《周辺地図(マピオン)》
静岡県の周智(しゅうち)郡森町(もりまち)は、“遠州の小京都”との異名を持つ歴史深い町だ。
“秋葉道”であり“塩の道”でもあった信州街道の宿場町として古くから交通の要衝であったが、緑豊かな森林と田園の地でもあり、さらに町内に国道が存在しない(高速自動車国道はあるが)ため、道路地図上で町全体が緑っぽい(国道の代わりに主要地方道が多くある)のも森っぽい。
そんな森町には、信州街道の経路上に隣接する掛川市と同じように、昔から多くのトンネルが掘られてきた。
今回はそんな古トンネルの中から、とびきりにキュートな1本を紹介しよう。
トンネルがキュートと言われても、「?」と思われたかも知れないが、ひと目見れば、きっとご納得いただけることと思う。
このトンネル……「北谷田(きたやだ)隧道」という……のキュートさの最大の要因(チャームポイント)は、サブタイトルにも書いたとおり、記録されている断面の寸法が、幅1.9m×高さ1.8mしかなかったことだ。
仮にこのサイズが厳密に適用されている場合、軽自動車や小型自動車はギリギリ通れそうだが、乗用車であっても車体が大きな車だと、幅か高さ(あるいはその両方)が不足して通れないだろう。
そんなサイズ感の隧道であることを念頭に、次の地図を見て欲しい。
これは、先の地図のピンクの枠内である北谷田隧道周辺を描いた、最新の地理院地図である。
問題のトンネルは、「軽車道」上のトンネルとして描かれている。
地形図のルールだと、「軽車道」は幅3m未満の道路を表しており、もともと実際の道路状況にはかなりの幅がある記号だが、記号名からして軽車両が通れる道路を念頭に置いた記号だろう。そして実際には、乗用車くらいの自動車でも通れる道路であることも多い。
この地図上のトンネルの表記を見て、(現地の状況を下調べせずに)乗用車で行こうと考えるのは、もともと運転に相当慣れた人だけだと思われるが、もし一般的なサイズの乗用車(幅1.7m×高1.5m)で到達した人がいたら、かなりスリリングなトンネルの通行体験が出来たのではないだろうか。
……が、残念ながら、これは今や昔の物語である。
ここまでの表現が、微妙に過去形多めであったことや、そもそもレポートの表題にある意味深な「2011年編」という文字で察せられた方もいるかと思うが、悲しいことに、この北谷田隧道、ごく最近廃止され、そのまま埋め戻されて現存しないのである。(その理由は、レポートの末尾に掲載)
私はまだ隧道が健在であった平成23(2011)年3月に、自転車でここを訪れている。それが今回紹介する探索だが、実は一つの問題がある。
私事で恐縮だが、この約3時間前の岩谷隧道の探索からここへ移動してくる途中で、なぜかカメラ(当時はコンデジを使用)が不調に陥った。結局この不調が直ることはなく、この日の探索終了と共に本機は引退となったのだが、このカメラの不調のために一部の写真は極端なピンボケとなってしまっている。
そんな負い目があって長らくレポートも未執筆となっていたが、最近こいつが封鎖されたことを知り、急に惜別の気持ちが湧いてきたので、遅ればせながら、簡単(=ミニレポ)なレポートを書くことにした。
本編前の最後に、“記録されている”この隧道のスペックを紹介する。
出典は、お馴染みの『平成16年度道路施設現況調査』である。
道路種別 | トンネル名称 | 竣功年 | 延長 | 幅員 | 有効高 | 壁面 | 路面 | 現況
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市町村道その他 | キタヤダトンネル | 不明 | 20m | 1.9m | 1.8m | 素掘り | 未舗装 | 自動車交通不能
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幅、高さについては既に述べた数字であるが、長さもキュートだ。
そして竣功年は不明という、オブローダーをくすぐる匂わせがたまらない。
現況に「自動車交通不能」と表記されているのも、断面サイズを見れば納得だが、実際には……(現地のお楽しみだ)。
なお、「キタヤダトンネル」という名前の「北谷田」という漢字表記は、探索時点では不明だったが、探索後の最近に知ったものである。
それでは、今はなき隧道を愛でた記録をどうぞ。
2011/3/4 15:49 《現在地》
ここは森町の中心市街地から3kmほど南の飯田地区、静岡県道81号焼津森線の路上で、東組公民館前の三叉路だ。
左の細い道が町道鴨谷東組線で、ここがその終点。目指す隧道は、この道を約300m進んだところにある。
分岐には特に期待や不安を煽るアイテム類はなく平凡。間違って入るようなことはまずないだろう。
では、突入!
道は最初からとても狭かった。
初めは民家の塀の間を行く路地で、すぐに丁字路があり、直進すると左は山の際となった。写真はその辺りだ。
塀と山際の隙間の見通しがわるいところを蛇行しながら、しかし平坦に進んでいく。
舗装はされているものの路面も草臥れている。
どこにでもある、部外者にはほぼ行先のない集落内道路の雰囲気だ。
100mも進むと典型的な谷戸の風景となった。
(この辺りからピンボケがかなりキツイ写真が増えてくるがご容赦を)
谷戸というのは袋小路の小さな谷で、U字型の断面をしているところだ。
こういう地形は谷底の平坦なところが奥まで開発されやすく、かつ小さな尾根を挟んで隣の谷戸が近いため、近道として尾根を越える小規模なトンネルが掘られ易い。
手掘り隧道が多い地域にしばしば見られる特徴的な地形である。
15:52 《現在地》
入口から約200mで再び分岐地点。
地図がなければどちらを選ぶか悩ましい場面だが、正解は左折である。
この辺りの道路風景は畑という私有地を行く農道や畦道同然であるが、これでも道路法に認定された市町村道らしいので、私も大手を振って通行出来る。
左折するとはじめて上り坂が始まった。
谷戸の周りの緑の尾根の一角、特段特徴のない場所を目指して登っていく。
とてもシンプルに、このまま正面の尾根を目当ての隧道で突き破るようだ。
といったところで、敢えなく舗装は切れた。
地道になると途端に轍の隙間の草で交通量の少なさが露見したが、むしろ私としては、このタイミングでいかなる「通行止」も告知されていないことに意外性を感じていた。
この先の「キタヤダトンネル」は「車輌交通不能」であると、事前に読んだ『平成16年度道路施設現況調査』で覚悟していたのであるが、この四輪の轍の主たちは、いったいどこへ……?
15:53
分岐から50mほど進んでスギ林に入ると、それまで木々に隠されて見えなかった峠の切り通しの存在が、夕暮れの薄暗い森の中で驚くほど際立って現れた。
隧道を通りに来たつもりが、その上にあるより古い切り通しを先に見つけるというのは珍しい流れ。
まあ、本題である隧道も勿体ぶりはあと数秒、目の前の切り通しへ足を踏み込めば忽ち現れることだろう。
それにしても、ここからの道幅の余裕の無さは凄いな!
いつもの目視計測だが、この時点で2mジャストくらいか。
気にせずに突入している轍の正体は、まず間違いなく地元の農作業用軽トラだと思うが、その左右の轍の位置と、道路両脇の切り立った土壁の幅が、ほぼ一緒に見える。いわゆる道路幅の余地というものが、ほとんど皆無だ。
この時点で、普通のドライバーは車での進入を躊躇うだろう。私も絶対に車では入らないな。崖に落ちるような場所ではないが、壁に擦りそうで厭だ。
とはいえ、(予想に反して)未だ一切の交通規制は現れていない。
なお、ここまで四輪で来てしまった場合、もうUターンして引き返すことは出来ないぞ(笑)。
リタイアするなら、最後の分岐までバックでどうぞ。
前進!
あった!!
15:54 《現在地》
本当に狭い!
事前に、幅1.9m、高さ1.8mという数字を見ていたが、
本当に、“その数字のまま”の四角いトンネルが現れるとは思わなかった!
比較対象物が写っていないからアレだけど(後で自転車を入れて撮るね)、これマジで狭いぞ。
だって、幅と高さがそれぞれ約2倍のトンネルがあるとして、それでもだいたい【こんなもん】だぞ。(←幅4.0m、高さ3.0mの青田隧道)
世間一般にある「狭い」といわれているトンネルの約4分の1の断面積のトンネルを自動車が通っているという驚き。これはぶっ飛んだ狭さだ。
あのイーロンマスクのトンネルは幅3.6mでもめっちゃ狭く見えるが、もしあれをこの断面サイズ(幅1.9m)で掘ったら、通行時にドライバーが発狂しそうだw
ともあれ、足元にある四輪の轍は躊躇いも見せずに突入しているから、紛れもない現役トンネルである。
そして、現に四輪が通行しているトンネルでは、これより小断面のものを見た憶えがない。
というか、四輪を自動車に限るなら最小にも限度があるが、その数字がこの隧道じゃないかというレベルだ。
す、すごい……。
坑口前の掘り割りは、幅2m、長さ20mほどあり、地表を2〜3m掘り下げることで坑口までの平坦な道を確保している。
この部分からして非常に窮屈なのだが、行く手の隧道の極端な狭さへの心構えを与えてくれる存在であり、また腕に覚えのないドライバーによる事故的な進入をガードすることにもなっていそうだ。
なお、仮にこの掘り下げを行わない元の地表の高さに隧道を掘ろうとしても、おそらく坑道を安定させるだけの土被りを得られなかっただろう。
現状の位置でも隧道上部の土被りは10mにも満たない。またその場合、旧道である【峠の切り通し】と高低差がほぼなくなり、そもそも新道を整備する意味が失われよう。
(坑口上部にも坑口のような形の凹みがあるが、これは意図的なものではなく、表面が自然に剥離した痕のようだった)
チェンジ後の画像は、“矢印”の位置に立て掛けられている梯子だ。山林管理用だろうか。
なぜか、梯子の裏の法面に「金」という文字が刻まれていたが、意図するところは不明だ。
ここが岩の法面であれば、隧道にまつわる貴重な石文を期待するだろうが、木の棒で削れる柔らかな土壁なので、古いものではないだろう。
トンネルの狭さが尋常ではない!
『平成16年度道路施設現況調査』には幅1.9m、高さ1.8mと記録されているが、おそらくその数字通りである。
手前の掘り割りも狭かったが、そこから容赦なくさらに狭まっている!
そして隧道なので当然であるが、高さも限りがある。それがまた異常に低い! 普通に頭をぶつけそうに感じる。
なお、前記した高さと幅の数字の大元は、道路管理者が調製する『道路台帳』附属の『トンネル台帳』であろう。内容に変更がない限りは以前のものを引き継ぐので、隧道が現状の姿になった時点で森町が実測した数字だと思われる。正確な時期は不明だが、現行の道路法になってからの制度だ。
尋常ならざる狭さに息を呑みつつ、
北谷田隧道、突入!
15:55
あ〜〜〜、やばいね。
路面は未舗装で砂利などは敷かれておらず、そのまま地道だ。素掘りの洞床を均して踏み固めただけだろう。古民家にある土間のような硬さと質感がある。
そんな路面の両サイドから10cm〜25cmの辺りまでが特に硬く締まって光沢を持っている(チェンジ後の画像の着色部分)。
この隧道を現に利用している(おそらく)軽トラが踏み固めた部分であろう。
四輪車はこの部分以外を絶対に踏むことが出来ない道幅である。中央にも薄ら轍があるが、これはバイクだろう。
ご存知の通り、軽トラを含む軽自動車の最大幅は1480mmと決まっていて、だいたいの軽自動車はこの幅の車体を有する。そんな軽自動車の左右のタイヤの中心間距離(トレッド幅)はだいたい1300mmなのであるが、そんなタイヤが踏んだラインと壁の間隔がこれしかないことに驚く。
左右の壁は、下から1mくらいのところをピークに僅かな膨らみを持っているが、大した膨らみではない。
なので、軽自動車であってもミラーは畳まないと接触するんじゃないだろうか。
そして、それより大きな乗用車の一種である小型自動車(コンパクトカー)は、最大幅1700mmの車体であるから、数字上は幅1.8mのこの隧道を通行出来るはずだが、実際に擦らず通れるのかは甚だ疑問である。
フラッシュを焚いて撮影した。
とっても土感が強い。
地質としては、砂岩だろうか。
手掘隧道なんて言葉があるが、それも実際は素手で掘るわけじゃない。でも、ここなら頑張れば素手でも(少しは)掘れそうな柔らかさだ。
そして当たり前のように、両側の壁にはたくさんのひっかき傷がついている。幅を考えれば無理からぬことだが、特に深い傷はなんだろう?
天井は、四角かった入口部分よりも奥は高いものの、形状からして故意に掘り広げた訳ではなく、自然に崩れた結果と思われる。
あと、洞床には僅かながら起伏があり、それもトンネルとしては珍しい中央部が凹んだ突っ込み勾配になっている。これだと水が溜まりそうだが、泥濘んだ様子はない。そもそも隧道に大量の水が流れ込むことのない地形なので、問題がないのだろう。
全長20mというごく短い隧道の中間まで一旦進んだが、そこで、“思い出して”、自転車を降りた。
その自転車を、おもむろに、いま来た洞内を塞ぐ向きに設置して……
パシャリ。
自転車1台でトンネルが封鎖されているという、たいへん愉快な絵が撮れた(笑)。
サイクリングロードや歩道にだって、ここまで狭いトンネルはない。
少し離れてもう1枚、パシャリ。
改めて、このトンネルの狭さを、私が経験してきたトンネル界の全国レベルで論じてみたいのだが、記録されているデータ上でこれより狭いものは、いくつも知られている。
たとえば、お隣の掛川市にある以前紹介した岩谷隧道は、同じ『平成16年度道路施設現況調査』のデータ上で、幅1.6m、高さ2.0mであるから、この北谷田隧道の幅1.8mより20cmも狭い。そしてあちらも自動車の通行が可能である。
岩谷隧道の場合、内壁がいたずらに凸凹しているため、実際に車体に干渉する建築限界が見た目以上に狭いようだ。
また、幅と高さを掛け合わせた仮の計算断面は3.2㎡と計算でき、これも北谷田隧道の3.42㎡より狭い。
ただ、壁に凹凸が少なく“詰まっている”ので、入口付近の天井も低い部分に限れば、北谷田隧道の狭さ感は岩谷隧道を上回っているように感じる。(あくまでも感覚ね)
廃隧道も入れていいなら、『道路トンネル大鑑』に記録されている新潟県の鵜泊隧道は、幅員1.5m、高さ2.0m(計算断面3.0㎡)であるからさらに狭いが、あれは隧道そのものが狭いというよりも、洞内に支保工があるので、こういう数字になった可能性がある。
ただ、それと同じエリアにかつてあった(撤去済み)平木隧道なるものは、幅員0.9m、高さ1.2m(計算断面1.08㎡)しかなく、記録された数字の上では歴代日本最小断面の道路トンネルと思われるが、現存しないうえ、写真もない。また四輪車が通行したこともないであろう。
トンネルの狭さを論じる観点は、現役か否かや、車が通るか人道かなどいろいろあり、厳密にナンバーワンを決めることは難しいが、数字のうえでも、実際にまみえた実感のうえでも、この北谷田隧道が“狭さ”のトップ陣営の逸材であったことは疑いがないであろう。
……ただ、そんな際だった存在でありながら、こいつは最後まで、非常に地味であった。
出口間際、両側の側壁に、何かを穿ったような歪な横穴がいくつも空いていた。
何か出っ張っていた硬い岩塊のようなものを、掘り返して取り除いた痕を想像。
次点で、化石掘り痕の可能性も。
入口はとても狭かったが、一方の出口付近はラッパ状に広がっていた。
これは崩れて自然とそうなったものだろう。
15:56 《現在地》
狭いながらも、それに見合った短さであるため、息苦しさを感じる間もなく地上へ脱出。
出たすぐ先に建物が見え、さらに先は明るい畑が広がっているので、入口出口共に、山奥感は皆無である。
北口を振り返り。
坑口部分がかなり激しくオーバーハングしており、先の南口よりもだいぶ迫力がある。
ただそのぶん、隧道そのものの狭さは(少し見慣れたせいもあるが)際立たない。
まあそれでも、最初にこれを見た場合はちゃんとぶっ飛べるくらいには、狭いけど。
しかしそれにしても、土感強い。
土や砂って、自然物では柔らかくて脆いものの代表だけど、長い年月と強い圧力で砂岩や泥岩、粘土へ変化すると、決して堅牢とはいえないものの、掘りやすく自立しやすいトンネルの良材となってくれる。
ある意味、こんな狭い隧道が狭い姿のまま長く保たれているのも、大きくは崩れていない証拠であるし、同時に、狭いからこそ崩れにくいというのも真理だろう。
探索時点では、この隧道の竣功年に関する情報は皆無だったが、このルックスであるから、ちゃんと古い可能性は高い。
最初から軽トラを念頭にこのサイズで掘ったわけではないと思う(笑)。
手押しの荷車とか、昔の耕耘機とか、そういう古い農業用車輌のサイズを基準にしていそうだ。
最初から自動車を念頭に大きく掘っていたら、この土被りだと、すぐに崩れてしまったかもしれない。
…
……
…………
洞内に自転車を停めて撮ったり、撮った自転車を取りに戻ったり、2往復。さらに坑口から天を仰いだりもして、いたずらに時間を使い、その時を待った。
いつものやつ……、山行がのレポートに宅配よろしく登場する、エキストラカーの出現を。
……が、さすがにここには来てくれなかったよ……。
隧道を後にする!
16:00
最後に隧道を振り返り。
右上に見えるV字の切れ込みが先代の切り通しだろう。当時はあまり欲がなくて、登ってみなかった。
こうして見ると、こちら側は坑口直前の掘り割りまでは、普通の道幅だ。
洞内に入って急に狭いので、これはこれで衝撃的だと思う。
私としては、激狭の切り通しから、さらに狭い隧道という、二段構えの衝撃が強烈過ぎた南口を推したいが。
なお、地理院地図には隧道上のすぐ東隣に大きな建物が描かれている。
ゴルフ場の管理事務所があるのだが、森と高低差のために、この道からは全く見えない。
隧道を含めて、引続き町道鴨谷東組線を行く。
坑口傍の倉庫らしき建物の間を過ぎると、(チェンジ後の画像)遠目には明るい畑だと思っていたものが、ゴルフコースの芝生だったことを知る。
そしてそのままコースの縁を細々と走り、奥に見える広い道路へ突き当たるところが、この町道の起点であった。
16:02 《現在地》
隧道から約150m、県道81号からの通しだと約500m(うち隧道20m)で、町道鴨谷東組線の起点に到達した。
写真は来た道を振り返って。
奥の陰影濃い山並みに、日本有数の存在が、あったのだ。
正味にして13分の超短い探索だった。
チェンジ後の画像は、突き当たった広い道こと町道葛城ゴルフ場線の左折方向の様子。
右折するとゴルフ場で行き止まりなので、左折一択だ。
このあと道なりに少し下ると、かつての秋葉道の一つ、袋井と森方面を結ぶ県道58号袋井春野線にコンビニのある角で突き当たった。
現地レポート、終了。
@ 地理院地図
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A 大正6(1917)年
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B 明治23(1890)年 |
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北谷田隧道の来歴を物語る文献的な情報は、今のところほとんど得られていない。
ただ、古い地形図を確認してみると、大正6(1917)年版の5万図に既に描かれていることが分かった。
その1世代前が明治23(1890)年版となるが、この段階ではまだ影も形もないので、本隧道が建設時期は、明治23年〜大正6年の間とみられる。
なお、明治23年の5万図は2万図からの集成図であるから、その元となった2万図を確認してみたのが右図である。
2万分の1の大縮尺になると、隧道こそ描かれていないものの、5万図では完全に省略されていた破線の道(小径)を確認できた。
これはおそらく、いまも隧道上にその姿を留めている【切り通し】世代の道を描いている。
なお、この周辺は古隧道が多い場所だと冒頭にも書いたが、明治23年の地形図にも既に多くの隧道が存在している。
中でも現在は県道81号になっている【大日トンネル】の前身である大日隧道は、現地解説板や『袋井市史』の記述から明治17(1884)年の完成とされており、森町域最古と考えられてるし、これに続いて整備された【大日西山隧道群】も、明治20年頃までには完成している。
これらの隧道の導入をつぶさに見、その便利さを肌で感じた近隣の農民たちが、古くから耕地として開発されていた東組と鴨谷の谷戸同士を結ぶ小さな峠に、農間を利用して手ずから掘ったのが、北谷田隧道の背景ではないかと推測するが、文献情報が未発見のため憶測の域は出ない。
『森町史』や『周智郡史』にも目を通したが、本隧道に関する内容は見られなかった。
なお、明治35年頃には現在の県道58号(秋葉道)に線路が敷かれて秋葉馬車軌道の運行が始まっており(大正6年の地形図にそれが見える)、これにも沿線地域は大いに刺激を受け、開発意欲が高まったことも想像できる。
すごくどうでもいいけど、今回のレポートの終着地付近は、現在の地理院地図だと「鴨谷」で、それ以外の古い地形図全般だと「鴨岡」である。
谷と岡ではまるで逆の地形だが、別の道路地図を見ると現在の鴨谷に「鴨岡バス停」があるので、どうやらどちらも間違いではないようだ。つうか、地名になるくらい谷にも岡にもカモがいっぱい居たんだろうな。たのしそう。
なお、北谷田隧道が今日稀に見る小さな断面で掘られたことについては、そもそも主要道路としての利用を考えなかったのと、コストを抑える目的であったと考える。
昔の隧道は全般的に今日のものと比較して狭かったが、それでも建設当初のサイズが判明している多くの隧道に比べて、幅、高さとも2m未満の小断面は珍しい。
そもそも、隧道を掘ることが稀な地域では、一帯の総力を挙げて立派なものを掘る傾向があり、将来を考えて余裕を持った断面を採用することが多かったろうが、当地方のように隧道が比較的にカジュアルな環境で、いわゆる近隣の“手掘り”で作られたローカル色の濃い隧道に、このような極端な小断面が多い。
ただ、そういう小断面隧道の多くは、後の時代の車輌の大型化や隧道自体の老朽化、道路全体の改良によって拡幅を受けることが多く、あるいはその過程で廃止され今日まで残らなかったものが多い。
北谷田隧道は、外部からの需要が少ない極めて地味な立地のお陰で、現代まで拡幅を受ける機会がなく、かといって交通量が全く失われるほどの地域の衰退もないままに、おそらく奇跡的と言っていいレベルの“平穏さ”の中で、おおよそ百年を過ごしたのだと思われる。
まあこれで、実は建設当初はもっと狭かったと言われたら脱帽するが。
ただ、残念なことに、そんな悠久を感じさせた平穏にも、遂に時限が訪れてしまった。
冒頭でも述べたとおり、本隧道は私の探索後に廃止され、今は埋め戻されている。
その現状写真は、もやし(X:@zuido_3)氏の2024年4月のツイートで見ることができる。
廃止に至った経緯については、令和2年3月森町議会定例会会議録に次のように書かれていた。抜粋して紹介する。
今回廃止する路線は、「鴨谷東組線」(中略)でございます。(中略)
まず、「鴨谷東組線」でございますが、路線の中間に「北谷田トンネル」という素掘りのトンネルがあり、東組側入口上部に剥離の兆候がみられたので、通行の安全性を考慮し、平成27年度より通行止めの措置を行っております。平成30年度には、道路法に基づく定期点検を行いましたが、点検の結果、東組側のトンネル入口に土砂崩れが発生しており、またトンネル内部にも剥離が発生している状況で、点検結果としては判定区分「IV」、緊急措置段階の判定となりました。この結果を踏まえ、通行の安全確保を第一に考え、地元の方々や周辺の土地所有者などと対応について協議を行うとともに、交通量や土地の利用状況など、総合的に勘案し、トンネルを廃止することと致しました。このため、当路線についてはトンネルを境に分断されることとなりますので、路線全体を一旦廃止し、新たなルートで再認定するという、国の通達に基づく路線認定制度に準拠するものでございます。
『令和2年3月森町議会定例会会議録』より
まとめると、平成27(2015)年頃に隧道の南口上部に剥離の兆候があったので同年度からトンネルを通行止にした。平成30(2018)年にトンネルの定期点検を行ったところ、判定区分「IV」の緊急措置段階となったので、抜本的な対策を考えなければならなくなったが、利用状況を勘案し、地元とも協議した結果、トンネル部分を廃止したということだ。
なお、この道路法に基づいた定期点検は、豊浜トンネル崩落事故を契機に制度化されたもので、その結果を含む資料が公表されているが、確かに北谷田トンネルは判定区分「IV」であり、具体的な状況としては「終点側坑口上部が崩落する恐れがある」、判定後の措置として「令和2年度廃止予定」となっているのが確認できた。
そして、令和2(2020)年5月の『もりまち議会だより第83号』を見ると、この年の3月定例会に提出された一般議案に「森町道路線の廃止と認定について」があり……
鴨谷東組線の北谷田トンネルの廃止に伴い、三反田薮ノ内(さんたんだやぶのうち)線と院内線の2つの路線に分ける。
『もりまち議会だより第83号』より
……の内容を確認できたと共に、議員全員の賛成で可決されたことが出ていた。
平成27年度から通行止となった北谷田隧道だったが、令和2年3月をもって、遂に道路法による正式な路線廃止が行われたのである。
埋め戻しが行われた正確な時期は不明だが、他の方のツイートによると、この路線廃止の前後数ヶ月の出来事だったようだ。
いまの我々は、こんなキュートなトンネルが一つ失われた世界を生きている。
あまり資料が残らなかった隧道だが、幾人かの思い出には確かに刻まれた。
その一人はもちろん私だが、ある読者様のコメントに、「子供の頃、この隧道で遊んだことがあり、懐かしく記事を読ませていただきました。貝等の化石を含んだ土壁のため、「化石のトンネル」と呼んでいました。
」というものがあったのが、たいへんに印象的だ。
【洞内の凹み】は、本当に化石採りの痕だったのかも。【この左の壁の小さな孔】もね。
これに関係して、森町公式サイトの「森町の地質」のページにも次のように出ていた。
一宮から飯田にかけての丘陵地には掛川層群の砂層が分布し、柔らかいのでお茶畑などの農地として利用されている。粘土分をほとんど含まず、現在の遠州灘に近い環境で堆積したと考えられている。堆積当時の海底の様子が地層に残り、海水の流れによって生じた斜交層理や生物が掘った穴に砂が詰まって出来た砂管が見られる。化石を多く産出することでも知られ、飯田の東組のトンネルでは、砂の壁に貝化石の密集が見られる。
「森町の地質」より
この「飯田の東組のトンネル」は、在りし日の北谷田隧道に他なるまい。
ここは地域の子供たちの格好の遊び場であると共に、地球への好奇心を駆り立てる学びの舞台としても活躍したのだろう。
一方で、私と同じように大人になってから訪れた人の思い出にも、興味深いものがある。
今のところ、私が把握する四輪車で通り抜けた経験者は、一人だけだ。
それはXで「一度だけクルマで通ったことある」とコメントして下さったふ〜たん@(X:@s_fuutan)氏で、体験談を伺ったところ、「旧規格660ccの背の低い軽自動車で侵入、ボンネットまで入った辺りでさすがに狭いなーとサイドミラーを畳んでそのまま通過
」されたと、なんとも強者っぽい感想をいただいた。
どんなに地味に見える隧道でも、それが作られたものである以上、誰かの思い出になって刻まれている。
そんな思い出を少しだけ共有できる場所を用意するのが、私の秘かな楽しみだ。