ミニレポ第257回 長野県道278号大野田梓橋停車場線 封鎖区間 後編

所在地 長野県松本市
探索日 2018.11.09
公開日 2021.10.03

上高地からの帰りに見る「通行止」の青看の向こう側


2018/11/9 15:56 《現在地》

いま、2箇所目のバリケードを素知らぬ顔で通過したところだ。
そして、別れを告げた「難路注意」の里、大野田を振り返っている。

この第2のバリケードは、管理車両や復旧のための工事車両が通す余地も残されておらず、管理者である長野県および松本土木事務所が、通行止から5年あまりを経過したこの道に、どういう態度で臨んでいるかということが、ここから見える気がした。

端的に言って、この県道をこのままの形で復旧させるつもりはないのだと思う。
県道自体はいずれ復旧されるかも知れないが、少なくとも今いるこの部分については二度と利用するつもりがない……。そんな予感がした。




第2のバリケードを越えた途端、一気に廃道らしくなってしまった。

しかし、実は道路の荒廃の度合いとしては、全然大したことはない。
路上に大量の落葉が堆積していて、その落葉を養分として草まで育ち始めているせいで、いかにも廃道らしい見た目になっている。
道を塞ぐような大きな落石はまだ見当らず、とりあえずこの辺りについては、掃除さえすれば直ちに車を走らせることが出来そうである。




たかだか5年、されど5年。
放置の中で過ごした年月は、一夏ごと、一冬ごと、これほど道を生気のない姿へと変えてしまうのだ。

いわゆる廃道としては稀なことであるが、前述した通りここは通行止になる前年の2012年にストリートビューが撮られているので、探索時から見て6年前の現役時代の道路風景をつぶさに観察することが出来る。
たとえばこの場面は、現役当時はこんな景色だった。
どこにでもありそうな、1.5車線の県道風景である。別に怪しい道のようには見えない。

こうした道路状況の比較は、我々が日常的に利用している山岳道路が、どれほど手厚く細やかな維持管理の仕事によって存続しているかということを教えてくれるのである。



道は梓川の渓谷から15mほどの高さを切り拓いてほぼ水平に伸びている。
もともと傾斜が厳しかったと思われるところに、幅1.5車線から2車線の路面を敷くために、山側の法面を非常に高く鋭く削っており、典型的な落石が恐い崖道になっている。
だが、洞門やロックシェッドのような屋根を覆うタイプの防災施設はなく、落石防止ネットを法面全体に設置することで、落石が通行人を直撃する最悪の事態を防ごうとしている。

特に法面が高くなる直前の川側に、尖った自然石を台座のようにした1個の石仏があることに気付いた。
表面がつるんとした板状の川石を利用した碑で、「山御神」とのみ刻まれていた。
建立年を知る手掛かりもないが、無事の通過を神仏に祈りながら通過したくなるような難所として、この道が古くから存在していたことを窺わせる石仏であった。

危険な道を通行する人がなくなれば、祈りを捧げる人もなくなる。
とはいえ、石仏自体が神なのではなく、あくまでもその拠り所なのだろうから、ここに宿る必要がなくなれば、どこかへ移ったものと思う。




法面がさらに高く急になって、道の上に覆い被さる樹木がなくなったために、路面状況が改善した。
廃道化の進行具合が、道の険しさとは必ずしも比例しないパターンである。

そろそろ、通行止の原因となった落石現場があってもおかしくない感じだ。
だいぶ先まで川べりの地形が見通せるが、おそらくここから100mほどが最も険しい。

この険しさは、川の蛇行と最も密接に関係していて、ちょうど川岸がくの字に凹んでいるここは、
流水が勢いよく崖を削り続ける水勢の衝であったのだろう。道が護岸を作って侵食を止めても、
削られ続けた川岸の険しさは、今もここに残って、最後まで道を痛めつけ続けている。



同一ポジションの現役時代は、ご覧の通り。

現役の道路なのだから、別に不思議なことではないのだが、

奥の方に1台の白い乗用車が駐まっていて、近づくと運転席にいる男性の姿を確認できる。

だが、この車が駐まっている場所は、1年後――






っとなってた。

ついに現れた。通行止の元凶とみられる崩壊現場。

落石防止ネットを未練たらしく引っ張りながら、相当の量の落石が路上に覆い被さっていた。



15:59 《現在地》

ここは最初のバリケードの分岐地点から約500mの位置だった。
「最も険しい」ように見えた法面の一部が崩壊していた。
土砂は落石防止ネットを巻き込みながら落ちていて、そのおかげで、散乱せずに済んでいる。
最も圧迫されている部分の道幅は1mくらいにまで狭まっているが、それでも完全に塞がってはいないように見える。落石防止ネットさまさまである。

おそらく崩落直後に設置されたと思われるA型バリケードの整列していない様子が、現場の慌ただしく物々しい雰囲気をうっすらと留めていた。
これを見て思い出すのは、ここからわずか3kmほど梓川を遡ったところにある国道158号三本松トンネルの旧道(猿なぎ洞門)のことである。
崩壊した年代は20年ほど違うが、唐突に棄てられた“災害廃道”の印象は共通している。
これらは偶然似通ったのではなく、この地域の道路のありがちな終末ということなのだと思う。




ガードレールと崩れた落石防止ネットの隙間は1m程度あるのだが、蔓延るクズの葉がその狭い残存路面を覆っていた。
しかし、我が愛車はそこをゴイゴイと踏み越えていく。
草の香りが鼻孔をくすぐる。
同時に、崩壊の向こう側が見えてきた。

…………。

もしかしたら、崩れているのはここだけではないかも知れない。
50mくらい先にも、こんもりと盛り上がったクズの草むらが道を塞いでいるように見えた。

チェンジ後の画像は、進行方向を望遠レンズで覗いたものだ。
路傍の電信柱の列が唐突に現れているように見えるが、あれはどういうことなんだ?



(←)
高さ20m以上もありそうな落石防止ネットが、クズに侵食されて、見事なグリーンカーテンと化していた。
しかもクズがいい具合に紅葉し、“ゴールデンカーテン”を出現させつつあった。
まあ、クズには悪いが、個人的な好みから言うと、うっとうしいとしか思えないが…。

落石防止ネットの構造は、こうしたツタが這って広がるのに無類の好条件を提供していると思うが、現役の道路でこんな風になっているのを見ることはほとんどない。
クズの成長力の凄まじさは今さら言うまでもないことで、全国の道路管理者の皆様のお手間には、ほんと敬意を表したいと思うのである。

崩壊の規模としては、さほど大きなものではない。
しかし、不運にも巻き込まれたら無事で済まないレベルだし、落石防止ネットを巻き込んでまで崩れてくることがはっきりしてしまった以上、ネットを張り直しただけで通行を再開させることは避けたのだろう。

もしそれで再び崩れて、今度は犠牲者が出たりでもしたら、道路管理者はきっと管理が適切ではなかったと訴えられるだろうし、公務員が刑務所に入る可能性もある。それが道路管理に関わる国家賠償法の現実である以上、道路管理者としては、リスクを冒してまで復旧して開通させたいと思わないのも無理はない。

少し穿った意地悪な書き方をしてしまったが、私が道路管理者でもきっとそうするから、それを責める気にはならない。
いくら路上に落石注意の標識や看板をたくさん置いても、実際に落石事故がおこれば、看板があったから責任を問わないとはならないので厳しいものがある。
道路上がもし完全自己責任の世界なら、“酷道”が日本中に溢れていただろう。



16:01 《現在地》

やはり崩壊は1箇所ではなかった!

前回の崩壊地点からほんの50mほど先に、もう一回り崩落量が多そうな落石現場があった。
原付バイクほどもある落石が、ネットを破って路上まで転がり出ていた。

両方同時に崩れたのか、そうでないのかはわからないが、今度の現場にはA型バリケードが置かれていないので、もしかしたらこちらは通行止になってから崩れたのかも知れない。
しかし、同時でもそうでなくても、短い距離と時間の間隔で2箇所も崩れるとあっては、ますますそのまま復旧して終わりという気にはならないはずである。




ギリッギリだけど、今度もなんとかガードレール際に隙間が残っており、自転車のまま走行が可能。

……まあ、藪が邪魔なんで、さすがにサドルからは降りて進んだけれど。
もはやこの行動には懐かしさすら感じるが、自転車を脇に抱えて草を漕ぐ。
濡れ草なんで、ちょっとばかり身体が冷えてしまった。

で、2箇所目の落石現場をすり抜けると――



16:04 《現在地》

背を向けたバリケードが現れた。

どうやら無事に崩壊区間を乗り越えたようである。とはいえ、もう少し封鎖区間は続いているようだ。
また、急に電信柱が現れたが、最後の電柱を伝って電線は地上に降りているようだ。その先は不明。
探索の6年前には、こんな感じの、なんてことない場面だったのだが……。



バリケード越しに、崩壊区間を振り返る。

廃道探索に慣れてしまった感覚だと、とてもイージーだったと考えるのが普通だろう。
人が自己責任で通る分には通れるけれど、車をもう一度通すにはリスクが大きい。それが私の感想。
安全な車道としてここを復活させるには、本格的にトンネル化する必要があるんだろうなぁ…。

たいへんだよな。現代の道路に対する安全要求度を満たすのは。




2回バリケードを越えてから、2つの落石現場を越えると、今度は進行方向に背を向けたバリケードを1回突破した。しかしまだ封鎖区間の中にいるようで、法面から滝のように垂れてきた大量のクズが道幅の大半を埋める“廃道ぶり”が続いている。

なお、今日は天気が優れなかったが、この夕暮れ時になって進行方向の松本盆地方面に大きな青空が現れ始めていた。
傾いた西日は、背にした飛騨山脈(チェンジ後の画像)によって既に隠蔽されており、もう本日中に日差しを浴びられる可能性はないが、明日から本格的に始まる今回の探索(この翌日から富山・石川方面を4日間にわたって探索した)に、吉兆を与えてくれていた。
今日この時間まで隠されていた青空が、とても無垢で綺麗だと思った。




そういえば、なぜかここまで川を撮影していなかった。
梓川がずっと路肩の急な斜面の下にあって、探索者には瀬音がずっと届いていたのであるが、ガードレールを隠す藪があったせいもあって、あまり目には入ってこなかった。
対岸は国道が走る旧波田町の前渕集落だが、道路や家並みは氾濫原の樹木に隠されて見えない。

上高地に源を持つ日本屈指の美渓が、ここで最後の峡谷的な部分を抜け出して、松本盆地に巨大な等高線の多重円を描き出す、日本最大級の梓川扇状地の始まりを告げようとしている。その旺盛な堆積力を秘めた川が、川幅をいっぱいに使って奔っていた。



16:07 《現在地》

一見何の変哲もないこの場所。

クズのせいで見通しがほとんどなくなっている法面の落石防止ネットに、なぜかクズが薄い部分があって、何気なくそこに目を向けたのだったが、なんと……




← 穴がある!

なんだこの唐突な穴は?
単なる岩陰とか凹みではなく、明らかに意思を持って掘られた奥行きを感じる。断面形も、いかにも人工の洞窟だ。
とはいえ、トンネルを掘るような地形でも方向でもないので、普通に考えれば鉱山の坑道跡?
あとは、地中に崖と平行する地下水路(発電?農業?)があって、その横穴という可能性も考えられる。結構硬い岩質を掘っており、本格的な資金力を投じて作られたのではないか。
(机上調査でも、この穴の正体は解明されなかった)

……残念だが、ここはマジで入りようがない。
落石防止ネットを破壊するか、下を剥がすか、いずれにしても工具を使って不可逆的な作業をしないと踏み込めない状況だ。
さすがにそれは許されないので、こんな近くに開口しているのに、マジで入れないのである。



16:09 《現在地》

前のバリケードから150mほどで、再びこちらに背を向けたバリケードが現れた。
落石現場を中心として、前後対称に2つずつのバリケードが用意されていたことになる。
これはもちろん偶然ではなく、2段階の封鎖ラインがあったということなのだろう。

この2度目の逆向きバリケードを超えた所から、また一段の路上の様子が改善する。
とりあえずまだ車通りは見えないので、ここから現役区間であるかは不明だが、確実に状況は良くなっている。

また、この場所には当沢という小さな谷があって、道をくぐっている。
この当沢は、平成17(2005)年まで安曇村と梓川村の村境になっていた。
現在は松本市の安曇と梓川上野という大字の境である。
かつてここの路傍には、市町村境の案内標識があったかと思うのだが、封鎖より前に撤去されたようで見当らない。


 

通算4回目のバリケードを越えて、旧梓川村に入っても、直ちに車通りが復活することはなかった。
それは当然で、そもそも転回場所もない行き止まりの道へわざわざ入ってくる車は少ないという予測が働くわけだが、実はそれ以前に、梓川側の封鎖は2箇所で終わりではなく、3箇所目があったのだ。これでは車が入ってくるはずがない。

当沢のバリケードから250mほど進んだところに現れた通算5度目のバリケードは、今までよりも簡易なA型バリケードで、傍らに1枚の工事看板が立っていた。
看板は、「平成30年11月末日頃まで地質調査をしています」という内容で、下の業務名の欄には「平成29年度防災・安全交付金(修繕)災害防除(地方道)事業に伴う地質調査業務」、業務内容「ボーリング10m×1本」、発注者「松本建設事務所計画調査課」などと書かれてあった。

どうやら、県道大野田梓橋停車場線の復旧は諦められていないようだ。
そのことがわかる内容に、ホッとした。
もっとも、いま辿ってきたルートを単純に復旧させるつもりはおそらくない。
もっと抜本的な改良のために、時間をかけて、調査をしているのだろう。


 

ボーリング調査と言えば、まずイメージされるのはトンネル計画のための地質調査である。
将来的には、右図の位置に約900mの新トンネルが誕生し、危うい元の道路より数段優れた通行体験を我々に与えてくれるようになるのかも知れない。
川崖地のトンネルによる迂回は、当地にほど近い猿なぎ洞門でも行われた整備手法であり、最も可能性が高いと思われるところであるが、これについては最後の“ミニ机上調査編”で改めて掘り下げたいと思う。

とりあえず、封鎖から5年が経過した時点で復旧していない県道も、諦められたわけではないと分かっただけでも成果は大きい。
成果を獲得して先へ進もう。




16:14 《現在地》

地質調査地点からさらに100m進んだところに、今度こそ最後と思われる、通算6番目のバリケードが現れた。
ここはもう八景山(やけやま)集落の外れであり、道が山岳区間から集落区間へ移り変わる境だ。そして、市道との分岐地点でもある。
梓川側の最終封鎖地点とみて間違いないだろう。

チェンジ後の画像は振り返って撮影したもので、【大野田側の最初の封鎖地点】で見た看板類とは対になっていた。
あそこからここまで、約950mの封鎖区間を20分で通過したことになるが、多少藪が濃かったくらいで困難な廃道ではなかった。2箇所あった落石も完全に道を塞いではいなかったのである。
しかし、このまま放置が続けば、やがては難しい廃道になっていくかもしれない。


県道は、完全に生気を取り戻し、2車線分の幅はあるが白線のないローカルな道路で、八景山集落を抜けていく。
雨あがりの日没後の集落は、すっかり沈んでいる気配だったが、松本盆地の向こうに広がる美ヶ原の山々を残光が照らしていて、なんとも幻想的だった。

私はこのあと、車を停めてきた大野田集落へ戻らなければならないが、来た道を引き返すのでは芸がないので、遠回りではあるが、このまま県道を前進して、この県道が別の県道と出会うところまでレポートを続行したい。
個人的なスタンスとして、通行止区間はその前後にある通行止の案内物を含んだ存在なのであり、そこも見届けたいという欲がある。
とはいえ、どんなに遠くまで案内物が存在するかは読み切れないので、とりあえず他の主要な道路との交差点までを区切りとするのが私の普段の立ち回りだ。
また、通行止になった道の生来の在り方を知る上でも、やはり前後の区間を体感することが外せないと思う。

というわけなんで、もう少しだけお付き合いいただきたい。



16:20 《現在地》
八景山公民館の前に同名のバス停があった。
ここが松本市コミュニティバスの終点であることが案内されていた。
実はこのすぐ先を右折すると、梓川を渡る人道橋(八景山橋)が存在していたのだが、私はそれに気付かなかった。

ここまで県道を起点から辿ってきたが、どのくらいの歴史を持つ道かを知る手掛かりは乏しかった。古そうなものといえば、難所の入口で見た【山御神】があったが、造立年は不明であった。
しかし、この八景山の集落は典型的と思える街村の形態を持っていた。バイパス化されていない現県道の両側に、家並みが細長く続いているのである。
この道には長い歴史がありそうだと察した。

チェンジ後の画像は、集落内にあった滝見堂というお堂で、本尊である観音像は元禄10(1697)年の造立であるという。



県道は八景山をユルユルと抜けて、美しい地名が続き、今度は花見と書いて「けみ」の集落へ入る。やはり歴史を感じる街村の風景があった。

この道は、一部区間が通行止となる以前から、ひっきりなしに観光バスが走る対岸の国道と比較すれば、よほど静かな時間を過ごしてきたようで、整備状況も全体的にローカル県道並である。
大半の区間が2車線の幅を持つが、集落内ではほとんど中央線がなく、歩道もない。
もちろんバイパス区間もなく、昔ながらの里道をそのまま拡幅した感じで、地形によらない微妙なカーブの多い経路になっている。

ローカル感は設置されている標識類にも現れていて、旧梓川村が設置した色褪せきった看板が、当然のように設置されたままになっていた。
道路状況が貧弱であるわりに、上高地への抜け道と思って爆走する車が多く、そのために事故が多発して手を焼いた。そんな村の場面が想像された。



花見をユルユルと抜けると、次は神田川(じんだがわ)の集落だ。
写真はこの境目の辺りから、梓川の谷を振り返って撮影した。
ここまで来ると、梓川は既に巨大扇状地の頭角を現わしており、両岸の平野はどんどん広くなっていく。 背後には、山脈の出入口に相応しい巨大な谷口が、風雲の空を三角形に切り取っていた。

ときおりこうして振り返って、通行止を予告する看板の有無を確認していた。
そしてここには、2.6km手前の最終バリケード以来と思われる看板があった。
「この先、落石のため通行できません。迂回をお願いします」と、率直に書かれていた。




神田川の次は、丸田集落。読みは普通に「まるた」でOK。
そしてこの集落内で、初めて別の県道と出会うことになる。
しかし写真はその県道出会いの手前で、振り返って撮影している。
ここにも、【大野田で見たもの】とは違う形の“安全門らしきもの”があり、しかし肝心の標語の類は掲示されていない。

また、ここには市道との分岐があり、おそらく旧梓川村が設置したものだろう素朴なデザインの青看が設置されている。
この古ぼけた青看についても、ちゃんと直進方向の行く先を消す加工が施されていた。フラッシュ撮影で消された裏地を浮き上がらせると、そこには梓川渓谷を36kmも遡らねば辿り着けない「上高地」の三文字が読み取れたのである。ちょっと熱い!

“安全門らしきもの”の正体について、地元の方から証言をいただいたので追記する。
「丸田地区の“安全門らしきもの”は地元の大宮熱田神社の祭りの際に提灯を下げるためのものです」とのことであった。
なるほどこのパターンもあったか。県道に堂々と提灯門とは、ローカル運用が心地よい。


16:36 《現在地》

大野田の県道起点から5.7km、最後の封鎖バリケードを抜けた地点から4.8kmほどで、信号のない五差路にぶつかる。
旧梓川村が設置したスクールゾーンの標識には、幻覚じみた児童が描かれており、サイケデリックだ。
ここで出会うのは格上の主要地方道である長野県道25号塩尻鍋割穂高線であり、愛称として案内されている「日本アルプスサラダ街道」の名前の方が通りが良いと思われる。

この交差点を左前方へ進むのが県道278号線の順路だが、ここから2km間は県道25号線との重用区間となる。
ここから県道278号の終点である梓橋駅までは、なお8kmの道のりがあり、総じて梓川扇状地を集落を点綴しながら下っていくことになるが、私の探索はここまでとする。




これは県道25号線側から振り返って撮影した上記交差点の青看である。

県道278号線である直進の道路の行く先である「上高地」が消されて、左折の行く先へ移動していた。
しかし、通行止となる以前は、県道278号線が上高地入りのルートとして、確かに案内されていたことが分かった。

また、松本建設事務所が設置した「この先通行止左折願います」の立て看板は、傾きながら設置されており、封鎖から5年あまり案内し続けてきた疲れを感じさせる姿であった。
この看板を取り外せる日はやがて来ると思うが、まだ当分先であろう。




今回のラストショット。

上記交差点の状況を示している。
決して見逃されまいと大きめの「全面通行止」の看板が設置されているが、まだ行ける集落がいくつかある中で、どこが崩れているのか書かれていないのは、需要があまりないかも知れないが、少しだけ不親切だ。

私はこのあと県道25号経由で梓川対岸の国道158号へ出て、走り慣れた道で大野田集落へ戻った。
現地探索についての報告は以上である。

帰宅後、梓川の両岸を分担している国道と県道の歴史や、県道の復旧計画について少し調べてみたので、最後にそれを補足して完結としたい。




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