2021/12/29 8:50 《周辺図(マピオン)》
先日、濃尾平野の南に位置する知多半島でサイクリングを楽しんだ。主に半島南部を巡ったのだが、半島の南端より数えて2番目の位置にある美浜町の中心的な市街地を構成している河和(こうわ)の県道沿いで、“この場面”(→)に出会った。
道路自体は愛知県道275号奥田河和線といい、半島を横断し東西の海岸を結ぶ路線(といっても全長は6kmほどで、しかも町内で完結する)なのだが、注目は、ここに架かる1本の橋……の手前に見える“怪しい”石柱だ。
“怪しい”と書いたのは、訓練された麻薬探知犬が麻薬を嗅ぎ分けるように、オブローダーが交通遺構を嗅ぎ分ける効用を表現している。
…なんて、勿体ぶるほどでもないか。
当サイトの訓練された読者諸兄であれば、もうお察しでしょう。
このような位置(=橋のそば)にある、“謎の石柱”の正体は――
旧橋の親柱。
仮に残っているのが1本だけでも、その形状や、銘板の存在などから、親柱であったことの判断にはおおむね十分だが、今回は3本も残っていたので、銘板を確認するまでもなく、旧橋親柱と断定した。
どうやら残っているのはこれらの親柱だけで、橋としての他の構造物、たとえば橋桁であるとか高欄であるとかは、見当らない。
橋桁は地面に埋められているだけで残っているかも知れないが、高欄は別の地上用のガードパイプに置き換えられて、撤去済のようだ。
いずれにしても、橋そのものは特筆するような構造のものでも規模のものでもなかったと思う。
でも……、惹かれるんだよねぇ。 この過去の残影のような佇まいにさ。
当然、次にすることは、現存が確認できた3本の旧橋親柱のディテールチェック。
いずれも材質は石で、道路元標より一回り大きい程度の控えめなサイズながら、上面のみに階段状の隅切り意匠が施されていて、小さな古橋の親柱としては絵に描いたような相応しい逸品であった。
そしてこれも特に古い橋の親柱に多い特徴だが、銘板はなく、その代わりに石材自体に文字が刻まれていた。
刻まれた文字は、下流左岸側の親柱と上流右岸側の親柱が共通で、右写真(これは下流左岸側)の通り――
「昭和五年十…」
――の5文字まで判読が可能だった。
おそらくこの下には、「月竣工、一月竣工、二月竣工」、などのいずれかの文字が続いていると思うが、2本とも「十」より下は硬い土に遮られて判読できなかった。
しかし肝心な橋の竣工年は昭和5(1930)年であることが判明した。
昭和初期は、世界恐慌や国内凶作への対策として、国による高率補助の土木事業(時局匡救土木事業など)が全国で展開されており、各地の幹線道路上の木橋を永久橋へ更新する工事が特に多く行われている。本橋もまたその流れの中で誕生した橋だったのかも知れない。
そして現存する残る1本の親柱には、
「旧跡…」
という文字が刻まれていて、これが私の興味をそれまで以上に強く惹いた。
おそらくこの「旧跡」の文字の下にも1文字くらい埋れていて、その埋れた文字は「橋」か「川」だと考えられるが、ここで初めて地形図を確かめると、現在地のすぐ隣にある現役の橋は、「新江川」という川を渡るものであることが判明。
いま相手にしている旧橋は、この「新江川」が河川改修されたことで不要となった旧河道を渡っていたものと思われるから、この旧親柱の河川名も「新江川」の可能性が大きく、3文字目が欠けた「旧跡…」の正体は、「旧跡橋」という橋名であると考えられた。
つまり――
「旧跡橋」という名前の橋が、“旧跡”と化している!
↑これが言いたかったからミニレポ書いたんだろ(笑)。
旧跡橋?! なんでこの名前?
多くの皆様が、私と同じこの疑問を持ったと思う。
だが、ここにある橋は代々にわたって、この「旧跡橋」という名前を継承していることが、すぐに判明した。
隣に架かっている何の変哲もない現橋だが、この橋の4枚ある銘板のうち1枚が、「旧跡橋」であった。
(残り3枚は、「きゅうせきはし」が1枚と、「新江川」が2枚で、竣工年は銘板からは不明)
こちらは“現役橋”なのに「旧跡橋」だったのである(笑)。
しかしこうなると、オチが欲しくなる。
なんで旧跡なんだろう?
こんな変った地名(小字名?)があるのだろうか。
地形図を見る限り、そんな地名は書かれていないが…。
地名のヒントを求めて、辺りを見回すと――
石の鳥居があったんだよね。
旧橋跡の袂と呼べる位置に。
仮に鳥居は動かされていないとすれば、かつての川べりにこの鳥居はあって、参道が川沿いに伸びていたのだろう。
チェンジ後の画像は、鳥居の裏側の面だ。
左右の柱にそれぞれ文字が刻まれていた。
「昭和十一年二月」 「社長南郷三郎」
鳥居は昭和11(1936)年に造立されたのだろう。
旧跡橋が作られて間もない時期である。
そして、「社長南郷三郎」という人物が寄進したものであるようだ。
帰宅後に調べてみると、同じ時代を生きた同姓同名の実業家がヒットしたが、関連性は分からなかった。
鳥居を潜って進むこと、20メートル――
もの凄い姿になった、木の鳥居が……。
こちらには刻字などがなく、来歴はますます不明だが、倒れかけても容易く撤去しないというのも、ある意味で、大切にされているといえるかもしれない。
さすがに申し訳ない感じがしたので、下を潜るのは遠慮した。
そして、参道のゴールがこの傾いた鳥居というわけはなく、ここから2本の鳥居を結んだ直線の延長線上に目を向けると――
川べりに老樹の茂る一角があり、そこには手水社や複数の木祠、石塔などが安置されていた。
県道に面した石鳥居より始まる起伏ゼロの参道は、おおよそ30メートルで、ここに完結していた。
そして――
そのうちの石塔に隣して、黒御影石の立派な案内石碑が設けられていた。
曰く、「 美浜町文化財 旧跡 由来 」――
戦国時代の末、知多南部へ進出した田原の戸田氏は、憲光のころ三河湾を領海とするほどの勢力となった。その憲光こそ河和城の初代城主と目される武将であり、大永七年(一五二七年)亡くなると、その菩提を弔うため建立されたのが全忠寺である。全忠寺は天保年間、水野氏によって移築されたが、旧跡に残る宝篋印塔は憲光の供養塔であろう。戦国武将の風格を漂わせている。
昭和六十三年二月 美浜町教育委員会
「旧跡」という珍しい土地の名前の由来が、これで判明した。
それゆえ、この地に架けられた橋は、生まれながらにして、旧跡橋と名付けられたのである。
旧跡の名の由来となっている宝篋印塔(ほうきょういんとう=古い石造供養塔)の前から見ると、
埋め立てられた旧河道の向こうに、河和城跡とされる小山が、よく見通せた。
今回の探索は、このように現地だけで謎を残さずに解決できた。
しかも、ほんの5分ほどの出来事であった。なんと小気味の良い自己完結だろう。
こういう予期せぬ廃エッセンスとの出会いは、見知らぬ土地でのサイクリングの醍醐味だ。
最後に、新旧航空写真の比較を見てみよう。
チェンジ前が、昭和52(1977)年、チェンジ後が、平成22(2010)年の写真だ。
この間に新江川の河川改修が進み、旧跡橋付近の蛇行が大幅に解消されていることが分かる。
この河川改修のために、生まれながらに旧跡の名を持つ橋は、架け替えられたのである。
(現地では判明しなかった現旧跡橋の竣工年は、帰宅後に昭和55(1980)年と判明したが、航空写真の変化と矛盾しない)
そしてどういうわけか、本当の旧跡となった旧跡橋の親柱のうち3本が、そのまま現地に残された。
まるで、土地に秘められた歴史に興味を向ける子孫への、ひとときの謎かけを楽しむように。
完結。