@ 地理院地図(現在) | |
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A 平成9(1997)年 | |
B 昭和28(1953)年 |
能登半島の長さのちょうど中ほど、一番くびれた辺りの日本海沿いにあるのが、石川県羽咋郡志賀町(しかまち)だ。
平成17(2005)年に旧志賀町と旧富来(とぎ)町が合併して今の広さになったが、だいたい北側半分が富来町だった。
今回紹介するのは、富来の中心市街地から近いところにある旧道と隧道だ。ここには県内でも有数の古隧道が健在である。
この富来という街は、全国的にそれほどの知名度があるとは思わないが、ここを中心として南北おおよそ30kmにもおよぶ奇岩怪石の海岸線を総称した「能登金剛」は、観光地として古くから著名で、能登観光の行先としては今も欠かせないところだろう。
また少しB級スポット的な話をすると、富来の市街地に面する増穂浦の広い砂浜には、ギネスブックにも掲載されたという世界一長いベンチがある。それは長さが460.9mもあるらしい。
富来のごく簡単なプロフィール紹介が終わったところで、さっそく道路の話へ移るが、大きな能登半島の海岸沿いをほぼ一周するロングランな国道249号が、この地を南北に縦貫している。当地での通称は外浦街道。能登半島の西海岸を外浦、東海岸を内浦と呼んだことに由来する名だ。
この通称の存在からも分かるとおり、歴史の深い道である。
そして右図は、現在から昭和20年代までの3世代の地形図の比較である。
これらを比較すると、国道やその前身である外浦街道の位置が変遷していることが分かるだろう。
いろいろと変化があり、その都度旧道と呼べる道が誕生しているのが分かると思うが、今回紹介したいのはこのうち、富来の市街地の外れにある領家町(りょうけまち)から七海(しつみ)を経て生神(うるかみ)まで、約2.1kmの間にある2つの旧道区間である。
難読地名がコンボしているこの区間には、能登半島でも特に長い歴史を持っている隧道があり、それは歴代の地形図を遡っていっても当然消えることなくずっと描かれ続けている。
それではさっそく現地レポートへ。
スタート地点は、「歌仙橋」。
2022/9/14 5:27 《現在地》
本日の探索は、いま始まったばかり。
近くの道の駅「とぎ」から自転車を出発させて約3分で、最初の探索目標である旧隧道が見える場所までやって来た。
ここは富来の町外れ、富来川の河口だ。まだ少し薄暗いが、天気は間違いなさそうだ。
歌仙橋が架かっている川の向こうに黒々とした樹木の茂る丘が迫っているが、その海際を縫って走って行くのが、国道249号外浦街道である。
目当ての旧道も、もう見える。
歌仙橋を渡ると直ちに現道と旧道の分岐である。
左が現道で、トンネルは荒木トンネル、昭和54(1979)年竣功、全長164m。
右は旧道。トンネルは荒木第一隧道といい、オブローダー必携の『道路トンネル大鑑』巻末リストに拠れば、竣功年は「昭和40年」となっているが、それを鵜呑みに出来ないことは、冒頭に紹介した昭和28年の地形図には既にこのトンネルが描かれていることからも明らかだ。
このトンネル、実はとても古い。
……で、ここまでは事前に予期していた内容だが、なんかとても気になる影が、旧道の海側の崖に見える。
まさか、そんな、早くも、きちゃう?!?! 予期せぬ旧々隧道?!
これは……
… … … …
海蝕洞だな。
(……ミニレポだもんね。そんな盛り上がるはずないよな。)
穴の奥行きは5mほどしかなく、人工的な穴ではなさそうだ。
これが旧々隧道跡とか、未成隧道跡だったら激アツだったが、普通に考えて、海面に対する位置が低すぎるので違うだろうな。
天然の海蝕洞を、ゴミ置き場とか倉庫とか、そういうことに使っていただけだと思う。
そもそも、今でこそこの穴の前に地面があって、道も通じているが、平成8年の航空写真では普通にここは磯だった。それが平成14年の航空写真で突如、奥に見える防波堤や物揚場が整備され、領家漁港という施設になったのである。ほんの20年くらい前まで、これは磯に面した岩壁に開いたただの穴だったはず。
でも、これでは話が終わらないところが、面白いところで……
海蝕洞とみられる小さな洞窟の入口、その両側の岩壁に、今度こそ本当に人工的に掘られたものに見える小さな孔(あな)を、一挙に2つ発見してしまったのである。
これって、 もしかして、 もしかしたら……
荒木第一隧道が建設される前に、岩壁を回り込んで架けられていた桟橋の跡だったり、しない?
そんな桟橋があったという情報はまだないし、妄想が過ぎると思われるかも知れないが、この手の桟橋というのは、これまで全く経験のない話ではない。
このような水平の位置に2つ並んだ、柱を挿すのに良さそうなサイズの孔は、ちょっと気になるぞ…。
おいおいおい! またアルジャネーカ!
数メートル先で、同じくらいの高さに、またしても孔を発見!
鉄分を多く含んでいるのか、赤みの濃い岩場に点々と孔が空いている。
今いる地面が数年前まで海面だったことを知らなければ、桟橋の存在など想像もしないような立地だが、これはいったい……。
呆気なく荒木第一隧道が貫く岩場の回り込みを終え、第一と第二隧道の間にある旧道の短い明り区間を見上げる場所へ辿り着いたが……、
5:32 《現在地》
第4、そして第5の孔を、重ねて発見!!
これは、いよいよ、間違いないような気がするぞ!
荒木第一隧道建設以前の桟橋遺構説!
何度も言うが、今ある岩壁の下の地面は、平成8年頃までは間違いなく磯の波打ち際だったのだ。それを踏まえれば、この位置に桟橋があったというのは、不自然ではない。
ただ個人的に驚くのは、この荒木第一隧道というのは、きっと皆様の多くが想像される以上に古い隧道であることを私は知っており(後述)、もしそのさらに旧道にあたる桟橋の跡が残っていたとしたら、それは本当に、もの凄く古い遺構だと考えられるということだ。
……自分の想像に驚いているというのも、変な話だが……笑
でもって、すぐ先にはやはり旧道の荒木第二隧道が待ち受けている。
規模としては第一隧道と同程度、要するにごく短い隧道なのだが、第一隧道とは異なる所もあって……
今度は、漁港を守る防波堤に遮られて、岩場の下を迂回してその反対側まで行くことができない。
しかも、第一隧道のそれよりも高く突出した岩壁であり、桟橋によって迂回することはさらに困難と思われる地形だ。
もはや最初から隧道を掘った方が楽ではないかと思われるような険しい岩場であるが、第一隧道と同様に、こちらにも迂回する桟橋があったのだろうか……?
… … … …
……ひとしきり目を凝らして探してみたが、橋脚を挿していたらしき孔は、この岩壁には見つけられなかった。
風化して失われた可能性もあるが、第一隧道だけに桟橋があったのかも知れない。
とりあえずこの件は一旦保留して、防波堤の反対側の岩壁を見られる場所まで進むことにしよう。
本来の探索目的だった旧道の隧道経由で。
5:37 《現在地》
これが荒木第一隧道だ!
って、オブローダーの私が語気を荒げて言いたくなるくらい、長い歴史を重ねてきた古隧道ではあるのだが、この現状の姿は……、残念と言ったら申し訳ない気もするけれど、積み重ねてきた時間を感じさせるものではない。現役であり続けるためには、やむを得ないことだと理解するが。
現在、国道249号の旧道である荒木第一・第二隧道は、改めて志賀町道第1055号荒木線という名前を与えられて、姿や形もすっかり一新して、写真の看板にもあるとおり、「自転車歩行者専用道!!」としての余生を送っている。
先に現われたのは第一隧道だが、風景との調和に配慮した擬石コンクリートの坑門を持つ、平成15(2003)年竣功のトンネルである。
扁額だけでも古いものがそのまま使われていたらアツいと感じただろうが、文字が左書きだし、たぶんこの質感は現代の扁額だろう。文字を安易に荒木第一「トンネル」としてしまわなかったことは、歴史性への配慮があったと思うが……。
チェンジ後の画像はトンネル銘板だ。
平成11(1999)年3月竣功、全長37m、幅4m、高さ2.5mという、自転車歩行者専用道路としては十分だが、この年代に作られた道路トンネルとしてはかなり可愛らしいサイズ。このサイズ感の由緒が、隧道の本来の古さにあると気付くのは、この外見からだと無理だ。昔からこの場所を知っている人なら、もちろん言うまでもなく知っているんだろうが。
このトンネルだが、資料によって竣功年をはじめとするデータがかなりまちまちである。
資料名(データ年) | 隧道名 | 竣功年 | 全長 | 幅 | 高さ |
道路トンネル大鑑 (1967年) | 荒木第一隧道 | 昭和40(1965)年 | 29m | 5.0m | 3.5m |
平成16年度道路施設現況調査 (2004年) | 昭和1(1926)年 | 29m | 5.6m | 4.0m | |
現地の工事銘板 (1999年) | 平成11(1999)年3月 | 37m | 4.0m | 2.5m |
これらのうち一番古い竣功年を表示しているのは、『平成16年度道路施設現況調査』であり、昭和1(1926)年=大正15年としている。
竣工を昭和40(1965)年としている『道路トンネル大鑑』のデータには、路面のコンクリート舗装と内壁の巻立てが行われていたという内容もあり、この年に大規模な改修を受けたのだと考えている。
最後に掲げた現地の工事銘板のデータは、幅や高さだけでなく全長まで大きく変わっているので、同じ場所にほぼゼロから作り直したと言って良い大きな改造があったようだ。
だが、この荒木第一隧道および第二隧道の竣工年が実はもっとずっと古いことは、この探索より前に、とある経緯から目にしていた『富来町史 通史編』(昭和52(1977)年発行)によって、私は知っていたのである。
この地方の海岸は、岩石が主で、切り立った岩山が海岸まで続いている所が多い。このため、海岸近くを通る道路は、その岩山を越えるか、谷を伝って迂回しなくてはならない。この不便をなくしようとして、明治14年に早くも、荒木第一・第二隧道がつくられた。(中略)これらの隧道は、自動車の通行量増加と大型化によって、だんだん改修され、幅6m、高さ5mに及ぶようになった。
……という具合に、なんとこの地に荒木第一・第二隧道が誕生したのは、明治14(1881)年という、全国的に見てもかなり早い時期だったことが出ているのである。
そしてこれが同じ位置で繰返し改修され、町史刊行当時、すなわち昭和52年頃の第一隧道は右写真のような姿であったという。
これを見ると、コンクリート坑門の素朴なトンネルだったようだ。扁額の有無はちょっと判別できない。
しかしそれにしても明治14年とはずいぶん古い。
能登半島で私が把握している隧道の中では、江戸時代生まれである輪島市の曽々木海岸にある初代・八世乃洞門と、明治10(1877)年竣工とする資料がある恋路の石造隧道(仮称)に次ぐ古さで、石川県全体で見ても、明治10年代以前に竣工した隧道は、これらの他に確認できていない。北陸地方屈指の古隧道だ。
5:39 《現在地》
第一隧道に入るとすぐに、早くも次の第二隧道の入口が見えた。
第一隧道と第二隧道の間の明り区間は30mほどしかないが、大きくカーブしていて、見通しが悪い。
この旧道が国道249号として多数の自動車を通していたのは、現荒木トンネルが完成した昭和54(1979)年までであったろう。
旧道時代の方が、自転車歩行者専用道路としてリニューアルされた今よりも隧道の断面は大きく、普通車同士であればすれ違いが出来たはずだが、路線バスや大型車にとっては幅5mのトンネルは交通のネックだったろう。
しかしこの写真の通りで、続く第二隧道もまた、明治14年生まれを感じさせる要素の全くない、現代的な外観のトンネルに変貌を遂げてしまっている。
能登半島きっての古隧道が、隧道そのものは作り替えながらも、初期と同じ位置で令和の今まで活躍を続けているのは素晴らしい限りだが、残念ながら視覚的な面からの興奮は少しも湧いてこなかった。
そんななか、この地にあってただ一つ古さを窺わせているのが、この頑丈そうな石碑だ。
「名勝 荒木浦」と刻まれており、文字が白ペンキで強調されている。ほかに文字はなく、建立年は不明だが、「名勝」の文字が右書きであるなど、明確な古さを感じる。
「名勝」とあるけれど、今のこの場所に観光名所としての魅力を見出すのは、正直厳しいと言わざるを得ない。
2本の隧道に挟まれた短い明り区間というのは悪くないシチュだが、本来海が見えるべき位置には、防波堤に囲まれた漁港の地面しか見えないからね…。これはちょっと……。
だがこの石標が立った当時は、もっと遙かに旅情を慰める眺めがあったのだ。
荒木浦は、能登金剛を構成する名勝の一つとして、かつては著名であった。
それどころか、富来町の由来となった富来という地名がそもそも、はじめ荒木と書かれていたものが、好字に改めて富来になったという説や、源義経がこの地で刀を研いで荒木の鞘に入れたことが「富来」と「荒木」の地名の由来だとする伝説があるなど、この地に深く根付いた地名だったという。
この立派な石碑が建立された時期は分からないが、大正15年に能登金剛の中心的観光地である巌門(がんもん)に遊園地が開設された頃か、戦後間もない昭和22年に能登観光協会が誕生し、翌年選定した能登三景十勝で能登金剛が三景の一位に入賞した頃かと思う。ちなみに能登国定公園の設立は昭和43(1968)年と、これよりずっと後のことだ。能登金剛の観光地としての開発は、能登地域全体で見ても早かった。
改めて、荒木第二隧道へ進む。
やはり擬石コンクリートで装飾された現代的なトンネルで、扁額はこちら側にはない。
こちらも明治14年に最初の隧道が完成しているらしいが、各種データは次の通りだ。
資料名(データ年) | 隧道名 | 竣功年 | 全長 | 幅 | 高さ |
道路トンネル大鑑 (1967年) | 荒木第二隧道 | 昭和8(1933)年 | 37m | 4.3m | 3.8m |
平成16年度道路施設現況調査 (2004年) | 昭和1(1926)年 | 34m | 6.2m | 4.5m | |
現地の工事銘板 (1999年) | 平成11(1999)年3月 | 43m | 4.0m | 2.5m |
……と、これまた統一感がまったくないので、繰返し改修されてきた気配が濃厚だ。
ただ、総じて第一隧道より整備が行き届かなかったらしく、『大鑑』では素掘り&未舗装となっているし、平成のデータである『現況調査』でも、路面は舗装有りだが、壁面は素掘りコンクリート吹付けとなっていて、1999年に自転車歩行者専用道路として改築されるまでは、なかなか香ばしい姿だったようだ。
その頃の姿が見たいって?
しょうがないにゃあ...。(↓↓↓)
(←)
これは、昭和初年に撮影された第二隧道の姿だ。
ゴリゴリの素掘り隧道で、現在の写真と比較すると同じ場所と思えないくらい荒々しい風景だが、右の海岸線にポツンと立っている岩は、現在でも防波堤に半分呑み込まれながら残っているので、確かにこれは同じ場所だ。
道の線形も今よりさらに悪く、2本の隧道に挟まれた短い区間にS字カーブがあったようだ。そこを風の又三郎みたいな三度笠の人物が歩いているが、まさに日本海の寒風に耐える旅姿には震えが走るな。こういう景色が見たかった。
(→)
机上調査を進めたところ、さらにこの場所で撮影された別アングルの写真も見つかった。
大正2(1913)年に刊行された『能登半島』という案内本の巻頭グラビアに、能登半島の数ある名勝風景(神社仏閣が多かったが)に混じって、1枚だけ隧道の画像があった。
それが、「富来海岸 (第二トンネル)」と銘打たれたこの写真だ。
隧道の内部から第一隧道方向を撮影したものと思うが、カーブのせいで道の続きはほとんど見えず、視界いっぱいに増穂浦の広大な海岸が広がっている。これまた旅情を刺激する素晴らしい風景だ。
こういう景色が見たかった。
また別の資料である『石川県羽咋郡誌』(大正6(1917)年)には、この荒木浦での最初の隧道工事の経緯が次のように出ていた。
川尻町(志賀)より地頭町(富来)に至る間は、道路全く海岸に沿い、一歩を誤るは断崖の下に陥るべき難路にして、羊腸崎嶇一高一低、膚に粟を生ずる所少からず、殊に地頭町地内にある荒木の嶮の如きは越後の親不知にも譲らず、外浦街道中の難路をいうもの、富来の荒木、時国の広木を並べ称し、旅客往々にして非命の死を遂ぐるものありしが、明治10年地方人民の尽力により2個の隧道を鑿ち、今や大に其の便を得たり
ううう〜〜〜ん! ゾクゾクするほどの名隧道ぶりじゃないか!!
さすがは隧道完成からあまり時を経ておらず、当初の姿のまま大活躍していた当時の原稿だけに、表現に強さがある。
かの有名な「越後の親不知」にも匹敵する険しさだったというのだから、驚きだ。(同じ外浦街道にあったという難所「時国の広木」は、曽々木海岸を表わしている)
なお、この文章だと隧道の竣工は明治10年とあって、町史などにある14年からは少しずれているが、なぜだろう。10年の着工だったりするのだろうか。仮に明治10年の竣工だったら、能登最古隧道の可能性は大幅アップだが。いずれにしても、歴史の極めて深い隧道だったのは間違いない。こういう景色が見たかった。
現地ではいささか難しいノスタルジー分の補給を机上調査で終えたところで、話を先へ進める。
第一よりも少しだけ長い第二隧道の出口の向こうには、車止めの列があり、その先は現国道となっている。
ほとんど2本の旧隧道のためだけにある旧道は、これで終わりだ。
最後に忘れず……
外へ出た直後に振り返ると……
おおおっ!
5:43 《現在地》
桟橋の横木を支えていたっぽい孔が、こちら側にもあるじゃないか!!
第一隧道だけでなく、さらに険しく見える第二隧道にも、その外側を回り込むような桟橋が存在していた可能性が高まる発見だ。
とはいえ、こんな孔があるというだけで、道があったと決めつけるのは、さすがに乱暴だとも思うので、帰宅後に情報を探し求めたところ――
荒木
荒木は地頭町の海岸に在り、山脚海に逼りて巉巌屏立し巌形千様、水は潺湲として山より落ち、砂は(脱字)として流に満つ、天成の風光人をして応接遑あらさらしむ、是地古より艱険を以て著われ断崖絶壁の下纔に一棧路を通す、風起り波翻る時行人儻し一歩半武(?)を誤れば輙ち海に溺る由りて明治14年隧道を穿つこと二處艱険復た往の如くならず
もう私に何度漢字事典を引かせるんだよという難字に満ちたこの文章は、先ほど引用した『羽咋郡誌』とは別の著者が明治42(1909)年に上梓した『羽咋郡誌』である。
この本の「荒木」という項目を読むと、明治14(1881)年に隧道が2本作られたことや、風光の美しさなどが、これでもかという難しい表現で著わされているが、そのなかに隧道以前の道を示して、「断崖絶壁の下わずかに一桟路を通す」という表現があった。
まさしく、ここに桟橋があった、ということだろう。
以上、荒木第一・第二隧道の現場よりお伝えしました。
正直、現存する風景としては、そこまで熱くなれる要素は多くないように見える旧道だが、歴史を紐解けば楽しさ百倍、やっぱり熱い旧道だった。
でもまだ話は続くよ〜。
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