今回の机上調査の主役は、(↑)この隧道だ。
『富来町史』でも触れられていないこの隧道の正体に迫りたい。
@ 地理院地図(現在) | |
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A 平成9(1997)年 | |
B 昭和28(1953)年 | |
C 明治43(1910)年 |
まずは歴代地形図の比較。
といっても、ここにある4枚の地形図のうち3枚までは本編冒頭の前説で一度紹介している。
しかしあの時点では細かく中身まで見ていないので、もう一度簡単に振り返りつつ、最後に今回新たに比較の対象として取り上げた4枚目の「明治43(1910)年の地形図」について言及したい。
@は最新の地理院地図であるが、この机上調査のテーマである“謎の隧道”を書き加えている。当然だが、元の地形図には描かれていない。
Aは平成9(1997)年の地形図である。@との最大の違いは、国道249号のルートの変化だ。この当時までの国道は、生神で海岸を離れて峠越えをしていたが、平成11(1999)年にルートが変わり、峠越え区間は廃止された。この峠越えも探索は行っているので、いずれ機会があれば紹介するかも知れない。
Bは時代が一気に飛んで昭和28(1953)年版である。国道249号は昭和40(1965)年に指定されたもので、この版で太く描かれている道路は国道ではなく県道だ。
そしてそんな県道の一部として、今回探索した“謎の隧道”と思われる短い隧道が描かれている。
また、Aでは国道である生神から三明への峠越えの道も描かれているが、町村道を表わす細い線になっていて、三明への峠越えの県道は七海からのルートになっていることにも注目したい。
Cは今回新たに準備した当地の五万図では最も古い明治43(1910)年版だ。
まず驚くのは、@〜Bからかけ離れた地形の表現だ。Bと水準点の位置を基準に正確に重ね合わせているのだが、海岸線の地形が大幅に違って描かれている。これは単純に測量技術の未熟のためであろう。
そのうえで注目すべきは県道の位置だ。当時は七海から峠越えのルートだけが県道になっていて、そこから生神方面へ海岸線を南下する道、すなわち今回探索した“謎の隧道”があった部分は、県道ではなく荷車が通れない里道として表現されていて、隧道もない。道自体の位置も違っていそうだ。
このCを見る限り、明治14年に外浦街道の一部として建設された荒木第一第二隧道と、今回の“謎の隧道”とでは、来歴が異なっている可能性が高いと考えられるのではないだろうか。
それが分かったことが、この地形図比較最大の成果だった。
『羽咋郡案内』(大正5年)より
それでは、“謎の隧道”はなんという道の一部として誕生したものなのか。
それを探るべく、いろいろな地史にあたってみたのであるが、まず見えてきたのは、現在の志賀町を構成する2大市街地の富来(旧富来町)と高浜(旧志賀町)を結んだ2本の歴史的な道の存在だ。
右図は、大正5(1916)年に刊行された『羽咋郡案内』に掲載されている郡内の地図の一部だが、図の南北に配置された富来と高浜の間に、「県道にして車の通せる道」であることを意味する二重線の道と、「里道にして車の通せる道」を示す単線の2本があるのが分かるだろう。
この2本の道の名称だが、主に内陸を通る県道は富来往来、全て海岸線を行く里道は外浦往来と呼ばれていた。
外浦往来は、近世までは外浦街道と呼ばれていたもので、羽咋と輪島方面を結ぶ能登半島西海岸の縦貫線として、現在の国道249号の愛称にもなっている通り、極めて広域的な道である。
対する富来往来(富来街道)は、外浦街道の部分的な支線であり、海岸の地形が険しい高浜と富来の間を内陸の川沿いに三明へ迂回するものだった。
近世までこの地方の賑わいの中心は、北前船の避難港として大いに栄えた福浦港にあったので、そこを通る外浦街道がメインルートだったのだが、明治に入って北前船が廃れると福浦港も斜陽となり、福浦港は通らないが難所の少ない富来往来の通行量が外浦往来を逆転し、先に県道に昇格したという大まかな経緯があるようだ。
明治14(1881)年に荒木第一第二隧道が掘られたのは外浦往来の富来〜七海間だが、そこは富来往来にも重なる区間なので、両方の利便が高まる工事だった。
対して、“謎の隧道”があるのは七海〜生神間であり、そこは明治期を通じて外浦往来だけの区間だった。
しかしこの外浦往来も大正時代に入るとまもなく県道に昇格したようで、大正6(1917)年に刊行された『石川県羽咋郡誌』では、富来往来と外浦往来がともに県道として明記されている。
そして同書には本編中でも引用したとおり、荒木第一第二隧道が明治10年代に建設されたことが明記されているが、“謎の隧道”については言及がないのである。
「A」 明治末頃 | |
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「B」 昭和40(1965)年 | |
「C」 平成11(1999)年 |
左図は、外浦往来と富来往来の大雑把な位置の変遷を、ルートが大きく変化した節目ごとに3枚の地図「A・B・C」で比較したものだ。
図中のピンクの枠内が、先ほどの@〜Cの地形図の範囲であり、荒木第一第二隧道と謎の隧道の位置も書き入れてある。
「A」は、『羽咋郡案内』の地図と同じ状況で、内陸の富来往来が県道、海岸の外浦往来はそれよりグレードが低い里道であったことを示している。そして富来往来の峠越えは、七海から三明へ通じている。
「B」は、昭和40(1965)年に国道249号が初めて指定された当初の状況を示している。先ほどの地形図だとAとほぼ同じ状況で、外浦街道を愛称として持つ国道249号は、旧来の富来往来と同じ三明経由のルートとなったが、峠越えは生神から三明へ通じていた。旧来の外浦往来は、県道生神高浜線の認定を受けていた。
「C」は、平成11(1999)年に国道249号の富来トンネルが開通して峠越えの位置が牛下(うしおろし)〜三明間へ切り替わった状況を示している。また旧来の外浦往来は、県道志賀富来線へと名前が変わっている。
この「A・B・C」の比較により、“謎の隧道”がある部分の道は、外浦往来→国道249号→国道249号旧道という風に変遷したことは分かったものの、結局、ここまでで取り上げた古い地史で解明出来たのはここまでで、“謎の隧道”に直接関係することはまるで分からなかった。その存在に触れるものさえ見当らず、これは早くもお手上げか……。
……と、行き詰まりを感じていた壁に風穴を穿つ発見が、意外なところに隠れていた! それを次に紹介するぞ。
『歴史の街道』(人物往来社)より
こんな写真を見つけた。→
この写真は、昭和38(1963)年に人物往来社が出版した『歴史の街道』という書籍で見つけた。
同書の著者は中部日本新聞社で、全国から選りすぐった38本の旧街道を記者が旅して、その土地の古色を残す風景や人々の暮らしぶりを紹介する内容になっている。
その中に富来街道という項目があるのだが、本文では道そのものというよりは、北前船交易の繁栄の匂いを留める福浦港の風景や、宿場町だった富来の風景が主に描かれている。
そこにこの写真も収まっていた。
素掘りのトンネルの中から、トンネルの外にある海沿い未舗装路を撮影しているという、あまり見ない構図の写真だ。
トンネルの中から外の道路を撮るのはありがちだが、旧トンネルっぽいところから、現道を撮影しているというアングルは、オブローダーでもなければあまり撮らない気がする。
で、そんな珍しい構図の写真で、背後の海上に写っている岩は、どう見ても機具岩だ。今回の探索で撮影した写真ともピタリ合致した。
ということでこの写真は、昭和38年頃に、今回探索した“謎の隧道”の内部から、当時県道だった道路(今は旧国道)を撮影したものと断定した。
この写真によって、当時既に隧道が廃止されていて、廃隧道のような状態で県道脇に口を開けていたことが分かったが、発見はそれだけでない。
本文に隧道に関する記述はないものの、添えられていたキャプションが、行き詰まっていた机上調査に新たな糸口を与える決定的な内容だった。
それは次のようなものだ。
「元は金鉱の跡だったトンネル」 ……だと?!
え?
え? え?! この隧道(←)は、金鉱の跡だった?
完全に、予想の範囲外だったんだが……。
金鉱の跡って、坑道だったってこと?
いやでもそれにしては短すぎるし、これはあくまで隧道だよな。
「〜を利用して街道は細々と続いていた」ともあるから、この隧道が街道(道路)として使われていたというのも確かなんだろう。
でもそれを最初に作ったのは、鉱山だったということなのか……? ついに動き出したかも、話が!
(←)あああーっ!
改めて地形図をよく見ると、明治43年版の地形図には、生神から少し入った山の中に「富来鉱山」の表記があるじゃねーか!!(気付いてなかったし)
そして、鉱山のツルハシの記号と一緒に書かれている「○」印は鉱種記号といって、この頃の地形図は文字ではなく記号で鉱種を表わしていたのだが、これは「金」を意味している。(他に銀、銅、鉛、鉄、石炭の記号があった)
つまり、キャプションに出て来た「金鉱」が、こんな近くに存在していた!!
ここから鉱山ということに焦点を当てて、今まで見た資料ももう一度調べてみると……。(だいたい「交通」のページしか調べていなかったからね…)
さっそく、『富来町史 通史編』に、富来鉱山の来歴を見つけた。抜粋して引用しよう。
『富来町史 通史編』より
明治38年熊木村の木山与一が、富来・熊野地域で金・銀の鉱脈を発見、(中略)富来鉱山として採掘をはじめた。(中略)鉱石の王である金山の発見は、富来にとってまさにビッグニュースで、ちょっとしたゴールドラッシュを呼んだであろう。
明治43年6月に、三菱合資会社富来鉱山として発足し、ガス発動機を入れるなど近代化された。鉱区は、98万4千坪の広い面積で、生神には、東郷坑など5本、広地には、森坑など2本の坑道があった。従業員は、創業当初、採鉱夫4人、探鉱夫8人、運搬夫男女30人であったが、明治43年には246人となり稼業日数332日であった。金の産出量は、2万3931匁で価格は11万9655円、銀の産出量は、4万1038匁で価格は5335円であった。
ゴールドラッシュを生んだ富来鉱山であったが、鉱脈が浅く、経営が年とともに苦しくなり、大正10年7月8日に生神の鉱山を廃鉱した。
このように、比較的短い期間ではあったが、生神には金鉱山があって、地域にゴールドラッシュ的繁栄をもたらしていたことが分かった。
町史に掲載されていた写真には、手押しトロッコやレールも見えている。
さらに、明治41(1908)年に当時の農商務省地質調査所が発行した『輪島圖幅地質説明書』という資料を見ると、富来鉱山の地図があり、先ほど掲載した明治43年の地形図にあったとおり、生神の海岸線から小沢をさかのぼった山の中に鉱脈が存在したことが明確となった。
この鉱山が“謎の隧道”とどのように関わったかについては、これらの資料には出ていなかった。
が、この後、大正6(1917)年の『石川県羽咋郡誌』にある富来村の交通を解説する文章の中に、ついに決定的と思える記述を発見する。
高浜より海岸に沿い、福浦港を経て本村(富来村のこと)に通ずる外浦街道あれども、福浦以北は殊に道路峻険にして車馬を通ぜず、
近時、生神七海間に新道を開鑿し、軽便鉄道を敷設したるも、富来鉱山の専用道路たるに過ぎず。
予想外の正体!!
おそらく“謎の隧道”の正体は、
富来鉱山の鉱石を運搬するために敷設された、富来鉱山専用軽便軌道(仮)の遺構だ!
現代の町史には採録されなかった、大正時代の郡史の中で見つけたこの短い記述が、落石防止ネットと猛烈な藪に隠されたあの小さな廃隧道の正体を教えていた。
隧道に直接言及はしていないものの、生神〜七海間に敷設された軽便鉄道がどこを通ったかを考えると、消去法的にも、現在のこの区間の旧国道の勾配が比較的緩やかであることと照らしてみても、現在の旧国道は基本的に軽便軌道のルートを継承したものであって、隧道がその名残だと考えて間違いないと思われる。
おそらく三菱合資会社が、本格的に富来鉱山の操業を始めた明治43年頃に、鉱山から富来往来へ鉱石を運び出すべく生神〜七海に新道を開設した。
そしてその際に、名勝・機具岩のそばに隧道が掘られた。
開通した新道にはレールが敷設され、先ほど見た古写真のような手押しトロが、運搬夫たちの手押しによって走ったのだろう。
だが鉱山は大正10年に廃止され、トロッコのレールも撤去された。隧道は道路として引続き利用されたものだろう。
その後、はっきりした時期は分からないものの、遅くとも昭和38年頃までに狭い隧道を迂回する道が隣に作られ、“廃隧道”が『歴史の街道』の記者を待ち受けていた。
記者はそれを見つけ撮影した。さらに何らかの手段でそれが昔の金鉱石輸送のトロッコ隧道跡であることを知り、キャプションに「元は金鉱の跡だったトンネル」としたためたのであろう。
私の中で、物語は一つにつながった。
今回、初めて存在が明らかになった富来鉱山専用軽便軌道(仮)だが、運用期間が短いこともあって、今回紹介した以上の情報は全く持っていない。
そして、遺構のようなものも、今回見た隧道以外には何も残っていないのではないかと思われる。
名札を与えられず、ただ道路脇に口を開けていた小さな隧道の正体は、思いがけないところにあった。
しかし分かってみると、あの微妙に小さな断面の大きさなんかは、いかにも鉱山軌道ぽい感じがあった。
以上、報告終わり!