2019/12/5 16:00
千手山公園内を走る「おとぎ電車」のせんろに、読者の情報の通り発見された、かつて見たことがないほど小さな断面を持った、しかし本格的な廃隧道。
二つある坑口の片方は施錠された扉により封鎖されていたものの、残る一方が解放されていることを、目視にて確認した。
とはいえ、その坑口は園内に張り巡らされた歩道とは繋がっていない、いかにもアングラな位置だった。
既に列車の運行が終了した時刻であり、辺りに人影は見られないものの、立ち入っている姿を人に見られたくはない。
そんなわけで、一度冷静に辺りを観察してみようということを考え、せんろのレイアウトを広く見渡せる場所に立って見たのが、次の写真である。
せんろの北側にある高台から見下ろした、レイアウトのおおよそ西側半分の状況だ。
ここまでの私の動線を振り返ると、まず背景に見える栃木市街地に面した南の「入口」から入場し、「踏切1」を横断、「乗り場(お千手山駅)」に入って、そのプラットホーム上から問題の「廃隧道」を発見したのだった。
そこまでが「前編」の内容だが、それから私は、もう一つある「踏切2」を渡り、短い階段を通って、今いる高台へ立った。
この高台と地続きになっている左の高台(せんろの東側ループに取り囲まれている)には、この公園のシンボル的な存在である観覧車が立っている。
問題の廃隧道へのアプローチは、「踏切2」から、せんろ沿いを歩いて行くのが、強引にせんろを横断しないで済む、ベストなルートになると判断した。
ちょっと脱線するが、魅力的なせんろ同士の平面交差を見るには、ここからが良い。
この手の遊園鉄道で8の字形のレイアウトは珍しくなく、その際はどこかにせんろ同士の交差施設を設ける必要がある。
立体化も考えられるが、レイアウトがよほど大きくなければ急勾配区間を避けがたいため、一般の鉄道では滅多に見ることがない、せんろ同士の平面交差が作設されることがよく見られる。これは個人的に、遊園鉄道があれば必ずチェックしたい、興味深いポイントである。
で、この千手山の平面クロスだが、軌条や枕木、犬釘、ペーシ、モールなど、ダウンサイジングされつつも、あらゆるパーツが本物の鉄道と同様に使用されているだけあって、正直、興奮を禁じ得ない“本物感”のあるデザインになっていた。
平面クロス部分は、横断する車輪を通過させるための細い切れ込みが、各レール2本ずつ刻まれており、さらに脱線を防止するためのガイドレールが添えられていた。
このデザインは、本物の鉄道にあるものと同等であり、マジかっこいい!
さて、「踏切2」へやってきた。
ここから西へ向かうせんろの行く手に目を向けると、廃隧道の開口した東口が、このように見える。
書き加えた赤い線は、“旧線”に敷かれていたレールの推定位置である。
旧線が、たった一つのカーブで構成されていたことが分かるだろう。これを現在使われている“新線”と比べた場合、距離の差はほとんどない(厳密にはほんの少し短縮されているだろう)が、カーブの数は1から2に増えており、かつカーブの半径も小さくなっているので、明らかに高速走行性は悪化しているはずだ。
このことから、新線建設の最大の目的は、隧道の除去にあったと思われる。
老朽化した隧道を回避する目的の新線建設は、通常の鉄道でも盛んに実施されていることである。
さて、その問題の廃隧道は、ほんの15mほど先にあるが、公園内に人目がある状態だと、近づくには勇気が要るだろう。
写真だと分かりづらいが、線路際のフェンスの外は樹木の細い枝が多数あり、近づこうとすると掻き分けるガサゴソという音を絶対に立ててしまうはずなのだ。
私も、今の無人をチャンスと考え、速やかに行動を開始した。
ガサゴソガサゴソガサゴソ……
到達成功!
そして、まざまざと見る、廃隧道の黒い坑口を。
…………リアルだ。
一般的な山岳工法のトンネルと大差のない、見慣れた馬蹄形の断面をしている。
縦横の比率を見ると、いささか扁平ではあるが(1車線の道路トンネルの比率に近い)、おとぎ列車のストラクチャーとしては稀に見る、本物チックな鉄道トンネルだと断じられる。
単に老朽化の結果、廃隧道としてのリアルを得たというわけではなく、もともとの形態にもリアリティがあった。
アーチをかたどるコンクリートブロックを模したラインは単なる飾りだが、それは実際の道路トンネルでもよく見る意匠であり、減点にはあたらない。さらに、アーチを取り囲む壁全体に布積みコンクリートブロックを模したラインが刻まれており、ここは少々窮屈でおもちゃっぽくなっているが、老朽化したコンクリートの風合いが上手くフォローしていた。
さすがに荘厳とまでは言わないが、廃なるものの迫真は、確かに感じられた。
うお〜!!
中も、ガチな作りだぜ!!
この段階で、「塞がれていない」というのは私の誤った認識だったことが判明したうえ、
廃止後は倉庫として使われていたのか、いろいろな物が置かれているのが見えたが、
塞いでいたフェンスは破れていて用をなしていないので、この先の行動に変化はない!
いざ!
人生初!推定軌間381mm用(実用鉄道世界最小軌間)廃隧道!
さすがに、この軌間用の隧道は狭い! 特に天井の低さがヤバい! 思わず変な笑いが出てくる。
このサイズ感についてはまた語るとして、内部に入って最初に嬉しかったのは、壁面施工のリアルさだった。
一昔前のコンクリートトンネルの天井に必ずと言って良いほど見られる、短冊状の模様があった。
これは、上木と呼ばれる、内壁のコンクリートを固める際に当てていた型枠の模様である。
最近のNATM工法によるコンクリートトンネルにはこの模様がないので、同じ素材に見えるコンクリートトンネルであっても、近年のNATM工法なのか、旧来の山岳工法であるかの差が、ここに生じている。
もっとも、この土被りの浅さからして、実際に山岳工法で掘られたわけはないと思う。それでも、内壁の施工については、山岳工法と同じように行われたのだ。
すげぇ、リアリティだぜ!
今使われている【四角いトンネル】とは次元が違う……!
それともう一つ嬉しかったのは、この絶妙な長さだ。
カーブした隧道は大好きだが、入った瞬間にもう出口が見えているというのでは、興が醒めること甚だしい。
だが、この隧道は違う。短いながら、入った直後にはちゃんと、出口が見えないドキドキの瞬間があった!
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改めて断面のサイズ感の話をしたい。
これには隧道と私が一緒に写っている写真が良かろうというわけで、全天球画像を見て欲しい。
世界最小の実用鉄道の軌間と同等なだけあって、まあぎりぎり、実用性があると感じるサイズではあった。
決して大人が立って歩けないような非常識な大きさではない。
手を上に伸ばせば天井に手が届き、両手を左右に伸ばせば両側の壁を同時に触れる、そんな感じのサイズ感。
しかし、なまじ作りがリアルなだけに、違和感は凄まじいものがあった!
見慣れた隧道と同じ形をしたものが、こんな小さくなっているということが強烈だった。
もっとも、これは初体験のサイズ感ではない。
いわゆる“人道隧道”(例)と呼ばれるようなものが、このサイズ感だ。
しかし、それらはあくまでも人が通る専用の隧道であり、車両、それも動力を有する機関車牽引の列車が通行するようなものとは次元が違うと考えていた。
だが、実際にはこのようなサイズの“車道隧道”“鉄道隧道”も存在しうることを、身を以て理解した。
まあ、わが国にはこの軌間の実用鉄道が存在した記録はないのであるが…。
また、かつて探索したある禁断の隧道も、比較的これに近いサイズ感(軌間610mm)で、機関車牽引の客車列車も通行していた。
トンネル内は、倉庫と化していた。
が、この手の廃隧道転用倉庫のほとんどの例に漏れず、それはいつの間にか、倉庫ではなく、廃材置き場になってしまったようだった。
頻繁に出し入れされているものが、この場所にある様子はなかった。
いろいろなものの終の棲家になっていて、それらは人知れず土に帰りつつあった。
洞床の状況は、泥濘んではいないが、かつてあったはずのバラストの堅さはなく、枕木もレールもなかった。
大雨の時に流入したのか、乾いた泥が堆積していて、埃っぽかった。
おそらく、それなりに子どもたちの歓声が響くこともあるだろうせんろのすぐ隣に、このような空間が眠っている光と闇の対比が…… とか書こうと思ったが、よく考えるとこの公園の陰影の程度は、この闇を含めても、よく調和された穏やかさの中にあるのではないかと考え直した。
少年が、この廃隧道での小冒険をやり遂げるまでが、この公園の大らかなカリキュラムかもしれない。
もう終わりだ。
いつまでも入っていられる広さもなければ、居心地もない。
鉄格子が嵌められた西口に近づくと、隧道内に沢山あった置き物の中で特に大きな目立つものがあった。
それは外形としては単なる錆び付いたタンクだが、近づいて見ると、これだけは隧道内にちゃんと設置されているように見えた。
いくつかのパイプや、コンセントを有する電源ケーブルなどが伸びており、何かのパイプ装置のようだった。
建築限界的に、列車が通っていた時代からここに存在していたとは思えないが、旧隧道になってからも、装置の稼働施設として活躍していた時期があるのだろうか。
銘板などを探してみたが見当たらず、結局、この装置の正体がまるで分からないので、これ以上推論を進めることも出来ずにいる。
16:05
隧道、通り抜け一歩手前の地点まで到達。
残念ながら、ここから外へ出ることは出来ないので、すぐに引き返した。
地上へ。
千手山おとぎ電車線 第二隧道 (仮称)
全長:約15m 高さ:約2.2m 幅:約1.8m 竣工年:現時点では不明
これで、目的としていた探索は終了したのだが、
本編には全く登場しなかった8の字レイアウトの東側半分を、最後にちょっとだけ紹介したい。
いや、これがなかなか……
なかなかだよ。
うん。
たぶん、みんなの想像を遙かに超えていくと思う。 もちろん私の想像も。
なにこの険しい感じ!www
すげえ高低差だ!
しかもすぐ下に住宅地という、強烈なミスマッチである。
まるで、鉄道模型のミニレイアウトみたいだぜ!
市販の地図や地形図には描かれることがないと思われるおとぎ電車のせんろだが、
それを航空写真上に表現したのが上図である。
8の字レイアウトだと書いたが、実際は“雪だるま型”と言った方が相応しいくらい、
東側ループが西側ループよりも遙かに長いレイアウトになっている。
そしてこの東側ループの東半分は、全て千手山の急峻な東斜面の横断に費やされている。
この区間にトンネルや橋はないが、とても見晴らしが良く、山岳鉄道的な魅力がある。
いいなぁ…… ここ…。
なんか、ここから見られるためにあるような山が、ちょうどいい距離に横たわっていて、絵みたいだ。
面白いのが、通常の鉄道なら絶対にない、ガードレールとの取り合わせだろう。
見慣れたものが、見慣れない超狭軌鉄道沿いで働いているのが、とても印象的だ。
しかし、このガードレールも支柱が四角い旧式のタイプで、今となってはとても珍しいものである。
いいなぁ。 千手山公園……。
そんな子どもみたいな感想を胸に、私は夜闇の迫る公園を後にした。
現地探索は以上だ。
情報にあった廃隧道は確かに現存しており、自身初体験となる超狭軌用の本格的なトンネルを探索することが出来たし、素敵なせんろとも戯れることが出来た。
これが関東を拠点に暮らした13年間最後の探索になったが(日野→秋田の引っ越しの道すがらに立ち寄った)、良い想い出になったのである。
しかし、気になるのは、なぜ隧道が捨てられたのかだ。
おそらく、隧道が作られた経緯については、遊園鉄道だからという以上の深い意味はないと思う。
遊園鉄道には、トンネルやトンネルを模したストラクチャーが、しばしば設置される。千手山という山岳的地形に敷設されたこの線において、自然の地形を利用して、リアルなトンネルを設置したのは当然と思える。
だが、一度作ったトンネルをわざわざ廃止して、隣に平凡な新線を開設したというのは希有な事例と思われ、その背景が気になった。
そんなわけで簡単な机上調査を行ったので、報告したい。
右図は、平成27(2015)年昭和50(1975)年の航空写真の比較だ。
樹木の存在や、解像度の問題で分かりづらいが、よくよく眺めると、園内の施設の配置、特におとぎ電車線のレイアウトに大きな変化が見られた。
その変化を、一部推定を交えながら図示したのが、次の図となる。
昭和50(1975)年当時、おとぎ電車線は、現在のような8の字ダブルループのレイアウトではなく、現在の東側ループ線だけのシンプルなレイアウト(単独ループ)だったように見えるのだ。
したがって、この時点では現在の西側ループ線にある「駅」も「廃隧道」も存在しなかったと考えられ、駅については、「観覧車」(この位置は変わっていない)のすぐ南側にあったようだ。
左の写真は、旧駅の推定位置を西側から撮影した。
昭和50年の航空写真だと、この位置に小さな屋根の建物が写っているが、いまは見当たらない。沿線で消えた建物はこれだけなので、旧駅の跡と推定した。
現状、プラットホーム跡などは残っていないが、この部分が比較的鋭角なカーブに前後を挟まれた直線区間であることが、微かに駅跡の匂いをさせている。
“単独ループ線時代”は、現在の平面クロスも当然なく、この画像に書き加えた赤線のようなラインで運行されていたと思われる。
奥にあるのは現在も使われている四角いトンネルで、これは今回探索した廃隧道より早くから存在していたらしいことから、「第一隧道」と仮称することにした。
この写真は、前の写真とは逆に、平面クロスを第一隧道上から撮影している。
赤線で示した位置が、推定される旧線のラインで、地形的にも無理のないルートだ。
そして、このようなレイアウト変更が行われた唯一の痕跡と思われるものが、この写真に写り込んでいた。
それは、黄色く着色した部分にある帯状のアスファルト舗装だ。
現在では意味不明の舗装だが、“単独ループ線時代”に、線路に沿って旧駅から延びていた歩道があった跡だと考えている。
以上のような航空写真の比較によって、おとぎ電車線のレイアウトは、昭和50年以降のどこかのタイミングで大きく変化したことが推測された。
「第二隧道」こと今回探索の隧道が誕生したのも、このレイアウト変化の時点だろう。
隧道は古風な外見だったが、意外に新しいものらしい。
次に私は、てつ氏の「とちぎレイルビュー」というサイトに注目した。同サイトに、平成16(2004)年時点の詳細なレポートが掲載されていた。
これによると、当時のレイアウトは現在と同じで、かつ、第二隧道は廃止された状態で、今と変わらない姿を路傍に晒していた。
蒸気機関車を模したカラフルな車両も、現在と同じものが使われていた。
この貴重なレポートにより、第二隧道の誕生から廃止に至る生存史というべきものは、昭和50(1975)年から平成16(2004)年までの約30年間に閉じ込められていることが判明した。
さらに、てつ氏は機関士への聞き取りを行っており、「かつての線路は単純なオーバルで、距離も今の半分ほど。そのころの料金は30円だった
」との証言を得ていたのである。
やはり、レイアウトの変更が行われていた!
そしてこのようなレイアウトの変更は、一度でなく、二度あったはず。
一度目は、シングルループからダブルループへの変更。
二度目は、ダブルループ化時に建設された第二隧道の廃止である。
なぜ、第二隧道は廃止されたのか。
この謎を解く鍵は、当サイトに寄せられた沢山の“貴重な体験談”の中にある。
これまでに寄せられた体験談を、いくつか紹介しよう。
キタキタキター!!!!
これぞ、多くの読者様が支えて下さっている「山行が」のパワーの源泉!
私が期待したとおり、千手山公園は世代を超えて地元の寵愛を受けていた。
ここに集った証言たち。
一つでは記憶の揺らぎに惑わされるとも、束となれば忘却の硬い壁を突き破ることもできるはず。
これらの証言を、第二隧道の存廃に関して、私の解釈でまとめると、おおよそ次の表のようになる。
おそらく、第二隧道は昭和60(1985)年頃から平成7(1995)年頃の間に、廃止されたのだろう。
平成2(1990)年頃に何か大規模な改築工事が行われていたという証言Aがあるから、この時かも知れない。
平成7年頃には廃止済みだったという証言@と、同時期と思われる「今より小さな車両が使われていた」という証言Bは、「車両の大型化のために隧道を廃止したのではないか」という証言Bの推理と相反するように思うかも知れないが、証言の正確な時期や順序が分からない(どちらの証言も数年ズレている可能性がある)ので、矛盾にはならない。
また、証言@の「昭和45(1970)年頃には隧道が現役だった」という内容と、先に述べた航空写真の調査による「昭和50年時点では隧道が存在しなかっただろう」という推理も相反するが、これも「小学生」という期間が6年間あることを踏まえれば、逸脱はしていない。
そして最後に、第二隧道が廃止された理由についてだが、証言Bの推理を私も容れたいと思う。
第二隧道の建築限界に、現在使われている車両が支障するかを確かめてはいないが、最も可能性の高い説だと思うのだ。
同様の推理を述べる読者様のコメントは複数あった。
これ以上の捜索の手掛かりは、いま手元にない。
だが、たとえば各年代の千手山公園の観光パンフレットのようなものが発見されれば、正確なことが判明する可能性は高い。
引き続き証言や情報の提供を募集しています。山行がは、公園を侮りません!
以上、地方都市の小さな遊園地に眠る、山行が史上最小の鉄道用廃隧道からの報告でした!
完結