当日の早朝6時に国道13号線東栗子トンネル東口の駐車場に集まった我々合同調査隊総勢11名は、殆どが初めて顔を合わせる同士であったり、または当日飛び入りでの参加であったりと、なかなかうち解けにくい状況を心配していたが、そこは皆同志。
皆が、これから挑もうとする前代未聞の工事軌道について熱く語り合い、早速にして一つの調査隊が完成したる感があった。
まだ夜は明けていなかったが、閑散とした駐車場にパアッと明かりが灯ったように、なった。
そりゃ、11人もの男達がそこで歓談すれば、当然の帰結だった。
うち一名、飛び入りの藤原氏は、探索への参加ではなく、おにぎりの差し入れとのことであったが、メンバー全員でこれを喜んで受け取った。
ありがとう、藤原氏!。
万世工事用軌道探索の始まりは、集合地点から約3km北の山中に分け入った、烏川である。
そこまでは、かつてここにあったスキー場の管理用道路と、国道13号線の旧道、すなわち万世大路を使って、車で踏み込むことが出来る。
とはいえ、誰の車でも行けるというものではなく、かなりの悪路である故、車高の高い車三台を選抜し、実際に踏査を行うメンバー8人を含む10名が、この車三台に乗り詰めて入山すること計画だった。
また、探索が無事に完了すれば、おそらく我々は山を一つ越え、東西栗子トンネルの間にある鎌沢付近に出てくる予定だった。
当然ここにも車を取り回しておかねば大変である。
二台の車を、予め西栗子トンネルの東口にある駐車場へと移動させた。
午前6時半前には車の取り回しが終わり、いざ10名が乗る3台のタフネスカーは東栗子トンネル脇の急坂へと唸りを上げたのである。
車が御神輿のように激しく揺れながら登っていくこの道は、福島側の万世大路へと踏み込むための現在では唯一無二の道である。
私は信夫山氏とくじ氏と共に、山口屋散人氏の愛車に乗っていたが、2番目を走るこの車は、よくぞ上っていくなと思えるような急な上り坂に、息を切らすこともなく耐え抜いていた。
そこには、運転手の十分な技量があったことは間違いないだろうが、当時まだ免許を持っていなかった私には、その凄さは十分に分かっていなかったかも知れない。
ただ、車内の何処かに掴まっていなければ転げそうな猛烈な揺れに、顔をしかめるので精一杯だった。
猛烈な登りの悪路に数分間耐えると、突如車は静かに走るようになる。
それは、車がかつての一級国道、万世大路に入ったという合図だった。
砂利道とはいえ、道幅も広い万世大路は、それまでの道とは段違いに走りやすい状況だった。
そして、さらに九十九折りを上っていくと、車は一際速度を落とした。
そして、前を走るバリー氏の車のお尻が見えてきた。
その向こうには、ここにいる全員が既にお馴染みとなっている(例外一名はくじ氏)、二つ小屋隧道の偉容が立ちはだかっていた。
ほんの一時躊躇いを見せたかに思われた我々の車だったが、間もなく吸い込まれるかのように、城門の如き坑口へ入っていった。
車内から、流れるように過ぎていく洞内の乾ききった壁を見ていると、なんとなく不思議な感覚に陥った。
既にこの万世大路は、その峠越えの主トンネルである栗子隧道の完全な圧壊により、命運を絶たれて久しい。
この二つ小屋隧道にしても、崩壊の気配を洞内の随所に感じさせている。
そのような死にかけの隧道を、今まで無数に辿ってきた私であったが、車で通ったことはなかった。
いま、車内から私が見ている景色は、数十年前に、まだこの道が生きていた頃に見れた景色と、そう大きく変わらないのかも知れない。
そう考えると、異様な高揚感を覚えたのである。
午前7時前には3台は無事に烏川を渡る万世大路の古橋の一つ、烏川橋に着いた。
付近に適当なスペースを見つけて車を停めた我々は、いざ入山の準備に掛かったわけだが、これと並行して、東北道路界の一つのイベントの様相を呈したこの日を記念しての、撮影会が準備されつつあった。
立派なカメラを三脚の上に構えたsunnypanda氏の前に、全員がにこやかに並んだ。
誰かが冗談で、「これが遺影にならなければいいな」などと言った。
全くだと思ったが、この先はいよいよ未知の領域であり、一体どれほどの危険が待ち受けているのは誰にも分からないのである。
気を引き締めてかからねばならぬ。
午前7時7分、ほぼ予定通りの時刻で、入山開始。
烏川橋の南側袂に首尾良く発見された微かな道の痕跡に、かつてない8名の大所帯は、一列となり進入した。
これが工事軌道跡であるかはまだ不明だが、数少ない当時の資料に拠れば、この烏川沿いに軌道が存在していた事は間違いないはずだ。
上流から下ってきた工事軌道は、この烏川橋で工事対象である万世大路にぶつかり、作業員の詰め所や資材置き場を中継した後に、南の二つ小屋隧道方面と、北の栗子隧道方面とにさらに別れ、それぞれが隧道まで通じていたとされる。(この間は万世大路と完全に重なっていたようで、軌道の痕跡は皆無である。)
確認だが、今回の踏査メンバー8人は、
私 おばら氏 くじ氏 信夫山氏 dark-RX氏 バリー氏 樋口氏 古川氏 である。
そして橋上には、
sunnypanda氏と、
山口屋散人氏が残った。
お二人には、メンバーの輸送という役を買っていただき、とても助かりました。
どうもありがとうございます!
この先の探索の水先案内人は、信夫山氏である。
彼は、一帯の航空写真や地形図に軌道推定経路を記入したものをプリントアウトして持参していた。
またなんと言っても、今回の踏査メンバー中唯一、実際にこの烏川からの遡行を、事前調査という形で途中までとはいえ経験されているのだ。
その経験は、地の利に薄いメンバーも含まれるこの踏査では、絶対に必要なものであった。
左図は、軌道跡の推定路線図である。
烏川橋から先の工事軌道だが、この烏川を上流に遡ること約2kmほどで、地形図には記載がないが、おそらくそれが工事記録に出てくる「明通山」であろうと思われる峰の、南方の鞍部に至る。
そして、鞍部を深さ6m長さ100mに亘って切り開いたという「新明通」も、おそらくそこにあると考えられた。
実は、烏川橋の上流には烏川の両岸に道の痕跡があった。
このうち、鮮明のなのは左岸の道であるが、これはどうも軌道由来ではなく、北側山腹にある製紙工場の社有林の管理道路のようである。
工事記録によれば、工事用軌道は右岸を通っていたとされる。
ただし案の定、橋の袂に始まった僅かな道形は最初から枯れた雑草の海であり、間もなく雑木林の細い幹のジャングルになった。
やはり、余りにも廃止から時間が経ちすぎているのだろう。
心の何処かで期待していたような、レールや枕木と言った、具体的な軌道の痕跡の発見は、絶望的だった。
とは言っても、確かに藪の根元には幅1m程度の、自然地形とは思えない平場が続いていた。
それだけでも、まずは収穫であると言わねばなるまい。
おそらくこれこそが、工事軌道の動かぬ痕跡なのだから。
立体感に乏しい写真では、どうしてもその平場の存在を確認頂くことは難しいだろう。
だが、この場にいた全員が、踏跡すら存在しない、その微妙な平場を選んで歩くことが出来た。
それほど、実際には地形的痕跡がはっきりしていた。
おおよそ100mほど進んだ辺りで、辿っていた道の痕跡が、小さな沢で阻まれた。
これは烏川に流れ込む支沢に過ぎず、容易に乗り越すことが出来るが、ここで、従来未発見だった「なにか」を発見した。
それは、地中に埋設されていたと思われる太さ1.5cm程度の鉄管だ。
この錆びた鉄管は、道が流出したために初めて地上に露出したのだろう。
果たしてこの鉄管が何なのかは、そこにいる誰しも答えることが出来なかった。
当時の工事記録にも記載はない。
だが、候補は幾つかに絞られるだろう。
水か、ガスか、電線か。
そのどれも、現場で使われていたと考えられる。
ただ、水にしては細すぎ、電線なら地上に… いや、現地の積雪を考えれば、電線を埋設していた可能性は大いにあると思う。
ガスという可能性については、ちょっと何とも言えない。
平場は、烏川右岸の極めて流れに近い位置に断続的に続いていた。
そして、遂に烏川の流れに遮られ、僅かな平場は潰えてしまった。
辺りには特に軌道が対岸に渡っていたような痕跡も見つけられず、仕方なしに我々は、落ち葉の斜面に張り付くように右岸を前進した。
しかし、考えが甘かったのか、本当に想像以上に軌道らしい痕跡は何もない。
工事軌道はそもそも長く使うつもりもない工作物であり、しかも突貫工事で造られたものだったのだから、一般的な軌道のイメージから期待されるような丁寧な施工などを期待してはいけなかったのだろう。
そうでなくとも、人跡稀なこの山中に廃止されて、既に70年余りを経ているのだ。
ただ山中を彷徨い、結局なにも見つけられないで終わりという最悪の結果すら、私は覚悟した。
これだけ大イベントになったのだから、そんな結末だけは避けたかったが… そればかりは、私の力でどうこうできるものではない。
一度見失ってしまった軌道跡を、再び発見することが出来なくなっていた。
烏川は、狭い谷地の間を奔放に蛇行しており、その度に我々の進路を絶っていた。
我々はそれでも斜面にへばり付いて前進していたが、早くも一同には失望感というか、観念の気持ちが生まれつつあった。
まあ、何も残っていないことを確認することも、重要な役目であり、今回の計画の答えだと言い聞かせるしかなかった。
8人での探索であるが、主に私とくじ氏に樋口氏と古川氏の4名が、先頭を歩く場面が多かった。
その後ろにリーダーの信夫山氏と、相棒バリー氏。
しんがりを、dark氏とおばら氏が仲良く勤めていた。
どこにしても一丸となって歩けるような場所はなく、必然的に、縦に長い隊列となった。
午前7時27分、入山から20分を経過し、この間おおよそ500mを前進したと思われる。
右岸には、広い雑木林が現れた。
当時の記録には、烏川橋付近の右岸の軌道沿いには、飯場が描かれている。
この広場にはかつて大勢が寝泊まりした詰め所があったのかも知れない。
地面には、木の根を引っこ抜いた跡とも取れるような凹凸が、幾つも見つけられた。
広い雑木林の先では右岸を烏川が削っており、これまで以上の急崖となっていた。
これではさすがに斜面にへばり付いて進むことも叶わない。
対岸には広い雑木林が見えていたことから、廃林道の通っている左岸に進路を遷すことにした
軌道もおそらくこの地形では、対岸を通っていたのではないだろうか。
烏川は穏やかな清流であり、長靴着用のメンバーも問題なく歩けた。
沢靴を付けた私やくじ氏には全く問題にはならなかった。
黙って沢を歩いていれば、恐らく烏川橋からここまで、5分とかかるまい。
ひっきりなしに枝や枯れ草を掻き分けねばならなかった地上を歩くよりも、沢を歩く方がよほど快適で、気持ちも少し晴れやかになった。
そしてふと見上げた空は、まだ曙色が抜けきらないが抜けるように深く澄んでおり、間もなく日が登れば山歩きには最高のコンディションになるものと予感された。
幸か不幸か、この探索が「単なる山歩き」に終わったとしても、それなりの満足感が得られそうなムードであった。
左岸に廃林道の道筋が見えてきたから、一同は水から上がり、これに登った。
この道も、ご覧の通り廃されて久しい様子であり、一面の笹藪である。
事前調査の段階ではこれが軌道跡と思われていたのも無理からぬ、かなり“臭い”ムードだった。
林鉄跡だと言われれば、そのまま信じてしまいそうだ。