廃線レポート 池郷川口軌道と不動滝隧道 最終回

公開日 2023.04.21
探索日 2023.03.16
所在地 奈良県下北山村

 隧道前史の道? 危険極まる崖道で滝への接近を目指す


2023/3/16 16:41 《現在地》

「心残り」は、ここにある。

ここは、“隧道”の南口だ。
この場所自体は、第4回でたっぷりと紹介済みだが、この写真の通り、川下側から坑口前を見ると、誰の目からも明らかなほど明確に、直進していく道が見える。

敢えてここまで多くを触れてこなかったが、この道らしき部分は、隧道が貫通される以前から存在していた“旧道”ではないかと疑われる。そう考えるのは、立地的にも至って自然だ。

さて、今回の探索は全体において、2012年8月に行われた永冨氏の探索の追体験である。
氏の探索時には流木で閉塞してしまっていた隧道が、今回は幸運にも自然に再貫通していたため、私は労せず隧道の北口に達し、そこで隧道を流材に利用していた物的証拠とも思える堰き止めの痕跡を見出す成果を得られた。が、もし未だに隧道が閉塞していたら、この旧道らしき道を辿って隧道を迂回し、北口を探しに行くつもりであった。
それは、永冨氏たちが探索の終盤に挑戦し、最終的に果たせず撤収した内容でもあった。



「旧道ではないか」という疑いだけでも、探索の動機は十分「ある」といえるが、氏はこの道の先で、ある発見の報告をしている。

その発見は、氏が行った古老からの聞き取りの成果と合わせて、“隧道”の完成時期は昭和4(1929)年であると氏が推定する大きな根拠となるものだった。
私はそれが何であるかを氏のレポートを読んで当然既に知っているが、自分の目でも確かめたいという欲があった。
加えて、氏の探索とは季節が大きく違っており(彼は8月、私は3月)、草葉の衰えに乗じて何か新発見を得られる可能性も期待していた。

というわけで、これより旧道と見られる道へ突入する。
見ての通り、最初から崖道だ。
隧道の衝撃でもうお忘れの方がいるかも知れないが、現在地は【この崖の真っ只中】である。
ここから、鉄の踏み板も鉄の手摺りもない、いにしえの崖道へ突入する。

言うまでもなく、心してかかる必要があった。




狭っ!!!

決して侮っていたつもりはなかったのだが、探索の終盤であり、内心では正直なところ、ウィニングラン的な気持ちはあった。
ここまで十分な成果を得た自覚があったうえで、最後に一つの心残りもないように思いのまま探索してやろうというような、少しだけ謙虚さに欠けた気持ちがあったと思う。

ところが、目の前の崖道の強烈な狭さは、私のそんな浮ついた気持ちを一瞬で地べたにはたき落とした。今日ここまででは圧倒的に最恐の場所ではないか、これは…!

また、これも一種の油断といえるのだろうが、永冨氏たちもここを越えているという認識があった。
これは廃道に限らず、登山などでも頼るべきではない危険な思考だと思うが、自分の知っている先行した誰かが越えているから、自分も行けるはずだということを、つい考えがちである。
確かに、全く見ず知らずの誰かの踏破記録よりは参考になるのだろうが、それでも認識に現れていない彼我の技術差、得意不得意、コンディション、そして何より道の状況そのものの変化を軽視すべきでは無いのである。



……マジかよ。

思わず青ざめるほど、狭い崖道だ。
写真だと、すぐ下にも樹木が生えている斜面があるように見えるだろうが、実際は大した密度では生えていない。
万が一、道を踏み外して落ちた後で木に引っかって助かるなんてのは、放り出されたパチンコ玉が当たり穴に入るくらいの幸運だと思う。落ちればまず無事では済むまい。

こんな有様なのだが、永冨氏はこの場面をたった1枚の写真とともに、「細かったのは道が崩れていたせいで、その向こうには岩崖切り取りの廊下が続いていた。」の1文だけで次のシーンへ進んでいる。
だから私も、ここに斯様な恐怖の崖道があることを、今の今まで認識できていなかった。

氏の探索当時と今で、実際に道幅が変わっているとは思えないので、単純に私が臆病者ということか。
それよりは、隧道の行き止まりによって背水の陣を背負った氏の一行が、ケモノ的な覚悟と恐怖を麻痺させるほどの高揚を以て突き進んだのだと考えたくなるが…。まあ、私の臆病は否定しないけれど。

氏との比較という詮の無い話はともかく、確かにここに道はあったのだろう。
だからこそ、わずかに幅30cmほどになってしまっていても、ほぼ垂直な岩場を真一文字に横切る連続するステップが明確に視認できる。

道形が見えはしても、野猿のような驚異的身体能力を有したいにしえの杣人ではない常人の我々ならば、念のため命綱となるようなものを用意しながら横断すべき場所であろう。
仮に墜落した場合の結末は、いくら野猿といえども我々と変わらずまず助からなかったろうが、現代の転落死は、かつてのそれほど日常的な出来事ではない。うっかり死にましたというのでは、現代人としてあまりにも無責任だし、私としても悔いが残りまくる。(悔いは昔の人だって残ったろうよ…)

というわけだから、端から見れば臆病者の動きそのものだろうが、思いっきり慎重に一歩一歩刻んでいく。



ああーー、 あと数歩で広い道に辿り着けるーー!!

という最後の場所が、一番難しい足運びを要求される難場になっていた。
写真だとよく分からないが(この次の写真の方が分かり易い)、最後の最後に狭い道幅が一瞬だけ“ほぼゼロ”になる場所があって、これを越える動作を行うのに勇気が要った。

あまりに道が狭いため、背負っている45〜60リットルのザックと、腰の大きめのウェストバックが、頻繁に崖に接触して反発力を効かせてくるのが恐ろしかった。
そしてそれ以上に危険だったのが、首から提げた一眼レフカメラだった。
ちょうど胸の高さにある硬質の物体は、身体を岩場にギリギリ沿わせて進むことには、最も邪魔な存在であった。その危険性に気付いた私は、慌ててカメラを首から背中側に回し、ザックに乗せるような形にして進んだ。

総じてこの岩道が怖いのは、存置ロープや木の幹、木の根、よく根を張った植物、掴みやすい岩の凹凸など、身体を崖に引き寄せることの役に立つような手掛かりが極めて少ないことだ。
チェンジ後の画像は崖の表面を拡大したもので、ポヨポヨとしたシダかコケが生えているが、これは指先で擦っただけでポロッと取れてしまうし、岩場も全体にツルンとしているのが分かるだろう。

結果、ほとんど手の力を活用できる所はなく、基本的に足の置き方だけで身体を崖に保持させ続ける必要があった。
時間を使ってじっくり攻めようにも、常に足を緊張させている必要があるために、精神面でも疲労面でも、さっさと突破せざるをえない感じがした。



16:44 (隧道を出て3分後) 《現在地》

突破したー!

したけれど、帰りを考えたくねぇー、正直言って。

先行した永冨氏たちも、ここを戻ることはしていない。
この先から、なんと100mも上にある林道へ、山をよじ登って強引に脱出している。
その理由は述べられていないが、ここを戻りたくなかったからかもしれない。

……正直、ここで私は少し怖じ気づいていて、この先を見にいくことよりも、
すぐさま引き返して、さっさとここを出たい気持ちに傾きかけたのであったが、
頑張って来たのだから、あともう一踏ん張りだと思い直し、先へ進むことに。




幸い、その先の道には、恐怖から逃れられるだけの広さがあった。
これが本来の広さなのだろうが、ただの歩きの道というには恵まれた広さであるし、勾配も車道のように緩やかだ。

隧道が整備される以前、あるいは以後についても、この道にどのような利用の姿があったのか。
永冨氏のレポートを見ても、確定した情報は見当らないが、少なくとも一つの利用目的になり得るものを、彼はこの先で見つけ出していた。
それを私もこの目で見たいと思ったのは、先ほども書いたとおりである。

再び道が狭くならないように祈りながら、引き続き足元に厳重な注意を払いつつ前進する。




うおーーー! さっきよりはマシなんだけど、やっぱりここも狭くて、身も心もスースーするーーー!!!
抜き身の刀の切っ先に指を沿わせているような心境になる道だ。ちょっと加減を誤ったら、容易く血を吹く結末になるところが。

こんな道が前身にあって、そこに整備された隧道は、本当にありがたい存在だったろう。
この崖道を歩かなくても上流へ行けるようになるのは、身にも心にも有り難すぎる。
この旧道を歩いたことで、単純な水路隧道としてだけではない、道路隧道としての有難みを痛感した。



これまでほぼ直線に崖をへつっていた道が、崖との位置関係はそのままに、左カーブへと入っていく。
この展開は予想通りだ。不動滝のある池郷川の蛇行を、その内側にある尾根をトラバースして裏側まで向かうのが、この旧道の本分であったろう。

残念ながら、旧道はこの先遠からずの所で完全に失われており、歩き通すことで隧道北口へ到達出来ないことは、永冨氏のレポートだけでなく、私自身先に北口の地形を見ていることで理解していた。無謀な完抜が私の目的ではない。

このまもなく辿り着けるだろう尾根の突端付近には、永冨氏らが見つけた旧道と関わりの深いとみられる“遺物”があるはずだった。
そしてそれに加え、ここまでの私の行動範囲内からは決して姿を見せようとしなかった気高い池郷不動滝の核心部を、いくらかでも垣間見られる可能性があった。

チェンジ後の画像は、撫で肩となった路肩から恐る恐る見下ろした、眼下の池郷川だ。
垂直に切れ落ちすぎていて高度が分かりづらいが、30mほど真下に碧色の巨大なプールが横たわっており、その左側、樹木に隠されたあたりからは轟々と滝の音が聞こえている。
このプールは、【不動滝前衛の滝壺】である。
従って、旧道をここから奥へ進むと、【川沿いには進めない核心部】の直上へ入っていくことになる。


行くぞ! 池郷不動滝核心部へ!




16:48 《現在地》

ここが、尾根の突端だ。
いままでで一番道幅が広くなっており、下草が生えていないので、現役の道のよう。
しかし、永冨氏たちが無理矢理よじ登った林道への直登を逆に下ってくる手段を除けば、ここへ来る術は、いま越えてきた激狭の崖道しかないはず。脚下はぐるりと不動滝の絶壁である。

そんな尾根突端のミニ広場に、ピンク色の鮮やかなものが置かれているのが見えた。
ツツジとかツバキの落ちた花かと思ったのだが、近づいて確認したところ、意外な正体だった。




ピンクのものの正体は、いわゆる境界鋲である赤色樹脂パーツを持つ金属鋲に括り付けられたピンクテープだった。
なぜかこの金属鋲は抜かれて地面に放置されているようだったが、いずれにしてもそう遠くない過去に、これらのものをここへ持ち込んだ人が居たことを物語っていた。永冨氏のレポートには同ポジの写真がないので、どちらが先かは分からないが。

さらに観察すると、白い樹脂製の上面を持つ用地杭も、近くの路上に突き刺さっていた。
こんな危険で日常生活とはまるで関わりを持たなそうな場所へ、趣味ではなく、仕事の目的で訪れた人がいる。その職務の尊いことには、頭を垂れる思いがする。

しかし、こんな滝の上に、いったいどんな用事があったのだろう。




尾根を回り込むと、世界が変わった。

谷底から30mも高い所にいたはずの道が、次の瞬間にはもう、
谷底の一画に突き出されたような、そんな大きな風景の変化だった。

隧道の北口で感じたものと同じ、強烈な冷気と瀑音が、ここにもあった。
そのことは、確実にあの北口と地続きの場所へ近づいているという気分にさせたが、同時に、
道の背景を不気味に白く塗り込める石灰石らしき大崖壁は、この場所が地下なのではないかと
思わせるほどの圧迫感を以て、この旧道に行先などないということを強く主張していた。

ここにもピンクテープの用地鋲、用地杭が多く設置されていて、
なにがしか現代でも意味を有する土地ではあるのだろうが、
自由に動き回れる範囲は、基本的にはこの道の上だけで、
道から外に出ることは非常に危険な行為となる地形である。



独りで居るのはさすがに不安になる、この場所の逃げ場のない感じ。
薄暗さ、瀑音、冷気、全てが神妙にして怪異。怖気立つ感じがする。

幸いにも、道そのものはここまででも特によく形を留めていて、
その上にいる限りは、危険な目に遭う必要はないと思えるのだが……、
滝が見たいのなら、道の上にいるだけではダメみたい…。

あと、永冨氏たちの発見した“遺物”というのも、どこにあるのか、まだ見つけられていない。
こちらはすぐに見つけられると想像していたんだが……。




池郷川の水はねぇ…

この底を流れているよ。

道からだと、やはり水面が見えない位置関係。
チェンジ後の画像は、底の方を拡大して画像を明るくしたが、水面見えず。

この部分の流れは、本当に信じがたいほどに狭い深淵を満たしており、
しかもその見えない底には、まさに池郷不動滝の核心というべき
かなり落差のある大きな滝が、二つあるらしい音がしていた。

それらの滝の姿は、永冨氏の報告にも現れておらず、結局はこの旧道からでさえも、
道を辿っているだけの人間の前には姿を見せない、徹底した気高さだった。



16:49  《現在地》

ここだな。

辿り着いてしまった。

永冨氏の報告で見覚えがある、旧道の終わりだ。
旧道は、ここで忽然と姿を消してしまう。隧道の南口から100mほど崖際を歩いた位置である。

ここまでは岩を削ってはっきりとしたラインが通じていたのに、隧道の北口がある池郷川の曲がっている部分が正面にはっきり見えるこの場所、北口まで残り40mくらいのところで、地形には何の痕跡を残さない唐突さで終わっている。(そして北口そのものは岩の陰になって見えない)

この状況だから、はじめから旧道はここまでしかなかったという可能性も疑われるが、隧道完成以前も上流側との行き来はどこかにあっただろうから、この位置から桟橋とか吊橋が架かっていたというのが私の考えである。

この場所を北口側から見たのが【この画像】だ。こちら側から見るよりもはっきりと通り抜けできないことが分かると思う。
また、永冨氏らはこの終点へ辿り着いた後、来た道を引き返すのではなく、ここから突き上げている【険しい尾根】をよじ登り、100mも上にある林道を目指すことで生還している。私はさすがにそれをトレースするつもりはない。なにせ、イヤになるほどきつかったそうなんで…。




せっかくここまで来たんだから、ひと目くらいなんとか滝の姿を見たいもの。

そんな気持ちで終点近くの道の下へ目を向けると、
尾根方向にはコブが多い斜面がだいぶ下まで続いていて、
徒手空拳でもある程度まで下って行けそうな感じがした。
そればかりか、斜面内には仄かに整地されたような形跡も見て取れ、
この斜面にもかつて何かの理由で少なからぬ人が入っていると思われた。

私は、そんな歩けそうな部分を頼りに、“矢印”の位置の大木を目指すことにした。
あそこまで行けば、この驚異的に深い峡谷の底が覗けるのではないか?!



目指した大木の根元に辿り着いた。

あと数歩進めば、陸地は尽きる。

滝の音は、その尽きた陸の下から聞こえている。


決死の気持ちで、覗き込む――





!瀑音注意!

うおーー!!!

池郷不動滝の目視に成功!

こいつはやべぇ滝だ。




この滝は、なぜこんなにも細く狭く、下に谷を削り続けているのだろう。
こんなに近づいているのに、岩に隠され全容を捉えがたい滝は珍しい。

しかし、永冨氏の報告にはなかった滝の姿を何とか目にしたことで、
彼が古老から聞き取った、この滝を利用した流材の困難性が、
いよいよ真実味を増して、実感的に理解されるように感じた。

古老は、この滝へ材木をそのまま流すと、引っかかって詰まってしまうと述べている。
このような狭窄な流路であれば、まさにその通りだったろうと感じる。
そして、その対策として始めに行われたのは、件の隧道づくりではなく……

私は初めて耳にする、「ハコドイ」を使った流材だったというのだ。
次はこの「ハコドイ」なるものについて、少し考えてみたいと思う。
これは、もはや語り手も途絶えた、池郷不動滝の幻の“隧道前史”である。




 “ハコドイ”による流材が行われていたという、池郷不動滝


どうにか、池郷不動滝が流れ落ちる姿を目にすることが出来た。

地形図の印象だと、とてもこれほど狭い谷のようには見えないのであるが、
実際には信じがたいほど狭いクレバスのような峡谷を滝は穿って流れており、
全く以て水流には近づきがたい状況になっている。私がいる大木の根元が、
陸上に身を置きながらこの滝を眺めることができる、唯一のポイントかと思う。

この異常に流れの細い、しかも谷全体が曲がりくねっている滝があるために、
上流で伐採した材木をそのまま麓まで流材で送ることが難しく、それゆえ
滝を迂回する隧道が整備されたのだったが、永冨氏が聞き取りをした古老に依れば、
隧道整備以前には、「ハコドイ」なるものを利用した運材が行われており、
それを古老自ら目にしていたというのである。具体的な報告は次の通りだ。



池郷川の奥で伐採をし、製材所まで一本流しで送っていた。例のひどく折れ曲がった滝は、そのまま流すと引っ掛かって詰まってしまうから、滝の真横に築かれた「ハコドイ」を通していた。崖から吊った幅数尺の桟に、水を流しながら滑らせて落とすというものだ。(漢字で書けば箱樋なのだろう)

「ハコドイ」には簗の要領で魚が打ち上げられるものだから、それを捕りに行ったこともあった。今思えば怖いもの知らずだった。「針金で桟を吊っとっただけやけんの」。

『日本の廃道 vol.78』より

これが、ハコドイに関わる古老の証言(を永冨氏がまとめたもの)の全てだ。
私はいままで、ハコドイという運材方法を聞いたことはなかったが、上記の内容だけでも、どんなものであったかは大まか理解できる気がする。
水を通すことに使う木製の水路を樋(とい)といい、灌漑目的などでは非常によく使われていたものだ。(現代ではさすがに木製の樋は少なくなり、コンクリートの開渠がそれに置き換わっているが)

ここではそんな水を流す樋に、水と一緒に木材を流すことで、滝を迂回する運材を行っていたというのである。具体的に樋(古老は桟(さん)ともいっている)の設置場所は、「滝の真横」に「針金で吊っ」ていたそうで、大正4(1915)年生まれの古老が子供だった頃(すなわち大正末〜昭和初期だろう)に、樋に打ち上がった川魚を捕りに行ったことがあるというのだから、非常に具体的で信憑性の高い証言と言える。

しかし、話としてはよく分かるが、この滝に沿って樋を吊った桟橋を架けるなどというのは、命知らずでなければ務まらない芸当だ。そしてこんなところにぶら下がっている桟橋に登って魚を捕るのも、想像を絶している。
右図に書き加えたのは、あくまでもその位置の“想像”であり、正確な位置や構造、どうやって吊っていたかなどの詳細は分からない。さすがに“遺構”が残っているとも思えないしな。


なんてことを考えつつ、何気なく足元に目を向けると……

ツタ…… じゃないよなこれ。

錆びた針金が、足元の斜面にグネグネたくさん落ちているではないか!

その一部は2本を合わせて撚(よ)ったようになっているのも確認できる。
それこそ、樋をぶら下げるための大きな輪を作っていたような形状をしているのである。

マジかよw
もちろんこれが隧道以前の「ハコドイ」の遺物だと断定は出来ない。
山林作業において、この手の針金は小規模な集材線などにも使われた、珍しくない“遺物”である。
が、わざわざ道路上でもないこの場所、この滝に望む急斜面に残っているというのは……。
私は、見つけてしまった可能性があるな。ガチでハコドイ時代の遺物を!

(しかし、この斜面に散らばった目立たぬ針金は超危険だ。気付かずつんのめったりしたら、滝がある崖下へ真っ逆さまだからな…。)


(→)
そんな足元に危険が渦巻く現在地から、この場所へ私を連れてきた旧道を見上げている。
周りは苔生した薄暗い崖だらけで、迂闊なところへ立ち入ったら命はない。そんな印象を持たせる不気味な場所だ。
しかしよく見ると、旧道の路肩には石垣が築かれていた。とても素朴な石垣である。


(←)
一方、同じ場所から下流方向を見下ろしたのがこの画像だ。

ここから5mくらい低い所に、自然の地形としては不自然な10m弱四方の平らな土地が存在している。
そこに建物やその基礎らしいものは見当らないが、太い木は生えていないので、やはり何か人工的な雰囲気がある。

例えば、滝を迂回するハコドイは、この平場を通っていた可能性がある。
平場の下流側は、落差はあるが滝の出口の【巨大な滝壺】に面している。おそらくハコドイを渡った材木は、最後にその滝壺にドボンと落とされたと思うのだ。

次はこの平場に行ってみる。




平場には前述の通り、何の構造物も残っていない。
写真はその川側の縁に立って見下ろした、池郷不動滝の下半分だ。

旧道上にいても、大きな滝の音の出所が2つあるように感じたのであるが、
その1つは先ほどの地点から見えた“1段目の滝”で、1つはこの場所から直下に見える
“2段目の滝”だったのである。池郷不動滝はこの2つの大きな滝と、
そのすぐ下流にあって唯一下流側の河原から見ることが出来る【小さな滝】(3段目)という、
大小3つの滝から成っていたのである。こうして、常人の目を忍ぶ巨大な滝の全貌が判明した。

しかし、沢登りの人たちの報告()を見ると、これらの滝も普通に攻略しているので驚かされる。



 ハコドイ(箱樋・函樋)についての補足説明 

今回の探索で耳にするまで知らなかった「ハコドイ」という運材方法について、古老の証言以外に情報があるかについて、国会図書館デジタルコレクションで全文検索ができる資料を対象に少し検証してみた。

まずは現地に最も精通した文献である『下北山村史』を調べると、さっそく1箇所ヒットした。
その内容は、「板をU型に組み合わせたハコドイは主に製材の水車へ水を引くのに使われた。」という一文で、古老が口にしたのと同じ「ハコドイ」の文言が登場していることに地味に感動したが、製材所の水車に水を引く用途に使われていたという内容であり、運材のための利用についての言及はなかった。
樋というのは本来は水を運ぶものなので、運材に使うのはやはりイレギュラーだったのだろうか。しかし、製材所で使っていたというのは山仕事の内であるから、さほど遠い話ではないと感じる。

「ハコドイ」だと、あまり検索にヒットしないので、「箱樋」や「函樋」をキーワードにすると、今度は灌漑用に使われるものの一般名詞であるため膨大にヒットする。そこでこれらのキーワードに「運材」を足して検索すると、運材目的でハコドイを使った事実が、あぶり出されてきたのである。

例えば、昭和25(1950)年に出版された『農業講義録 第8号』という雑誌に掲載された「林学講義」は、木材の陸運の一形態として「滑路運搬」を取り上げており、その中に含まれる「木道滑道」を、「修羅」「桟手」「函樋」の三種に分類している。以下は、「函樋」の解説文だ。

函 樋
函樋に水を送って水力によって木材を流下させるもので、また修羅に水を流して滑走をつよくしたものを水修羅という。わが国では函樋や水修羅は極めて短距離に利用されるにすぎないが、アメリカ合衆国では長距離輸送にも利用されている。

『農業講義録 第8号』より

……とのことで、わが国での利用例は小規模なものだけであったようだが、確かにハコドイという運材方法があったことが記録されていた。


『伐木運材図説』より

右の画像が、修羅(しゅら)の一例だ。
修羅にもさまざまな型式ものもがあったが、丸太で組み上げた木材用の滑り台ということが共通している。
写真は吉野地方で撮影された丹波修羅(ナル修羅)で、直接地面に設置するもの(土修羅)も多かったが、これは中空に架けられた巨大な桟橋になっている。

山や谷の傾斜を上手く利用して作設された修羅を利用して、大量の木材を少ないエネルギーで輸送することが出来た。
かつては日本中で利用されていた修羅だが、利用が終わると分解され、その部材が材木として再利用されたので、遺構が残ることはほとんどなかった。

桟手(さで)も修羅の一種だが、文字通り桟橋として架設され、木材を流す床の部分が丸太ではなく平滑な板材であった。
そして函樋は、構造としては桟手に近いものだが、水を流すことで材木を流送できる特徴があった。

わが国では、それほど多く利用されなかったらしきハコドイという運材方法だが、この池郷不動滝での利用も、おそらく隧道が整備されるまでの短期間であり、かつ昭和初期以前に限定される大変古いものだったと思われる。
古老の証言と、それを記録した永冨氏のレポートがなければ、この情報はおそらく今世紀中に失われてしまったことだろう。
私がここで見つけた錆びた針金の正体も、永遠に闇になっていたかも。(針金の正体は確定していないけどね)




16:57

旧道の末端を確かめた。
そして滝の姿も確認できた。
しかし、 アレ がまだ見つかっていない。永冨氏らが見つけたアレが。

引き返す時になって、初めてここに人工物があることに気付いた。道も人工物なのだけれども、それよりももっと明確な人の痕だ。

『日本の廃道 vol.78』より

実は氏も往路ではその存在に気付かず、終点から来た道を振り返った時に、初めてそれを見つけている。そして、私もこれと全く同じ経過を辿った。(これ、往路だとなぜか本当に見つかりづらい)
何を見つけたのか、黄色い丸の所に注目だ!




(↑)これ、人工物なの分かります?

幅30cm、奥行きと高さはそれぞれ20cmほどの小さな石造物。
形状的に、手水鉢か、献台。上面には凹みが設けられている。

全体的にコケやシダに覆われてモッフモフなのと、足元から30cmくらいの低い位置の
山側岩場の小さな段差に設置されているので、道沿いながらなんとも目立たない。




『日本の廃道 vol.78』より

この探索の11年前の8月に永冨氏らが発見した時も、同じようにほとんど緑に覆われていたのだが、彼らは丁寧に苔を剥いで元の姿を取り戻させている。
その時の写真がこれだ(→)。

しっかりと角が出た明瞭な人工物であることが分かるだろう。
しかも、道に向けられた正面側と、その左側の側面には、文字が刻まれていたのである。
文字の内容はそれぞれ――

( 正面 )

  奉 納

( 左側面 )

  昭和四年一月
 大倉清松

――というものであり、奉納という文字から、これが信仰の目的で設置されたものだということが明らかだ。


眼下にある滝の偉容を目にすれば、多くの人が神妙な心持ちになるはずで、神仏が祀られたことに違和感はない。
これは永冨氏も言及していることだが、この滝が不動滝と呼ばれている以上、全国にある不動滝の例に漏れず、不動明王が祀られていて然るべきなのだ。
その祀りの場が、隧道脇の旧道とみられる道を最後まで辿った滝の直上、この尾根の磐座であったと考えられる。
現在では道が荒廃し、お参りには命を懸ける必要がある幻のお不動様だ。

ここに祀りの場があったことは、この地に根ざした人々の精神世界に関わる遺構として単純に貴重だが、もう一つ重要な意味を見出したくなるのが、この石造物が奉納された時期を示していると考えられる「昭和4年1月(【※】永冨氏は「昭和四年八月」と読み取っているが、私には右画像のように「昭和四年一月」と読める」という刻字だ。そしてもちろん、奉納者のものであろう「大倉清松」という人名も。

これらの内容について、永冨氏はそれぞれ次のように探索と結びつけて考察をしている。
前半部分は、現地での考察。
後半部分は、その後に古老の証言を受けての考察である。

昭和4年に初めてこの場所を通るようになり、危険を鎮めるために祀るようになったのか。あるいはこの年月にここで命を落とした人があったから設置したのか。はたまた隧道で抜けるようになったので、隧道も含めたこの場所の守り神として祀ったのか? いろいろ考えることはできる。しかしながら、そこから正解を選び出すことができない。

・・・・・・

滝の上に何かを祀った跡があったことを伝えると、あれがもと不動様を祀っていた場所だと仰った。そこから今の場所(【※】現在の白谷池郷林道沿いにある)に下ろしてきたという。(鉢に彫られていた大倉清松という名前には覚えがないようだった)
御年97の古老の子供の頃というと、大正4年に適宜を足した頃ということになる。池郷川で遊んだのは尋常小学校の頃だと仰っていたから、その頃にハコドイから隧道へ切りかわったということになるだろう。遊んでいた頃に切り替わったのであれば、印象的な工事として記憶され、語ってくれたはずだが、そうではないということはむしろ、もう少し後のことだったと見るべきか。とするとあの鉢にあった昭和4年の銘が重みを帯びてくる。14歳の時であり、その頃隧道が作られたとしても矛盾はしないだろう。

『日本の廃道 vol.78』より

永冨氏はこのような思索から、古老の証言と、石造物の紀年を組み合わせて、隧道の竣工時期を昭和4(1929)年頃だと予想しているのだ。
昭和4年という現地で得られた唯一の「年」の情報を、隧道の竣工年と結びつける根拠が、一人の古老の証言以外にないことは弱点であるが、とはいえ現地にこれを否定する材料は特になく、予想としては理に適ったものだと思う。
あの隧道の竣工年については、私も帰宅後に少し考察を試みたので本編の最後に述べたいと思う。



永冨氏らがあんなに綺麗に苔を剥いたのに、11年ですっかり元通りになってしまっていた。
私も綺麗にしようかと思って手を動かし始めたが、結局ほんの少しやったところで手を止めて、そのわずかに露出させた地肌の上に、何十年ぶりか知れない賽銭を1枚出して立ち去ることにした。

だから、無事に帰らせてね。お願いします。m(_ _)m ここを離れたら即座に命のやり取りだからさ……。


現存する石造物は、明らかに本尊ではない。
本尊があるとすればおそらく滝そのものだが、他に不動明王を安置する石祠とか石仏もあっただろう。
古老の証言では、それらについては(時期は分からないが)後に現在の林道沿いに移したそうである。

かつて石祠か石仏(あるいはその両方)を祀っていたであろう空間が、石造物のすぐ背後、石造物の前で手を合わせた時に目線の先となる、道から1.5mばかり高い磐座の一画に、多少人工が加わったとみられる2畳ばかりの平場として存在していた。そしてそこで私は、置き忘れられた古びた徳利と小皿を一つずつ見つけた。
私はここにも跪き、もう一度帰り道の安全を祈った。祈りすぎて後悔したことは、今までなかったからな。




さあ、帰るぞ。

帰り始めてから最初の数分が、最大の危険地帯である。

そこさえ無事越えられれば、生還はほぼ確約される。

望んだままの大きな成果を握っている。必ず持ち帰ろう!




帰りは、私としては珍しく4分間という長めの動画を撮影した。

内容は、ここへ来る時に越えた旧道最大の危険地帯を戻るノーカット映像だ。
首から提げた一眼レフで撮影したもので、危険箇所では手でカメラを保持していないので手ぶれが激しい。
そのぶん臨場感は凄いが、酔いやすい人は見ない方が良いと思う。

この動画の最後のシーンまでヨッキれんが生きてれば、まず生還できたと思うぞ。



 生還したので、補足の机上調査編  〜池郷川のミニ林業史〜 


(一) 古い登山ガイドの記録を調べてみた

池郷川は、紀伊半島の屋台骨ともいえる大峰山脈より流れ出る渓流の一つである。
この山域は、近世以前より修験道の修行場(奥駆道)として利用されていたが、一般の登山者たちの目に留まるようになったのは、京阪神地方からの交通の便が改善してきた昭和初期以降であるようだ。
当時のアルピニストたちを誘った古い登山ガイド書の中には、通常の登山ルートではない沢歩きを目的としたルートを紹介しているものも多く、池郷川についても言及を見つけたので、いくつか紹介したい。

現在把握している中で、不動滝にある隧道の存在に言及している登山ガイド書は、次に紹介する1冊だけである。
それは朋文堂が昭和32(1957)年に発行した『大峯の山と谷(マウンテンガイドブックシリーズ 21』だ。
当時の隧道の実態が伺える貴重なガイドを引用してみよう。(同書の地図も右に掲載した。そちらにも隧道の存在が銘記されている)


『大峯の山と谷』より

「一に池川いけごう、二に前鬼、三に白川又しらこまた、四は四のごう」と古くから北山地方でいわれる池川(地図の池郷川)……(中略)……この谷のよさをはじめて発表されたのは岸田日出男氏で、昭和七年のことである。その後、この谷は不便な位置にあるためか、踏査するものはまことに少なく……(中略)

現在、池川の上流滑川なめごう(地図の大又谷)では森林の伐採が行われており、滑川出合付近まで右岸高くからんでいく林道が上池原から通じている。だから八丁峠を越えて林道を行けばわけなく谷の中央まで行きつける。しかしそれでは、かんじんの谷渉きの意義がない。どうしても、徒渉・へつりと谷渉きの妙味を発揮すべきである。

池川橋詰から右岸を池川に入ると、すぐ左から支谷の石堂谷(小又谷)が合流している。これを渡ってなお少し行くと、小みちは谷を離れて左へと八丁峠に向かって登りとなる。Y字分岐で右をとり河床に降り、しばらく右岸をへつって行くと、山腹に隧道がある。まっすぐは不動滝で滔々と落ちる巨瀑とともに両岸絶壁の悪場だから、この隧道(約100メートル)の中をぬけて滝の落口に出る。ここから右岸の岩をへつって行くと、谷はしだいに険悪となり……(以下略)

『大峯の山と谷』より

下線を付けた部分が、今回の私の探索の行程とぴたり一致している。(この頃までは池郷川ではなく池川と書いて「いけごう」と読んでいたようである。「ごう」というのは、この地方の川の古い呼び方だ)
ここには、不動滝の悪場を迂回する隧道があることがはっきり記述されているが、この時点ではもう流材には利用されておらず、純粋に通路としてのみ利用されていたようだ。既に林道がだいぶ奥地まで伸びていたので、運材は林道で行われていただろう。また、軌道やトロッコについても全く言及はなく、とっくの昔に廃止されていたと考えられる。

次に、これよりも後の時期の登山ガイド書として、昭和54(1979)年に大阪わらじの会が出版した『大峰山脈の谷』に目を通してみたが、既に全線開通した白谷池郷林道が当然使われるべき入渓路となっていたようで、林道によって迂回される下流部分は、もはやガイドの対象にはなっていなかった。したがって、隧道や不動滝についても言及されていない。
ネットの普及によってさまざまなバリエーション的登山ルートの情報を得られやすくなった現代は別としても、登山ガイドから表記が消えた後の隧道は、多くの登山者からは次第に忘れ去られたことだろう。
ただ、隧道まで通じている頑丈な鉄製の通路や手摺りが再整備されたのは、この時期であったはずだ。残念ながら、これに関連する情報は見つかっていないが。(歩道が整備された経緯をご存知の方がいたら教えて欲しい)

一方、もっと古い登山ガイド書も探ってみた。
昭和19(1944)年に吉野熊野国立公園協会奈良県支部が発行した『大峯山』にも、池川いけごうの項目がある。
この本は、昭和11(1936)年に国定公園入りを果たした同山域を宣伝する役割を担うもので、登山ガイドとしてだけでなく、山域の歴史についても多くの誌面を割いた、総合ガイド的な1冊になっている。
池川いけごう」の項目も用意されていて、後の登山ガイドでは必ず同川の冒頭を飾る一文の原点が、ここに見られる。

一に池川、二に石堂、三に佐田川と土地の人は言ってゐる。即ち池川が一番悪いと言ってゐる事なのである。悪場である程探る可き多くのものがある、これが常識である。昭和七年、岸田日出男氏一行に依って探査され、その素晴らしい渓谷美が世に紹介されて十数年、池川の大峡谷として喧伝されてゐながら其後数へる程しか入谷者がない。これは交通の不便もその一因ではあるが、主因はその遡行探勝の困難さである。入谷した人達の報告にその素晴らしい景観を称へると同時に、殆んど総てが九死に一生を得た様なその遡行の困難さを指摘してゐるのを見ても、いかに悪場の連続であるかといふ事が想像できると思ふ。……(中略)……この谷も僅かに中下流が探られたのみで……(以下略)

『大峯山』より

一番ワルい池川……。
上記の文章からは、当時の池郷川が、登山家にとって処女地の如き新天地の魅力を放っていたことが伺える。
とはいえ、古老の言や、次章で紹介する『下北山村史』の記述に依るなら、大正以前、明治後半の時期から山稼人たちは源流部にまで深く立入り、技を駆使して木出しを行っていたようである。この文献にも不動滝の隧道についての言及はないが、年代的に既に存在していたはずだ。登山者と山稼人とでは入山の目的からして違うとはいえ、本当に土地の人々の力は侮れないのである。

ところで、『大峰山脈の谷』と『大峯山』の両方に共通した内容として、池郷川を昭和7(1932)年に探査し、その魅力を初めて世に紹介したのは、岸田日出男だということが出ている。
林業技師や奈良県庁職員などの肩書きを持つ岸田日出男氏は、大峰山脈を含む吉野群山一帯を早くから踏査し、多数の資料を集めたことで、同地域の国定公園指定へ結びついた功績をもって、「吉野熊野国立公園の父」と呼ばれているのであるが、彼の昭和7年の池郷川踏査のレポートを読むことが出来れば、世に知られる前の不動滝隧道やトロッコの状況が判明する可能性があると考えた。

そこで調べを進めると、奈良山岳会が昭和10(1935)年に発行した『山上 改 第1冊』(この本の序文というべき「吉野群山の歴史」も岸田日出男氏の執筆だ)によって、大和山岳会が昭和9(1934)年7月に発行した会報誌『山嶽 第8号』に、岸田氏による「池川の大峡谷を探る」という内容があることが判明する。おそらくこれが池郷川を世に知らしめることになった記念碑的レポートだと思うが、同書は非売品で、今日残っているものがあるのかも不明で、入手はほぼ不可能と思われた(図書館などにも所蔵がないようだ)。

……のだが、岸田氏の死後、大淀町の自宅に残された段ボール約60箱におよぶ資料が大淀町に寄贈され、2016年から整理が行われたことを知った。
そしてまとめられた資料リスト「岸田日出男関係資料リスト」を検索したところ、「池川の大峡谷を探る」のタイトルを持つ文献1冊を発見したのである!
リストにある資料は大淀町が保管しており、「多方面からの活用を願っている」とのことなので、これから内容を実際に読むことが出来るかを問い合わせてみるつもりだ。


といったところで、古い文献の調査はまだこれから伸びしろがあると思う。進展があれば追記していきたい。



(二) 『下北山村史』によって、池郷川での林業の記録を探る

昭和48(1973)年に刊行された『下北山村史』は1300ページもある大著で、たいへんな情報量がある。そしてこれは国会図書館デジタルコレクションで読めるうえ、全文検索が可能なので、「池郷川」に関わる記述を総ざらいしてみたところ、この恐ろしく険しい谷を舞台に、明治後半から戦前にかけて思いのほか多くの林業家の活躍があったことが分かってきたのである。

もっとも、『村史』は永冨氏ももちろん読んでいて、氏のレポートにも反映されている。また予め書いてしまうが、『村史』に不動滝の隧道や池郷川口軌道に直接言及した部分はない。
それでも、永冨氏が読んだ頃には全文検索をする術はなかったはずで、たぶん見逃された内容もあったかと思うのだ。
改めてここに村史の大量の記述を確認、抜粋することで、池郷川における古い林業史を集約し、永冨氏の獲得した古老の証言とも照らし合わせることで、情報の精度を上げることが出来ればと思う。それがこの章の目的だ。


まずは池郷川の全体像を描いた右図を見て欲しい。
北山川との合流地点である川口の上池原から始まる本流は、おおよそ10kmの長さがあり、主要な支流として下流から小又谷、冬小屋谷、大又谷などが存在している。今回の探索の舞台は、この10kmの本流の最下流部約1km少々の範囲に収まっており、奥地については全くタッチしていない。
このことを念頭に、池郷川で繰り広げられた古い林業の記録を読んでいきたい。


出材用のヤエンとしては明治40年頃、池郷の冬小屋谷の八丁河原で製板を始めた尾鷲の「大半だいはん」が佐田山の中腹から池郷口の竹藪まで架けたのが最初で、次いで、大正4・5年頃池郷をさばいた藤田組が架けた。

トロッコを使って材木を出すのも大半が初めてで、八丁河原から佐田山の中腹まで20町ばかりトロ道をつけて、ヤエンに積み替えた。藤田組も池郷の大又で延長約2里のトロ道をひいた。

『下北山村史』より

ここに出てくるヤエン(野猿)とは、簡易な索道のことである。
池郷川奥地で本格的な伐採を最初に行ったのは、三重県の尾鷲に本拠を持つ大半という林業家で、明治40年頃のことだという。彼らは冬小屋沢上流の八丁河原という場所に製材所を設置して、製板をトロッコとヤエンで川口まで出したらしい。また、少し後の大正4年頃には藤田組という林業家が池郷川奥地の大又谷に入り、やはりトロッコとヤエンを使って出材したという。

彼らの仕事はいずれも池郷川の奥地を舞台としており、出材の方法はトロッコとヤエンで、古老が目にした流材のことは出ていない。そして、彼らが敷設したトロッコの跡がどこかに残っている可能性があるが、今回の本題からは外れるので言及しない。
大半についてのエピソードは他にもあるので後で紹介するが、彼らは下北山村の林業に近代的な手法を最初に持ち込んだことで、村に小さくない影響を与えたようだ。明治40年頃から10年程度、池郷での出材を続けたことが別ページに記載されていた。

それでは、大正4年生まれである古老が、子供の時代に目にしたという池郷川口でのトロッコ運材や、不動滝をハコドイで攻略する流材を行っていたのは、いったい誰だったのだろう。時期的に、大半ではなさそうである。

『村史』の検索を続けると、村史刊行当時の下北山村長で、戦後に何度も村長を経験した三尾真一氏が、大正時代に材木業者の社員として初めて村に来て活躍した当時のエピソードを語る中に、見覚えのある名前があるのに気付いた。
以下は、三尾氏の聞き取りからの抜粋だ。

吉見商店は下北山村の池郷の原始林を買った。それが縁で「お前そっちへ行け」ということになり、吉見の大将のお供をして下北山へはじめて足をふみいれることになったのである。大正6年、20才のことであった。……(中略)……池郷の奥、出合というところに吉見商店の事務所があった。池郷山吉見出材所というのがその名前で、伐採の調査や出材の事務が三尾さんに与えられた仕事であった。

2年ほどしてこの山は、吉見の手をはなれて大阪の笹川商店に移った。吉見商店でおもに山の方を担当していた社長の弟が亡くなったからである。笹川の経営も長くはつづかなかった。多分抵当流れになったのだろう。2年ほどで藤田銀行のものとなった。藤田銀行池郷山林部が設立され、経営をひきついだ。経営者がかわってもとりたてて職員の解雇が行われるようなことはなかたから、三尾さんもなかば自動的に藤田銀行の所属になった。しばらくして藤田銀行池郷山林部の事務所が、山をおりていまの北山館の別館のところに設けられた。材木のほか製板のしごとにも手を付けるようになり、大半のあとのところへ製材所がつくられた。水力を利用して、比較的こまかい木を板にしたのである。

こうして昭和2年、池郷の山の終わる日がきた。藤田銀行池郷山林部は、その任を終わって解散することになる。三尾さんは、結局10年間、この池郷の山で働いたわけである。

『下北山村史』より

「笹川商店」という名に、覚えがないだろうか。


『日本の廃道 vol.78』より

永冨氏を、当地の探索へ導くきっかけとなったあの絵葉書(→)に、発行者であろう「笹川商店林業部」の署名がされていたのである。
これは永冨氏も言及しなかった、村史との重大な符号だ!!

すなわち、大阪の笹川商店は、大正8(1919)年頃に名古屋の吉見商店を引き継ぐ形で池郷川での出材を始めた。だが、2年後の大正10(1921)年頃には藤田銀行に経営が移ったという。

したがって、池郷川口でのトロッコ運材と考えられる場面が写された笹川商店の絵葉書は、大正8〜10年頃のものであると考えられる。

また、笹川を引き継いだ藤田銀行は、後に「大半のあとのところ」へ製材所を設置し、そこで製板を行ったという。
この「大半のあとのところ」がどこなのかはよく分からないが、これは奥地の八丁河原のことではなく、古老が、「製材所があり、そこから池郷橋の辺りまでトロッコが通っていた」ことを明言している、トチノキダイラのことかもしれない。

この場合、笹川のトロッコを引き継いだ藤田銀行が、トチノキダイラに製材所を設置して稼動させていたと解釈できる。
そして藤田銀行の経営は、大正10年頃から昭和2年までだったというが、これは大正4年生まれである古老の6才から12才の期間であり、彼がトロッコで、「こっそり乗って遊んだし、ひっくり返して怪我をしたこともある」というエピソードと、時期的に矛盾がない。

そして、これはちょっと後出しジャンケンみたいでズルいかも知れないが、永冨氏のレポートには、古老からの聞き取りの内容として、これまで引用しなかった次のような記述がある。

(古老は)絵葉書の光景や「笹川商店」という名前にも覚えがない。しかし川口の池郷橋のたもとに製材所の事務所があり、二階でよく遊ばせて貰った。(偉い人二人の名前も覚えておられたのだが、口惜しいことにその名前を控え忘れた……。これを書きながら、一人は「藤田」じゃなかったろうかと思い出し始めている。)

『日本の廃道 vol.78』より

藤田ーッ!!!

これは永冨氏の記憶違いでないことを願うばかりだが、池郷橋(すなわちトロッコの起点だ)に製材所の事務所があって、そこに勤めていた“偉い人”が藤田だったとすれば、もうこれは藤田銀行の関係者を疑わないわけにはいくまい!

古老、永冨氏、村史、これら全てが真実だけを語っていて、かつ私の解釈も正解だったならば、古老が目にしたトロッコの正体は、藤田銀行山林部(大正10〜昭和2年)が池郷橋の事務所からトチノキダイラの製材所間に敷設していたもので、トロッコ自体は笹川商店(大正8〜10年)の経営当時には存在していたということになろう。

残念ながら、不動滝での出材方法や隧道の存在については、『村史』に記述はなかったが、古老がトロッコで遊んだ子供時代に、滝の隣には流材のためのハコドイが設けられていたのであり、やはり藤田銀行がここで流材を行っていた可能性は高い。そして、ハコドイに代わって整備された隧道も、藤田銀行が整備したのだとすれば、昭和2年より前のものとなろう。

『村史』の記述では、藤田銀行が昭和2年に池郷の山林より撤退したことで、同地での組織的出材が終わりを迎えたというニュアンスが感じられる。
したがって、旧道沿いの“石造物”(→)に刻まれていた「昭和4年」に隧道が整備されたという説は一歩後退するものと考える。明確に否定されたわけではないことに注意。


『村史』によって、古老の証言を文献的にもだいぶ裏付けられたと思う。

最後に、『村史』に採録されている面白エピソードを一つ紹介したい。
これは、村に近代林業を持ち込んだ尾鷲の大半だいはんと、村の若者たちの“交流”についてのエピソードだ。
本稿の最後に持ってくるに相応しい感動的な……ものでは全然ないが、面白いのでぜひ紹介したかった。オマケだとでも思って気楽に読んで欲しい。

相撲がもとで大事件がもちあがった。そのころは素人相撲がさかんで、お盆には川原で青年団の相撲大会がにぎやかに開かれたものである。池原の青年のほか、当時池郷川の上にあった大半製板所の職工もこれに参加した。製板所の職工は50人くらいもいたろうか、尾鷲の浜の人が多く、相撲が強くて池原の青年は押されがちであった。明治42(1909)年のお盆の晩であった。

 ――略するが、相撲と観客のヤジが盛り上がって乱闘が始まる――

大半の職工たちが川を泳いで逃げ始めると、青年たちは舟でこれを追っかけ、陸に上がるところを竿でたたいて、さんざんな目にあわせた。
青年団では、夜通し協議した結果、大半製板所へ押しかけることになり、寺の鐘を鳴らしてみんなを集めた。青年以外の村の衆も加わってきていっそう気勢があがったので、巡査や年よりなどとめる人もあったが、全く効果がなかった。一同は小学校近くの古屋敷という店でワラジを買ってはきかえ、川を渡って北山館のところで勢揃いした上、製板所に向かった。まず問責した上でということで、10人の交渉委員が選ばれて乗り込んでいったが、製板所の連中は逃げてしまって全くの無人。やむなく引上げることになるが、あとで聞いたらトンネルのところへダイナマイトをもって潜んでいたのだという。

 ――結局このあともいろいろあって、最終的には警察沙汰になるも、警察もなぁなぁで終わる――

「大半の連中がちょっとハイカラで、池原地区の青年の遊びをじゃまするようなところもあって、仲がようなかった。それがまあ爆発したわけよな。とにかく開闢以来初めての大さわぎじゃわさ」
こういって菊造さんは、ぐっと一杯お茶を飲んだ。(←ほんとにお茶か?)

『下北山村史』より

とまあ、話の内容はだいぶしょうもないが、非常に気になるのは、明治42年当時、池郷川の製板所に勤める大半の職工たちがダイナマイトを持って隠れ潜んでいたという「トンネル」とは何を指しているのかということだ。

もしこれが不動滝の隧道のことであるならば、これまでの想定よりもずいぶんと古くから存在したということになり、流材を最初に行ったのも大半ではないかということになる。
もっとも、それだと古老が目にしたハコドイが登場する幕がなくなるので、何か別のところにも「トンネル」があったということなのだと思うが、該当しそうなトンネルを私は把握していないので、気になるところだ。
まだ見ぬ隧道がどこかにある?


最後のエピソードは蛇足だったと思われるかも知れないが、あらゆる工夫でもって一見不可能な出材を実現する、そんな超人的な彼らもまた人の子であったという。不動滝の岩を穿ち貫いた鉄人たちの人間味が感じられる微笑ましいエピソードであり、私はとても好きなのだ。
彼らが再び登場する、そんな探索との遭遇を、私は楽しみにしている。