濡れなければ辿り着けない橋でしか辿り着けない磯
2024/6/13 15:04
目指す“謎の橋”と陸地の中間ぐらいまで来た。
橋まであと70〜80mといったところ。
ただし、最短ルートではなく、より陸地が多く見える所を歩いているので、少し迂回している。
が、そのことの愚に気付くのは、まもなくだった。
地図上で「現在地」を表現すると、こんなところにいる。
まるで海の上だが、よく見ると「隠顕岩」の内側なので、干満の状況次第で陸化する場所らしいと分かる。
しかし、際陸化している場面を見たことがないので、どんな風景かは想像しか出来ない。近くの有名な観光名所である千畳敷をイメージすれば外れないだろうか。
15:05
やりやがった!
こいつ、絶対気をつけろよってあれほど肝に銘じたのに、しっかり転けやがった!!
隠しても、カメラのレンズに水滴が付いているのは写りからモロバレである。
転倒の原因は、目先の陸地を過度に追いかけてしまった愚かさにある。
陸地があるということは、その周囲の海底との間に少なからず高低差があるのだ。
その起伏は滑らかで、後述する独特の地質と相まり、長靴のグリップはゴミレベルに悪かった。
挙げ句に強風で海水が流れているという、もう足を滑らせる条件は全て揃っていた。
結果、何度目かに陸から海へ入るところで、思いっきり片足がズって、盛大に左半身から海中へ転がった。なんて陰険な岩だろう!!
咄嗟に、首から提げた一眼レフカメラだけを空へ突き出したので、カメラは水没を免れ水しぶきを被っただけだったが、身体はぐしょぐしょになった。
こんな“謎の橋”があったよと、探索直後にトリさんに教えてあげたら、トリさんも行ってみたいと言っていたが、あの人は間違いなく転ぶだろうな。私が転んだところでトリさんが転ばない確率は7%くらいだと思っているから、経験上。
気を取り直して…
“謎の橋”へ大接近!!!
最後は、橋へ近づくために強烈な逆風へ立ち向かう形となった。
水深もこれまでで一番深く、だいたい40cmくらいあって腿の下まで浸かったが、強風のため海水は逆流となって流れており、余計に足を重くした。
波立つ海面に光が反射し、底の様子がとても見えづらく、一度は転倒していることもあって、慎重ににじり歩いた。
撮影した映像を見返すと、水上歩行をしているような不思議な絵が撮れていた。
私もいろいろな場所を踏破してきたが、こんな陸から離れた海を“歩行”するのは、初めての体験だったと思う。
15:06 《現在地》
到達!
陸からでは遠望するよりない橋に、辿り着いてしまった!
こんな場所にポツンと橋が架かっているのが可笑しくて仕方なく、私は笑いながら異様なテンションとなった。
前述した通り、この橋が跨ぐ海面下には、人工的に掘られたとしか思えない直線的な溝があることが、航空写真より明らかになっていて、橋はその溝を跨ぐためにあるのだが、実際に近寄ってみると、溝もその周囲の浅い部分も海面下であることに違いはなく、本当にただ広い海原の一角に浮いているように見える橋は、トマソン的なシュールさを強烈に放っていた。
水面に注目すれば、確かに深浅の違いは感じられるのだが……。
昔のRPGのマップ上にあった上り階段だこれ(笑)。
海底の地面を0段目として合計6段のコンクリート製上り階段。
幅は70〜80cmと狭く、明らかに人道サイズ。
手摺りなんかが取り付けられていた形跡もなく、本当にシンプルの極みだが、年中海水に曝され続ける立地でありながら、意外に破壊されていない。
実は凄く新しかったりする?
それとも、このような遠浅な地磯という環境は、私が思う以上に風と波の破壊力より守られた平穏な場所なのか。
この階段の“綺麗さ”は、正直かなり意外だった。
登りまーす。
15:06
これは、橋だねぇ。
足を濡らさないと辿り着けない海の中にあるけど、橋は橋。
歩いては越せない深い部分を渡るという、立派な役割を果たしている。
橋の造形も超絶にシンプルで、幅0.7〜0.8m、長さ5mほどのコンクリート板を、2径間連続で架け渡しただけの一本橋だ。すなわち橋長10mほど。
チェンジ後の画像は、橋の上から東方向、すなわちレポートの最初の地点である田野沢漁港方向を見ている。
漁港方向へ伸びる直線的な溝の存在がよく分かる。この溝の幅と橋の長さは一致していた。
深さはよく分からないが、あっても3mくらいだろう。いずれにしても間違いなく人工的な地形である。
一体なんのために掘られたのだろう。
橋の上で撮影した全天球画像。
開放感ぱねぇ!
あんな遠く見える陸からここまで歩いて来られるとか、こんな地形を知らなければ信じてもらえなそう。
特に立入りを制限する表示物などは海岸にも橋にも見られず、あまり知られていないだけで、実は水遊び目的で訪れても凄く楽しい場所なのかも知れない。
ただ、ここまで近くに高いもののない海上に孤立しているという状況には、心理的な怖さを憶える。
急に高波や津波があったらどうしようとか考えちゃう。
橋の様子を見る限り、実際は思いのほか静穏さの保たれた環境なのだと思うが。
15:07
強烈な吹き曝しに遭う橋上には、景色の良さを味わう以外に長居する理由もなく、橋の先にある地面……ではなく再びの浅海面へ。
橋を渡った先にも極めて浅い岩棚が存在しており、橋から30mくらい沖から始まる特に浅い部分は、千畳はないだろうが推定100畳敷きくらいの極めて平らな島となって、探索時も海面に出ていた。
そしてそこでは、ウミネコとみられる海鳥たちが大勢、私が橋を渡り終えて水音を立て始めるまで、くつろいでいた。
写真奥の陸と空に、ゴマ粒のように写っているのが、彼らの姿だ。
橋を沖側から見た様子。
やはり6段の階段でもって水面下の地面に降着する。
それはそうと、現地でも薄らと気付いていたが、写真だとより鮮明に分かる。橋桁の妙な撓みが。
おそらくこの橋は、内部に鉄筋を仕込まれた鉄筋コンクリート橋なのだろう。
その鉄筋が強い潮気に腐食され、強度を喪失しつつあるから、橋の自重を支えきれなくなって、撓みはじめているのだと推測する。
したがって、階段部分や橋桁の外観の綺麗さから受ける印象よりは、構造の痛みが進んだ橋なのだろう。
でも、こんなに撓んでいるのに表面に亀裂が見られないのは珍しい。まあいずれ限度が来るだろうが。
地理院地図では、沖に浮かぶ4つの「岩(大)」として表現されている現地の地形は、自然のものと区別が付かない。
だが実際には、チェンジ後の画像に描いたような配置で3本の直線的な溝が掘られていて、広い岩棚はこれらの溝によって陸側の広い部分と、沖側の3つの小島部分に分れている。
橋は、陸側の岩棚と中央の小島を結んでいるが、橋のない他の2つの小島へは溝のせいで歩いて行くことが出来ない。
水面下にある溝の様子を撮影した。
溝が掘られる以前は、全体で一続きの巨大な地磯だったと見られる。
このような溝を掘る目的だが、海の仕事に疎い私には、なかなか思いつかない。
近くに漁港があるから、浅い岩場を撤去し漁港を拡張しようとした跡なんてことも考えたが、さすがに大変すぎるだろそれは。
わざわざ橋を架けているくらいだから、通船目的の溝でもないだろうし。
15:08
陸から200mも離れた所に浮かぶ平らな地磯に上陸した。
少し前までここでくつろいでいた海鳥たちが、警戒も顕わに私の頭上を旋回している。
ただ、海鳥たちのサンクチュアリというには少々生命感に乏しい所だ。生命の宝庫である海に囲まれているが、島の上は岩しかなく、別の惑星みたいに不毛だ。おそらく満潮でも水没する事がないのだろう。
なお、この白っぽいのっぺりとした岩は、千畳敷に広がっているものと共通するグリーンタフ(緑色凝灰岩)であるようだ。
凝灰岩というだけあって滑らかで、濡れると非常に滑りやすい。私が海面下の微妙な傾斜で簡単に転倒したのも、この地質のせいである。
もっとゴツゴツとした地磯なら、見た目には恐ろしげだが、実際に転ぶ危険は低いと思う。
15:09
橋が架かっているくらいだから、この小さな島には何か人が訪れる目的となるような構造物があって然るべきだ。
そう思ったのだが、例の溝の他の人工物と言えば、この写真にある岩を削った形跡だけだった。
おそらく道具としては重機を使っている。ショベルカーで削った特徴的な掘鑿痕だ。
海上輸送でない限り、重機は溝で分断される以前の地磯を伝って陸から来たのだろう。
だが、どんな目的で削ったのかは、ちょっと分からない。
これが完成形だったのかも、不明。
もしこの陸地全体を削って海面下にしようとしたのだとしたら、達成率は1%くらい?
地形のスケールに対すれば、だいぶ小さな形跡であった。
15:10 《現在地》
そして、遂に歩きうる末端へ。
あんなに遠浅だった岩棚も終わるところは唐突で、ある線から先は急激に深く落ち込んでいた。
海面の様子も、川のようだった岩棚の上はとまるで違う、カヤッカーとして見慣れた沖海のそれである。
今日の波は穏やかだが、午後になって急激に風が吹き始めているから、この後は荒れてくるものと思う。
この場所、深い海に陸から直接釣り糸を垂らすには良い陸地かも知れないが、遊んでいるうちに退路が水に消えていそうな怖さがあった。
なにせ、振り返る陸は、こんなにも遠い。
例の橋でさえ、100m近くも離れてしまった。
陸からだと250mくらい離れていることになる。
私自身、陸から離れるにつれてなんとも言えない居心地の悪さを感じており、この島にいる間は特に、早く陸へ帰りたいと思っていた。
なので、目的(橋への到達)は果たしたんで、もう帰りますよ!
15:27 《現在地》
生還ッ!
探索には成功したが、わざわざ履いていった長靴の犬死に感が半端なくて可愛そうだ。
長靴を履くと確定で濡れるのは、私の世界特有の何かのバグなんか?
そんな現地探索のレポートは、以上である。
机上調査編 〜謎の橋が跨ぐ“溝”の正体が判明〜
深浦町田野沢の海上に存在している“謎の橋”は、潮位の変動によって水没する波食台に刻まれた、“謎の溝”を跨ぐものであった。
橋の正体を知るためには、明らかに人工的な存在である、“謎の溝”の正体を知る必要があった。
探索を終え、その日のうちに帰宅した私は、さっそくSNSに“謎の橋”の画像を投稿し(↓)、事情を知る人物の出現を待った。
すると、投稿の翌日にはさっそく反応して下さったアカウントがあったので、さらに問いかけを続けたところ、
溝の正体について、以下のような(↓)核心的情報を入手することができた!!
情報をご提供下さったシェルパ@シェル氏(@shelvy_shelpa)によると、
橋が跨ぐ溝(掘り)の正体は、サザエを養殖するために掘られたものだという。
使用されていたのは30年以上も前で、それも数回しか使用されなかったと。
サザエ養殖用の溝などとは、現地では全然思いつかなかったのであるが、こうして説明を聞けば、なるほどと思えるものがあった。
なるほど、「サザエ」か……。
これに「深浦」や「田野沢」といった地名を加えたキーワードで、国会図書館デジタルコレクションを調べたところ、“当時の情報”を見つけることが出来た。
『青森県水産増殖センター事業報告 昭和61年 第17号』
「人工種苗サザエの放流試験」より
青森県水産増殖センターが昭和63(1988)年3月に発行した『事業報告』に掲載された「人工種苗サザエの放流試験」という記事(pdf)にある次の記述や、右に転載した地図は、間違いなく今回探索した“橋”や“溝”の実態を証するものであった。
近年、サザエ種苗生産技術が進歩し人工種苗貝の生産ができるようになったので深浦町田野沢地先にサザエ種苗を放流し、放流後の生態を観察した。
(中略)
放流場所は第1図に示すとおり深浦町田野沢地先の通称「長瀬の崎」に造成された小規模増殖場(増殖溝、以下増殖溝という。)内の水深1mの地点であり、昭和61年7月24日に放流した。
(中略)
放流地点は増殖溝内でるため静穏であり、海底には直径40〜50cmの石が乱積されている。(以下略)
『青森県水産増殖センター事業報告 昭和61年 第17号』
「人工種苗サザエの放流試験」より
この調査の「結果」は詳細には引用しないが、放流から139日後には放流した稚貝は増殖溝の中で1匹も発見できなくなり、行方不明になったという。しかし死骸も見つからないことから、何らかの原因で増殖溝外に移動したと推察されるとして、その理由をいくつか考察して結んでいる。
とまれ私にとって重要なのは、あの溝が、通称「長瀬の崎」と呼ばれた地点に造成された「小型増殖場」の増殖溝であり、昭和61(1986)年時点では既に存在していたという事実だ。
そして一緒に掲載された地図により、今日の航空写真にも鮮明に見ることが出来る3本の溝の配置や規模が証明された。
その地図には、私が渡った“謎の橋”も、しっかりと描かれていた。
橋は、「0号溝」と名付けられた全長150mの増殖溝の中央西寄りに1本だけ架設されており、他の「1号溝」や「2号溝」には架かっていなかったようである。
こうして、“謎の橋”と“謎の溝”は一挙に謎の存在から脱したのであるが、その利用の実態については、そもそも私が漁業全般について不案内で、養殖業についても当然知識に乏しいため、自発的に語れることはほとんどない。
ただ調べてみると、昭和57年度から62年度にかけて、小規模増殖場造成事業という国の補助事業が、沿岸漁場整備開発法に基づく水産振興対策事業として全国各地で行われたらしく、青森県深浦町の通称「長瀬の崎」にサザエの増殖を目的とした3本の増殖溝が建造されたのも、この期間内と考えられた。
このことは前掲の記事に矛盾しないし、昭和57(1982)年の航空写真には影も形もない溝が、平成2(1990)年版には鮮明である事にも裏付けられる。
また、昭和60(1985)年3月に発行された『深浦町産業振興計画調査報告書』中の「水産振興計画」にも、昭和57年時点の記述として、「サザエの幼稚仔発生場(水深0〜5m)、育成場(水深5〜10m)および漁場拡大を津軽海域総合開発事業、小規模増殖場造成事業で考えており、目標年間増産量62tを目指している
」との内容が見られた。
日本の代表的な高級食用貝であるサザエは、今日でも深浦町の重要な水産品の一つとして挙げられており、実際に町内の観光客向けの飲食店でもしばしば供されるが、証言にもあったように、長瀬の崎でのサザエ増殖事業はあまり長続きしなかったようである。
この小規模増殖施設の稼働が窺える後年の記事としては、『青森県水産増殖センター事業報告 平成6年第25号』に、同センターなどが平成5年度に育成したサザエの放流用種苗を「平成6年9月28日に深浦町田野沢小規模増殖場内の水深1.5〜2.0mに8474個放流した
」ことが記されているのが、確認できた最後である。
それからさらに30年近くが経過した現在、この増殖施設が利用されている様子はない。
ちなみに、このような増殖からさらに管理のフェーズを広げ、人工的な環境で生産を完結させるのが養殖である。
サザエの養殖についても全国で研究が進められているものの、エサの供給などの問題があって、未だ実用化されていないようである。
古くから漁業が主要な産業であった深浦町が、これまで町を挙げて取り組んできた様々な増殖・養殖事業のあらましが、広報誌『広報ふかうら 2020年8月号』の記事「育てる漁業の試み」に簡潔にまとめられていたので、一部を引用したい。
昭和52(1977)年、世界の水産業が「200カイリ時代」を迎えると、日本の漁業は危機的状況に陥りました。(中略)自由に操業できる海域の縮小で、日本の漁業には「冬の時代」が来ました。そのため日本の漁業は「捕る漁業」から「育てる漁業」へ転換を図らざるを得なくなりました。こうした状況は漁業が盛んな深浦町では深刻で、町をあげて「育てる漁業」、つまり養殖事業に取り組むことになります。
深浦町の養殖事業は追良瀬川のさけます増殖が中心となりますが、それ以外にも多くの試みがありましたが、その多くは成功に至りませんでした。深浦町の養殖事業の試みは、昭和54(1979)年に追良瀬さけます増殖センターとアワビ種苗供給センターの運営がはじめられた頃からとなります。その後、昭和55年に大戸瀬漁協がサザエの養殖場を造成しました。昭和57年に大戸瀬漁協に結成された北金ヶ沢漁業振興会がヒラメの養殖試験事業に取り組みます。昭和58年に風合瀬漁協がクロソイの放流、田野沢ではサザエの養殖場ができました。昭和63年、風合瀬漁協がホタテ漁業研究会を設立するとともに、ヤリイカ産卵礁を造成します。平成に入ると……(以下続くが、略)
『広報ふかうら 2020年8月号』「育てる漁業の試み」より
羅列された事項の数たるや、まさに試行錯誤の連続と読み取れるのだが、その多くは成功には至らなかったとまとめられている。
個々の事業の成否は断じられていないが、たった一文で終わる「田野沢ではサザエの養殖場ができました」の結果も推して知るべしだろう。
間近に観光名所として名高い千畳敷を有し、類似した地形と佳い風景を有した長瀬の崎は、サザエの増殖のため重機によって乱暴に破壊され、そうして造成された施設も余り長続きしなかった。
そんな風に書けば批判を目的にしていると捉えられかねないだろうが、水産業に限らず、自然を相手取った仕事の多くは、試行錯誤の連続が避けられない難しいものだと解すべきだろう。
多数の試みのなかの少数が、大きな突破口となる成果を挙げ、その積み重ねが人類の進歩であると信じられているのだ。
ただ、私が普段ずっと触れている道路や橋やトンネルといったものを造る土木の仕事は、自然相手であっても、試行錯誤に世間はあまり寛容ではない。
土木は、インフラという生産の礎となるものを、みんなでお金を出し合って作るのだから、失敗は我が事のように重くのし掛かる。だから寛容ではいられないのだろうか。
最後はなぜか、そんなとりとめのないことを考えた、何から何まで風変わりな橋の探索だった。
完結。