ミニレポ第267回 国道336号 東冬島トンネル旧道

所在地 北海道様似町
探索日 2022.10.07
公開日 2022.10.14

日高耶馬溪の入口に“解き放たれた”廃隧道


《所在地(マピオン)》

北海道様似郡様似(さまに)町は、札幌市から南東に180km離れた太平洋沿岸にあり、水産業が盛んで、特に日高昆布の名産地として知られる。
北海道の全体の形としてイメージされる大きな菱形の南の端は、日高山脈が太平洋に長く突き出して襟裳岬に終わる。様似町はそこから遠くない所で、海岸線には高い山脈の裾が直に太平洋の荒波と接している所がある。中でも、大分の有名な景勝地にちなんで日高耶馬溪(ひだかやばけい)と称される、冬島から幌満(ほろまん)までの約6kmの海岸線は、壮大な海崖の名勝である。

この地の海岸線を巡り通じているのが、国道336号だ。
国道は日高耶馬溪の海岸線を3本のトンネルで通過しているが(右図)、これは長い歴史を持って整備されてきた北海道の東西を結ぶ海岸道路の現在形であり、至極当然のこととして、難所と言われる場所には、オブローダーが目を輝かせる旧道・廃道が存在する。
日高耶馬溪の劈頭を飾る位置にある現・東冬島トンネルも、そんな発見の現場だ。

今回紹介するのは、東冬島トンネルの旧道だ。
ミニレポに相応しく、とても小さな旧道であり廃道だが、撮って出しで紹介したいと思えるだけのインパクトを持った姿で私を迎えてくれた。
さっそくご覧いただこう。





2022/10/7 6:28 《現在地》

さて本日は、北海道日高地方遠征の第2日。この日は海岸線の旧道探索を計画しており、日高耶馬溪の旧道を探索すべく近くの冬島漁港に車を停めた私は、自転車で出発したばかりだ。今は区間内の最初のトンネルである東冬島トンネルが見えてきたところ。

このトンネルについては、簡単な事前調査(といっても地形図を見たくらいだが)の段階では、特に旧道の存在は明確にならなかった。
しかし経験上、北海道の歴史ある海岸道路の多くで旧道や旧隧道が見つかっていることから、あってもおかしくないと考えていた。

また、私の事前調査に大抵含まれている、お馴染み『道路トンネル大鑑』巻末の隧道リストにおいても、東冬島トンネルは、昭和37年竣功、全長60mなどのデータが記録されており、これは現在使われているトンネルの長さと変わらない。しかし初期の海岸道路がもっと古いことは明らかなので、やはり旧道・旧隧道の存在が疑われるところだった。

さて、実際は――




旧隧道発見!!!

海岸のミニ旧道らしく、話がめっちゃ早くて助かるな。

一目瞭然な旧隧道。しかも間違いなく廃である。

これは、なかなか強烈な廃ぶりだ。内部が大崩壊しているのか、
大量の瓦礫によって洞内が満たされているのが見て取れた。
坑門工も半壊しており、見るも無惨な姿を晒している。

また、こんなに低くて平気なのかと心配になる思うレベルで、
海面すれすれの高さにあるように見えた。実際、そこへ通じる旧道は、
波にさらわれてしまったようで、まともに残っているようには見えない。


それではすぐに向かうとしよう!



探索対象を見つけた私は撮影地点から現国道に向き直ったが、その時、1台の軽トラが私の進行方向へ走り去った。
それだけならわざわざ記録もしないが、その軽トラの荷台には見慣れないクレーンが取り付けられていた。しかも、クレーンは走行中もブームしていて、車体の倍くらいの高さに伸ばしたまま走って行くではないか!!
おいおいこの先は高さ4.5m(道路トンネル大鑑)の東冬島トンネルだぞ。大丈夫か! 接触しないか?!

全てを知り尽くしているジモピーに、無意味な心配をしてしまった私である。
だがよく見るまでもなく、荷台に小さなクレーンを装備した軽トラや小型トラックは、走り去っていった1台だけではなかった。
この写真に写る、背後に停車中の車輌2台共に、同じような装備が微妙に異なるデザインで取り付けられていたのである。




写真は、停車中のクレーン付き小型トラックの近景。
ケーブルクレーンになっていて、何かを持ち上げるような構造になっているな。
……え。良いから早くトンネル行けって? (^_^) 行きます。

しかし、どのトラックにも思い思いといった感じに、少し違った外見のクレーンが取り付けられているのは、なんなんだ。
日高地方では、これがトラックのデフォなのか。特に軽トラは見る車ほぼ全台に取り付けられている。

もちろんこれには理由があったが、まだ知らない私には、とても不思議に思われた。
皆様は、どんな正体を予想します? 答えは、(探索中の実時間で)12分後に明らかに!
ヒントは、11月15日。



6:32 《現在地》

近づいてくる小さな旧坑口を脇目に見ながら、現国道を前進すると、すぐに到着。
東冬島トンネルの北口だ。

見ての通り、本当のトンネルはもう少し先で、まずはラッパ状に坑口の広がった覆道が始まる。しかし利用者への案内上は、覆道も含めて東冬島トンネルとなっていて、扁額も覆道の入口に設置されている。

トンネルお馴染みのアイテムであるトンネル銘板もここにあり、(チェンジ後の画像)それによると、東冬島トンネルの全長は230.44m、幅員6.50m、高さ4.50m、竣功は1982(昭和57)年2月となっていた。
実際にこの銘板が取り付けられたのは、トンネルの前後に覆道が延伸された時なのだろう。
別の資料によると、トンネル北口の覆道は東冬島第1覆道(昭和56年竣功、全長50m)、南口の覆道は東冬島第2覆道(昭和56年竣功、全長120m)といい、中間部が東冬島トンネル(昭和56年竣功、全長60m)である。
先に紹介した『道路トンネル大鑑』だと、東冬島トンネルの全長は同じ60mだが、竣功年が昭和37年になっていたので、昭和56年に覆道を延伸する大規模な改築が行われたと推測できる。
つまり、発見した旧隧道は、昭和37年に役目を終えた可能性が高い。



50mの覆道が終わると、そのままトンネルへ。
トンネル内は緩やかにカーブしているが、短いので南口側の覆道まで見通せる。

(チェンジ後の画像)ここまで来ると、車窓からは支柱が邪魔をして旧隧道が見えにくい(見えるが)。
だが、そこへ行くには、ここで現道を逸脱する必要がある。




トンネルが始まる直前の“窓”の一つに体を持ち上げて乗り込むと、現道とは10m近い落差がある海岸へ下りるためのコンクリート製の階段が、ひっそりと誂えられているのである!

これはもはや、旧隧道へ行ってくれ!という現道からの粋なメッセージとしか受け止められない!(実際の理由は別であることを、数分後に知る)
自転車を道路脇に置き(ここには歩道があるのが助かる。歩道がないトンネル内に自転車だけ残すと、通りがかったパトカーなどに高確率で不審がられる)、いざ、ミニ旧道探索へ参らん!!



用意周到な階段だと思ったのも束の間、なんと8割ほど下って、磯まで残り高さ2mほどになったところで、唐突に切れているではないか!

高波で、この先の階段は流失してしまったのか、それとも本来はこの高さに旧道の路面があって、受け止めてくれたはずなのか(おそらく後者)。
いずれにしても、現状だとこの最後の2m近い段差は飛び降りるしかないが、下が平らでない岩場なので、注意を要する。
そして、私の身体能力だと、下りたらそれっきり。ここからは戻れない。

……このことはリアルに注意を要する。
今日は波がとても低いので、ここから戻れなくても何とかなると思って前進したが(雑だな…)、高波の時は本当に積みかねない(後述する)。

ということで、片道切符のジャンプ入磯!
(チェンジ後の画像は、段差を振り返り撮影)





6:35 《現在地》

入磯すれば、もう旧隧道は目の前!

遠くから見たときには気付かなかったが、なるほど確かに旧道があったと分かる。
旧道のそれなりに頑丈ではあっただろう、ぶ厚い護岸の擁壁の残骸が、
磯の岩波に交じって、半ば散乱するように残っていた。

それにしても、海面からの高さが低い。
ここ数十年で劇的に地盤が沈下したこともないだろうし、
ふた昔くらい前の道路というのは、高波の日には通れないことを、
今よりも素直に受け入れていたのだとしか思えない。

岩波踏み越え、いざ、坑口へ!




あ、 察し。


私が何を察したのか、お分かりだろうか?

崩壊によって散乱している坑門のパーツだが、

本来あるべきでない“パーツ”が、ドカンと居座っているのを見つけてしまったのである。




この旧隧道、一度はぶ厚い閉塞壁で、完全に入口を塞がれたに違いない。
だが、経年によって坑門ごと閉塞壁が倒れ、何十年かぶりに洞内が出現した!

おそらくそれが現状である。
一度塞がれた隧道の内部が偶然に再び解放されるという、
これはなかなかレアな状況になっている!!

洞内が大量の瓦礫で埋まっているのも、自然に崩落した土砂ではなく、
隧道を閉塞する際に、空洞を残さないよう、故意に充填したのだろう。



それにしても…、
ぶ厚い閉塞壁だ!

左写真は坑門付近の内壁の様子だが、入口の1mほど奥に色の変わり目がある。
そこまでが閉塞壁の厚みだったのだろう。
右写真の閉塞壁の厚みに、概ね一致している。

北海道内においては、内地以上に、役目を終えた隧道をコンクリートの壁で塞ぐことが珍しくないが、そうした閉塞壁のうち、後に撤去されるなどして厚みが判明したものの多くは、これほど厚くない。
この隧道の閉塞壁は、ただ侵入を防止するという目的のためには明らかに過剰な厚さ、つまり頑丈さを有している。

これはどうしてか。
答えは、頑丈さが必要だったということに尽きるだろう。
この隧道に高波が侵入することで、隧道内部から岩盤の崩壊が進むようなことは必ず避けたいと考える設計者がいたのだろう。
それは誰かといえば、この隧道の後釜である現トンネルの設計者に他なるまい。そう推測できる。

しかし、もう二度と日の目を見ることはないはずだった洞内、特に利用者が直接目にしていた内壁が、土砂で奥行きは封印されているとはいえ再び外の光を浴びているのは、感慨深いものがある。
おそらく封鎖を実行した設計者にとっては放置しておきたくない現状だろうが、今のところ、現道の管理者が何かの対策を行っている様子はない。
このままだと、高波の度に洞内の土砂が流失し、もっと奥まで立ち入れるようになる日も来そうである。

まあ、それほど長い隧道ではないはずだし、そもそも反対側の状況をこの後で見ると、皆様の多くは興味を失する恐れがあるが…。




ぶ厚く粗雑な造りである閉塞壁と比べ、圧倒的に繊細で丁寧な外観をしている、本来の坑門のパーツ。
遙かに古いものであると思うが、残っている部分は意外にも綺麗で、人目に触れる部分はプロの左官による丁寧な表面処理が行われている。
特に模様は刻まれておらず、凹凸のある意匠は上部の笠石しか見当らない。
いかにも素朴な、地方の隧道らしい姿だと思う。

崩れ落ちた坑門の壁面は、高波によって徐々に移動しているようだが、大きなパーツはまだ近くに残っており、それらをパズル的に組み合わせることで、本来の坑門の姿を脳内に甦らせることが可能だ。

こーんな感じにね!!→→→→

しかし、隧道の素性を知る上で重要なパーツである扁額が存在していたかどうかは、残念ながら分からない。
その部分のパーツが(たぶん)見当らない。
扁額があったら、最低限、隧道名は分かっただろうし、もしかしたら竣功年も知れたかも知れない。

残念ながら、帰宅後の机上調査によっても、この隧道の名前は判明しなかったのである。
現トンネルと同じ、東冬島隧道である可能性は少なくないと思うが、断定できる材料はない……。


……といったところで、旧隧道の北口の探索は終わりである。 反対側は……。


6:40 《現在地》

既に述べたとおり、現道から旧隧道北口へのアクセスは、磯へ下りる部分が片道通行なので、磯から出るには、隧道がある岬を回り込むように先へ進むしかない。
平常の海況であれば、なんら問題なく陸化した波蝕棚の部分を通過できるが、高波でここが通れないと戻り難くなる(実際よくやる手だが、流木を積み上げて階段へ戻るしかない)ので注意すべきだ。

隧道がなくても、渚を歩いて回り込むことは可能な、この小さな岬。
旧隧道よりもさらに古い世代の隧道は、見当らない。
旧隧道の竣功年がやはり気になるところである。

岬を回り込むと――




――直ちに現道の長い覆道が、間近な距離に現われた。
やはり突兀とした岩場が広がっているが、こちら側にも磯と現道を結ぶ立派な階段があり、しかも釣り人には見えない漁師の装いをした人物が一人、階段の下で動き回っているのを見つけて安堵した。ああ、こちらからなら楽に戻れそうだと。

なお、まだ岩の陰になる位置にあるはずの旧隧道の南口は、そこに繋がる道形を含め、全く見えない。
もう少し進めば現われるだろうと思って進むと――




なんとこれが、どこにもない!

旧隧道の南口は、現存しないのである!

北口はあんなに明瞭だったのに、わずかな距離を隔てた岬の裏側に北口がないのは、普通に考えれば不可解である。
崩れて埋れたような地形も見当らないし……。
こうなると、残る可能性は一つしかないだろう。



旧隧道の失われた南口は、現道の路盤によって埋め立てられてしまったと考える。

現道と旧道には一般的な海岸線の新旧道以上の高度差があり、もし現トンネルと重なる位置に旧隧道があった場合、通常の洞内分岐ではなかったはずだ。

旧隧道の南口が現道によって喪失したからこそ、その内部は土砂で充填され、海側に開放していた北口を厳重な閉塞壁で埋めたのであろう。
そうしなければ、侵入した高波が、現道の床下を侵すことになるのだから!

もし工事中の写真なんかが残っていたら最高だが、残念ながら未発見だ。

こうして、小さな旧隧道の探索は、1個の坑口を見ただけで終わりを迎えた。
こういう余生の全く無い旧隧道も、決して珍しいとはいわないが、早い段階で不自然なほど厳重に封鎖された坑門には、やはり理由があったということだろう。


……さて、最後は古老である。



思いがけず磯で出会った人物(年配の女性)の正体は、漁師であった。

普段の海岸で感じるものより30倍は濃縮されまくったような強烈な磯の香りが、私の足元全体から発生していた。
そこには、皆様の食卓へ届けられる前の大量の昆布が積層していた。
写真のように踏んづけているのは、いかにも行儀がワルいと思われるかも知れないが、踏まないでは進めないほど、磯全体に昆布は漂着していた。
彼女は、昆布漁師であった。

お話を伺った。
まず、旧隧道についてだが、完成した経緯、いつ頃まで使われていたか、また名称についても、ご存知ではなかった。残念ながら、これについては収穫がなかった。

しかし、現道を行き交っている謎のクレーン付きトラックの正体については、この上なく明瞭に分かった。
あのクレーンは、漁船から昆布を陸揚する際に釣り上げたり、海岸沿いの道路から漂着した昆布をつり上げたりするためにあるそうだ。
日高昆布の採取を支える、地場カー装備だったのである。なるほど納得。
しかも、場所によっては道路側にも工夫がされていて、そうした車が護岸に近づくために、わざわざ歩道の段差がない部分が用意されたりもしているので、道路を巻き込んだ昆布愛なのだ。


……なぜか最後は昆布で〆となったが、以上で現地の報告を終える。





 【ミニ机上調査編】 旧隧道は、いつ誕生した?


@
地理院地図(現在)
A
昭和30(1955)年
B
大正9(1920)年

今回のミニ探索における“残された謎”は、旧隧道の名称と、旧隧道の竣功年の二つであろう。
この解明が、帰宅後の机上調査に委ねられた。

まずはいつもの如く、歴代の地形図をチェック(→)。

@最新の地理院地図、A昭和30(1955)年版、B大正9(1920)年版の3枚を出来るだけ丁寧に重ねてみたが、@とAが別の隧道を描いているかは、正直微妙な感じである。
本編中でも述べたとおり、『道路トンネル大鑑』巻末の隧道リストには、東冬島トンネルの竣功年が昭和37(1962)年とされていた。これは全長が現在の東冬島トンネルと完全に一致するので、同じトンネル(の拡幅前の旧態)とみられる。

これを信じるとすれば、旧隧道は昭和37年までは現役だったことになるが、このように小縮尺な地形図の比較だと、@とAが異なる隧道を描いているかどうかの判断はちょっと厳しいものがある。
ここは保留とさせて貰いたい。

Bの大正9年版まで遡ると、隧道が描かれていないどころか、車道がない。
とはいえ、海岸線に一筋の道があったのは確からしく、破線の小径が描かれている。
これも素直に信じるなら、旧隧道の竣功は早くとも大正9年より後ということになるだろう。



@
平成30(2018)年
A
昭和52(1977)年
B
昭和23(1948)年

続いてはこれも定番、歴代の航空写真の比較である。(→)

@平成30(2018)年版、A昭和52(1977)年版、B昭和23(1948)年版の3枚の比較であるが、地形図よりも遙かに状況が掴みやすい。

@とAは間違いなく現トンネルが使われており、空から見える違いは主に覆道の延伸である。トンネル北側の道路の位置が山側から海側に微妙に移動しているという変化もある。
また、A当時は、旧隧道北側の旧道跡がちゃんと陸上に残っていたようである。

そしてBだが、これは明らかに旧隧道の時期を撮していると思う。
『大鑑』の記録を裏付けるように、昭和37年以前は旧隧道が使われていたのだろうか。

地形図や航空写真から分かるのは、このくらいか。
さすがにこれらの俯瞰的な資料だけで道路の歴史を明確に捉えることは難しい。



ということで、続いて文献調査である。
北海道に膨大に存在する町村史(『様似町史』を含む)を家にいながら確認することは、残念ながら現時点では困難なので、北海道の道路整備の歴史をまとめた大著中の大著、北海道道路史調査会編『北海道道路史』(全3巻)(平成2年刊)を頼りにして論を展開したい。

ただ結論を先に言うと、広大な北海道に比してあまりに小さな東冬島トンネルの歴史に関する直接の記述は、全く見えなかった。そりゃそうだよな。一つ一つつぶさに書いていたら、全3巻どころか300巻にもなるだろう。
だが、役立つ情報を得られなかったかといえば、そんなことはない。例えば、第2巻『技術編』第4章「トンネル」にある次の記述には、大いにアガった。

明治19(1886)年北海道庁発足の年からはじめられた猿留山道の工事が同23年にかけて行われ、各所にトンネルができたと様似町史に記されている。この工事には発破を用いたとされているがその資料はなく、技術的記述はない。
同じく同24(1891)年に様似山道下(冬島〜幌満間)の海岸道路開削工事が着手され、たけの低いトンネルが11箇所設けられたとあるが、わずかに馬が歩ける程度のものであったとされている。この2箇所の山道工事でのトンネルの名称や延長など現在ではわからないし、勿論使用されていない。

『北海道道路史 技術編』より

ここには『様似町史』の記述を引用する形で、襟裳岬の東西両側の険しい海岸線で行われた、多数のトンネルを含む明治20年代の道路整備のことが簡単に述べられている。
ここに登場している「猿留(さるる)山道(さんどう)」や「様似山道」とは、「山道」というのが北海道の独特の言い回しであるが、近世の後半に主に和人の計画によって、従来は陸路がなかった道内の難所に整備された最低限程度の連絡路をいう。

明治時代に入り、国による本格的な北海道経営が進められるようになると、日高海岸を通過する道路は北海道の東西を結ぶ最大要路と見做され、明治18(1885)年に周囲の道路に先駆けて国道となっている。
これはいわゆる“明治国道”で、東京〜函館港を結ぶ国道6号、その終点から札幌県庁(当時は北海道ではなく、道内に3県があった)に至る国道42号、42号を苫小牧で分岐し根室県庁に至る国道43号の3路線が、明治18年に指定されている。
当地の道路は、北海道最古の国道だったのである。

この時期から、従来の険しい山道を、より平坦な海岸線へ下ろす工事が各地で行われ、国道43号となった猿留山道や様似山道も例外ではなかった。
このうち様似山道は、現在の様似町の冬島〜幌満間を結んだもので、現在は日高耶馬溪と呼ばれる険しい海岸を山側へ迂回する道だった。


竣功年がはっきりしない旧隧道だが、
明治24年頃に掘られたごく小さな隧道を
原形としている可能性がある。

冬島〜幌満間の海岸道路が明治24(1891)年に着手され、そこに小さな隧道が11本も作られたというのである。ここには今回探索した地点が、もろに含まれている!
いずれ今回の探索に続く次の旧道区間のレポートも執筆するが、現存が確認されている明治隧道は、11本よりも遙かに少ない。大正9年の地形図に描かれている数も、同様だ。
11本がどこにあったかの内訳も、残念ながら、現存しないものについてはたいていが不明なのであるが、11本もあったならば!今回探索した地点にも、明治期に最初の隧道が掘られたとしても不思議はないと思う!!思わない?

今回探索した岬の地形に、ある程度道らしい道を通すとしたら、隧道を掘って抜ける以外にどんな手があるだろう。岬を回り込む桟橋くらいしか思いつかない。
明治隧道らしいものが、旧隧道の周りに別に残っていない以上、現存する旧隧道の位置に、明治24年頃に最初の小さな隧道が掘られた可能性が高い気がする。はっきりした根拠はないが、私はそう考える。

この小さな東冬島トンネルの来歴を調べるには、いささか話が大きくなりすぎた気もするが、こういう飛躍も机上調査の醍醐味であろう。もちろん、妄想もね。

ここから時代が下って、自動車が通れる程度まで海岸道路が整備された時期がおそらく、現存するコンクリート坑門の旧隧道が誕生した時なのだろう。
それはいつなのか。
これについては、次のような記述から推し量ることが出来よう。

昭和2(1927)年には冬島〜幌満間の様似山道下の海岸道路を近代的技術によって天然石とコンクリートを巧みに利用した道路を修築したのである。沿道は世にいう「日高耶馬溪」を通過し幌満川河口に至り(以下略)

『北海道道路史 路線編』より

これにより、今回探索地点を含む冬島〜幌満の日高耶馬溪の海岸道路が自動車も通行可能な近代的道路となったのは、昭和2年であることが分かる。
旧隧道が、現在見られるコンクリート隧道として誕生したのは、このときの工事だと推測できる。

なお、明治18年に栄えある国道となった日高海岸の道路は、大正9(1920)年の旧道路法に伴う路線の再編によって、国道の座を失っている。
代わりに、内地における府縣道に相当する地方費道のカテゴリに属する、地方費道帯広浦河線となった。
その後、昭和28(1953)年に現行道路法の公布に伴う路線再々編によって、二級国道236号帯広浦河線となり、同40年に一般国道236号、そして同50年に国道の指定変更があって、様似町内の国道は現在の一般国道336号と呼ばれるようになっている。
つまり、旧隧道が整備されたとみられるのは、地方費道帯広浦河線の時代である。
そして現・東冬島トンネルへ代替わりしたのは、おそらく昭和37(1962)年だから、二級国道236号時代の改築だろう。


最後に、別の資料からの裏付けを行おう。

戦後間もない昭和24(1949)年に、日高地方の観光案内書というべき『日高路を行く』という書物が刊行された。
この本にも個々の隧道の竣功年は触れられていないものの、当時既に観光地として名を売っていた日高耶馬溪(苫小牧と様似を結ぶ国鉄日高本線が昭和12年に全通したことで、この地の風光が世に広く紹介されたようである)を解説するページに、次のような記述がある。

平鵜村を過ぎ、冬島村に至るこの間の道路は、大正15年、国費10万円を投じて、コンクリートで舗装せられ、坦々として砥石の如く、四囲の景勝と相まって、一たび足を踏み入れれば軽快な自動車のエンヂンの音を響かせて、ドライヴの欲求を誘発させる。

『日高路を行く』より

複数の読者様から、最近までこのように破壊されては
いなかったという証言を得ている、旧隧道坑門。

先ほどの記述とは、大正15(1926)年か昭和2(1927)年かというわずかな違いはあるが、日高耶馬溪を貫通する自動車道が整備されたのがこの時期なのは間違いなさそうである。
後は、旧隧道が破壊される前の現役時代の写真の1枚でも見たいところだが、絵葉書通販サイトなどで日高耶馬溪を検索しても見つからなかった。
また、残念ながら旧隧道の名称については、未だにはっきりしない。旧東冬島隧道ということで、人に伝えるには十分だろうが、もし別の正式な名があったとしたら、拾って供養したいものである。


旧隧道の正式名称や竣功年などが判明した!
2022/10/25追記



撮影・提供: みち(@1600ZC)様

本編公開後、複数の読者様から、「以前に見た時は、旧隧道の閉塞壁は崩壊しておらず、“ちゃんと”塞がれていた」という証言を頂いた。
そして驚くべきことに、そうした証言の最も新しいものには、2022年7月のものがあった。つまり、私が探索するわずか3ヶ月前まで隧道は封鎖状態であったようだ。
突然の閉塞壁の崩壊は、それまでの長年のダメージの蓄積であった可能性が高いのだろうが、私はなんとも数奇な巡り合わせをしたらしい。

左の画像は、みち(@1600ZC)様よりご提供いただいた、2015(平成27)年8月27日の旧隧道北口の姿である。

確かにこの当時には、道内の旧隧道でよく見られる、坑門の壁面と閉塞壁面がツライチになる完全な閉塞が行われていたことが分かる。
そして、坑門の壁面が左右アンバランスな面積を持っていたことや、扁額は存在しなかったことも判明した。

この時点では、ひび割れのような閉塞壁倒壊の直接の兆候は見えないが、坑門直前の路盤が波の侵食によって消失し、既に重い閉塞壁が支えを失いつつある状況が見て取れる。
旧隧道もろとも、閉塞壁も厳しい自然環境に晒され続けていたことが、よく分かる風景だ。




扁額が存在しなかったことが改めて判明し、隧べる手掛かりがまた一つ減ってしまった旧隧道の名称だが、これについても読者様のコメントをヒントに回答へ辿り着くことができた。

レポート公開後、この隧道の名称を「目無泊1号隧道」としているサイトがあるという情報が入ったのである。
確認したところ、その情報は『北海道 トンネルwiki』というサイトにあった。
同サイトでは、東冬島トンネルの隣に存在する旧隧道として、確かに「目無泊(めなしどまり)1号隧道」の存在を紹介しており、さらにその全長や竣功年といった私が知りたかった情報が惜しげもなく羅列されていたのである。

そのデータの詳細さから原典となる一次資料の存在が予感されたものの、ページ内に出典情報はなく、当該記事の編集者様と連絡が取りたい旨を自身のツイッターで発信していたところ、ご本人であるMorigen (@morigen_tw)様よりご連絡頂き、データの出典を教えていただけたのみならず、当該資料のご提供まで頂くという、もう「ありがたい」という言葉しか出ない状況となったのである。

前置きが長くなったが、「目無泊1号隧道」の出典は、北海道開発局が作成・発行した『橋梁現況調書 昭和34年3月末現在』であるという。
この資料は、その名の通り道内の(道路上の)道路(国道・県道・市町村道)にある橋梁の諸元などを一覧にしたものだが、トンネルについても同じく一覧されており、いわば“北海道版トンネルリスト”といえるものになっている。それの昭和34(1959)年版ということで、かなり古い時期に現役であったトンネルの全貌を知ることが出来るのである。

Morigen氏にご提供いただいた当該資料は全部で15ページあり、記載されているトンネルの総数は192本であった。
これらは路線ごとにまとめられていて、「目無泊1号隧道」は帯広浦河線(二級国道236号帯広浦河線)に属する23本に含まれていた。


『橋梁現況調書 昭和34年3月末現在』より

実際の掲載の状況は右図の通りで、当時この路線に無泊第1号隧道から同第6号隧道が存在していたのである。
このうち第1号隧道の「位置」は「様似町冬島」となっていて、現在の東冬島トンネルの旧隧道に対応している。
その他の諸元も拾うと、延長30.0m、幅員4.0m、高4.0m、竣功年は大正13(1924)年で、洞内には覆工がなく素掘りであったことなども分かる。

全長も幅員も高さも竣功年も、洞内の巻立ての有無も、現存する北口坑門だけでは判断の難しいデータで、値千金。
このうち竣功年については、間接的な資料を動員した机上調査で大正15年か昭和2年と推測していたが、微妙にずれていた。
しかし、建設された経緯はおそらく以前の調査の通りで、これら6本の同名を冠するナンバリング隧道群は、日高耶馬溪を貫通する最初の自動車道(ドライヴウェイ)として華やかに開通した道の一員であったのだろう。

……と、ここで目の良い読者様なら既にお気づきだろうが、wikiの隧道名と、『橋梁現況調書』の隧道名は、違っている。
前者は「目無泊」で、後者は「日無泊」なのである。
そして、普通であれば出典が正確で、引用先は誤記かと思うところだが、これについてMorigen氏に確認したところ、これはおそらく出典の誤記であろうとのコメントを頂いた。
その根拠は、現地に「ヒナシドマリ」ではなく「メナシドマリ」というアイヌ語由来の古い地名が存在した形跡があるとのことだ。

これについて私も調べてみたが、まさに慧眼、仰るとおりであった。
江戸時代末期に探検家の松浦武四郎が蝦夷地を巡って記した『西蝦夷日誌』『東蝦夷日誌』という文献があり、これらは道内の古い地名や当時の道路事情を知る第一級史料なのだが、『東蝦夷日誌』(『蝦夷日誌(上)』として時事通信社が昭和37年に出版したものを参照)の五編「浦河・シヤマニ」が、現在の浦河・様似の解説となっていて、これを読むと、「ブユシユマ」(冬島)の東外れの「ヲソフケシ」で山道と海岸の道に分かれ、海岸の道を行くと、「メナシ泊」「テレケウシ」「コトニ」「ヨムケベシ」「ヲヨベ」「エハヲイ」といった地名の所を通って、まだしばらくいろいろあるが、最終的に山道と海岸道が再び出会う「ポロマンベツ」(幌満別)に至ると出ているのだ。
これらの地名の同定を行っている「松浦武四郎、蝦夷地南浜を歩く。襟裳岬への旅:第三巻」さまの記事を参考にすると、なるほど確かに「メナシ泊」は現在の東冬島トンネルがある辺りであったようだ。

なお、この地名そのものの意味は、アイヌ語地名解説のオーソリティである永田方正の著書『北海道蝦夷語地名解』に、「東風泊」という解説が出ている。東風より小舟を守る小さな入江のような地形を指していたのだと私は解釈した。
こうしたことからも、「日無泊」というのは誤記で、地名に由来する「目無泊第1号隧道」が正しかったと判断して良いのだろう。


……というわけで、様々な方々のお力によって、現地には一つの手掛かりもなかった旧隧道の名称や在りし日の諸元が、遂に判明したのである。
毎度のことながら、ご協力頂きました皆様、本当にありがとうございました!m(_ _)m



完結。


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