鴻巣川島線の狭隘区間約1.6kmは、前半と後半で全く違った表情を見せていた。
前半(北側半分)は、茫漠たる荒川河川敷を見渡す長城の如し堤防道路。
後半(南側半分)は、武蔵野の懐かしい農村風景の名残を感じさせる集落道。
この大きな二面性は、道が刻んできた歴史の中で築かれたものであるはずだ。
特に後半は古道の気配が濃厚であっただけに、古い地形図との比較は興味深いと思った。
というわけで、このミニ机上調査編は、歴代地形図の比較から。
@ 地理院地図(現在) | |
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A 昭和57(1982)年 | |
B 昭和9(1934)年 | |
C 明治40(1907)年 | |
D 迅速測図(明治13〜19年) |
右図は、平成末年の現代から、130年近く昔の明治10年代まで、5世代の地形図の比較だ。
「@地理院地図」から「A昭和57(1982)年」の大きな違いは、今回探索した区間ではなく、その手前の荒川渡河部分にある。
いまある糠田橋は昭和62(1987)年に竣工したもので、ここを渡る最初の永久橋であった。先代の橋は昭和30年頃に建設された冠水橋だったそうで、「A」に見える小さな橋がそれだろう。さらに前は橋がなく、渡船だったらしい。
当時既に県道鴻巣川島線が認定されていたとしたら(平成5(1993)年の昭文社発行の道路地図帳に、主要地方道ではなく一般県道として描かれていることを確認済)、未整備区間はいまよりも遙かに長かったことになる。
一気に時間を遡って「B昭和9(1934)年」となると、今泉から古名までの今回紹介区間は、いまと同じく細々とした道の表記だが、今泉以東や古名以南は太い県道の表記になっている。
当時は県道(旧道路法の「府縣道」)に認定されていたらしい。
そして旧道路法制定以前の「C明治40(1907)年」まで遡ると、この図の範囲内から県道以上の道は全くなくなってしまう。現在の県道27号の旧道だけが、それなりの幹線道路っぽく見える。(「里道」の中で最も上等な「達路」という記号で描かれている)
しかし、ここまで古くなってもちゃんといまと同じ位置に荒川の堤防があり、堤防路も存在することには驚く。
当時は県道ではなかったろうし、堤防もいまより遙かに低かっただろうが、今回辿った今泉から古名までの道は、明治末にはもう同じ位置にあったのだ!
最後の「D迅速測図」は、後に全国の分が作られた地形図の前身として、関東地方など一部地方のものが調製された縮尺2万分の1の地図だ。町村制開始以前の明治13〜19年に作成されており、見た目こそ江戸時代の絵図っぽいが、なかなか驚くべき正確さがあり、やはり今回辿った路地のような細かいルートは、昔から変わらず存在していたことが分かる。例の【S字狭路】も、いまとおんなじだ!
このように、確認可能な最古の地形図にも描かれていた今回の探索ルート。
なかでも、荒川堤防がそんな昔から同じ位置にあったことに驚いたのだが、天保(1830〜1844年)の頃にはもう「荒川堤」が作られていたらしい。
江戸時代から連綿と強化と嵩上げを続けてきたのが、いまの巨大な堤防になったのだ。
地味に趣深いところを通っていた、我らが県道76号(県道155号も)だった。
『埼玉縣管内地圖』より転載(著者加工)。
地形図以外の古い地図も見てみよう。
右図は、明治45(1912)年に埼玉県庁が発行した『埼玉縣管内地圖』である。
かなり縮尺の小さな地図だが、そのぶん描かれている道が厳選されており、当時の埼玉県がどの道を重視していたのかという広域的なビジョンが見える。
凡例によると、この地図に描かれている道路は、「国道、仮定県道、県支弁道」の3種類である。
旧道路法公布以前の当時、太政官布達によって定められていた全国共通の道路の種類は、「国道、県道、里道」の3種類であり、国道と県道は国が路線を認定することになっていたが、実際には県道の公認は行われなかったため、各府県が独自に認定した県道が「仮定県道」と呼ばれていた(そして「県道」と通称された)。里道は、国道と県道以外の公道をことごとく認定する決まりだったが、中でも重要な路線に対しては、各府県や各郡が独自に補助金を出して(支弁して)整備する仕組みがあった。そのような道が「県支弁道」「郡支弁道」と呼ばれた。
現代の感覚に照らすと、当時の国道はいまの高速自動車国道、当時の県道はいまの国道、当時の県支弁道はいまの主要地方道、当時の郡支弁道はいまの一般県道、それ以外の里道はいまの市町村道に相当するものとイメージして良い。
この地図を見ると、我らが県道76号鴻巣川島線とほぼ同じルートが、当時すでに「県支弁道」であったことが分かる。
鴻巣の北の「箕田」で中山道(いまの国道17号)を分かれ、荒川を「糠田」の渡し場で越えて「古名」に達し、さらに南下して「伊草」で川越街道(いまの国道254号)に合流する道が、細い実線で描かれている。
「県支弁道」は里道の一種であり、地形図では里道として描かれるが、今日の感覚では県道、あるいはその中でも上位の主要地方道に相当するような府県レベルの重要路線である。
さらに古い明治初期の地図(明治13(1880)年の『実測埼玉県管内地図』)にはこのルートが描かれておらず、江戸時代以前から集落を結ぶ生活道路はあったにしても、広域的な道路としては重要視はされていなかったと思われる。
明治中期以降に埼玉県の道路制度が整備され、道路網の拡充が進められるなかで、この路線が採り上げられたようである。
当時は川越が県内随一の商都・金融中心地・穀物集散地として伸展しており、県北部と川越を最短距離で結ぶ道が重視されるようになったのかも知れない。
『埼玉県勢要覧』より転載(著者加工)。
右図は、埼玉県総務部統計課が昭和12(1937)年に発行した『埼玉県勢要覧』という地図の一部だ。
こちらは旧道路法の時代の地図であり、描かれている道路は全て「国道」と「県道」である。
さらに県道を独自に「自動車ヲ通ジ得ルモノ」と「自動車ヲ通ジ得ザルモノ」の2種類に分けて記号化しており、県内道路網の整備状況がよく伺える地図になっている。
この地図でも今回探索した道は県道として描かれている。
しかし、古名から伊草までは自動車通行可だが、箕田から古名はそうではなかったようだ。
まあ、現在の状況を見れば、そうだったのだろうという気がする。荒川を渡る糠田橋は立派に整備されたが、古名あたりの道は当時からあまり変わっていないと見て良い。
今回の調査では当時のこの県道の路線名は分からなかったが、県道としての息は長い道だということはよく分かった。
資料未発見ではあるが、おそらく現在の道路法が公布された際に、早い段階で県道の認定を受けていると思う。
不十分とは思うが、過去を探り終えた。現在の姿も見た。最後は未来の姿を想像しよう。
この県道の管理者である埼玉県は、今回探索した狭隘区間の将来を、どんな風に思い描いているのであろうか。
埼玉県議会の平成29(2017)年9月定例会で、県土整備部長が関係する答弁をしているのを見つけたので、抜粋して引用しよう。
県道鴻巣川島線につきましては、荒川の堤防天端を通っており、現在、国が堤防を広げる事業を行っております。事業完成後は、堤防の天端が広がるため、県道につきましても車両のすれ違いができるよう幅員を広げることが可能となります。
おお!
希望がないわけではなかった!!
ここに書かれている、堤防を広げる国の事業とは、荒川中流部改修のことを指しているのだろう。
いまでも十分巨大な堤防だが、将来はさらにビルドアップする計画があり、そのときはようやく県道も真っ当な姿に生まれ変わるのかもしれない。
しかし、河川事業は道路以上に気の長い話と聞いている。完成は、まだだいぶ先なのかも知れない。
『東松山県土整備事務所管内図』より転載(著者加工)。
また、この区間の県道に具体的な整備計画が現状ないのかといえば、そうではないようだ。
左図は、埼玉県が公表している最新の『東松山県土整備事務所管内図』の一部であるが、古名地区に破線で「計画線」が描かれている。
全長400m前後の短い計画線であり、開通しても劇的に状況が変わることはなさそうだ。
【S字狭路】はそのままだし…。
やはり、荒川堤防の改修が完了しないことには、大掛かりな整備計画を建てづらいということなのかも知れない。
また、この計画線は県道27号上から唐突に始まっており、県道76号の現道との接続性が悪く見えるのだが、どうやら県道27号以南の大和田地区についても、図に点線で描いたような県道76号の新道の要望が、吉見町から県に対して出されているようだ。
埼玉県町村会がまとめた『平成30年度県予算編成並びに施策に関する要望(PDF)』に、吉見町の要望事項として、次のようなことが書かれていた。
本町の交通の基軸は東松山鴻巣線、東松山桶川線、及び鴻巣川島線の主要地方道3路線で構成されています。このうち、(主)鴻巣川島線は、吉見町を南北に連絡し、国道17号、国道254号を結ぶ重要路線であります。川島インターチェンジの供用開始後、平成29年2月には圏央道が全面開通するなど、近隣の道路整備が進む中、重要度がますます高まっています。
このような中、本町では平成28年度に第五次吉見町総合振興計画・後期基本計画がスタートし、その中で、県の企業誘致への取り組みを踏まえ、県が整備する(主)東松山鴻巣線、及び(主)鴻巣川島線が交差するエリア(大和田地区)に新たな工業用地の開発計画を位置づけました。
本要望では、埼玉県吉見浄水場建設の際に整備された道路((主)鴻巣川島線のバイパスとしての機能を有する道路)を、(主)鴻巣川島線のバイパスとして位置づけていただき、合わせて当該道路を本町の交通の基軸である(主)東松山鴻巣線と(主)東松山桶川線に結節していただくことをお願いするものです。これにより大和田地区と川島インターチェンジ、また、延伸が見込まれる上尾道路への連絡が強化され、当該地区の工業用地としてのポテンシャルは格段に向上することが期待されます。
この時代に新たに整備しようとしている工業用地という話には、部外者の無知識ゆえか、いささかの不安を感じてしまうが、いずれこの要望が県に容れられることになれば、県道76号はさらに大掛かりな新道として生まれ変わることになるかもしれない。
もう県道としての年輪は十分過ぎるほど刻んできたのだ、枯れる前に花くらいは咲いてもいいと、関係者なら考えているかもしれない。
私は今のかわいい主要地方道も好きだけどね!
(“S字狭路”にくたびれた“ヘキサ”建てれば、関東在住の田舎に飢えた道路好きたちの名所になれるかも…笑)