<1> 県道278号大野田梓橋停車場線の由緒 (歴史調査編)
約1kmにわたって封鎖されている県道大野田梓橋停車場線。
封鎖された事情は落石ということで珍しくはないし、また封鎖の状況にも特別不審な点はない。
探索後、手許にあった資料からこの道の由来を調べていくと、最終的に行き着いたのは江戸時代の“街道”であった。
それなりに歴史がありそうな道路の由来を調べていけば、街道に行き着くのは良くあることなのだが、現状を見る限りにおいて、このまま大野田と八景山を結ぶ区間の現道は永久に失われそうな気配もあるだけに、この機会に“ありがちな歴史”であっても記録しておくのは無駄ではないと考え、本稿を記すことにした。
より詳しく歴史を知りたいと思われる方は、適宜挙げる参考文献にあたって欲しい。
結論を述べると、今回探索し紹介した範囲の県道278号線の区間は全て、現代の歴史家が「野麦街道」、「野麦道」、「飛騨街道」などと呼ぶ、近世以前からある街道に属していた。
長野県教育委員会がまとめた『長野県歴史の道調査報告書IX 野麦道』(以下『歴史の道』と略)に、昭和57年当時における遺構の現存状況と、近代以前までの歴史的解説が詳細に述べられているので、本稿もまずはその記述を頼りに書き進めていく。
「野麦道」は、信濃国の松本地方と飛騨国の高山地方を野麦峠を介して結ぶ経路であったことによる名称だが、近世においては一般に統一された道路名というものはなく、たとえば信濃側からは「ひだみち」、飛騨側からは「ぜんこうじ(善光寺)みち」などと呼ばれることが、(現存する道標石の記述を見る限り)多かったようだ。
海抜1672mの野麦峠は、飛騨国と信濃国を結ぶ峠としては最も知名度があると思われる古い峠だが、明治から大正時代にかけては、飛騨地方の貧しい農家の子女たちが季節ごとに諏訪盆地の生糸工場へと出稼ぎに越えた難路として特に著名であり、歴史の教科書にも名前が出ているほどである。
しかし、昭和13年に松本と高山をより短距離で結ぶ安房峠に自動車道が開通したことで交通の主軸が移り、現在の国道158号は安房峠経由で松本と高山を結んでいる。とはいえ今回紹介した区域については、野麦峠道と安房峠道の共通経路上にある。
次に掲載する地図は、最新の地理院地図と、明治43(1910)年版の地形図の比較である。
現代の「飛騨街道」である国道158号の経路は、明治末年の地形図にも「県道」を示す太い二重線で描かれており、今回のレポートの冒頭で登場した「新淵(渕)橋」を介して同道が梓川の左岸と右岸を連絡しているのも今と違いがない。
一方、この新渕橋の袂から始まる、現在の県道278号線にあたる経路は、「里道」の中で最上位である「達路」の記号で描かれており、現在封鎖されている区間も含めて、当時から道があったことが分かる。
ここで、新渕橋が存在しなかった状況を想像してみて欲しい。
この橋がないと、左岸を下ってきた飛騨街道は大野田から右岸の赤松へ移ることが出来ないので、そのまま左岸の八景山へ向かうことになる。
これに近い状況が、近世以前の飛騨街道にはあったということが、『歴史の道』に書かれていた。
ただ、実際にはもう少し複雑であり……、 次の図を見ていただきたい。
『歴史の道』には、明治以前の飛騨街道には夏道と冬道と呼ばれる二つの経路があって、それぞれ梓川の右岸と左岸にあったということが書かれていた。
同書の記述を元に、明治43年版地形図上に夏道と冬道を赤線で再現したのが、上の地図である。
飛騨側から来た道が夏道と冬道に分かれる稲核(いねこき)は、ぎりぎり地図の南側範囲外なので描かれていないが、右岸の高台にあった稲核宿から、そのまま右岸を通って松本城下を目指すのが夏道で、稲核を出ると間もなく梓川を(現在の稲核橋よりも上流の稲核ダムの湖底付近で)渡って左岸へ移ると、島々、大野田、焼山(後に火災を嫌って八景山に改称したという)と、左岸を通って松本城下を目指すのが冬道であったという。
ちなみに、右岸の橋場には松本藩が設置した橋場番所があって、通行人を検めていたというが、冬道はそれを避けていたのだろうか。
そもそも、「夏は涼しい梓川右岸を通り、冬は日当りのよい梓川左岸を通る」という『歴史の道』の説明は、わざわざ2本の道を維持し続けるたいへんな仕事への理由付けとしては少し弱い気もするが、少なくとも近世から両岸に道が存在していて、地元ではそれらを「夏道」「冬道」と呼び慣わしてきたのは間違いないことであるようだ。
そして、今回辿った大野田から八景山へ至る左岸の難所には、“欠の下”(がけのした)という、いかにも難所と分かる名前があったことも分かった。
冬道の経路や現存する遺構に関する説明で、次のような記述があった(抜粋)。
上丸田には猿田彦名と道祖神がある。花見には馬頭観音(文政八年)、大日如来(安政四年)、庚申塔(明和三年)、山神碑がある。焼山には滝見堂に石碑群があり、欠の下に山御神碑がある。
『長野県歴史の道調査報告書 野麦道』より
左岸の冬道も、最終的には右岸へ戻り、夏道と一緒になって松本城下を目指していた。
この戻る地点(=梓川渡河地点)は、現在の新渕橋付近や、もっと下流(先ほどの地図の範囲より東の外側)の立田にあり、いずれも架橋はなくて渡船場だった。
前者で渡れば“欠の下”の難所を通らず済んだと思うが、渡らず進んだ先の立田からは善光寺への近道(現在の長野市へ向かう道)が分かれていたから、近世の善光寺詣でが全国的集客力を有していた実態に照らせば、“欠の下”を通る冬道にも大きな需要があったに違いない。
そしてこのために、八景山や花見の集落は、今回レポート内で触れた通り、街村的な景観を持つに至ったのだろう。
右の画像は、『歴史の道』に掲載されていた「がけの下」の現道風景で、昭和50年代中頃の撮影だと思う。
現在の状況と比較しても、同じ道であることがはっきり分かる。道幅も変っていないようだ。
大野田付近における現在の国道158号の経路と、明治以前の飛騨街道(野麦街道)の経路の最大の違いは、新渕橋の有無である。
この橋が架かったことで、夏道と冬道に囚われない、両岸を行き来する経路に固定されたように思われる。
新渕橋の来歴について、『歴史の道』には次のような記述がある。
明治2(1869)年上波田村・大野田村で新渕橋架橋の願いを出した。願書の中に「当村(上波田村)字上赤松に是迄渡船を相立てていましたが、(中略)満水の時には総て通行できず、御用炭は勿論すべての人馬等に差支え困っております。殊に川向の焼山村・大野田村の間にはがけの下と申難所があります。冬になると人馬も命を掛て通行します…」とある。両岸の住民が巾9尺長さ20間の橋を完成したのは翌3年であった。
このように、新渕橋は明治に入って間もなく、上波田村と大野田村の人々が協力して架けたもので、この完成によって、従来の夏道を冬道を行き来するかたちで集落を結ぶ、現在の国道の元となるルートが出来たのだった。
なお、現在の県道278号線の起点にあたる新渕橋の袂には、この橋の来歴を記した昭和39年建立の巨大な頌徳碑がある(右図矢印の位置)。
また、頌徳碑よりもさらに詳しく橋の経歴を述べたものとして、平成9(1997)年に刊行された『安曇村誌 第2巻』がある。
本橋の位置は、かつての波田町と安曇村の境であり、村の入口にあたる重要な橋であっただけに、記述にも熱が入っている。
新渕橋の長大な来歴を全て述べることは本稿の主題から外れるのでしないが、同書の記述を少し拾うと、明治3年の新渕橋の架橋以前にも、橋は存在したらしい。
近世から、今回探索した“欠ノ下”の岩場の一画に、冬場の渇水期だけ利用できる「欠ノ下冬橋」という刎(はね)橋があって、これを左岸の島々村と大野田村が分担して維持した。これは両村の生業だった薪の販売先を右岸の村へも拡大するために松本藩の許可を得て架設したもので、毎年春の出水期前に取り外して部材を保管し、冬になるとまた架けることを繰り返していた。
しかし、欠ノ下の橋は両村から遠く不便であるとして、天保6(1835)年に、まさに現在の新渕橋の位置に橋を移して「大野田冬橋」とした。
冬橋は11月から3月まで架けられていて、「他村の者も挨拶もなしに通れた」そうで、「この谷では冬と夏では日向、日影によって道を変えたなどと説く人もあって史実に反する」と、暗に『歴史の道』の記述を否定することが書かれている。つまり、冬場は日向となる左岸を通ったというのではなく、冬場は冬橋が存在するからこそ、集落が多く便利な左岸を通ったのだという説である。(私もこの方が説得力があると思う)
『安曇村誌 第4巻』より
明治3年に通年利用できる木造刎橋の新渕橋(この橋は当初名前が異なり「龍淵橋」といったそうだ)が完成したが、明治12年に初めて県費によって架け替えられ、明治39年にも架け替えられている。そして昭和6(1931)年に初めて永久橋となった。この新渕橋は近年まで重交通に耐えてきたが、現在架かっている橋は平成8(1996)年に架け替えられたものである。
左の画像は、昭和6年架設橋の古い写真だ。
昭和初年代の撮影とみられるが、街灯付きの立派な親柱が威風を漂わせる荘厳な上路鋼トラス橋である。
対岸に見えるのは大野田集落であり、旧地形図によれば、橋を渡った先は丁字路になっていて、右へ行くと“欠の下”の道へと通じるはずだが、この写真を見る限り、そこに自動車が通れる道があったようには思えない。
現在の県道278号線よりも大分低い崖沿いに道形らしきラインが見えるが、大分狭そうである。あれが近世以来使われてきた“欠の下”の古道の姿なのだろうか。
新渕橋の通年の架設によって、それまで野麦街道の“冬道”として頻繁に利用されていた“欠ノ下”の道――現在の県道278号線の経路が一定の衰退を来たしたことは間違いないと思われるが、これに関する記述は新渕橋の歴史の陰に隠れてか、発見できなかった。
明治4(1871)年に成立した筑摩県は、旧来の信濃国の南部(南信)と飛騨国を合わせた広大な区域を管轄し、県庁が松本、支庁が高山に置かれた。野麦街道は同県の県庁と支庁を結ぶ最重要路線として整備が急がれたものの、明治9(1876)年に筑摩県が解体されて、南信と北信を合わせた長野県と、飛騨国を主体とする岐阜県が成立すると、野麦街道の重要度は一歩後退した。それでも同年に野麦街道は県道三等に指定されている。
大正9(1920)年に野麦街道は旧道路法下の府県道松本高山線となり、大正末には上高地を舞台とする電源開発のため順次の自動車の通れる道路へ改良されていった。
そして昭和28(1953)年には現行道路法下の二級国道158号福井松本線となり、昭和40(1965)年に一般国道158号となって現在に至る。
『長野縣明細地図』より抜粋
対して“欠ノ下”の道は、明治時代には里道であったようで、路線名は分からない。
しかし、大正12(1923)年に府縣道梓槍ヶ岳線という聞き慣れない路線の一部になって、そのまま旧道路法時代を過ごした。
そして昭和34(1959)年に、現行道路法下の県道大野田梓橋停車場線に認定されて、現在に至っている。
右図は、昭和12(1937)年に信濃地図研究会が発行した『長野縣明細地図』の昭和20(1945)年訂正版であるが(飛騨市民氏提供)、ここに壮大な路線名のわりには現在の県道278号線の半分ほどの長さしかない府縣道梓槍ヶ岳線が描かれており、確かに“欠ノ下”を通っていることが分かる。
梓槍ヶ岳線の梓とは、昭和30年に隣の倭(やまと)村と合併して梓川村となる以前の梓村のことで、現在の下立田に村役場があった。
槍ヶ岳はなんと、日本第五位の高峰で、北アルプスのシンボル的な存在である槍ヶ岳(3180m)の山頂を指している。
梓槍ヶ岳線は、起点の立田から6.5kmで大野田に至り、そこで府縣道松本高山線にぶつかると、その後はさまざまな路線と重複しながら(2度と単独区間がないまま上高地を通り、現在の登山道を辿って)最終的には起点から60km離れた槍ヶ岳山頂に至るという、たいへんトリッキーなルートであった。
この府縣道梓槍ヶ岳線の僅かな単独区間であった立田〜大野田の区間が、具体的にどのような整備を受けたかの記録は、『安曇村誌』にも記述がなく、残念ながら分からない。
さきほど『歴史の道』の写真を見てもらったが、昭和50年代には十分に自動車が往来していたようであるから、“欠ノ下”を大規模に車道へと作り替える難工事は、明治から昭和までの広いタイムスパンのどこかで行われたとしか分からなかった。
今回探索した県道の区間の全体が、明治以前の野麦街道(飛騨街道)の一翼を担う重要な道であったことが分かったのは、今回の歴史調査の最大の収穫であった。
あわせて、夏道と冬道という、おそらく新渕橋の季節的架設状況に応じて道を切り替えて利用するという、興味深い交通史上のレアな事象があったことも記録しておきたい。
<2> 落石事故の顛末と、封鎖区間の今後について
歴史ある県道を襲った落石災害の顛末と、今後の復旧の見通しについて、調べてみた。
まず、被災前の平和であった当時の状況については、本編中でも紹介したとおり、平成24年(2012)年6月に撮影されたグーグルストリートビューが利用できる。
ウィキペディアによると、この県道が通行止になったのは、平成25(2013)年4月5日からとのことであるから、通行止になる8ヶ月前の道路状況を見ることが出来るのは、今となっては非常に貴重なものといわざるを得ない。(やがてアップデートによって見られなくなるだろうが)
被災前の状況を物語る記録としてもう一つ、松本市議会の会議録を検索してみたところ、平成17(2005)年6月定例会で、議員の一人が大野田梓橋停車場線の改良についての要望を述べているのを見つけた。
「梓川地区から松本、あるいは安曇野に通じる幹線だが、道幅が狭いうえ、崖の下と称する地籍は落石の多いたいへん危険な状況にあるので、早急な改良
」を要望したのである。これに対して答弁に立った市の建設部長は、「現在は梓川地区で釜ノ沢から焼山(八景山)という地籍をやっているが、これに引き続いて大野田まで改良を延長していただくよう県に要望してまいりたい
」という趣旨のことを述べていた。
近世以前から難所として記録があった“欠の下”は、もっと平易な“崖の下”という同音異字の地名となって、現代でも引き続き県道に不安と危険を与えていた状況が分かる。
しかし、このときはまだ、喫緊の事態ではなかったのだろう。
具体的な改良整備計画の樹立・実行がないまま、ついに被災の時を迎えてしまったのである。
現在の全面通行止に通じる落石事故の顛末については、平成24(2012)年7月31日に開催された第2回松本市梓川地域協議会の会議録が詳細であり、とても参考になった。
これを読んでまず驚いたのが、現在継続している全面通行止が始まる前年にも、1年以上の長い全面通行止が行われていたという事実だった。
さらに、現在継続している全面通行止が始まったのは、ウィキペディアの記述よりも10ヶ月早い、平成24(2012)年7月9日からだったことも判明! したがって現在公開されているストビューは、通行止になる先月(もし撮影が6月30日ならわずか10日前!)の状況を撮していたのである! こえぇ…。
具体的には、全面通行止に至る次のような経緯が記されていた。
経過 | |
平成22(2010)年2月19日 | 落石による自動車損傷事故発生 |
2月28日 | 落石による自動車損傷事故発生 |
3月1日〜4月6日 | 全面通行止(応急工事) |
5月21日 | 落石による自動車損傷事故発生 |
6月7日〜 平成23(2011)年10月24日 | 全面通行止(調査及び落石対策工事) |
平成24(2012)年7月8日〜9日 | 落石発生 |
7月9日〜 | 全面通行止 |
……このように淡々と経過が述べられているのだが……、やべえ匂いがプンプンするッ。
詳しい事情は分からないが、この記述が正しいとすれば、まず平成22年2月(にゃんにゃんにゃん)に2(にゃん)回落石があり、2回とも自動車に被害を与えている。2回目の事故の翌日から約1ヶ月の間、全面通行止にして、応急的な工事をしたらしい。そして通行を再開して2ヶ月もしないうちにまた落石があって、また自動車に被害を与えているのである。
この「自動車損傷事故」というのは、おそらく走行中の車両に落石が直撃したわけではなく、路面にあった落石に車が乗り上げた事故だと思うが、それにしてもこの頻度は人を害しに来ているとしか思えない。
松本建設事務所も、この事態を重く見たのだと思われ、同年6月から翌年の10月まで16ヶ月もの間、再び全面通行止にして、調査と対策工事を行ったらしい。
今回の探索中に目にした大量の落石防止ネットの中には、【まだ新しそうなもの】も多くあったのだが、このときに整備されたものではなかっただろうか。
そしてようやく、これで万全だ!と思って再々開通させただろうに、それから1年も経たない平成24(2012)年7月8日から9日にかけて再び落石が発生し、これをきっかけに、(この経緯がまとめられた)同月31日時点まで3度目の全面通行止が継続していたのであり、かつ、その後の見通しについては、「調査の結果、断崖上部に浮石があり車両の通行は非常に危険なため、当面全面通行止めを継続します。なお、開通時期は未定です。
」とあることから、そのまま現在まで3度目の全面通行止が継続している可能性がある。
ただし、松本建設事務所の交通規制情報ページを見ると、当区間の全面通行止規制期間は平成25(2013)年4月5日からとなっており、ウィキペディアの記述もこれを採用したものとみられる。
この開始日が正しいとすれば、上記した3度目の全面通行止が一旦は解除された後に、短期間で4度目の全面通行止が始まったということになろう。
どちらが正しいのか、はっきりしなかったが、仮に3度目だとしても、4度目だとしても、もう許される域は超えている。
前出の第2回松本市梓川地域協議会では、具体的な復旧の方途についても議論が交わされており、それによると、市として県に要望する復旧方法は、洞門(ロックシェッド)と橋の2案があり、私が現地で考えたようなトンネル案は議論の俎上に出て来ていない。
ちなみに、洞門案は現道に洞門を設置して復旧する案であり、橋梁案は現道を放棄して対岸の国道158号に結ぶバイパス橋を架ける案である。
同協議会としては、「以前より橋という要望を常々出してきました。しかし、橋を一本造るのには、数十億円という費用がかかるので、なかなかすぐ橋というわけにいかなかったという経過があります。
」という会長の発言にもあるように、橋の整備を最終的な目標としているようだ。
しかし、地元の要望が橋案ということで1枚岩にはならないのはやむを得ないことで、平成27(2015)年5月の松本市議会環境委員協議会では建設総務課長が、「崖の下、大野田梓橋停車場線の地元との状況でございますが、(中略)今、地元に入って、こんな案でということで説明をしているところでございます。大体川はこの辺で渡る橋梁をということで説明しているんですが、やはり梓川の地域からすると、非常に狭い地域で、地域を分断しなきゃいけないというような状況になっておりまして、なかなか賛否両論あるところでございますが、今、県といたしましては、粘り強くそれぞれ地権者さんと交渉をしているところでございます。ただ、見通しということでございますが、なかなか一足飛びに進むような状況ではないということでございます。
」という発言をしているように、明治以前から連綿と続いてきた梓川左岸伝いの道路が喪失することに不満を持つ人もいて、簡単には進んでいかないようである。
『松本市第6次道路整備五箇年計画』より抜粋
さて、現在は令和3(2021)年である。
県道278号の全面通行止の継続は、最低でも8年目になっている。
現在の最新の見通しは、どうなっているのか。
松本市が制定した松本市第6次道路整備五箇年計画は、平成30年度から34年度までを計画期間とする現行計画である。
同計画には、県道大野田梓橋停車場線の八景山における巾7.5mの新道整備が県事業として盛り込まれており、計画図にも右図の通り、梓川を渡る新道が描かれている。
肝心の「整備目標」については、平成34(2022)年度末までの“整備推進”という表現になっていて、開通は次の計画に持ち越す前提であるようだが、とりあえず橋梁案で確定したのは確かなようだ。
さらに、最も新しい令和3年度の長野県の道路事業実施予定箇所一覧にも八景山の防災バイパスが計上されており、そこに平成26(2014)年着工、令和7(2025)年完了予定とあることが確認できた。
また、松本市議会だより平成31年4月1日号にも情報があった。
それによると、平成30年3月に橋梁案でルートが決定しており、平成30年度は予備設計を実施、31年度には詳細設計を行い、32年度には用地測量に着手出来るように取り組むという見通しが述べられていた。
今後順調に計画が進めば、2025年度にも新たな橋が梓川にお目見えすることになりそうだ。
長い歴史を生きてきた新渕橋は、これで代替のルートを失うことになり、ますます重要な橋となることだろう。
完結