ミニレポ第268回 国道249号旧道 荒木浦 後編

所在地 石川県志賀町
探索日 2022.09.14
公開日 2022.12.11

能登半島最古級の隧道は今も健在… からの謎解きへ


2022/9/14 6:00 《現在地》

こんな場所に隧道が隠れているとは、意表を突く展開だ。
いまある道路との位置関係的に、この法面に隧道が掘ってあるというのは、なかなか予想しづらい。

それに、隧道は文字通り隠れているので、意識を向けていないと気付かないレベルで目立っていない。
在ると分かってから見れば、確かに藪に覆われた法面の一画が不自然に黒く、そこに岩盤ではない空間が存在することを教えているが、かといって、藪がこのくらい黒く見えることは空洞などなくても普通にあることだし、あらかじめ、隧道があるだろうと思って“探す目”になっていない場合、怪しいとも思わず素通りするのが普通ではないだろうか。

おそらくこの旧道を通ったことがあるという人は地元民を中心に多くいるだろうが、隧道の存在にも気付いていたという方はどれくらいいるだろう? あるいは藪の葉が落ちる冬場には、あからさまに見えているのかも知れないが…。




さて、ここで正直に打ち明けると、私はこの隧道が残っている可能性と、事実を、それぞれ認識していた。

まず“可能性”の方だが、左図を見て欲しい。
チェンジ後の画像は昭和28(1953)年版の地形図であるが、「現在地」の近くに、とても短い1本の隧道が描かれていることが分かるだろう。

私はずいぶん前にこの地形図を入手しており、その時点で、ここに隧道が残っている“可能性”を疑ったし、ストリートビューを見ると、それらしい影が見える気もするので、現存についても大いに疑っていた。

そして“事実”の認識については、ある読者様(情報提供メールがあったはずだが、操作ミスで削除してしまったようで大変申し訳ないです)から、ズバリこの隧道を見つけたという情報提供を頂いていたので、いよいよ存在を確信するに至っていた。
それを今回、ようやく自身の目で確認することが出来たのだった。

しかし、内部に入ったという情報はまだなく、それ以上に気になる、この隧道の正体についても、先に読む機会があった『富来町史』にそれらしい記述はなく、現地探索で答えを探す必要があった。



というわけで、隧道内部を探索すべく、さっそく行動を開始しているのであるが、これが見えているほどは簡単でなかった。

というのも、この場所の法面はみっちりとした落石防止ネットで完全にカバーされていて、ネットの裏側にある隧道を見ることは出来ても、踏み込む術がないのである。
直前にあった慰霊碑の部分だけは少しネットが切れていたが、あそこから隧道までネットの裏を移動するなんてことは、もちろん不可能である。

したがって、最初に見つけた北側の坑口からのアプローチは早々に断念し、反対の南口を探しに行くことになった。
ネット越しに北口を覗くと(前回の最後の画像)、隧道はちゃんと貫通していて出口が20mくらい先に見えたので、南口が在ることは間違いないが、問題は、同じようにネットで遮断されていないかどうかだ。「山行が」にとって、ネットの遮断はマジで死活問題である。

はたして、南口の状況は――



6:01 《現在地》

ここだな。

とりあえず路上から隧道の姿は見えないが、隧道が掘られている岩山の形が分かるので、隧道の位置が想像できた。
あとは、落石防止ネットの有無だが、坑口が見えない以上、まだ予断を許さない。
道路のすぐ横でなければ、多分大丈夫だと思うが……。

近づいてみよう。




ぐふっ!

と、思わず息をつきたくなるくらいの高密度笹藪が、路外への逸脱を「ありえぬこと」だと言うかのように遮っていた。

うん、よく分かったよ。
この隧道、ほとんど探索された経験がなさそうだということが。
こんなに道の近くにあるのに、踏み分けらしいものが全然ないんだもの。

目指すものが凄く近くにあるのは間違いない筈なので、上半身を前傾させた頭部突入体制で笹藪への強引な突入を敢行した。
突入直後はもの凄い抵抗感が伝わってきたが、少し進んで日当りが悪くなると抵抗は弱まり……




6:02

南口到達

入れる状態!!

ようやく二人きりになれたね!!



(←)
坑口前はどういうわけか畳2枚分くらいの広さだけ笹藪が薄い部分があり、坑口の引きの絵を辛うじて撮影出来た。

(→)
しかし、背にした藪は猛烈で、1メートル先も見えない。
この藪の部分に道があったはずだが、完全に消滅してしまっていた。
岩に刻まれた隧道だけがポツンと残されている。そんな状況であった。

(←)
改めて坑口の全体像を観察する。
藪のせいで分かりづらいが、隧道の上はかなり切り立った岩場になっている。
また、右の藪の中も同様に切り立っていて、逃げ場の少ない地形である。

左に5メートルほど移動すると先ほどまでいた旧国道があるので、わざわざ隧道を掘らずとも迂回できそうに思えるが、おそらくこの隧道が掘られた当時は旧国道の位置に道はなく、その段階では、隧道以外に目の前の岩場を突破する手段がなかったのだと想像する。

続いて、隧道内へ!



完全な素掘り隧道だ。

とても短く、全長は15mくらいだろう。
だが直線ではなく、結構な角度をつけて海側にカーブしている。
それでも入口から出口が見通せるほど短い。

洞内は完全な素掘りで、巻立てや支保工などの補強物はまったくないようだが、堅牢な地盤であるのか、崩壊の形跡はほとんどない。
したがって断面の大きさやサイズ感は現役当時のままだろう。高さ×幅は目測で2.2m×2.2mくらいの半円に近い形状で、自動車を通すにはかなり窮屈だ。

洞床は砂地で、湿気はまったくない。涼しい海風が微かに流れていた。
また、勾配が少しあることに気付いた。南口がやや高く、北口に向かって下り坂になっている。
これは外に並走している旧国道も同じだが、こちらの勾配がより強い。



(←)
カーブを曲がり、あっという間に出口(北口)へ迫る。
シルエットで一瞬石碑のように見えたものは、天井から落ちてきたと思しき尖った岩が地面に突き刺さって直立しているという、なかなかレアなものだった(→)。
洞床が柔らかな砂地なのでそういうことになっている。

(←)チェンジ後の画像は、ネット越しに旧国道とそこに置き去りとなった相棒を眺めている。
ネットがいつからあるのか分からないが、これが出来る前は極めてあからさまに見える隧道だったはずから、その存在や正体に言及している記録があって良さそうだ。机上調査でぜひ探し出したいところ。

この隧道の正体が気になる。普通に考えれば、旧国道よりさらに古い旧々道ということになるだろう。だとしたら、いつの時代まで遡れる存在だろう。

意識するのは、前編で紹介した2本の明治14年生まれの古隧道だ。
あれらと一連の時期に建設されたのだとしたら、大変貴重な明治前期の隧道ということになる。

といったところで、この隧道の探索は終わりだ。
シンプルすぎて正体に繋がる情報はほとんど得られなかったな。地上へ戻る。



最後に洞内で全天球画像を撮影した。

こうしてグリグリして見直すと、ネットで閉ざされた南口が広く、
洞内や北口とはかなり天井の高さに差があることが分かる。
南口は落石もしていたし、岩盤が脆いのかも知れない。



自転車を回収し、さらに隧道現場を南側から振り返る。
左奥の海上に見えるのは、機具岩だ。
隧道の南口は濃い藪に阻まれ、旧国道上からはどうやっても見えないが、そのだいたいの位置を重ねて表示してみた。

電信柱よりも高く垂直に切り立っている法面が、地形の険しさを物語っている。
旧国道にはこの隧道の現場以外にも高い法面になっている場所がいくつかあるが、特に鋭さを感じさせるのがこの場所だ。
藪が濃いために、他の法面を隅々まで探せたわけではないけれど、隧道が残っているのはこの場所だけだろう。




隧道地点を過ぎると旧国道の上り方が強くなり、海を見下ろす高台へ。
写真奥のちょっとした尾根の先端に、生神(うるかみ)のバス停と同集落の入口がある(旧国道がバス路線になっている)。
集落は分岐から狭い急坂を降りて辿り着く行き止まりの海岸にあり、寄り道になるので立ち寄らなかったが、なかなか印象的な地名だと思う。

調べてみると、古くは生神(うぶかみ)と読まれていたようで、「産神」の字を宛てることもあったらしい。地内に「お産の井戸」という安産祈願の神域があることにちなむ地名であるという。



6:16 《現在地》

生神集落の入口の目と鼻の先に、また分岐がある。
それがこの写真の地点で、3本の道が分かれていくが、正面の道が旧国道、右の道は旧県道、左の道は廃業した生神鉱泉の廃墟へ通じている。
参考までに、ここが国道と県道の分岐であった当時の地形図を用意した。(→平成9年版の地形図

私はこのまま直進する。
旧国道が海岸沿いを行くのはここまでで、この先は正面に見える分かり易い鞍部へ向けた峠越えの区間となる。




6:19 《現在地》

上記分岐地点から240mで、十字路にぶつかる。
「止まれ」&「止まれ」で標識が強調されているこの交差点で出会うのは、【ここ】で別れて以来の現国道だ。ここから左の現国道は、昭和52(1977)年の生神トンネル開通に伴って完成した。
直進の旧国道は、右折した先にある富来トンネルの開通に伴って平成11(1999)年に旧道となり、その後まもなく(正確な時期は分からないが)封鎖された。




直進すると三明への峠越えが始まるが、すぐに封鎖ゲートがあり、
そこから先は、平成生まれの廃道とは思えないほど緑が濃くなる。
元はしっかりした2車線舗装路だったので、今のところ自転車での走破も難しくないが、
今後は徐々に厳しくなっていくことだろう。といったところで、本編探索はここまでだ。

今回の机上調査は、落石防止ネットの向こう側で出会った、
あの“隠し隧道”の正体に迫るぞ。




 机上調査編 〜 “謎の隧道”の意外な正体 〜


今回の机上調査の主役は、(↑)この隧道だ。

『富来町史』でも触れられていないこの隧道の正体に迫りたい。



@
地理院地図(現在)
A
平成9(1997)年
B
昭和28(1953)年
C
明治43(1910)年

まずは歴代地形図の比較。

といっても、ここにある4枚の地形図のうち3枚までは本編冒頭の前説で一度紹介している。
しかしあの時点では細かく中身まで見ていないので、もう一度簡単に振り返りつつ、最後に今回新たに比較の対象として取り上げた4枚目の「明治43(1910)年の地形図」について言及したい。

@は最新の地理院地図であるが、この机上調査のテーマである“謎の隧道”を書き加えている。当然だが、元の地形図には描かれていない。

Aは平成9(1997)年の地形図である。@との最大の違いは、国道249号のルートの変化だ。この当時までの国道は、生神で海岸を離れて峠越えをしていたが、平成11(1999)年にルートが変わり、峠越え区間は廃止された。この峠越えも探索は行っているので、いずれ機会があれば紹介するかも知れない。

Bは時代が一気に飛んで昭和28(1953)年版である。国道249号は昭和40(1965)年に指定されたもので、この版で太く描かれている道路は国道ではなく県道だ。
そしてそんな県道の一部として、今回探索した“謎の隧道”と思われる短い隧道が描かれている。
また、Aでは国道である生神から三明への峠越えの道も描かれているが、町村道を表わす細い線になっていて、三明への峠越えの県道は七海からのルートになっていることにも注目したい。

Cは今回新たに準備した当地の五万図では最も古い明治43(1910)年版だ。
まず驚くのは、@〜Bからかけ離れた地形の表現だ。Bと水準点の位置を基準に正確に重ね合わせているのだが、海岸線の地形が大幅に違って描かれている。これは単純に測量技術の未熟のためであろう。

そのうえで注目すべきは県道の位置だ。当時は七海から峠越えのルートだけが県道になっていて、そこから生神方面へ海岸線を南下する道、すなわち今回探索した“謎の隧道”があった部分は、県道ではなく荷車が通れない里道として表現されていて、隧道もない。道自体の位置も違っていそうだ。

このCを見る限り、明治14年に外浦街道の一部として建設された荒木第一第二隧道と、今回の“謎の隧道”とでは、来歴が異なっている可能性が高いと考えられるのではないだろうか。
それが分かったことが、この地形図比較最大の成果だった。




『羽咋郡案内』(大正5年)より

それでは、“謎の隧道”はなんという道の一部として誕生したものなのか。
それを探るべく、いろいろな地史にあたってみたのであるが、まず見えてきたのは、現在の志賀町を構成する2大市街地の富来(旧富来町)と高浜(旧志賀町)を結んだ2本の歴史的な道の存在だ。

右図は、大正5(1916)年に刊行された『羽咋郡案内』に掲載されている郡内の地図の一部だが、図の南北に配置された富来と高浜の間に、「県道にして車の通せる道」であることを意味する二重線の道と、「里道にして車の通せる道」を示す単線の2本があるのが分かるだろう。

この2本の道の名称だが、主に内陸を通る県道は富来往来、全て海岸線を行く里道は外浦往来と呼ばれていた。
外浦往来は、近世までは外浦街道と呼ばれていたもので、羽咋と輪島方面を結ぶ能登半島西海岸の縦貫線として、現在の国道249号の愛称にもなっている通り、極めて広域的な道である。
対する富来往来(富来街道)は、外浦街道の部分的な支線であり、海岸の地形が険しい高浜と富来の間を内陸の川沿いに三明へ迂回するものだった。

近世までこの地方の賑わいの中心は、北前船の避難港として大いに栄えた福浦港にあったので、そこを通る外浦街道がメインルートだったのだが、明治に入って北前船が廃れると福浦港も斜陽となり、福浦港は通らないが難所の少ない富来往来の通行量が外浦往来を逆転し、先に県道に昇格したという大まかな経緯があるようだ。

明治14(1881)年に荒木第一第二隧道が掘られたのは外浦往来の富来〜七海間だが、そこは富来往来にも重なる区間なので、両方の利便が高まる工事だった。
対して、“謎の隧道”があるのは七海〜生神間であり、そこは明治期を通じて外浦往来だけの区間だった。

しかしこの外浦往来も大正時代に入るとまもなく県道に昇格したようで、大正6(1917)年に刊行された『石川県羽咋郡誌』では、富来往来と外浦往来がともに県道として明記されている。
そして同書には本編中でも引用したとおり、荒木第一第二隧道が明治10年代に建設されたことが明記されているが、“謎の隧道”については言及がないのである。


「A」
明治末頃
「B」
昭和40(1965)年
「C」
平成11(1999)年

左図は、外浦往来と富来往来の大雑把な位置の変遷を、ルートが大きく変化した節目ごとに3枚の地図「A・B・C」で比較したものだ。

図中のピンクの枠内が、先ほどの@〜Cの地形図の範囲であり、荒木第一第二隧道と謎の隧道の位置も書き入れてある。

「A」は、『羽咋郡案内』の地図と同じ状況で、内陸の富来往来が県道、海岸の外浦往来はそれよりグレードが低い里道であったことを示している。そして富来往来の峠越えは、七海から三明へ通じている。

「B」は、昭和40(1965)年に国道249号が初めて指定された当初の状況を示している。先ほどの地形図だとAとほぼ同じ状況で、外浦街道を愛称として持つ国道249号は、旧来の富来往来と同じ三明経由のルートとなったが、峠越えは生神から三明へ通じていた。旧来の外浦往来は、県道生神高浜線の認定を受けていた。

「C」は、平成11(1999)年に国道249号の富来トンネルが開通して峠越えの位置が牛下(うしおろし)〜三明間へ切り替わった状況を示している。また旧来の外浦往来は、県道志賀富来線へと名前が変わっている。

この「A・B・C」の比較により、“謎の隧道”がある部分の道は、外浦往来→国道249号→国道249号旧道という風に変遷したことは分かったものの、結局、ここまでで取り上げた古い地史で解明出来たのはここまでで、“謎の隧道”に直接関係することはまるで分からなかった。その存在に触れるものさえ見当らず、これは早くもお手上げか……。


……と、行き詰まりを感じていた壁に風穴を穿つ発見が、意外なところに隠れていた! それを次に紹介するぞ。





『歴史の街道』(人物往来社)より

こんな写真を見つけた。→

この写真は、昭和38(1963)年に人物往来社が出版した『歴史の街道』という書籍で見つけた。
同書の著者は中部日本新聞社で、全国から選りすぐった38本の旧街道を記者が旅して、その土地の古色を残す風景や人々の暮らしぶりを紹介する内容になっている。

その中に富来街道という項目があるのだが、本文では道そのものというよりは、北前船交易の繁栄の匂いを留める福浦港の風景や、宿場町だった富来の風景が主に描かれている。
そこにこの写真も収まっていた。

素掘りのトンネルの中から、トンネルの外にある海沿い未舗装路を撮影しているという、あまり見ない構図の写真だ。
トンネルの中から外の道路を撮るのはありがちだが、旧トンネルっぽいところから、現道を撮影しているというアングルは、オブローダーでもなければあまり撮らない気がする。

で、そんな珍しい構図の写真で、背後の海上に写っている岩は、どう見ても機具岩だ。今回の探索で撮影した写真ともピタリ合致した。
ということでこの写真は、昭和38年頃に、今回探索した“謎の隧道”の内部から、当時県道だった道路(今は旧国道)を撮影したものと断定した。

この写真によって、当時既に隧道が廃止されていて、廃隧道のような状態で県道脇に口を開けていたことが分かったが、発見はそれだけでない。
本文に隧道に関する記述はないものの、添えられていたキャプションが、行き詰まっていた机上調査に新たな糸口を与える決定的な内容だった。
それは次のようなものだ。


「元は金鉱の跡だったトンネル」 ……だと?!

え?

え? え?! この隧道(←)は、金鉱の跡だった?

完全に、予想の範囲外だったんだが……。

金鉱の跡って、坑道だったってこと?
いやでもそれにしては短すぎるし、これはあくまで隧道だよな。
「〜を利用して街道は細々と続いていた」ともあるから、この隧道が街道(道路)として使われていたというのも確かなんだろう。
でもそれを最初に作ったのは、鉱山だったということなのか……? ついに動き出したかも、話が!


(←)あああーっ!

改めて地形図をよく見ると、明治43年版の地形図には、生神から少し入った山の中に「富来鉱山」の表記があるじゃねーか!!(気付いてなかったし)
そして、鉱山のツルハシの記号と一緒に書かれている「○」印は鉱種記号といって、この頃の地形図は文字ではなく記号で鉱種を表わしていたのだが、これは「金」を意味している。(他に銀、銅、鉛、鉄、石炭の記号があった)

つまり、キャプションに出て来た「金鉱」が、こんな近くに存在していた!!

ここから鉱山ということに焦点を当てて、今まで見た資料ももう一度調べてみると……。(だいたい「交通」のページしか調べていなかったからね…)

さっそく、『富来町史 通史編』に、富来鉱山の来歴を見つけた。抜粋して引用しよう。


『富来町史 通史編』より

明治38年熊木村の木山与一が、富来・熊野地域で金・銀の鉱脈を発見、(中略)富来鉱山として採掘をはじめた。(中略)鉱石の王である金山の発見は、富来にとってまさにビッグニュースで、ちょっとしたゴールドラッシュを呼んだであろう。
明治43年6月に、三菱合資会社富来鉱山として発足し、ガス発動機を入れるなど近代化された。鉱区は、98万4千坪の広い面積で、生神には、東郷坑など5本、広地には、森坑など2本の坑道があった。従業員は、創業当初、採鉱夫4人、探鉱夫8人、運搬夫男女30人であったが、明治43年には246人となり稼業日数332日であった。金の産出量は、2万3931匁で価格は11万9655円、銀の産出量は、4万1038匁で価格は5335円であった。

ゴールドラッシュを生んだ富来鉱山であったが、鉱脈が浅く、経営が年とともに苦しくなり、大正10年7月8日に生神の鉱山を廃鉱した。

『富来町史 通史編』より

このように、比較的短い期間ではあったが、生神には金鉱山があって、地域にゴールドラッシュ的繁栄をもたらしていたことが分かった。
町史に掲載されていた写真には、手押しトロッコやレールも見えている。

さらに、明治41(1908)年に当時の農商務省地質調査所が発行した『輪島圖幅地質説明書』という資料を見ると、富来鉱山の地図があり、先ほど掲載した明治43年の地形図にあったとおり、生神の海岸線から小沢をさかのぼった山の中に鉱脈が存在したことが明確となった。

この鉱山が“謎の隧道”とどのように関わったかについては、これらの資料には出ていなかった。
が、この後、大正6(1917)年の『石川県羽咋郡誌』にある富来村の交通を解説する文章の中に、ついに決定的と思える記述を発見する。


高浜より海岸に沿い、福浦港を経て本村(富来村のこと)に通ずる外浦街道あれども、福浦以北は殊に道路峻険にして車馬を通ぜず、
近時、生神七海間に新道を開鑿し、軽便鉄道を敷設したるも、富来鉱山の専用道路たるに過ぎず。

『石川県羽咋郡誌』(大正6年)より

予想外の正体!!

おそらく“謎の隧道”の正体は、

富来鉱山の鉱石を運搬するために敷設された、富来鉱山専用軽便軌道(仮)の遺構だ!

現代の町史には採録されなかった、大正時代の郡史の中で見つけたこの短い記述が、落石防止ネットと猛烈な藪に隠されたあの小さな廃隧道の正体を教えていた。

隧道に直接言及はしていないものの、生神〜七海間に敷設された軽便鉄道がどこを通ったかを考えると、消去法的にも、現在のこの区間の旧国道の勾配が比較的緩やかであることと照らしてみても、現在の旧国道は基本的に軽便軌道のルートを継承したものであって、隧道がその名残だと考えて間違いないと思われる。

おそらく三菱合資会社が、本格的に富来鉱山の操業を始めた明治43年頃に、鉱山から富来往来へ鉱石を運び出すべく生神〜七海に新道を開設した。
そしてその際に、名勝・機具岩のそばに隧道が掘られた。
開通した新道にはレールが敷設され、先ほど見た古写真のような手押しトロが、運搬夫たちの手押しによって走ったのだろう。
だが鉱山は大正10年に廃止され、トロッコのレールも撤去された。隧道は道路として引続き利用されたものだろう。

その後、はっきりした時期は分からないものの、遅くとも昭和38年頃までに狭い隧道を迂回する道が隣に作られ、“廃隧道”が『歴史の街道』の記者を待ち受けていた。
記者はそれを見つけ撮影した。さらに何らかの手段でそれが昔の金鉱石輸送のトロッコ隧道跡であることを知り、キャプションに「元は金鉱の跡だったトンネル」としたためたのであろう。
私の中で、物語は一つにつながった。


今回、初めて存在が明らかになった富来鉱山専用軽便軌道(仮)だが、運用期間が短いこともあって、今回紹介した以上の情報は全く持っていない。
そして、遺構のようなものも、今回見た隧道以外には何も残っていないのではないかと思われる。
名札を与えられず、ただ道路脇に口を開けていた小さな隧道の正体は、思いがけないところにあった。
しかし分かってみると、あの微妙に小さな断面の大きさなんかは、いかにも鉱山軌道ぽい感じがあった。

以上、報告終わり!




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