本編探索の直後、弥次郎穴から引き返して泊漁港への道すがら、薪ストーブで焼き芋を食する古老と遭遇。甘い匂いに釣られたわけではなくて、いま見てきた穴についてご存知のこと、由来などを質問してみた。ちなみに、この時点では弥次郎穴という名前も知らなかった。
不躾な問いに、先達は次のようなことを教えて下さった。
住民の証言
- あのトンネルは、浜に出るための道で、先代がよく使っていたが、今はあまり使っていない。
- トンネルは自然に出来たもので、誰がいつ作ったというようなことは、聞いたことがない。
- 言い伝えでは、昔のアイヌがあの穴に住んでいた。
やはり、たまたま便利な位置にあるから通路として使われているだけの自然の洞窟ということらしく、これが私の見立てにも合致していたので、満足して、長らくそのままにしていたのだったが、今回改めて執筆にあたって机上調査を行ったので、その成果をこれから述べる。
今回の調査の流れとしては、まずは対象の名前が分からなかったので、それを調べようとしているうちに、本編でも述べた通り、Googleマップに「弥次郎穴(とまりのトトロ、トトロ岩)」としてポイント登録されていることを知り、そこからはこのいかにも曰く(伝説)がありそうな「弥次郎穴」をキーワードに調査を進めた。
この段階で見つけたこちらの記事により、トトロバズりは令和元(2019)年であったらしいことや、青森県の公式観光情報サイトにも掲載されていることを知った。今では六ケ所村の重要な観光スポットとなり、近くには観光バスも入れる駐車場が整備されているらしい。
トトロ凄すぎではと、どこぞの弥次郎氏も、草葉の陰で驚いていることだろう。
自然洞窟、海蝕洞としての弥次郎穴の由来について、「六カ所発地域の魅力再発見」と題された、令和6年に地元紙デーリー東北に連載された記事の第1回「美しい泊海岸 列島の成り立ち伝える」が詳しかった。執筆は、六ヶ所村立郷土館の館長である。
この洞窟は、約9千年前の縄文時代の縄文海進の時に、海水面が現在より高かったころの波の浸食によってできた海食洞と考えられている。大きな岩山に断層が走り、もろくなった部分に波が当たり削られてできた洞窟だ。
実はこの洞窟がある泊海岸は今から約1600万年前、日本列島がユーラシア大陸からちぎれて現在の位置に流れてきたころの、浅瀬の海底火山の噴出物や溶岩の貫入などでできたリアス海岸だ。
次に、国立国会図書館デジタルコレクションにある文献資料を、「弥次郎穴」をキーワードに検索すると、ある人物の紀行書がほぼ唯一のヒットとなった。
それは、私が住む秋田県にも大変縁が深い菅江真澄による、江戸時代後期の紀行であった。
主に北東北の各地を漫遊し、膨大な数の紀行書を残している真澄だが、寛政5(1793)年の冬に下北半島の田名部より東海岸を南下し尾駮(六ケ所村)まで歩いた記録が『尾駁乃牧(おぶちのまき)』である。尾駮は古くから名馬の馬産として有名で、歌枕にもなっていた。
この紀行に、「弥次郎穴」というワードが登場していた。
その具体的なシーンであるが、彼は寛政5(1793)年11月30日に、現在の東通村南端の白糠から海岸伝いに物見崎をまわって六ケ所村泊へと辿り着いている。このちょうど泊に着いた場面に、次の一文がある。
彌次郎穴といふ洞あり
ほんとうに、言及はこの一文だけ。
どんな穴だったのかも、真澄が穴を潜ったのかも、何も分からないが、しかし間違いなく泊のシーンで「彌(弥)次郎穴」というワードが出ている。
これには、大きな意味がある。
この当時から穴には名前がついていて、初めて訪れた旅人がそれを知るくらいには、有名だったのである。
真澄が記録した弥次郎穴の描写はこれ(名前)だけだが、白糠から泊へ道を辿って移動する場面に登場しており、わざわざ穴へ寄り道したようには描写されていない。前後の描写の現代語訳を少し拾ってみよう。
……物見崎・屏風岩などを眺めながら過ぎて、次左衛門ころばしという処があるが、昔その人が落ちた処だということです。そこを半ば頃まで過ぎると柴の桟橋を渡し、天に雲を踏む心地がし、木曽路の外に、世にこんな嶮岨な処があろうかと思う程です。(中略)
白砂の浜という処を行くと足もとから思いがけなく三尋、四尋もさっと浪が高く打ち上げます。これはまあどうしたことかと驚いてしばらく立ち止まると、乗る牛を追って来て人が集まってくるのに尋ねると、これはぼっとあけといって浪の寄ってきないうちに越える磯辺です。さあ、浪が引き退いた間に急いで越えなさいといいます。(中略)
滝があります。弥次郎穴という洞穴があります。中山という雪の岡辺に弁財天の鳥居のある処に少年にまじって、立ち止まって休んで居ると泊という浦の村が程近いのであろう、家が沢山見えました。……
相変わらず、真澄はオブローダーの偉大な先達すぎる。
私が行く先々で、既にレポートをうぷしている。
今のところ、この真澄の記録以外に、弥次郎穴について言及した文献を見つけていない。
なので、これから述べる仮説の検証も済んでいないが、
弥次郎穴は、“東海岸道”の経路だった可能性がある。
ここでいう東海岸道とは、八戸から太平洋沿いを北上し、六ヶ所、東通を経て田名部(むつ市)へ至る、現在の国道338号の元となった古い往来のことである。
自然の海蝕洞をそのままで、あるいはいくらか手を加えて通路(トンネル)として利用したケースは、古今さほど珍しいものではない。
同じ青森県内にも以前紹介した“松蔭くぐり”という、もっと海面すれすれの海蝕洞がある。(→)
地形図にトンネルとして描かれたことはないが、弥次郎穴以上に沢山の通行記録がある。真澄も「尾駁乃牧」の5年前の天明8(1788)年にここを通り、「率土か浜つたひ」に記録して、スケッチまで残している。
松蔭くぐりは近世を通じて幕府の重要な公道だった「松前街道」の経路であり、明治期は「県道松前街道」が通り、大正時代には「府県道青森三厩線」となって、概ねこの頃に公道の役目を終えて眠りについていた。
弥次郎穴も同じように、近世、あるいは近代も、街道として利用されていたのではないか。
真澄の短い記述から、そのようなことを考えたので、少し検証を試みた。
まずは、歴代の地形図で、弥次郎穴がどう描かれていたかを調べてみた。
| @ 地理院地図(現在) |
|
|---|---|
| A 平成16(2004)年 | |
| B 昭和47(1972)年 | |
| C 昭和28(1953)年 | |
| D 昭和19(1944)年 | |
| E 大正3(1914)年 |
@とAは最近の地図である。矢印の位置に、トンネルとして弥次郎穴が描かれている。これを通る道は、潜った先の海岸線で行き止まりになっている。現地でもそれを確認している。
B昭和47(1972)年版も同じ縮尺だが、弥次郎穴は描かれていない。調べてみると、ここには掲載しなかった昭和53(1978)年版から描かれるようになった。
弥次郎穴自体は当然に存在していたはずだが、この表現を信じるならば、穴がトンネルとして使われるようになったのは、現代になってからということになる。
C昭和28(1953)年版にもやはり描かれていない。
泊の漁港もまだ現在の位置には整備されていない。泊集落自体はこの地図の範囲外の南側に存在するのだが、今回探索した北側のエリアには、この時代までほとんど人家がなかったようだ。
D昭和19(1944)年版も穴については同様だが、府県道として太く描かれている道が、@〜Cよりも海岸沿いの低い位置にある。
ではこれが、真澄が歩いた古い街道なのかと思いきや……
E大正3(1914)年版だとさらに海岸に近い位置に道が描かれている。Dに近いルートだが、途中に水準点があるのが信憑性を高めており、かつ山を登ったり、滝を越えたりするアップダウンの多い経路も真澄の記述と合致していて、これが近世以前から歩かれてきた“東海岸道”だと思う。(おそらくDのルートは、不正確にCのルートを描こうとしただけだと思われる)
Eにも弥次郎穴は描かれていないのだが、古い時代には確かに、東海岸の浦々を結ぶ道が弥次郎穴のある海岸の磯伝いに通じていたのである。
だからこそ真澄も自然と目にしたのだろう。
歴代の航空写真もチェックした。
| I. 平成23(2011)年 |
|
|---|---|
| II. 昭和50(1975)年 | |
| III. 昭和23(1948)年 |
I.平成23(2011)年版には、はっきりと弥次郎穴の前後に道があり、穴が車道として利用されている状況が読み取れる。
II.昭和50(1975)年版になると、途端に周辺から人の気配が薄れる。地方の漁港は何処も激しく過疎化していそうな印象を持つが、六ケ所村の人口は意外にも40年ほどほとんど減少しておらず、むしろ核家族化の進行で住居数は増えていると考えられる。原子力産業を柱とする街づくりが、少なくとも過疎対策という面では成功しているのだろう。実際、この画像の範囲もII→Iで明確に発展している。
……という話しは余談で、IIの時代でも弥次郎穴は道として使われていたようだ。南側は分かり辛いが、北側に坑口に通じる明瞭な道が見える。
III.昭和23(1948)年版では、解像度が低すぎて弥次郎穴が通られているかどうかは正直判断が難しいが、丘の上を通る幹線道路の位置はIIと変わっていない。先ほどの地形図だとCの道の位置であり、Dに描かれている道は、やはり誤表記だったと考えられる。
また、東海岸道の道路名の変遷も調べてみたが、明治31(1898)年の時点で仮定県道東海岸道という路線が存在していることが分かった。
しかし地形図を見る限り、どんな名前があっても、実態は真澄が通った頃と変わらぬ、磯伝いや岩場の上り下りを必要とする嶮路だった。その傍ら、もしくは径路に、弥次郎穴はあった。
その後、大正8(1919)年の旧道路法公布に伴う路線の改廃では、府県道八戸田名部線となった。
この路線名は旧道路法時代を通じて変わらず、さらに現行道路法下も存続して、昭和50(1975)年の国道338号認定まで生きていた。
名前は変わらなくても、道自体は改良され、磯浜伝いの旧道は昭和戦前には廃れていて、現在と同じ丘の上の車道が整備されていたようである。
結局のところ、弥次郎穴の中が、明治や大正時代に仮定県道や府県道だったのかは、分からないままだ。
その可能性は十分あると思うが、確証が得られていない。
そして、弥次郎穴という名前がどこから来ているのかも不明である。
古老の証言したようなアイヌ先住民に由来するのか、はたまた別の由来があるのか。
調べてみても、謎の多い穴である。
はっきりしているのは、9000年も昔からここにあり、330年くらい前に菅江真澄がそれを目にして、弥次郎穴という名を記していること。
その後の記録は乏しく、地味な存在として漁村の風景に溶け込んでいたものらしい。
それなのに、令和の世に突如“トトロ似”であることが発覚し、過去のどの時代より賑わうようになった。
トトロブームがいつまで続くかは分からないが、
そもそも、人の世の毀誉褒貶などに頓着しない穴である。 ……海蝕洞だからね。