飯田線旧線 旧第一久頭合隧道 後編

公開日 2009.8.25
探索日 2009.1.25

地図にない線路



2009/1/25 7:00

予想外の展開となった。

昭和52年に「変状」によって廃止されたという「旧第一久頭合隧道」の南口は、産廃処分場の一部となって確かに存在していたが、最新の地形図上では未だそこを線路が通っているように描かれていたのである。
つまり、現実には地形図にないところを線路が通っていることになる。

残りさほど長くはないと思うが、その新旧線合流地点を求め、芋掘地区対岸の旧線路盤を前進する。




歩き始めると間もなく、色々なモノが一挙に現れた。

それは大きく分けて3つ。

まずは、仮設の鉄パイプを欄干代わりに据えたコンクリート橋
続いてごく短い廃レール造の落石覆い(らしきもの)。
そして奥の突き当たりにあるものは、別方向へと伸びる堅牢そうな鉄の落石覆いだ。

つまりは間もなく現在線と合流するようだが、直前にさほど期待していなかった旧線遺構が2つも出てきた事になる。




手前から順に見ていきたい。
まずは仮設欄干が一見して興を削ぐこと著しいコンクリート橋であるが、わざわざ遠景を確保(→)したところ、立派に鉄道遺構をしていることが明らかとなった。

全国的に見て希少だとかここだけだというようなモノではないが、それでも廃線跡の橋梁が崩されず、しかもほぼそのままの姿で車道転用されているというのは、線路付け替えの歴史を体現する重要な遺構といえる。

残念ながら橋梁名の調べは付かなかった。(詳しく橋桁を調べれば銘板があったはずだ)




そしてこの構造物(写真は逆向きで撮影)。

謎の構造物と言っても良いかも知れない。

落石や雪崩を防止するための設備としてはあまりに脆弱で、力を逃すのも下手そうだ。
何に似ているかと言われれば間違いなく公園の「藤棚」で、廃レールを用いている事が鉄道構造物らしい唯一の点だろうか。
両側の柱の上部に見られる曲線部の処理などは、駅のホームのそれにそっくりである。

正体ははっきりしないが、当初からこの長さであったとすれば、それは線路上を架空していた索道か何かがあって、その墜落物から鉄道を守るための覆いかも知れない。(元々は格子の間に鉄網がはめられていたのだろう)




そしてここで、遂に現在線が出現! 合流!

地形図をかくも裏切り、浅い掘り割りの途中で左から合流してくる堅牢な落石覆いの正体は、くろがね光る現在線だった。
当然そこには、「第一久頭合トンネル」の南口も存在していた。

「全国線路変更区間一覧」によれば、この一連の線路付け替えによる旧線の延長は0.8kmとのことである。
そこから逆算して、新旧線の「洞内分岐地点」は旧南口から200mほどの位置にあったと想像出来る。
(今歩いた地上部分に、封鎖された「第二久頭合落石おおい」の延長を足すと600mほどである)




ちょうど撮影していると、向から電車がやって来た。

新旧線分岐地点は、新線にとってはトンネルとトンネルの合間のごく短い明かり区間だが、それを避ける旧線は急なカーブで西折していたようだ。
このような悪線形の改良も踏まえての新線決定だったと言われても納得しそうだが、そうして掘られた新しい第一久頭合隧道の延長は、従来の648mから4割以上の増加を見せており(推定1100m超)、その割に線路長の短縮はごく僅かだ。つまり著しく非効率なのだ。

やはり旧洞内を見ることの出来ない状況下では、「変状廃止」の実感を得ることは難しい。 旧洞内が見たい。




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ある 気づき



歩けるところは全て歩いただろうということで、撤収を開始した。

まんま来た道を戻る。

そして、数分で車道の終点。
産廃処分場と化した「第二久頭合落石おおい」の閉ざされた扉へと帰還した。

悔しい顔を見せても状況が変わらないのは分かっているので、人目に付かないうちに森へ還ることに。






そして、“ゴミ函”に塞がれた憐れな旧坑口。

一瞥の元に、素通り。



クヤシス…。











隙間あった!

さっきは薄暗すぎて見落としていた! 

「落石おおい」の内側を充填していると思われたコンクリートの函体と、隧道本体との間には、幅1mほどの隙間があったのだ。

ただし…、

肝心の隧道側にもコンクリートの壁があって、閉塞の模様…。






うぇw


閉塞はしていない…

閉塞はしていないが……


壁は高い。





うううぉおお!


有刺鉄線が自然に腐食して無くなっているぅー。

よじ登りさえすれば、洞内。

洞内なのだが…。


その壁は高く、ジャンプしてやっと手が届くほど。

足元が薄暗く、また濡れていて滑りやすく、全力で跳ねられる状況でもない。


無理なのか…やはり…。







にゃー!






にゃにゃにゃにゃにゃー!




やべ。 マジでヤベ。

壁の裏側が平坦だ。
空いている。
水没も覚悟したし、埋め戻しも当然だと思っていた。


空・い・て・い・る!






スマートにとは行かなかったが、当初目標だった洞内への到達が達成された「第一久頭合(くずごう)隧道」の廃止部分。

そのレポートをお伝えする前に、皆様には先に廃止となった背景をお伝えしておこうと思う。


「全国線路変更区間一覧」(以下「変更一覧」と略)に誤りがなければ、この一連の線路が付け替えられたのは昭和52年である。
そしてその理由はわずか1行、「トンネル変状」としか書かれていない。

「トンネル変状」と軽く言うけれども、これは鉄道運営上は相当にレアで、しかも緊急の場面に他ならない。
もっと言えば、変状が発生してから初めて使用を中止するというような運用は、本来はあってはならない事である。
それは一歩間違えれば、列車通行中に隧道が圧壊するような大惨事とも隣り合わせなのだ。

そんなことは当然国鉄もJRも百も承知で、全17ページもある「変更一覧」全体に挙げられている約850もの線路付け替え事例(民鉄含む)のなかで、「トンネル変状」や「トンネル崩落」という事由を含むものは僅か14例に過ぎなかった。(過去に紹介済の「磐越西線」「奥羽本線」などはその一部だ)
トンネルを理由にする事例は多いが、大半は「電化のため廃止」や「短絡化」、そして「老朽化」と書かれている。
「老朽化」の中にも変状に近い事情のものもあったかも知れないが、それにしても全体の中では少数だ。

にもかかわらず、飯田線に関係する10の事例のうち、「トンネル変状」は4もあるのだ。
全国で14かそこらしか無い中で、飯田線に4である。
いくら飯田線が全国名だたる隧道多発路線であっても、この多さはそれが通行している地域の地質と密接に関わっていると言わねばならないだろう。

防護柵などがほとんど無かった国有化当初、飯田線内では年間2000件もの落石事故(軽微なものを含む)が発生していたというのは俄に信じがたい件数だが、私はもう経験的に信じることが出来る。




探索後、私は国会図書館を通じて貴重な一次資料に接する機会を得た。
『飯田線中部天竜大嵐間線路付替工事誌』(以下「工事誌」と略)である。
そしてそこには、「第一久頭合隧道」にまつわる不吉な「予言」が記されていた。

…いや、「予言」とは感情的に過ぎる。

この隧道、建設途中から既に崩壊の兆しを見せていたというのだ。
それでも種々の対策工事によって問題は解決したと判断され、そして昭和30年11月の新線開業時には、その一部として一般の用に供されたのである。
結局、それから22年後に「トンネル変状」が原因で廃止されてしまうわけで、52年の“事情”は分からないが、人間を巻き込んだ事故とならなかったのは、単なる幸運に過ぎなかったかも知れない。

昭和29年には既に植えられ、膨らみつつあった“破滅の種”。
「工事誌」の記述を一部抜粋して紹介しよう。

第一久頭合ずい道は、水窪川左岸に位し、その蛇行部を短絡する延長648.4mのずい道である。豊橋方坑口は山腹を斜に入るため、当初より多少の偏圧は予想されていたが、29年夏の台風期より地表の移動が観測され坑口の中心線も移動のきざしが見え、坑口より約65mの間の覆工に亀裂の発生と一部圧縮破壊を見るに至った。
(中略)
ずい道入口付近変状の対策としては、セメント注入、薬液注入、破壊を受けた部分の改築、水抜き坑の掘さく等が施工された。

以上の書き出しの後、より詳細な発生状況について述べられているので、要約する。

導坑の開削を始めた29年3月頃から度々豊橋方坑口付近で落石が発生し、当初の予定にはなかった「第一、第二久頭合落石覆い」を施工した。(今回銘板の写りが悪くて確信できないが、現在「処分場」になっている2種の断面を持つ落石覆いのことであろう)
そして同年9月に連続して同地方を襲った台風によって、隧道上の地山に変動が見られるようになる。
その範囲は坑口から20〜50mにわたり、亀裂幅20〜80cm、食い違い20〜100cmにも達した。
そのため、遂には隧道および落石覆いの壁に亀裂や平均幅30cm長さ30mにも及ぶ圧縮破壊が生じるのである。

そして、技術書らしく原因の解説とその対策については相当に多頁を割いているが、ここでは省略したい。
しかし、様々な対策工事のすえに変状は沈静化し、開業は滞りなく行われていることは重要である。
一旦は確かに収まったのである。



旧第一久頭合隧道 内部




坑口の状況を見るに、おそらくは、
入れてしまってはイケナイ隧道。


入れてしまった。



いや、ぼかさず言おう。

入ってしまった。


現地では知らなかったが、坑口から20〜50mぐらいの部分を中心に開業前から変状が発生していたのだ。
だからここで私が目にした景色は、一旦の修築を経たものだったはずだ。
(昭和52年の廃止に繋がった変状については、位置など一切不明)




隧道に接続する「第二久頭合落石おおい」を振り返る。

こちら側よりも高い壁に塞がれており、向こう側をのぞき見ることは出来ない。

また、苦労して登った壁を見下ろしてみる。

登ったはいいが、帰りも帰りで怖そうだ…。
(実を言うとジャンプで上り下りしたのではない。ヒントは落石覆い。)




異様な洞内に足を踏み出す。

天井が近いのは、下半分以上が堅い土砂で埋め戻されているからだ。
おそらくはセメントを混入した土砂だ。ただの土ではない。

そして、妙に白い内壁。
その正体は、大量のコンクリート鍾乳石と同じ石灰分だ。
おそらくは変状を改善しようと内壁の裏側の地山との空隙に注入したセメントミルクなどが、内壁の亀裂から洞内へ湧出してきているのだ。

…隧道に亀裂がある証左だ。





うわ……

禍々しい…。

目に見えて内壁が剥がれているとか、変形していると言うことはないのだが、とにかくもの凄いコンクリート鍾乳石群。
地下水が漏れだしている訳でもないのに、雨が降ると地山の吸った水を直接沁み出させるのだろうか。
しかもその亀裂の多さは、間違いなく山側(右側の壁)に集中している。

きっと、50年前の場面へと回帰しつつあるのだ…。





風はなく、押し潰されそうな静寂に満たされた洞内。


否。 押し潰してくるのは静寂なんて甘いもんじゃない。


周囲の地山そのものが、虚しく残された“半隧道”を殺す日を数えている。

私が出来ることは、当然何もない。
強いて言うなら、早く外へ出ることだけか。





圧密閉塞。

地面が天井に上り詰めてしまった。

もう、これ以上は進むすべがない。

打つ手無し。

現在線との接続がこの先に有ったはずだが、それを確かめる事は残念ながら出来ない。
それでも、わざわざ埋め戻してある理由は想像できる。

この先こそが、昭和52年の変状地帯なのだろう。
セメント入りの堅い土で埋め戻すことで、地山の不安定というリスクを斬ったのではないだろうか。





呪われたように繰り返された変状と崩壊。

その片鱗を感じるには、十分な探索となったと思う。


最後に一応まとめておくと、私が到達した最終地点は落石覆いではない純粋な旧坑口から、おおよそ60mほどの位置であったと思う。
そこは、昭和29年の変状事故における、核心部でもあった。

また先ほどの計算によると、洞内分岐地点は旧坑口から200m前後の位置である。
よって、なお150m近い長躯が、おそらくはセメント混合土に密された形で地中にあるはずだ。

後は洞内側の分岐地点の状況だが、車窓に何かが見える可能性もある。
情報をお持ちの方は、是非教えていただきたい。


この2枚の写真は、レポート公開直後に掲示板に寄せられたものである。
一般向けに配付されている「飯田線沿線マップ」という冊子の記事である。

そこには、はっきりと洞内分岐地点を内側から撮影した写真(埋められている…!)と、詳しい解説文があった。



「昭和49年までは右側のトンネルを使用していました」とあるが、昭和52年換線としている「変更一覧」とは矛盾している。
この点については引き続き調査を続け、確認取れ次第修正したい。



掲示板提供の情報より、『飯田線沿線マップ』を転載