(一) 古い登山ガイドの記録を調べてみた
池郷川は、紀伊半島の屋台骨ともいえる大峰山脈より流れ出る渓流の一つである。
この山域は、近世以前より修験道の修行場(奥駆道)として利用されていたが、一般の登山者たちの目に留まるようになったのは、京阪神地方からの交通の便が改善してきた昭和初期以降であるようだ。
当時のアルピニストたちを誘った古い登山ガイド書の中には、通常の登山ルートではない沢歩きを目的としたルートを紹介しているものも多く、池郷川についても言及を見つけたので、いくつか紹介したい。
現在把握している中で、不動滝にある隧道の存在に言及している登山ガイド書は、次に紹介する1冊だけである。
それは朋文堂が昭和32(1957)年に発行した『大峯の山と谷(マウンテンガイドブックシリーズ 21』だ。
当時の隧道の実態が伺える貴重なガイドを引用してみよう。(同書の地図も右に掲載した。そちらにも隧道の存在が銘記されている)
『大峯の山と谷』より
「一に池川、二に前鬼、三に白川又、四は四の川」と古くから北山地方でいわれる池川(地図の池郷川)……(中略)……この谷のよさをはじめて発表されたのは岸田日出男氏で、昭和七年のことである。その後、この谷は不便な位置にあるためか、踏査するものはまことに少なく……(中略)
現在、池川の上流滑川(地図の大又谷)では森林の伐採が行われており、滑川出合付近まで右岸高くからんでいく林道が上池原から通じている。だから八丁峠を越えて林道を行けばわけなく谷の中央まで行きつける。しかしそれでは、かんじんの谷渉きの意義がない。どうしても、徒渉・へつりと谷渉きの妙味を発揮すべきである。
池川橋詰から右岸を池川に入ると、すぐ左から支谷の石堂谷(小又谷)が合流している。これを渡ってなお少し行くと、小みちは谷を離れて左へと八丁峠に向かって登りとなる。Y字分岐で右をとり河床に降り、しばらく右岸をへつって行くと、山腹に隧道がある。まっすぐは不動滝で滔々と落ちる巨瀑とともに両岸絶壁の悪場だから、この隧道(約100メートル)の中をぬけて滝の落口に出る。ここから右岸の岩をへつって行くと、谷はしだいに険悪となり……(以下略)
下線を付けた部分が、今回の私の探索の行程とぴたり一致している。(この頃までは池郷川ではなく池川と書いて「いけごう」と読んでいたようである。「ごう」というのは、この地方の川の古い呼び方だ)
ここには、不動滝の悪場を迂回する隧道があることがはっきり記述されているが、この時点ではもう流材には利用されておらず、純粋に通路としてのみ利用されていたようだ。既に林道がだいぶ奥地まで伸びていたので、運材は林道で行われていただろう。また、軌道やトロッコについても全く言及はなく、とっくの昔に廃止されていたと考えられる。
次に、これよりも後の時期の登山ガイド書として、昭和54(1979)年に大阪わらじの会が出版した『大峰山脈の谷』に目を通してみたが、既に全線開通した白谷池郷林道が当然使われるべき入渓路となっていたようで、林道によって迂回される下流部分は、もはやガイドの対象にはなっていなかった。したがって、隧道や不動滝についても言及されていない。
ネットの普及によってさまざまなバリエーション的登山ルートの情報を得られやすくなった現代は別としても、登山ガイドから表記が消えた後の隧道は、多くの登山者からは次第に忘れ去られたことだろう。
ただ、隧道まで通じている頑丈な鉄製の通路や手摺りが再整備されたのは、この時期であったはずだ。残念ながら、これに関連する情報は見つかっていないが。(歩道が整備された経緯をご存知の方がいたら教えて欲しい)
一方、もっと古い登山ガイド書も探ってみた。
昭和19(1944)年に吉野熊野国立公園協会奈良県支部が発行した『大峯山』にも、池川の項目がある。
この本は、昭和11(1936)年に国定公園入りを果たした同山域を宣伝する役割を担うもので、登山ガイドとしてだけでなく、山域の歴史についても多くの誌面を割いた、総合ガイド的な1冊になっている。
「池川」の項目も用意されていて、後の登山ガイドでは必ず同川の冒頭を飾る一文の原点が、ここに見られる。
一に池川、二に石堂、三に佐田川と土地の人は言ってゐる。即ち池川が一番悪いと言ってゐる事なのである。悪場である程探る可き多くのものがある、これが常識である。昭和七年、岸田日出男氏一行に依って探査され、その素晴らしい渓谷美が世に紹介されて十数年、池川の大峡谷として喧伝されてゐながら其後数へる程しか入谷者がない。これは交通の不便もその一因ではあるが、主因はその遡行探勝の困難さである。入谷した人達の報告にその素晴らしい景観を称へると同時に、殆んど総てが九死に一生を得た様なその遡行の困難さを指摘してゐるのを見ても、いかに悪場の連続であるかといふ事が想像できると思ふ。……(中略)……この谷も僅かに中下流が探られたのみで……(以下略)
一番ワルい池川……。
上記の文章からは、当時の池郷川が、登山家にとって処女地の如き新天地の魅力を放っていたことが伺える。
とはいえ、古老の言や、次章で紹介する『下北山村史』の記述に依るなら、大正以前、明治後半の時期から山稼人たちは源流部にまで深く立入り、技を駆使して木出しを行っていたようである。この文献にも不動滝の隧道についての言及はないが、年代的に既に存在していたはずだ。登山者と山稼人とでは入山の目的からして違うとはいえ、本当に土地の人々の力は侮れないのである。
ところで、『大峰山脈の谷』と『大峯山』の両方に共通した内容として、池郷川を昭和7(1932)年に探査し、その魅力を初めて世に紹介したのは、岸田日出男だということが出ている。
林業技師や奈良県庁職員などの肩書きを持つ岸田日出男氏は、大峰山脈を含む吉野群山一帯を早くから踏査し、多数の資料を集めたことで、同地域の国定公園指定へ結びついた功績をもって、「吉野熊野国立公園の父」と呼ばれているのであるが、彼の昭和7年の池郷川踏査のレポートを読むことが出来れば、世に知られる前の不動滝隧道やトロッコの状況が判明する可能性があると考えた。
そこで調べを進めると、奈良山岳会が昭和10(1935)年に発行した『山上 改 第1冊』(この本の序文というべき「吉野群山の歴史」も岸田日出男氏の執筆だ)によって、大和山岳会が昭和9(1934)年7月に発行した会報誌『山嶽 第8号』に、岸田氏による「池川の大峡谷を探る」という内容があることが判明する。おそらくこれが池郷川を世に知らしめることになった記念碑的レポートだと思うが、同書は非売品で、今日残っているものがあるのかも不明で、入手はほぼ不可能と思われた(図書館などにも所蔵がないようだ)。
……のだが、岸田氏の死後、大淀町の自宅に残された段ボール約60箱におよぶ資料が大淀町に寄贈され、2016年から整理が行われたことを知った。
そしてまとめられた資料リスト「岸田日出男関係資料リスト」を検索したところ、「池川の大峡谷を探る」のタイトルを持つ文献1冊を発見したのである!
リストにある資料は大淀町が保管しており、「多方面からの活用を願っている」とのことなので、これから内容を実際に読むことが出来るかを問い合わせてみるつもりだ。
といったところで、古い文献の調査はまだこれから伸びしろがあると思う。進展があれば追記していきたい。
(二) 『下北山村史』によって、池郷川での林業の記録を探る
昭和48(1973)年に刊行された『下北山村史』は1300ページもある大著で、たいへんな情報量がある。そしてこれは国会図書館デジタルコレクションで読めるうえ、全文検索が可能なので、「池郷川」に関わる記述を総ざらいしてみたところ、この恐ろしく険しい谷を舞台に、明治後半から戦前にかけて思いのほか多くの林業家の活躍があったことが分かってきたのである。
もっとも、『村史』は永冨氏ももちろん読んでいて、氏のレポートにも反映されている。また予め書いてしまうが、『村史』に不動滝の隧道や池郷川口軌道に直接言及した部分はない。
それでも、永冨氏が読んだ頃には全文検索をする術はなかったはずで、たぶん見逃された内容もあったかと思うのだ。
改めてここに村史の大量の記述を確認、抜粋することで、池郷川における古い林業史を集約し、永冨氏の獲得した古老の証言とも照らし合わせることで、情報の精度を上げることが出来ればと思う。それがこの章の目的だ。
まずは池郷川の全体像を描いた右図を見て欲しい。
北山川との合流地点である川口の上池原から始まる本流は、おおよそ10kmの長さがあり、主要な支流として下流から小又谷、冬小屋谷、大又谷などが存在している。今回の探索の舞台は、この10kmの本流の最下流部約1km少々の範囲に収まっており、奥地については全くタッチしていない。
このことを念頭に、池郷川で繰り広げられた古い林業の記録を読んでいきたい。
出材用のヤエンとしては明治40年頃、池郷の冬小屋谷の八丁河原で製板を始めた尾鷲の「大半」が佐田山の中腹から池郷口の竹藪まで架けたのが最初で、次いで、大正4・5年頃池郷をさばいた藤田組が架けた。
トロッコを使って材木を出すのも大半が初めてで、八丁河原から佐田山の中腹まで20町ばかりトロ道をつけて、ヤエンに積み替えた。藤田組も池郷の大又で延長約2里のトロ道をひいた。
ここに出てくるヤエン(野猿)とは、簡易な索道のことである。
池郷川奥地で本格的な伐採を最初に行ったのは、三重県の尾鷲に本拠を持つ大半という林業家で、明治40年頃のことだという。彼らは冬小屋沢上流の八丁河原という場所に製材所を設置して、製板をトロッコとヤエンで川口まで出したらしい。また、少し後の大正4年頃には藤田組という林業家が池郷川奥地の大又谷に入り、やはりトロッコとヤエンを使って出材したという。
彼らの仕事はいずれも池郷川の奥地を舞台としており、出材の方法はトロッコとヤエンで、古老が目にした流材のことは出ていない。そして、彼らが敷設したトロッコの跡がどこかに残っている可能性があるが、今回の本題からは外れるので言及しない。
大半についてのエピソードは他にもあるので後で紹介するが、彼らは下北山村の林業に近代的な手法を最初に持ち込んだことで、村に小さくない影響を与えたようだ。明治40年頃から10年程度、池郷での出材を続けたことが別ページに記載されていた。
それでは、大正4年生まれである古老が、子供の時代に目にしたという池郷川口でのトロッコ運材や、不動滝をハコドイで攻略する流材を行っていたのは、いったい誰だったのだろう。時期的に、大半ではなさそうである。
『村史』の検索を続けると、村史刊行当時の下北山村長で、戦後に何度も村長を経験した三尾真一氏が、大正時代に材木業者の社員として初めて村に来て活躍した当時のエピソードを語る中に、見覚えのある名前があるのに気付いた。
以下は、三尾氏の聞き取りからの抜粋だ。
吉見商店は下北山村の池郷の原始林を買った。それが縁で「お前そっちへ行け」ということになり、吉見の大将のお供をして下北山へはじめて足をふみいれることになったのである。大正6年、20才のことであった。……(中略)……池郷の奥、出合というところに吉見商店の事務所があった。池郷山吉見出材所というのがその名前で、伐採の調査や出材の事務が三尾さんに与えられた仕事であった。
2年ほどしてこの山は、吉見の手をはなれて大阪の笹川商店に移った。吉見商店でおもに山の方を担当していた社長の弟が亡くなったからである。笹川の経営も長くはつづかなかった。多分抵当流れになったのだろう。2年ほどで藤田銀行のものとなった。藤田銀行池郷山林部が設立され、経営をひきついだ。経営者がかわってもとりたてて職員の解雇が行われるようなことはなかたから、三尾さんもなかば自動的に藤田銀行の所属になった。しばらくして藤田銀行池郷山林部の事務所が、山をおりていまの北山館の別館のところに設けられた。材木のほか製板のしごとにも手を付けるようになり、大半のあとのところへ製材所がつくられた。水力を利用して、比較的こまかい木を板にしたのである。
こうして昭和2年、池郷の山の終わる日がきた。藤田銀行池郷山林部は、その任を終わって解散することになる。三尾さんは、結局10年間、この池郷の山で働いたわけである。
「笹川商店」という名に、覚えがないだろうか。
『日本の廃道 vol.78』より
永冨氏を、当地の探索へ導くきっかけとなったあの絵葉書(→)に、発行者であろう「笹川商店林業部」の署名がされていたのである。
これは永冨氏も言及しなかった、村史との重大な符号だ!!
すなわち、大阪の笹川商店は、大正8(1919)年頃に名古屋の吉見商店を引き継ぐ形で池郷川での出材を始めた。だが、2年後の大正10(1921)年頃には藤田銀行に経営が移ったという。
したがって、池郷川口でのトロッコ運材と考えられる場面が写された笹川商店の絵葉書は、大正8〜10年頃のものであると考えられる。
また、笹川を引き継いだ藤田銀行は、後に「大半のあとのところ」へ製材所を設置し、そこで製板を行ったという。
この「大半のあとのところ」がどこなのかはよく分からないが、これは奥地の八丁河原のことではなく、古老が、「製材所があり、そこから池郷橋の辺りまでトロッコが通っていた
」ことを明言している、トチノキダイラのことかもしれない。
この場合、笹川のトロッコを引き継いだ藤田銀行が、トチノキダイラに製材所を設置して稼動させていたと解釈できる。
そして藤田銀行の経営は、大正10年頃から昭和2年までだったというが、これは大正4年生まれである古老の6才から12才の期間であり、彼がトロッコで、「こっそり乗って遊んだし、ひっくり返して怪我をしたこともある
」というエピソードと、時期的に矛盾がない。
そして、これはちょっと後出しジャンケンみたいでズルいかも知れないが、永冨氏のレポートには、古老からの聞き取りの内容として、これまで引用しなかった次のような記述がある。
(古老は)絵葉書の光景や「笹川商店」という名前にも覚えがない。しかし川口の池郷橋のたもとに製材所の事務所があり、二階でよく遊ばせて貰った。(偉い人二人の名前も覚えておられたのだが、口惜しいことにその名前を控え忘れた……。これを書きながら、一人は「藤田」じゃなかったろうかと思い出し始めている。)
藤田ーッ!!!
これは永冨氏の記憶違いでないことを願うばかりだが、池郷橋(すなわちトロッコの起点だ)に製材所の事務所があって、そこに勤めていた“偉い人”が藤田だったとすれば、もうこれは藤田銀行の関係者を疑わないわけにはいくまい!
古老、永冨氏、村史、これら全てが真実だけを語っていて、かつ私の解釈も正解だったならば、古老が目にしたトロッコの正体は、藤田銀行山林部(大正10〜昭和2年)が池郷橋の事務所からトチノキダイラの製材所間に敷設していたもので、トロッコ自体は笹川商店(大正8〜10年)の経営当時には存在していたということになろう。
残念ながら、不動滝での出材方法や隧道の存在については、『村史』に記述はなかったが、古老がトロッコで遊んだ子供時代に、滝の隣には流材のためのハコドイが設けられていたのであり、やはり藤田銀行がここで流材を行っていた可能性は高い。そして、ハコドイに代わって整備された隧道も、藤田銀行が整備したのだとすれば、昭和2年より前のものとなろう。
『村史』の記述では、藤田銀行が昭和2年に池郷の山林より撤退したことで、同地での組織的出材が終わりを迎えたというニュアンスが感じられる。
したがって、旧道沿いの“石造物”(→)に刻まれていた「昭和4年」に隧道が整備されたという説は一歩後退するものと考える。明確に否定されたわけではないことに注意。
『村史』によって、古老の証言を文献的にもだいぶ裏付けられたと思う。
最後に、『村史』に採録されている面白エピソードを一つ紹介したい。
これは、村に近代林業を持ち込んだ尾鷲の大半と、村の若者たちの“交流”についてのエピソードだ。
本稿の最後に持ってくるに相応しい感動的な……ものでは全然ないが、面白いのでぜひ紹介したかった。オマケだとでも思って気楽に読んで欲しい。
相撲がもとで大事件がもちあがった。そのころは素人相撲がさかんで、お盆には川原で青年団の相撲大会がにぎやかに開かれたものである。池原の青年のほか、当時池郷川の上にあった大半製板所の職工もこれに参加した。製板所の職工は50人くらいもいたろうか、尾鷲の浜の人が多く、相撲が強くて池原の青年は押されがちであった。明治42(1909)年のお盆の晩であった。
――略するが、相撲と観客のヤジが盛り上がって乱闘が始まる――
大半の職工たちが川を泳いで逃げ始めると、青年たちは舟でこれを追っかけ、陸に上がるところを竿でたたいて、さんざんな目にあわせた。
青年団では、夜通し協議した結果、大半製板所へ押しかけることになり、寺の鐘を鳴らしてみんなを集めた。青年以外の村の衆も加わってきていっそう気勢があがったので、巡査や年よりなどとめる人もあったが、全く効果がなかった。一同は小学校近くの古屋敷という店でワラジを買ってはきかえ、川を渡って北山館のところで勢揃いした上、製板所に向かった。まず問責した上でということで、10人の交渉委員が選ばれて乗り込んでいったが、製板所の連中は逃げてしまって全くの無人。やむなく引上げることになるが、あとで聞いたらトンネルのところへダイナマイトをもって潜んでいたのだという。
――結局このあともいろいろあって、最終的には警察沙汰になるも、警察もなぁなぁで終わる――
「大半の連中がちょっとハイカラで、池原地区の青年の遊びをじゃまするようなところもあって、仲がようなかった。それがまあ爆発したわけよな。とにかく開闢以来初めての大さわぎじゃわさ」
こういって菊造さんは、ぐっと一杯お茶を飲んだ。(←ほんとにお茶か?)
とまあ、話の内容はだいぶしょうもないが、非常に気になるのは、明治42年当時、池郷川の製板所に勤める大半の職工たちがダイナマイトを持って隠れ潜んでいたという「トンネル」とは何を指しているのかということだ。
もしこれが不動滝の隧道のことであるならば、これまでの想定よりもずいぶんと古くから存在したということになり、流材を最初に行ったのも大半ではないかということになる。
もっとも、それだと古老が目にしたハコドイが登場する幕がなくなるので、何か別のところにも「トンネル」があったということなのだと思うが、該当しそうなトンネルを私は把握していないので、気になるところだ。
まだ見ぬ隧道がどこかにある?
最後のエピソードは蛇足だったと思われるかも知れないが、あらゆる工夫でもって一見不可能な出材を実現する、そんな超人的な彼らもまた人の子であったという。不動滝の岩を穿ち貫いた鉄人たちの人間味が感じられる微笑ましいエピソードであり、私はとても好きなのだ。
彼らが再び登場する、そんな探索との遭遇を、私は楽しみにしている。