吃驚仰天の“橋オンザ橋”を攻略せよ!!
2024/2/26 8:12
橋の四隅の状況をつぶさに比較した結果、もっとも旧橋へ潜り込み易そうな場所が特定された。
それは、左岸上流側の橋頭だ。
ちょうどこの橋名を刻んだ石標が立つ隅である。
では、実際に潜入を始めよう。
まずは、高欄の手前から橋台脇の地面に降りる。
大した落差ではなく、下は草の生えた斜面である。
で、こう入る。
かんたーん。
とは残念ながらいかない。
これが、簡単ではない。
この全天球画像をグリグリして、私のいる位置からどうやって旧橋の路面に入り込むかを、考えてみて欲しい。
これは上記の全天球画像から切り出した、私の周囲の状況である。
いろいろ描き足した内容について説明しよう。
まず今いる場所を「A」とする。
この足場は狭く、川側は垂直に近い角度で数メートルも落ち込んでいる。
そしてここから「B」へ入ることが次のステップだが、これがとても難しい。
というのも、「A」と「B」は同じ高さにあるが、面として全く繋がっていない。なので、「A」→地面→「B」という順序で進みたいのだが、その地面がなかった。そのため、両手の届く範囲にあるいろいろなものを上手く掴みながら、不思議な動きで「B」に入る必要があった。ここで失敗すると、仰向けの状態で崖下に落ちかねないので非常に危険である。
どうにかこうにか、「B」に入った。
前の画像を見直して欲しいが、この「B」は現橋台の橋座部(桁が乗る部分)であり、現橋の桁に上と奥を占拠されている。もともと人が入り込む前提の場所でもないので、身を縮こまらせてようやく納まる窮屈さであった。
そして、ここからまだ最後のワンステップが残っている。
現橋の鋼桁と、旧橋のコンクリート高欄の隙間から、その奥に見えている旧橋路面に潜り込む。
ただ降りるだけと言いたいところなのだが、これがまた難儀であった。
単純に空間が狭く、非常に制限された動作で、ほとんど空中にある隙間をすり抜ける必要があった。
しかも、何かの管やらパイプやらが微妙に邪魔をしていることも嫌らしかった。
ここでも試行錯誤があってから、ようやく「これだ!」という姿勢と動きを発見し、行動へ移したところでパチリ。
具体的には、先ほどの画像に描いた「C」という片足を乗せるだけで埋まってしまう極小の足場を活用した。
「C」は旧橋橋台の橋座部の切れっ端であり、旧橋最後の通行人にならんとする私に、旧橋の橋台が手助けをしてくれたというのが、エモかった。
なお、このように旧橋へ潜り込もうとしている最中にミスって転落死でもしたら、打草驚蛇の笑いもの。オブローダーとしては初のダーウィン賞受賞にノミネートしかねないので注意したい。
いざ、入橋!
8:15
人類はついに、新たなる地平へ到達しました。
希望橋の真下にある旧橋(旧希望橋?)路面へ、ついに降着。
もしかしたら、昭和62(1987)年に現橋が完成して以来、はじめての(37年ぶり)の旧橋渡橋者の栄誉を掴んだ可能性もある。
仮に私が子供だったら絶好の秘密基地だと感じる空間だが、そのように使われたらしき置土産は見られない。橋の上は現役さながらに綺麗であった。
うぅ〜〜んッ!
本ッ当に見事に上を覆われているッ!!
完全に立ち上がれる天井の高さはないが、這いつくばったり、しゃがみ歩きを要するほどは低くなかった。
上の橋がいわゆる混合桁で、ぶっとい両側の鋼材と、床板を兼ねた鉄筋コンクリート材を合わせているが、この型式のお陰で外見から感じたよりも広い空間が、旧橋路上には残されていた。
私の身長でも、俯きながらであれば立ち歩くことが出来た。
振り返る、左岸橋台。
目の前に立ちはだかっているのが、現橋の左岸橋台だ。
そして私は向かって左の隙間から、にゅるんしてきた。
改めて、旧橋の路面コンクリートが廃橋らしからぬ清浄の色を帯びていることが分かると思う。
野晒しでないことが、土木構造物の老朽化に決定的な好影響を与えることは間違いない。
ただ、この旧橋の路面に突き刺さっている長短5本の鉄筋は、明らかに現役時代のものではない。
その正体として真っ先に考えられるのは、直上での新橋工事と関係する仮設構造物だ。例えば、仮足場となるような木柱を支えていたとか。
経験上、旧橋の直上に新橋を架け直すパターンは珍しい。それが珍しい理由は、工事中に使える橋がなくなってしまうからだろう。だから少しはずらしてかけ直すことが多いのだ。ただ、橋を重ねることには想像できるメリットがはっきりあって、それは新橋を空中に架け渡していく作業の安定した足場として旧橋を使えることと、アプローチ道路の新設が最小限で済むことだ。
過去の見聞でも、はっきりと旧橋の活用が記録されているわけではないが、広島県の帝釈峡に架かる紅葉橋でそのような架け替えが行われた可能性が高いと考えている(このレポートの最後の写真を見よ)。他にも、全国に点在する上下二段重ね合わせの新旧橋はいくつか報告されており(今後レポートする)、典型ではないが、類型としては存在する工法なのだと思う。
……なんてことを考えつつ、左岸から、右岸目指して旧橋を渡っていく。
渡ろうとすると、数メートルおきに上の橋の横構が邪魔をしてくる。
その都度、しゃがみ姿勢となってやり過ごす。
それだけで、簡単に進んでいくことが出来る。
旧橋に入るのは難しいが、入ってしまえばなんなりと、だ。
橋上を何本かのホースが渡っていて、中に水が通っているっぽい。
もっとも、そのためにわざわざ旧橋を残したとも思えない。普通は現橋の床下に器具を使って固定するところを、たまたま旧橋がいい位置にあるから、楽にそこを通されている雰囲気。
そろそろ真ん中だ。
現橋にはない中央の橋脚があり、桁もそこで分割されている(僅かに隙間がある)。
かまぼこ形に膨らんだ高欄のラインが中央を際立たせている。
出来合の桁ではなく、2径間連続の橋を架けるためにデザインされたものと思う。
旧橋の時代、渡った先には小学校があった。
大勢の子供たちが、この橋から巣立っていったわけだ。
その立場に恥じぬ、慥かで清廉な橋である。
ではどうして架け替えたのか。
答えははっきりしないが、左岸の袂にある直角のカーブが、通行する車両の大型化を障害したことは想像できる。
この画像の“赤色の矢印”の位置に古ぼけた石垣があるが、これが旧橋に対応する旧道の路肩であったと思う。
その上にある新橋の左岸橋頭は、“水色の矢印”のように直角カーブが隅切りされていて、大きな車が通りやすくなっている。もちろん橋上の道幅も1mくらい広がった。
スクールバスの利用が広がったことで、その安全な通行のために新橋が求められた事情が、あったのではないだろうか。
橋の上を一往復した戻りに、少しだけ動画を回した。
これで満足し、地上へ戻る決心をした。
戻るのも、入ってくる時と同じくらい難しくて楽ではなかったが、無事に戻れたからこれを書いている。あれ以来橋の下から更新しているわけではない。
8:25 地上へ復帰。探索終了!
帰宅後、この橋についての机上調査を試みたが、橋と直接関わる情報はほとんど得られなかった。
まあ、立ち位置的に地方の一市道の小橋に過ぎず、たまたま道路ファン映えする奇抜な新旧橋コラボが行われている点を除けば、地味な橋なのでやむを得まい。
ただ、希望橋という名前や竣工年を頼りに検索したところ、吉野川市の橋梁定期点検結果がヒットし、それにより、橋の諸元や道路名が判明した。主たるデータを抜粋すると……
希 望 橋 路線名:市道大内3号線 架設年度:昭和62(1987)年 橋長:17.6m 全幅4.0m 径間数:1 橋梁種類:鋼橋
……といった内容であった。
当然だが、旧橋らしきデータは記録がなかった。
“架かっている”ことは誰の目にも明らかでも、“現役”ではない廃橋なのだろう。やはり…。
橋単体の調査は諦めて、地域に焦点を移して、特に橋を渡った所にあった旧「山川町立川田山小学校」をキーワードに検索したところ、ヒットした。
同校は、明治14(1881)年の創立で(だから現地には【創立百周年記念碑】もあった。昭和56(1981)年で百周年)、平成22(2010)年に川田中小学校に統合されて廃校となるまで長くこの地に存続していたことが分かった。
また、昭和40年代以前の旧地形図を見ると(右図は昭和9(1934)年の地形図)、周辺に鉱山記号が複数見え、高越鉱山(こうつこうざん)の注記があった。
こちらをキーワードにするとまたヒットがあり、当地は銅を主力とする鉱脈を賦蔵していて、明治期より開発に着手、大正4(1915)年に奥野井谷川沿いに現在の県道のもととなる車道が完成。昭和期に最盛期を迎え、周辺には鉱山街が形成され川田山小学校には従業員の多くの子弟が通ったというが、次第に資源枯渇となって、昭和46(1971)年に閉山したことが分かった。
希望橋との関わりでいえば、高越鉱山の繁栄は旧橋時代に完結した物語となるが、山峡の地にありながら早くにコンクリート橋という“永久橋”を手にしたのなら、こうした地域の繁栄が関わっていそうだ。
もっとも具体的な旧橋の架設時期ははっきりしない。
昭和9(1934)年の地形図には、希望橋の位置に橋は描かれていないが、これは縮尺の問題かも知れない。学校の記号は既にある。(旧橋の外見の印象は、昭和初年代から戦前の橋を思わせるが)
@ 令和5(2023)年
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A 昭和50(1975)年
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B 昭和36(1961)年
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ここまでのことを踏まえつつ、昭和から令和まで3世代の航空写真を比較してみた。
@の令和5(2023)年の写真に写っているのは、現在の希望橋だ。
その傍らにある四角い空間は、水のないプール跡だ。
Aは昭和50(1975)年の写真で、希望橋と同じ位置に橋が写っているが、これは時期的に間違いなく旧橋である。
プールには、水の色か底の塗装か分からないが、水色が綺麗だし、いかにも地方の小学校らしいL字型の校舎も健在だ。橋を渡ると直ちに校庭ど真ん中の立地だったようだ。
Bは昭和36(1961)年の写真で、小学校の校舎はAと同じ場所にあるが、後にプールが作られる場所より東側には、鉱山住宅らしき長屋建築が大量に並んでいる。
そして、橋はやはり同じ場所にある。少なくともこの時よりも古くから旧橋があったと分かる。
当時は、児童や学校関係者だけでなく、鉱住の人々も橋を使って県道や鉱山の仕事場へ向かっていたのではないだろうか。
現在のところ、調べはここまでだ。
希望橋の傍らに立つ標柱に、この橋の施工者の名として藤原建設が記されていた。
おそらく、この会社さんだと思うが、どんな工事でしたかと問い合わせてみたい気持ちがありつつも、電話がとても苦手な私は二の足を踏んだ。
まあ、私なりにこの奇抜な“橋オンザ橋”を十分堪能できたので、これでヨシとしたい。
「 ヨシ! 」
つうか、橋直下の隙間にスムースに潜り込むには、当時のミニレポ君のスリムさが欲しいぜ……。