旧 栗子隧道福島側坑口(2003年5月)
万世大路工事用軌道は、おそらく正式なこの路線の名前ではないだろう。
しかし、我々は机上・実踏のいずれの調査においても、正式と言える名前に出会えなかったので、この名前をレポートのタイトルとして、採用した。
実際には単に、「工事用軌道」「工事線」などと呼ばれていたようである。
万世大路は、歴史的に見ても東北地方では最も著明な道路遺構である。
それは、現在の国道13号線、福島米沢間を隔てる、栗子峠越えの路であった。
日本中でも数少ない、正式に「大路」を冠された道の名は、開道間もない明治14年に、ここを巡幸なされた明治天皇により賜ったものである。
以降、万世大路はその名に恥じぬ主要な街道として賑わいを見せたが、昭和に入り交通の主役は人の足から車へと替わりつつあった。
昭和8年頃から、万世大路を国道13号線の新しい峠道として改良する大工事が行われ、以後、昭和40年代に現在の東西栗子トンネルのバイパスが開通するまで利用された。
そして、今回私が取り上げたのは、この昭和の大改修時に敷かれたという、工事用の軌道である。
工事用軌道と言えば規模の小さな物を想像するが、当時の資料を調べる内に、その全長は7〜8kmに及んだだろう事が判明した。
そして何より私を強く惹きつけたのは、この路線が現在ではまるっきり存在しない、いや、それ以前にも地図上に一度も描かれたことのない様な独特なルートを辿り、その任に就いていたと言うことである。
当時の記録には、読んだだけではそれがどこを指すのか分からぬような地名が続出しており、まるで宝探しをするような面白さと、もどかしさが、あった。
まして、それが利用されたのは工事が行われた僅か3年ほどの間だけである。
そして、既に廃止から70年を経た軌道跡が、現在如何なる姿になっているのかは、誰かが踏査したという話も聞かず、これはもう自分で調べてみるしかないと言うことになった。
本編に入る前に、この工事用軌道の探索に当たるまでの経緯を年表形式で紹介しておこう。
2003年5月1日 | 山行が 単独にて万世大路を山チャリ探索す。<レポ> |
5月中旬 | 当時謎の存在であった、栗子隧道福島側坑門付近の廃橋台<写真>について、当サイト掲示板にて話題となる。 |
5月20日 | 相互リンク先サイト『ニヒト・アイレン』の管理人TILL氏より、当サイト掲示板にて、工事軌道の存在が明かされると共に、根拠となる資料の一部も紹介される。 これが、事実上の工事用軌道探索の始まりといって良い。 なお、この時期までの経緯については、当サイト内ミニレポ「その30」に詳しい。 |
2003年12月下旬 | 当初軌道遺構かと目された廃橋台は、昭和の改築時に廃棄された明治万世大路の小杭甲橋の跡だったことが判明する。 |
2004年1月上旬 | 「工事用軌道合同調査計画」を、構想しはじめる。 |
2004年2月1日 | 信夫山氏によって『福島1960’アーカイブ』が立ち上げられ、万世大路についての詳細な調査結果が公開され始める。 |
2004年6月6日 | 『福島1960’アーカイブ』にて、工事用軌道の全容を示す資料が発見され、これがネット上に初めて紹介される。 |
2004年7月頃 | 「工事用軌道合同調査計画」の実施時期を、積雪直前の11月と定める。 当サイトでは参加者を募り、計画を徐々に詰めはじめる。 |
2004年秋頃 | 信夫山氏をはじめ、相互リンク先サイト『ようこそ 山口屋へ』 などでも、先行調査が行われる。 |
2004年11月20日 | 工事用軌道合同調査 決行! |
次に、この合同調査計画に参加されたメンバーを、簡単に紹介しよう。
写真、奥の列、順に左から | |
山口屋散人 氏 | 当日早朝、現地までの送迎サポートを頂きました。 『ようこそ 山口屋へ』管理人。 スゴイ散歩を平気でする、うどん職人さん。 |
sunnypanda 氏 | 当日早朝、現地までの送迎サポートを頂きました。 『sunnypanda's ROADweb』管理人。 緻密なレポートとは裏腹に、彼の愛車はハードな悪路もグイグイ登ります。 トレードマークはトレーナーの胸のパンダ。 |
dark-RX 氏 |
踏査メンバーの一員。 『dark的道部屋』管理人。 人柄は謙虚ですが、その探索には容赦のない道路戦士です。 |
おばら 氏 |
踏査メンバーの一員。 『別館 「猫とか旅とか?」』管理人。 おそらく、万世大路を最も愛する漢の一人。 一ヶ月に何度も関東から万世へ遠征してくる愛の戦士。 |
樋口雅明 氏 | 踏査メンバーの一人。 当サイトを通じての、飛び入り参加です。 福島市出身で万世大路を隅々まで知り尽くした、強力な助っ人です。 |
古川 氏 | 踏査メンバーの一人。 樋口氏とは盟友であり、飛び入り参加頂きました。 海外をチャリで走ることも趣味だという、ワールドワイドファイター。 |
続いて、手前の列、左から | |
くじ 氏 | 踏査メンバーの一人。 もはや説明の必要はない、山行が最強のランドエクスプローラー。 彼の前に、未踏の地は残されないのか?! |
バリー 氏 | 踏査メンバーの一人です。 信夫山氏の友人で、彼の愛車は万世の廃道をぐいぐい上る! |
ヨッキれん | 私です。 もちろん、踏査メンバーの一人です。 |
信夫山 氏 |
『福島1960’アーカイブ』管理人。 踏査メンバーの一人であり、私とくじ氏へは、前夜の宿を御提供頂きました。 机上調査も十分で、合調隊のブレインを担う人物です。 |
写真には写っておりませんが… | |
藤原 氏 | 集合場所に飛び入りで、なんとおにぎりを13コも差し入れて頂きました。 美味しく頂きましたよ。 ありがというございました! |
総勢11名、東北6道路サイトオーナーを含む前代未聞に贅沢なメンバーで、この合同調査は行われた。
最後に、肝心の工事用軌道について、我々が事前に知り得た情報を紹介しておこう。
ここではあくまで概容を記すに留めるが、原典と詳細については『福島1960’アーカイブ』に詳しいので、是非合わせてご覧頂きたい。
回顧の筆頭は,材料運搬路計画のことである。
それは奥羽線板谷駅から運搬するための線路計画をするため,昭和7年の冬,事務主任外が板谷に行き,運搬予定線のルートを5万分の1,図面のみで決めるというずさんな計画となった。
図上のみの目測で運搬路線を敷設するより,在来道路を改築し福島と米沢から材料運搬した方が経済的に,また運搬能力も大きいとの意見があったが,板谷から線路によることが決定された。
山を掘り割ってヘアピンカーブをつくり,線路敷設工事は明通(あけとおし)山に突き当たり,山の谷間を通れるものと思ったが,谷間は無く,結局山の峰に出るほかないと,17段のヘアピンカーブをつくって頂上に達し,更に山の突端を長さ100メートル,深さ6メートルも切り割って,約50メートルも深い谷の真上まで来た。
今度は新明通から主要資材を逆落としをして人力トロで烏川橋上流部の倉庫まで運搬した。このためセメントは乱袋(セメント袋が破れてこぼれた袋)が生じ,消耗は少なくなかった。
この運搬線路敷設は昭和8年9月4日までかかり,人力トロにて諸材料を運搬した。
昭和9年度は更に屈曲部及び勾配を是正して,ガソリン機関車で運搬した。
このように主要資材運搬では大変苦労した。
強調部分は作者による
「福島県直轄国道改修史」より転載
(信夫山氏より御提供頂きました)
これがおそらく、この写真は、現存する唯一の、工事用軌道の写真である。
上の資料に記されているとおり、工事用軌道は、昭和8年から11年にかけて行われた、万世大路(国道13号線)の車道化改築工事に際して、資材の運搬を主目的に建設されたものである。
そのルートは、奥羽本線板谷駅から鎌沢沿いを遡行し、地形図にもその名は示されていない「明通山」を17段のヘアピンカーブで上り詰め、深い掘り割りの峠を越え、さらに烏川源頭を「逆落とし」と呼ばれたスイッチバック?で下るという、大胆なものであったようだ。
距離について記述された資料はないが、地形図などから類推される距離は、全長7〜8km。(今回踏査計画区間はそのうちの4〜5kmほど)
ヘアピンカーブなどの状況によってはさらに長い可能性もある。
また、その高度差は途中で峰越しを含むため、200m以上はあるだろうと目された。
工事用軌道は、昭和7年から設計が開始され、万世道路改築工事に先立つように昭和8年に完成。
さらに昭和9年には改良されてガソリン機関車も乗り入れるようになったという。
その軌間は、約50cmであったとも記録されている。
ここまでが机上調査によって判明した部分である。
そして、我々が現地踏査を行うまでようとして知れなかったのは、この軌道が廃止後にどうなったのかと言うことである。
おそらくはレールや枕木などは回収されたのであろうが、どの程度の痕跡を留めているのか?
全てを知るべく、我々は栗子の山に集った。
日本を代表する廃道「万世大路」にまつわる、まぼろしの工事用軌道。
道路界のつわもの達により、
いま、70年の空白にピリオドが打たれる!