2023/2/14 14:02 《現在地》
歴代の地形図を見る限り、存在していそうに思える平谷トンネルの旧道。
もしかしたらそこには、旧平谷隧道が存在しているかも知れない。そんな期待を胸に、平谷トンネル西口脇にある制御ボックスのスキマから奥へ踏み込んでみると……。
そこには、旧道の跡かもしれない平らな土地が奥へと伸びていて、少し手応えを感じたのだが、先には1本の真新しい電柱が立っており、電柱のさらに先に、全く予想外のものが見えた。
見えた瞬間、「もしかしてこれは?!」という、正体に関する気付きが私にはあったが、それを確信に変えるにはもっと間近に観察する必要がある。
というわけで、電柱の奥へ近づいてこうとすると……
むむむっ! っと、また別の予想外のモノが、より間近な位置から目に飛び込んできたのであった。まずはそれを先に見てもらう。
石仏発見!
しかもそれが安置されていたのは、現国道からは絶対に目が届かない位置の岩陰であった。
わざわざこれを隠して安置する意図があるとは思えず、これはつまり、ずばり、ここ(石仏の前)が旧道であったということで、間違いないと思う。ここが旧道だった時代に安置された石仏が、そのままここにあるのだろう。
しかも、路傍の石仏ではよく見る光景だと思うが、落石防止ネットがそこだけ切られていた。落石防止ネットの存在自体が、ここにあった道路と無関係ではないと思われるが、とにかく安全だけでなく信心をとても大切にしてきた日本人の心意気を感じる風景だ。またこんな目立たなすぎる場所なのに、時々はちゃんと水や花を供えている気配まであった。
石仏そのものには特に由来を伝える文字情報は見当らず、正体は明らかでないものの、この石仏の発見によって、白谷トンネル外側のこの岩場に旧道が存在していた時期があることは、ほぼ確定したと思う。
が
が、である。
この石仏が醸す古色蒼然たる旧道風景と、その真ん前にまるで超ミニチュアサイズ空母のように鎮座する、白線を敷かれた現代的道路の路面は、あまりにもミスマッチングである。
というか、ここに至るまでの展開とも全く隔絶した唐突な存在として、この“空母状ミニ路面”がここにある。
その正体の詮索は後回しにして、次は実際にこの“路面”に立ち入ってみよう。
幸い、立入禁止などの表示物は全くない。だから、実は廃道ではない畏れさえあるな(笑)。
よっこいせっと。
路面に、乗りました。乗って、来た方向を振り返っています。
自転車を置いてきた制御ボックスのスキマが奥に見える。その向こうが現国道(左側が平谷トンネル)だ。
そこからここまでの平らな部分は、間違いなく旧道っぽい空間だ。微かに古い舗装の気配もあった。
左に見切れているが、石仏はまさにこの旧道の友達だったはず。
しかし、手の届くところにある電柱と、足元の路面は、明らかに旧道の構成員ではない。時代がまるで違って見える。むしろこれらは現国道と同世代、つまり現代生まれの何かである。
少し私が移動して、ここにあるミニ路面の全貌ができる限りフレームに収まるように撮影した。
ミニ路面の平面形は長方形に近いが、微妙に端部は複雑な形をしていた。本当にミニチュアの空母のように。
広さは、う〜ん、まあ4畳半くらいだな。縦横2.5〜3mくらいの広さ。
完全に真っ平らで、綺麗な路面になっている。
だって、左端に白線が敷かれているんだぜ。
もうこれは完全に道路の路面である。その一部だった。
ここが重要なところで、路面の一部でしかなかった。
次の全天球画像を見て欲しい。
なんという、世界の先端!
まるで、自●用の飛び込み台じゃねーか…。
画像を見ても、この突飛な状況がいまひとつ飲み込めない人が多いと思うので、文章で補足すると、
四畳半ほどの広さの真新しい道路の路面断片が、古色ゆかしい旧道の路上に置かれている。
しっかりと陸地に置かれているので、この路面断片は安定しているのだが、
路面らしく白線が敷かれているが、絶対にこれだけでは道路として機能し得ない、路面断片である。
では、この真新しい路面断片が、道路として使われたうえで必要な他の部分は、
どこにあるかというと……
そんなものは、どこにもない。
この“世代”の路面は、これしかない。
私の足元にある“四畳半”だけが、世界に唯一残った、この“世代”の路面だった。
切れた路面の先には、30mも下の長安口ダム貯水池、その青い湖面があるばかり。
ここで世界は、終わっている。
そろそろ少し話を整理するぞ。
こんな雲を掴むような話ばかりしていたら、煙たがられるばかりだろう。どうせ、生きる上では全く無用の話題なのだから。
ずばり、次の図のようなことがあったと推理している。
まず、図に描いた赤い破線のような旧道があった。
それは、冒頭に紹介した歴代地形図では【C昭和8年版】に描かれていた道だ。路傍の石仏も当時のものに違いない。
その後、長安口ダム工事に伴い湖畔の道路は改良され、初代の平谷隧道が誕生したのが昭和32年。それは状況的に、現在の平谷トンネルの位置に作られたとみて良い。それが地形図だと些か分かりづらかったが、【B昭和42年版】に描かれた状況だ。
そして、そこからだいぶ時間が経って平成8年に、平谷隧道は平谷トンネルへ生まれ変わる。
だが、この大規模な改築にあたっては長期に交通を遮断する必要があったが、手頃な迂回路がなかった。
そこで苦心の策として、チェンジ後の画像に描いたような大規模な仮設橋を設けることで(廃止されて久しい旧道用地の有効活用)工事中の迂回路を用意したに違いない。
【A平成12年版】に見える平谷トンネルの旧道は、この工事用迂回路を描いたものではなかったか。
しかし、石仏さまも驚いただろうな。もう二度と交通を見守る仕事はないかとのんびりしていたら、突然目の前に鋼鉄の仮設橋が誕生し、自分より少し高い位置をガンガン車が通り始めたときは。でもしっかりと安全を守って下さったようで、工事は大きな事故もなく無事完成したようであった。
そして工事の終了後、仮設橋は速やかに撤去されたが、その一部の地上部分(橋梁ではない部分)だけが跡地に残された。
それが、奇妙な“四畳半道路断片”の正体であろう。
今回の探索の動機となった謎解きは、これでほぼ終わった。
平谷隧道は、現在の平谷トンネルに生まれ変わっているために跡のようなものは存在しない。
そして、平谷隧道より前の世代の旧道が存在した。
最後に、石仏世代の旧道を、辿ってみようと思う。
この写真は、道路断片の末端から臨む、旧道があっただろう崖壁だ。
極めて恐ろしげに湖面へ落ち込んだ崖であり、石仏に通行の無事を神頼みしたくなったのが頷けるし、いち早くトンネル化されたのも宜なるかなな、絵に描いたような難所だ。
とはいえ、旧道があったことはやはり確かなようで、ほんのりと平場が見えるし、それだけでなく、平場の上には点々と、古くないコンクリートの基礎のようなものが見える。
高さ的にも、例の仮設橋を支えるために用意された地上物だろう。
また、切り立った岩の法面に落石防止ネットが張られているのも、昭和32年に旧道化した道には似つかわしくなく、やはり仮設橋時代に用意されたのだと思う。
仮設橋の施工や撤去のため、比較的最近まで人が出入りしたはずであり、通れないことはないんじゃないかなーと、期待。
うん。何とか通れる状態だ。
もはや道というか、藪化した平場でしかないのだが、落石防止ネットがまだ生きているおかげもあって、崩土に苦しめたりはない。
現代的な落石防止ネットと、もともと自動車が通れたのかさえ怪しいような狭い道幅は、強烈にミスマッチだ。そして所々にコンクリートの基礎のようなものが設置されていた。
平谷隧道が建設されたのが昭和32年だから、それまではこの道が使われていたはずだ。
現在の一般国道195号の前身となる二級国道195号高知木頭徳島線の誕生は昭和28年なので、ほんの数年、この崖際の細道が国道だったのだろう。
当時、こんな難所はここだけではなかったに違いないが、現在の“酷道”193号も裸足で逃げ出すような原初の頃の国道195号だった。
ほんとこんな道路で高知から徳島まで剣山地を越えて走破するとか、車も命もいくつあっても足りなさそう…。
これは振り返った旧道風景。
当たり前だがガードレールのような転落防止柵はなく、路外は即座に30m下の湖面となる。
この旧道に置かれた基礎によって支えられていた平成時代の仮設橋も、どんな橋だったかは残念ながら分からないが、なかなかやるもんだ。
昭和28年に初めて二級国道になったという話をしたが、それより前はどんな路線名だったのか。全ての経過は追いかけていないが、旧道路法が公布された直後の大正9年には、県道奥木頭小松島線に認定されており、大正12年に県道奥木頭徳島線となったことが分かっている。
これらの路線は現在の国道195号の高知県境である四ツ足峠の徳島側にあった奥木頭村(おくきとうそん)と徳島市周辺を結ぶもので、当時はまだ県境を越えて行く路線ではなかった。しかしここから徳島県庁までも80km以上離れており、県内だけでも果てしない難路だったろう。
余談だけど、昔の地名はいいよな。
奥木頭村なんて、もう名前だけで絶対難所っぽいもん。赴任しろって言われたら辞表書きたくなるレベル。
そして当地はといえば、昭和26年まで中木頭村(なかぎとうそん)という自治体名だった。その後、平谷村(ひらだにそん)、上那賀村(かみなかそん)を経て、昭和32年以来長らく上那賀町だったが、平成の合併で那賀町になって今へ至る。もうめっちゃ「なかぎとうそん」っていう汚い音(おいおい!失礼だろ)が似合う道路風景だったなぁと。
平谷トンネルの長さはたった80mなので、その外側を迂回している旧道も、せいぜい100mほどの短い区間だ。
なので強烈な旧道歩きもすぐに終わりが見えて来た。
ちなみに国道沿いの電線は、今も旧道の頭上に敷設されている。絶壁の区間内に電柱がないので、巡視で立ち入ることは無さそうだが。
狭い道形を遮るような形で前方に見えてきたのは、平谷トンネル東口に接続している巨大な落石覆いの外壁だ。
道路側からだと普通にトンネル内に見える部分だが、実は土被りのない落石覆い部分が20mくらいある。平谷隧道だった頃は、明り区間だったろうな。
そしてこの落石覆いのぶ厚い外壁に、狭かった旧道の敷地はすっかり呑み込まれてしまったようだ。
ここには道だった名残は全くなく、ただ落石覆いの外壁に用意された幅50cm足らずの犬走りが、辛うじて通路として利用できた。
まあ、手摺りも何もない状態で――
――下はこんなに切れ落ちているので、物好き以外は通るものではない。
うっかり足がもつれたり絡んだりしたら、それだけで死んでしまいかねないぞ。
そして気付いてみれば、結局、先に探索した東口側で、【道なんてなさそうだ】と見えたからスルーしようとした場所に――
14:10 《現在地》
――すっかり辿り着いてしまったのである。
真面目に探索すれば、通るべきところからは決して逃れられないということだろう。
なんかそうなるような予感がしていたよ(苦笑)。
でもまあ、知りたかったことについては、確度が高いと思える結論を得ることが出来たので満足だ。もう誰にも顧みられなくなっている孤独な“四畳半路面”に心の中で乾杯しつつ、自転車回収後に現地探索を終了。
今回の探索で得られた、探索前の謎に対する、私の結論。
『道路トンネル大鑑』に記載がある昭和32年完成の平谷隧道は、平成8年に平谷トンネルへと改築されていて現存しない。
平谷隧道以前の旧道は、わずかに痕跡があるものの、平谷トンネルの建設時に仮設橋の用地として利用されたり、平谷トンネルの外壁工事の影響をうけたりで、原形を失っている。
そしてこれらの内容について裏付けとなる次のような証言を、本レポートの前編公開後に、徳島県在住のひろ氏(@Rotary_13B_REW )より頂いた。
私の知人から聞いた話ですが、現在の平谷トンネルの位置に小さなトンネルがあったようです。当時はすれ違いが大変だったみたいです。それと現トンネルの外に残っている小さなアスファルト路面ですが、あれは改良工事中の仮説桟橋跡です。
平谷隧道の写真は残念ながら未発見だが、現在も国道195号の一部として現役である、同じ湖畔にある昭和30年頃生まれのトンネル群と同様のものだったろう。
そんなトンネルの一つである下御所第一トンネル(昭和30年竣工、道路トンネル大鑑では下御所第三隧道という名称)の様子は、グーグルストリートビューでどうぞ。
また、いしかわ屋氏のサイト『とくしまのみちのぺーじ』のこちらのページでは、平谷2号トンネル開通当初の道路状況がレポートされており、「平谷トンネルの工事中は川にせり出して仮橋(鉄板)が設置されていた」旨の記述があった。
仮設橋の写真も、残念ながら未発見である。
最後に、今回の探索で旧道の岩陰で出会った石仏について、『上那賀町誌』(昭和57(1982)年刊)に記述を見つけたので紹介したい。
牛ノ止りのお不動さん
国道195号線平谷トンネル外回り(旧道)断崖絶壁上の道路の岸側に不動明王が一体安置されている。昭和4年に県道平谷〜出合間の開通のとき祀られたものと思われる。
現在は、付近の老人がときどき清掃したり、お供物を祀ったりしてあるという。このお不動さんは、昔、宮ヶ谷村に在住した竹内というおばあさんがよくご祈祷に来ていたといい伝えられている。
うん、推理はドンピシャ!
やはりあそこが旧道で、町誌が発刊された昭和57年時点で、平谷トンネル(隧道)が既にあったことも確かめられた。
そしてどうやらあの場所、「牛ノ止り」という名の難所だったようだ。たぶんだけど由来は、馬に比べて高所を恐がらないとされる牛でさえ足を止めるほど怖い場所かな。
また新情報として、出合(現在の出合橋付近)から平谷までの県道は、昭和4(1929)年に初めて車道が開通したということが分かった。
そしてさらに別のページに、この出合〜平谷間の県道は、昭和4年5月に整備された幅3.5m、延長5.0kmの道路で、同年7月にはさっそくこの道で海部公営乗合自動車がバスの運行を始めたとのことであった。
なんとあの絶壁の旧道(絶対幅3.5mもなかったと思うんだが)、バスも通っていたのか。
おっそろしい!
完結。