ミニレポ第256回 八森沖の雄島 解説編

所在地 秋田県八峰町
探索日 2018.06.03
公開日 2021.09.19

解説編 〜小さな島の開発ストーリー〜



『八森町誌』より

帰宅後、雄島について調べてみた。

まずはセオリーに従って、雄島がある八峰町の旧町史である平成元年発行の『八森町誌』を調べてみると、町内の神社仏閣を解説する章に、右の写真とともに、「雄島神社」という、それ自体は初めて見る名前だが、明らかに雄島と関わりがあると思える神社が掲載されていた。

雄島神社
所在地 八森町字雄嶋壱番地
敷地面積 五反〇一〇
祭神 市杵嶌姫命

むかし、市杵嶌姫命を祭神として祠堂が造られた。後にエビスさまも隣に祀られる。海上安全、漁業神として崇められている。
日本海中部地震の津浪襲来に姫神のお堂のしがみついて命が助かった釣人があった。姫神のお救いであろう。遙拝殿は観海小学校の御真影安置の旧殿だった。

『八森町誌』より

雄島の頂上に立つ【裸のお堂】こそが、雄島神社の本殿であり、右の写真は本土に或るその遙拝殿であった。本殿に祀られているのは、市杵嶌姫命(いちきしまひめ)で、神社の祭神らしく日本神話に登場する海の女神だが、神仏習合において仏である弁財天と同一視されるようになった。
あの島に番地がちゃんとあったということも、この記事で分かった。字雄嶋壱番地を、雄島神社が占めている。(もしかしたら島全体が壱番地なのかもしれないが)

また、島と人の関わりに関する知られざるエピソードが、一つ発見された。
秋田県に長くお住まいの方ならばご存知であろう、昭和58(1983)年5月26日11時59分に発生した日本海中部地震にまつわるエピソードだ。

能代沖の日本海上を震源としたM7.7の日本海中部地震は、秋田県沿岸を中心に最大14mの巨大津波を発生させ、北海道、青森県、秋田県で104名が亡くなったが、うち100名は津波による死者だった。八森町でも操業中の漁船が転覆するなどして10人が犠牲になっている。
この日、雄島で釣りをしていた人がいたが、咄嗟に島の最も高い位置にある雄島神社のお堂にしがみ付いて九死に一生を得たというのである。
同じ町誌の日本海中部地震について書かれた章にも、次のような記述があった。


『日本海中部地震 M7.7真昼の恐怖』より
八森漁港では、音もなく、波頭もなく静かに海が盛り上がり防波堤を越した。この時初めて波しぶきが発生し、同時に雄島にも津波が押し寄せ高い波しぶきが上がった。雄島で釣りをしていた二人は雄島の高いほうに設置されている祠の屋根に上がり、一命を取り留めた。
『八森町誌』より

このエピソードに興味を持った私は、昭和58年7月に北羽新報社が発行した災害記録誌『日本海中部地震 M7.7真昼の恐怖』を入手した。

返し波で海上ぶ浮かぶ雄島も陸続きとなった。島の右側の祠の上に2人の釣り人が避難しているのが見える。
『日本海中部地震 M7.7真昼の恐怖』より

島の海抜は13mといわれるが、津波は最大14mの高さで陸に押し寄せており、祠がなければ助からなかったかもしれない。
第一波が過ぎた後の引き波では、海面が通常より6m近く下がり、その際に撮影されたのが右の写真である。
避難している釣人が屋根の上に写っているそうだ。
奇跡の生還といわねばなるまい。



このような奇跡を起こした雄島であるが、2つの祠の他にも島に残されている開発の痕跡について、町誌に触れているところはなかった。
(町誌には町道の一覧表が掲載されていたが、雄島に町道の認定はないようだ。)
昔の雄島の状況が知りたい。
そう思った私は、秋田県在住の地の利を活かして、地元紙『魁新報』の見出し検索から、バックナンバーに登場する雄島を探した。そして1本の記事に出会った。


『秋田魁新報』昭和42年5月12日夕刊2面より

昭和42(1967)年5月12日の夕刊2面に掲載されていた「沿線スナップ」という連載記事に、雄島が1枚のモノクロ写真と共に紹介されていた。
文章を一部抜粋して紹介する。

ラクダの背中のように二つのコブのような山をいただき、その高い方を雄島、低い方を雌島と町の人たちは呼ぶ。
この雄島は安山岩の突起部でできたといわれるが恵比寿、弁天と“漁の神”を祭るお堂があって出漁前の漁師たちの信仰も厚く、いわば八森漁港の“守護島”でもある。またこの雄島には弁慶が車を引いたといわれる轍が風波にさらされた岩に深く刻みこまれるなど伝説的にも興味深い島でもある。
シーズンともなると県の中央部や近隣市町村から繰り出した海水浴客が渡し船で雄島に渡り、島に設置されたアズマ屋で涼をとりながら八森漁港から出漁する船舶の群をながめたり、島内にこもる伝説で往時をしのんでいる光景がしばしば見受けられる。
『秋田魁新報』昭和42年5月12日夕刊2面より

これが、私が生まれる前の昭和42年当時の雄島観光の風景だったようだ。
夏場だけかも知れないが、海水浴客相手の渡し船があったこと、そして島には祠だけでなく、東屋があったことなども分かる。

掲載されている写真を見ると、確かに雄島の頂上に立派な東屋が見える。津波で流されてしまったのか、今は跡形もない。
雄島と雌島の間の橋は、どうだったのだろう? 写真だと、ちょっと判別が出来ない。
また、写真に写っている小舟が、島へ渡る船だったとしたら、なかなか古風に徹している。

魁新報には、この4年後にあたる昭和46年8月1日の号に掲載された県内の名所を巡る連載記事の八森町の回にも、雄島が登場していた。
今度は写真はなく短い文章だけだが、「八森駅から雄島海上公園までは徒歩で5分。モーターボート、水上スキー、渡船がある。」と紹介されており、海上公園というネーミングとあわせて、装備が近代化されている雰囲気だ。水上スキーなんて、やっていたのだろうか?

この記事で、そういえばと思い出したのが、旧八森町時代の平成15(2003)年に町内の岩館海岸で目にした、昔ながらの遊覧ボートだ。
同じ八森町でも、岩館海岸と八森海岸は数キロ離れているので、これが雄島で使われていた可能性は高くないかも知れないが、これを見つけた当時でさえ懐かしさに包まれていたこのボートなら、もしかしたら昭和40年代から50年代にかけて、雄島と本土の間を行き来していた可能性もあると思った。

ちなみに、雄島を含む旧八森町の海岸一帯は、昭和39(1964)年7月に八森岩館県立自然公園に指定されており、これは県ぐるみでの観光地化が進められる契機となったと思われる。この県立公園の指定区域は海上にも広がっており、中でも雄島は海上公園部分の中心的な景勝地であった。
また、これより前の昭和27(1952)年には、秋田魁新報社が主催した読者投票企画『第1回秋田県観光三十景』において、「八森岩館海岸」が3万6000余票を得て第23位に選ばれており、雄島を中核とする八森海岸の風光は、当時の秋田県民にはよく知られていたようだ。

昭和40年代までは地方観光地として一定以上の賑わいをキープしていたと思われる雄島が、なぜ今日は渡船もなく、観光で訪れることが難しくなっているのか。
残念ながらこの間の事情を語る資料がなく、判明しなかった。
単純に観光地間の集客競争に破れて、規模を縮小していっただけなのか、それとも昭和58年の津波被害が後を引いているのか、はたまた全く別の理由があるのか。
ただ、島の現状を見る限り、バブル期の乱開発らしき痕跡がないことから、近年の無謀な開発で派手に散ったわけではなさそうだ。まるで潮が引くように、静かに観光地としての終焉を迎えて、地元の人たちの愛島に戻ったのではないかと思う。



……で、一旦はここまでの成果で、机上調査を終えかけたのだが、読者さんからの情報によって、雄島を撮影した戦前の絵葉書があることを知ったために、私がこれまで思っていた以上に開発の歴史が深いことが判明した。

まずは私が1150円+送料を支払って購入した1枚の絵葉書をご覧いただこう。



戦前の絵葉書より

(椿名所) 清遊地雄島 (工藤薬店発行)

残念ながら、正確な発行時期は不明なのだが、ほとんど一目惚れで購入してしまった。
しかし、解像度の低いサンプル画像では分からなかった島の上の細かい部分が見えて、大満足である。

人物の服装などから見て、戦前の絵葉書であることはまず間違いないと思うが、
昭和42年の新聞写真よりも遙かに多くの建物に、島全体が彩られているではないか!
2つの祠と、山頂の東屋だけではなかったのだ。 これほど多くの建物が島に設置されていた時期があったのかと驚いた。



しっかり“橋”も写っている!!!

【ここ】に架かっていたのは、やっぱりというべきか、太鼓橋だった!

昔の観光地っていったら、こうでなくちゃね!

それにても、島に立ち並ぶ建物の多いことよ。

我々が最初に上陸した【この辺り】には、高床式の建物が2軒も写っている。

また、雄島山頂の右下、我々が【小さな広場】と呼んだコンクリート敷きのスペースにも、東屋が写っている。



雄島の観光地としての本格的開発は、モータリゼーションを柱として進んだ戦後の観光ブームの中ではなく、観光を“清遊”(世俗を離れて風流な遊びをすること)と呼ぶことが盛んだった戦前の空気の中で進められたらしいことを、この絵葉書は物語っていた。

秋田県立図書館で、編集発行人・日沼浩一の名が奥付にある、平成3年刊行の『郷土史集 八森の明治大正』という本を見つけた。
日沼という姓は八森に多いらしく、明治10年造立の恵比寿青銅像に刻まれた「願主・日沼吉左エ門」と一致していた。
そしてこの本には、町誌から漏れていた戦前の雄島開発に関する内容が、10ページにもわたって詳述されていたのである。

全文を抜き出すとさすがに長いので、箇条書き風に抜粋しながら紹介しよう。


いつの頃より雄島と呼ばれるようになったのだろうか、また弁天島といわれたふしもあるがさだかでない。雄島の西方沖合に深い底石があり、弁天と呼ばれています。
雄島の草花をつみ採り持ち帰ろうとすれば、海が荒れてくるといわれている。
幾度か松や椿などの植え付けが試みられてきたが活着しなかった。
昭和初期頃まで、地酒に「雄嶋」がありました。銘酒白瀑の山本合名会社で出したものです。

『郷土史集 八森の明治大正』より

上記のような私にとっての新情報を含む雄島のプロフィール紹介から始まり、いよいよ話は本題である、観光開発の経緯に入っていく。

明治44年に出された県勢振興論で、奇岩怪石の点在する景勝地、八森岩館海岸も取り上げられております。たんに景勝に恵まれているだけでは如何ともしがたく、第一に交通が不便である。第二に受け入れ施設が不備であると指摘されております。
明治39年9月には奥羽線が全通し、能代山本郡も鉄道が身近なものとなった。大正11年には五能線も着港された。大正14年ついに椿駅(現八森駅)までレールが敷かれる。観光も事業として着目される時代になった。
五能線能代、椿間の開通が大正15年4月に決まる。それにあわせるように中浜の地先海上、雄島を拠点とした観光事業の構想が練られていた。大正15年3月、中浜の山本豊太郎、工藤吉治ほかが、株式で観洋社を創立し事業を始める。
大正15年5月11日、観洋社の創立総会が中浜の納谷源楼において開かれた。
観洋社に関した資料は少なく、今に残るはかすかな施設の跡のみです。

『郷土史集 八森の明治大正』より

『郷土史集 八森の明治大正』より

同書には、大正15年6月23日に撮影された雄島開場式の写真が2枚掲載されており、そのうちの1枚がこれである(→)。(もう1枚は雌島の岩場で撮影した人垣の記念写真だが、略)
この開場式には、紋付き、洋服、制服で正装した60余名の関係者や招待者が臨み、能代の芸妓8名が花を添えたそうだ。

島にあった橋の在りし日の近景を、ついに発見した!

橋の形は、想像していたとおりである。
木製の太鼓橋で、方丈の支柱が下を支えている。
20人くらいの大人が乗っているが、ビクともしていない。
この橋には名前も付いていたと思われるが、残念ながらそれは伝わっておらず、不明である。

今も両岸の【橋台は健在】で、石とセメントで作った構造物の頑丈さがよく分かる。この高さなら津波にも呑まれただろうに。 橋台を見て古そうだとは思ったが、まさか大正時代まで遡るとは驚いた。しかも、この写真の状況から、道が大幅に拡幅されたり橋台が補強されたりした形跡もないので、この大正時代の観光開発の名残を我々は島で目にしたようだ。

観洋社は、開場式前の短期間で、次のような観光施設を島の内外に整備したらしい。(1番以外は全て島内の施設)



『郷土史集 八森の明治大正』より
  1. 観洋閣、料亭宴会場として中浜海岸に建てられた。古老の話によると、建物は普通程度のもので、名称ほど立派ではなかった。
  2. 渡舟場、雄島の正面に自然の良好な舟入り間があり、セメントで仕上げる。
  3. 、雌じまと雄じまを結ぶ掛橋で、写真により木橋であることがわかる。
  4. 貯魚所、いけすであり天然水族館であった。大正15年3月、八森村漁業組合に200円の補助金を申請している。
  5. 売店、雄島の渡舟場すぐに、2坪位のコンクリートたたき跡があった。
  6. あずまや、雄じまの山上と2棟あった。貯魚所の横に建っているのが写真に写っている。その後なん回も台風で飛び、建てかえられてきた。
  7. 、1坪余で木造であることが写真でわかる。現在の祠はコンクリート造りであるので、昭和になってから建てられたものです。
  8. 野宴場、雌じま側上部のやや平らな所を野宴場とし、天幕の支柱を固定するため、コンクリートの杭柱を設置した。
  9. 旗柱
『郷土史集 八森の明治大正』より

右図は、郷土史集の著者が描いた島内施設の再現図だが、私が購入した先ほどの絵葉書とは、建物の配置があまり変わっていない。
(絵葉書は“橋”のすぐ下に大きめの建物が1棟増えているくらいだ)
おそらく、あの絵葉書はこの年代に撮影、発行されたものなのだろう。

また、現在の島と比較すると、我々がカヤックで上陸した【船着場】は、この大正末に整備された“渡舟場”だと思うが、もう一つの港である(壊れた)【船揚場】は、昭和以降に建造されたものなのだろう。

また、我々が【堤防】【防波堤】と考えたものは、実は別のものであったことが判明した。
なんと、これらの石堤で囲まれた左の写真の部分は、巨大な“貯魚場”(いけす)だったというのである。

当時、観洋社がどのような土地を範として、この大掛かりな観光開発を進めたのかは不明だが、都人士にはまだまだ北辺の寒漁村のように思われていただろう八森の地に、これほど風趣に富んだ島遊びの舞台が整えられていたとは、驚くよりない。

盛大な開場式の後は、開通成った五能線に乗って多くの人が訪れたようだ。
たとえば開場式翌月の7月17日には秋田県水産試験場長が来訪、8月12日には八森村議員らが遊覧視察、8月16日には“菱刈師団長閣下”(青森県弘前にあった帝国陸軍第8師団か)が遊覧したという。

歴史上、最も雄島が輝いていたであろうこの時期の記録を、もう一つ発見した。
昭和3(1928)年に編まれた『山本郡探勝案内』という観光ガイドに、今でも八峰町の観光地としてよく宣伝されている三十釜などと一緒に、「雄島」の一項が設けられていて、文章のみであるが、次のような宣伝豊かな解説がなされている。

雄島

椿駅に下車し二三丁にして中浜部落海岸に達す、海浜より沖合僅か百間、徐行したる列車は椿駅に近づけば既にして車窓に映ずる一つの孤島がある、即ち雄島と称し、手にするように双眸に収めらるべし、島は茂浦、椿の両部落有なれども観洋社の賃貸権利に属す、観洋閣を始めとして恵比寿館、弁天館其の他アズマ屋がある、右手は巍然聳立し頂上に弁財天を祀る堂あり、左手はやや平行にして数百人を収容するに足る、一樹の風致なけれども岩人参、野ビロ等の植物が岩の割目に生えている、岩人参は男服用して精力旺盛なれども、女用いれば余りに強く不妊症に陥る程、霊効あり朝鮮人参の遠く及ぶ処にあらずと


“野ビロ”も精力旺盛になるけれど、島には
これを上回る“岩人参”が、あったらしい…

▲雄島案内 雄嶋の風光は西南に男鹿の遠望、西北は岩館の奇岩奇勝一望に集り背に北羽アルプス呼応し、真に遊覧の好適地たり
養魚池、期節サマザマの鮮魚を沢山放流しお望みにより食膳に供す、なお釣竿の準備あり名物アブラコ釣り等にて愉快なる一日の清遊が出来る
遊覧船、雄嶋遊覧用として発動機船の設備あり(海岸にお待合所第二観洋閣完備せり)又お望みにより随時岩館方面の遊覧も出来る
椿海水浴場、飛櫓、脱衣場の設備あり、波静かにして危険物なく雄嶋間の遊泳容易なり(雄嶋間約百間)
貸ボート、九月頃まで貸ボートを備付せり雄島の一周、付近の遊航も又快なり
御料理、お好みに応じ一品づつにても迅速に新鮮のところを調理致します
遊覧の季節、五月より十月までを最適とす、イワシ漁は五月中旬よりにして漁船海を埋めすこぶる壮観なり
団体、の待遇に対しては便宜取計らいます、休憩所、雄島の眺望よろしき処に第一観洋閣、恵比寿館、弁天館を設けお休憩の用に供す
お土産、マス、イカ、小鯛、あはび等の新鮮なるものあり、其の他名勝に因んで白瀧もち雄嶋羊羹などの名物もあり

『山本郡探勝案内』より

上記の観光ガイドからも、いろいろ気付かされることがあった。
しかし、個人的に一番驚いたのは、この昭和3年当時、白神山地を指して北羽アルプスという呼称があったことだ。
戦前は白神山地という名前は一般的でなく、弘西山地と呼ばれていたという話を聞いたことがあるが、北羽アルプスは、ずいぶんとまた、盛って…。

……ともかく、昭和初期まで、観洋社の観光事業もうまく行っていたようだ。
しかし――

雄島観洋社はいつまで続き、いつ終わったか、その事業経過はわからない。
夏場だけの海では事業は成立しなかった。

『郷土史集 八森の明治大正』より

――という文章で、郷土史集の記録は閉じられており、観洋社による事業はその後あまり長続きせず、数多の遺構を島に残しながら、雄島観光は一度途絶したようである。
それが戦後におそらく町が主導して進めた再開発に直接結びつくこともなかったようだ。




無人島にも歴史あり。

新兵器“Explorer K2”の来訪を待つ島は、まだまだ日本中にあるだろう。

あなたが“道”を知りたい島を、(カヤックで辿り着ける範囲内で…苦笑) こっそり教えて欲しい。

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完結。



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