2020/1/23 8:45 《現在地》
見てくれた? 前回の“会心”の展開を!!!
ここまでの展開にストレスを貯めていたのは私も同じだったから、マジで気持ちよかったぜ!
そんな歓喜と安堵の熱を帯びたまま、探索は次なるターゲットである“第2の隧道”へ向けて、再び流れはじめる。
その流れも、初めはここを去り難い気分から緩やかで、離れてからは一気に堰を切って急流となる。
隧道南口に戻った私は、自転車を残してある尾根上の道へと脱出すべく、坑口右脇の斜面を登り始めた。
写真はその最中に撮影したもので、尾根にある町道のガードレールと、坑口の暗がりが、同時に見えていることに注目!
この風景からは、ループトンネルやループ線全体のスケール感が、実感できると思う。
これも同じ趣旨から別アングルで撮影した写真だ。
隧道と尾根道の高度差が、おおよそ15m前後あり、少なくともこの分は、ループ線によって克服された標高差といえる。
この数字は、ループトンネルという奇抜なものを用意した割りに、ささやかな仕事ぶりと思われるだろうが、尾根を隧道ではなく切り通しで抜けて、その切り通しの上に橋を架けたような小規模ループは、たまに目にするものであり、ここにあるのも、それと近い規模だ。
こうやってガードレールの外へ少しはみ出せば見つけられるような隧道が、あまり知られていなかったという単純な事実にも、旨味を感じる。
隧道単体を見れば、目立つことのない地味な存在であり、過去に見つけた人も、取るに足らないと感じたかも知れない。
なお、ここに珍しいループ線が建設された背景に、平凡なルートを選べなかった原因になるような地形的特徴を探したが、周囲の地形は全体的になだらかで、それこそルートの選択肢はいくらでもありそうだった。また、ループ線以前の旧線がないかも探したが、見当たらなかった。
したがって、ループ線建設の理由は、単純な地形的条件だけではなかった可能性が大きい。例えば土地獲得に絡む問題だ。
尾根のこちら側の土地と、反対側の土地の買収価格が、短い隧道1本を追加する工事費よりも大きいとなれば、公益よりも会社の利益を重視する鉱山会社の立場として、奇抜なループ線の建設を躊躇わなかっただろう。鉄道の常識や前例にあまり縛られないことは、小さな事業者の強みであったかもしれない。
町道がある尾根へ上った。
ここも笹藪だが、クマザサという背の低い種類なので、あまり歩行の支障にはならない。
写真は、尾根から見た南方の風景で、須賀作の谷戸を樹木の間から見下ろしている。
前に須賀作第二堤辺りの軌道跡から、ループに思いを馳せつつこの名古谷の尾根を【眺めた】のとは、ちょうど逆のアングルだ。
ここで目にした風景には、高度感があった。
人工的なものがほとんど見えず、在りし日の軌道の車窓を連想させた。
ここも数字としての標高は50mほどでしかないが、この軌道がループまで使って手にした大切な高度だ。重みを感じる。
軌道は、苦労して辿り着いたこの尾根を足掛かりにして、本当の目的地である西の山の裏側の炭鉱へと向かっていた。
8:50 《現在地》
自転車を残していた、“ループの入口”へ戻ってきた。
自転車を回収し、写真奥方面へ向かって出発する。
どこに何があるのかがよく分かっていない時に、何気なく眺めていた風景を、分かった後で「ふむふむ」なんて頷きながら眺めるこの時間が、大好きだ。
手柄が愛おしくて、離れがたい心境になる。
8:51 《現在地》
これは上の写真と逆のアングル。
ループトンネルの直上の様子だが、何も感じられないよね(笑)。
どこに何があるのか分かってから眺めても、町道から隧道は見えないし、そもそも軌道跡も見えなかった。
上手く樹木がカモフラージュしていた。
最後に、もう1枚だけ……
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
全天球画像上に、残念ながら見えない位置にばかりあるループ線の全貌を、強引に書き加えてみた。
赤線は、町道と同じ高さにある上段区間。黄線は、それより下に位置する下段区間である。
ループ区間の実証は、これにて終了!
新旧地形図で、この先の区間をちょっと予習しておこう。
現在いる「名古谷」から、「菖蒲平」を通って、“2本目の隧道”の近くまで、かつての軌道跡をなぞる位置に、現在の車道が描かれている。
また、旧地形図をよく見ると、名古谷から菖蒲平の区間については、里道と軌道が並んで描かれている。(いわゆる路面電車(併用軌道)は別の記号なので、あくまでも並走だったようだ)
軌道が描かれる以前の明治時代の地形図も見たのだが、既に里道は描かれており、現在の立派な町道も、軌道跡を転用した訳ではなく、さらに古くからあった里道を継承したものとした方が、正確かも知れない。
まずは、約1.2km先の「菖蒲平」を目指す。
ループを出ると、すぐに大きな橋が架かっている。
町道が常磐自動車道を跨ぐ名古谷橋である。
新旧地形図を見較べると、軌道は橋よりも少し北側を通っていたようだが、当然そこは尾根ごと削り取られている。
橋の下の常磐自動車道が開通したのは平成5(1993)年だった。
高いフェンス越しに見下ろした南側の風景。
ここには本来、須賀作谷戸の源流の谷が開いていたはずだが、巨大な築堤に埋立てられてしまった。
先ほど引き返した【この場面】の奥にあるのが、この風景だ。
軌道が谷を跨いでいた現場(橋か築堤があったろう)も、呑み込まれてしまった模様である。
8:57 《現在地》
町道になっている区間は、特にじっくり見るものもないようなので、ぐんぐん進む。
前の写真から400mほど進んで、既に名古谷と菖蒲平の中間附近である。
緩やかな尾根の上に道はあるが、ほとんど眺望は利かない。
また、尾根上に並ぶ小さなコブのようなピークを越えて進むため、微妙なアップダウンが連続する。それでも全体の傾向は上り基調だ。
林鉄なんかだと、片勾配の徹底には凄く気を遣っていて、ほとんどが麓から伐採地へ一方的に上り続けるが、この軌道にはそこまでの徹底はなかった。
レールや枕木が残っていないことは分かっているので、敢えて個別の記録をしなかったが、町道の右側に並走する平場がしばしば見られた。
この写真のところは分かり易いし、たぶん上の写真にもある。
この平場は、隣にある舗装された町道と較べると、盛り土を駆使することで全体的にアップダウンを抑えた特徴があった。
明らかに軌道跡であろう。
つまり、明治時代からある里道の位置に現在の町道はあり、その後に生まれ、しかし半世紀以上前に廃止された軌道は、町道の右側にずっと放置されているということ。
もっとも、町道の拡幅によって軌道跡を削り取ったと思われる部分も多く、完全に原形を留めているわけではない。
9:00 《現在地》
まるで自動車で探索したのかと思われるようなハイペースで進行中。
町道はここで、左後方から来た2車線道路に吸収されるような感じで終点を迎える。現われた2車線道路も町道だが、約2時間半前に【国道6号の交差点】で見送った道の続きがこれだ。
つまり、須賀作谷戸の南北の尾根をそれぞれ上ってきた2本の町道が、ここで1本になる。その行き先は、山を越えた椴木下だ。軌道と同じであるが、径路は違った。
海抜80m前後にある山間の小平地、ここが「菖蒲平」だと思われる。
地形図に地名の記載はないが、『常磐地方の鉱山鉄道』の記述から推定できる。
双葉炭礦軌道にとって(厳密には後裔の「木戸炭礦軌道」にとって)、菖蒲平は重要な地点だった。
前説でも触れたが、昭和19年に菖蒲平よりも先の区間は、索道の新設に伴い、いち早く軌道が廃止されているそうだ。
軌道の全線廃止は昭和25年だが、それまでの短期間、菖蒲平は軌道と索道の中継地点であった。
なお、軌道跡はここでも町道から少し北に外れていたと思うが(矢印の位置)、杉林に痕跡はなかった。
左図は菖蒲平附近の最新の地図だ。
数本の道と送電線が一点に集中しているが、旧版地形図に描かれていた軌道跡は現在の道と一部重ならず、赤線のようなルートだったようだ。
地形が緩やかすぎて、土工などの具体的な痕跡は見当たらなかったが。
そして、この地図上の「現在地」の風景は、次の写真。
ここから始まる、「民有林林道石名坂一号線」という林道が、軌道跡と重なっているようだ。
入口に綺麗な林道標柱があったが、道には簡単なバリケードが置かれていて、一応封鎖らしい。理由は案内されていなかった。
地形図だと、この道は行き止まりではなく抜けているが、山越えはしていない。
軌道だけが途中で隧道に入って、山を越えて椴木下へ達した。
おそらく、ここから1kmほど奥と思われるが、軌道が林道から外れて隧道へ向かう“ポイントエックス”を探すことが、次の任務だ。
ここは木戸駅から軌道コースにて約3kmの地点で、全長5.1kmといわれた軌道全体の中間地点を少し超えた。
廃止間際に中継地点が置かれていたという歴史を踏まえなくとも、思わずいっぷくしたくなるような閑静な土地だった。
ここで10分ばかり、腰を落ち着けて、朝食休憩をとった。
次回は、この林道を突き進む。
全長300mクラスが想定される“2本目の隧道”の行方や、如何に!
2020/1/23 9:12 《現在地》
菖蒲平でこれまでの舗装された町道を離れ、未舗装の林道石名坂一号線へ入る。
入って間もなく、ほんの20mほど進んだところで、左の路傍に見慣れない大きなコンクリートの土台のようなものを見つける。
特に期待感を持たず、通り過ぎるついでの気分で近づいた私だったが、
この物体の気になる正体は――
分からない。
畳二畳ほどの面積と、60cmほどの高さを持つ、持つ巨大なコンクリートの土台が、二つ並んで鎮座していた。
上面には、失われた上部構造との接続を窺わせる鉄棒が突き出しており、土台らしいと考える根拠がここだ。
正体不明だが、静かな森には不釣り合いな重密な物体で、鉄塔の土台にしては仰々しい。廃絶した鉱山関係の何かだと、そう直感が囁いた。
可能性が高いのは、今回の探索の主役である炭鉱軌道や索道だろう。
支柱の土台とか、積み込みホッパーの土台とか、そういうの。
一帯は広大な植林地だが、地名に「平」が付くとおり、平らな場所には事欠かない。
どこにどんな施設があったとしても、撤去されていたら検証は難しいが、もし索道の土台ならば、探せば他にも見つかるはずだ。
この話をレポートのどこでするか悩んだが、索道の話が出たついでに、ここで書く。
菖蒲平で中継していた索道についてだ。
右図は『常磐地方の鉱山鉄道』に掲載されていた地図で、昭和8(1933)年版の地形図をベースに、おやけ氏が原図にはない鉱山軌道や索道を書き加えている。
そして、図中の着色してある要素は全て、私が説明のために塗った。
この図から分かるように、菖蒲平は千代田礦業木戸炭礦が運用する2本の索道の中継地点であったり、同社の炭鉱軌道とこれら索道の中継地点であったりしたのだが、これらの軌道や索道の変遷を述べたい。
初めは、木戸駅と椴木下を結ぶ、今回探索している軌道があった。
昭和19(1944)年、千代田礦業木戸炭礦は、従来の椴木下にあった炭鉱に代わる新坑を、木戸村と広野村の境にある七曲地区に開発し、七曲〜菖蒲平間に索道を新設した。ここで産出した石炭は、菖蒲平まで索道で運ばれて、そこで軌道に積み替えられて木戸駅へ運ばれた。
この段階で、椴木下〜菖蒲平間の軌道は廃止された。
七曲地区では、明治末頃から大正初期にかけて、日本耐火煉瓦という会社が耐火煉瓦を採っており、この輸送のための軌道が広野駅へ伸びていたことがあるが、後にここを開発した千代田礦業は、新たに索道を建設することで、自社の既設軌道によって木戸駅へ運び出している。
昭和22(1947)年当時、同社は3トン内燃機関車を3両保有し、1日5往復運行の記録があるという。
しかし、昭和25年に、菖蒲平〜木戸駅間にも索道が新設されると、軌道は全廃された。
その後、昭和31(1956)年に閉山するまで、索道輸送が続けられた。
以上のような経過なので、菖蒲平の遺構がどの時代のものかを、慎重に判断する必要がある。軌道とは直接関係しない可能性もある。
また、これより奥地の軌道跡は、これまでの区間より廃止が早く、おそらく戦時中に廃止されていることも、意識しておきたい。
この廃止時期の違いが、廃線跡の風景にどのような違いを示しているかは、現物を見ながら評価すべきことだが、これらの情報は探索中の私も既に把握していたということは、先に書いておきたい。
菖蒲平を出発すると、林道は微妙なアップダウンを繰り返しながら、やや上り基調で、北西へ向かっていく。
これまでは尾根を通ってきたが、ここからは山腹のトラバースだ。とはいえ、山は全体的になだらかで、岩場が露出しているようなところがないから、ゆったりだ。
この道がなだらかなのは、地形だけが原因ではなく、軌道跡を活用しているからでもあるはずだが、それと分かるような遺構は見当たらない。
間もなく、路傍に同じ看板が高頻度で何度も現われていることに気付いた。
看板は、地元で水道事業を行なっている双葉地方水道企業団のもので、どうやらこの道の地下には、同団の工業用水と水道用水の水路管が埋設されているようだ。
軌道跡ゆえのなだらかさに目を付けて……なのかは分からないが、こうして陰からインフラを支える道として命脈を保っているのは、恵まれた余生だろう。
もっとも、何度も掘り返されているはずだから、ますます路盤の残存には期待が持てない。
9:17 《現在地》
林道の入口から約400m、切り通しというよりはもっとスケールの大きな、
山の鞍部を直線で抜けるような場面があった。標高約90mの地点だ。
地形図を見ても、ここは小さな峠越えだが、前後の小さな沢を跨ぐ部分を築堤にすることで、
直線的かつ起伏を抑えた線形になっており、ここが軌道の廃線跡だと証明しているようだった。
この鬱蒼たる切り通しは、想像力を少し働かせるだけで軌道時代が目に浮かぶ。
全体的に遺構が乏しい本路線においては、希少なイメージングスポットだと思う。
鞍部を抜けると、微妙なアップダウンはありつつも、下り基調になる。
一気に下ってしまうわけではないが、下るのである。
これは、これから道中最大の峠を隧道で抜けて終点を目指そうとする身としては、軽く衝撃的というか、裏切られたような気分になったが、この軌道は厳然として小さなアップダウンをいくつも抱えていたようだ。
林鉄探索の経験豊富さが、風景は似るが実態の異なる鉱山軌道に対する素直な受容を、少し邪魔をしてしまっている。
なんてことを考えて進んでいくと、前触れなく、道の中央で重機が通せんぼしていた。
オイオイと思ったのも束の間、そういえば【バリケードがあった】ことを思い出す。
それでも気にせず進むと、すぐ先の築堤で水道管を掘り返す工事をしていた。
ところで、先ほどの切り通しや、この場面の写真から感じられるのが、道幅の広さだ。
実際、この道には広い場所が多くあり、待避所というわけでなく広い。
軌道跡そのままの広さとはとても考えられないので(まさか複線ではあるまい)、埋設物と関係が深いのだろう。
9:20 《現在地》
入口から約900m林道を前進し、何度目かの築堤によって小沢を渡る場面に差し掛かった(こうした築堤も軌道由来の可能性が高いが、埋設物のために掘り返されてはいるだろう)が、ここが早くも、第2隧道擬定地の入口である。
“擬定地の入口”というまた微妙な表現を使っているが、ここがおそらく今日の“二度目の正念場”になるだろうという予感があった。
なぜなら――
ここでは事前に坑口擬定地を一つの谷に絞ることが出来ず、附近にある二つの谷を探る必要があると考えていたのだ。
右に示した新旧地形図の対比により、私は二つの谷を東口擬定地と考えていた。
南側から順に第1、第2擬定地で、3:7で後者優勢と考えていたが、探索の順序的には前者が先に現われることになり、“状況”次第でこれを先に確認するつもりだった。
その“状況”というのは、谷の入口に“軌道跡らしい道”があるかどうかで、あれば有望ということで、先に探索しようと思っていたのだが……
あった! (有望!)
第1擬定地へ通じる沢の北岸に沿って、林道から分岐する細い道があった。
これが軌道跡だとすれば、そう遠くない奥に第2隧道(仮称)があるはずだ。
自転車を残し、歩行で突入する。
チェンジ後の画像は、振り返って撮影。いきなり結構な急勾配だな。
第2隧道が現存しているかどうか不明だが、ループトンネルこと第1隧道が片側だけでも現存していたので、より人里から隔離された今度の隧道は、埋め戻されず残っている可能性が十分にあるはず。
まあ、開口していても、通り抜けられるかは別問題だが。
9:24 《現在地》
数分後……、分岐から150mくらい上ってきたと思うが、隧道は現われず。
というか、そもそもこれは軌道跡ではないな。
最初から急勾配だったが、進むほど急になっていく。それに、単純に狭い。
おそらくこれは、古い地形図に里道として描かれていた、軌道よりも古くからあった山越えの道だろう。
隧道が開通するまでは、この峠道が椴木下へのメインのルートだったのかも知れない。
とっくに廃道になっていても不思議ではない非車道の山道だが、山林管理用に使われているのか、薄く刈り払われており、このまま峠越えを果たしてみたい衝動に駆られたが、別の探索になりかねないので自重した。
というわけで、第1擬定地はおそらく、違う。
より可能性が高い第2擬定地へ、ターゲットチェンジ!
9:31 《現在地》
これが、“真”の擬定地の入口だ!
……ということを消去法的に導き出したので、そんな勇ましく書くほどの自信はない。
風景的にも、これで自信を持って突入できる人がいたら、ぜひお会いしたい。
林道を何気なく辿ってきたら、ここで足が止まることはない。何の変哲もないカーブだ。
強いて言えば、他の小沢を越えるところは築堤だったのに、ここは築堤じゃない。
確かにそれは、軌道がここから沢奥へと向かっていたからだと理由付け出来るが、
それだけで、こんな些細な沢に軌道跡を疑う人はいないはずなのだ。
あくまでも、新旧地形図の対比だけが、ここから左折して沢奥を目指す原動力である。
再び、自転車を残し、歩行にて、突入する。
これはただの沢だな。
探索上は死の宣告に等しい決断を、この時点で下して
引き返さなかったのは、ここの他に有望な擬定地がもうないからだ。
もしあったら、この最初の10mで、ただの沢だと言って引き返した可能性あり。
そのくらい、ただの沢じみていた。蔓延る下枝も、流れる水も。
この時期なのに、障害物が多く、視界が効かない、野暮ったくてうざったい沢だった。
繰り返すが、ここの他に擬定地があったら、もう引き返している。
だが、一つだけ、沢に踏み込んだ時点とは違う印象を持つ部分があった。
それは、沢の奥の深さだ。しかも勾配が緩い。地形図とは印象が違う。
軌道に許されるくらいの勾配で、細く長く、奥へ通じていた。
まさか、本当にこの沢が軌道跡なのか……
うお〜っ!!!
マジかよ! 隧道じゃねーかあの黒いのッ!
これはもう、疑いようがない。
一瞬の風景で、ここがもう確信的な軌道跡になってしまった。
隧道としか思えない暗がりへ真っ直ぐに伸びる、切り通しにしか見えない切れた岩場。
第1隧道とは大きく印象が異なる、山岳の深さを感じさせる迫真の隧道風景だ。
地形図が物語る隧道の長さ、山の厚みが、風景から深深と伝わってくる。
潜り抜けた切り通しを振り返っている。
この路盤、完全に天然の谷底を使っている。
当然、雨が降れば水が流れ込むわけで、分厚く堆積した落葉が、ぐっしょりと泥濘んでいる。
両岸とも崖なので、歩行者に逃げ場はない。雨の日はたぶん通行不能だ。
もちろん、現役時代は排水に十分意を注いでいたであろうが、
谷底をそのまま通過とは傍若無人な振る舞いだ。
第一隧道同様、ここも最近は誰も訪れていないような印象を受ける。
これはあくまでも印象で、実際のところは分からないが、手入れの形跡は全くない。
隧道が貫通しているならば、もう少し訪問者がありそうなので、不安感が増す。
それに、坑口は完全に谷底にあるので、非貫通かつ勾配状況によっては、内部の水没は避けがたい。
隧道発見は嬉しいが……、怖いなぁ、不穏だなぁ、この感じ……。
そんなこんなで、あっという間に足は進み――
9:36 《現在地》
ごたいめ〜ん。
しっかり大きく開口している ――ように見えたが、
坑口前が平坦ではなく、緩く盛り上がっていることに一抹以上の不安を感じた私。
その不安を胸に、大きな坑口を覗き込んでみると――
絶望的に嫌過ぎる…“底穴状態”だった。
坑口が大きかったのは、上に向かって崩れ続けた結果でしかなく、実際の洞内への開口部は、
崩土が造る擂り鉢のような斜面の底に、小さくあるだけ……。
貫通していなければ、絶対に水没で終わりでしょ……。
最悪級の洞内環境を想像せざるを得ない、最悪級の坑口風景だった。
なんか、洞奥に落ちていく擂り鉢の斜面が、玉砂利の河原みたいなんだよ……。
これを見た正直な第一印象というか、連想したのは、三途の川
地下にある三途の川とか、オブローダー専用かよ。 不吉すぎて笑えるだろ………。
こわすぎ……
お読みいただきありがとうございます。 | |
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