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廃線レポート 宗谷本線 神路駅跡 到達作戦 第3回

公開日 2025.02.22
探索日 2023.10.28
所在地 北海道中川郡中川町

 神路駅跡の残留遺物たち


2023/10/28 14:52 

上陸から約33分、この間、幾度か猛烈な笹藪に何度か苦しめられたが、距離自体はおおよそ600m程度と短かったので、無事に辿り着くことができた、人生初の神路駅跡地。

とはいえ、それはGPSの画面上で予めポイントしていた“駅跡”という地点に辿り着いたというだけで、直前の猛烈の濃い藪のせいで、道路のゴールが駅であったという実感は乏しかった。最後は本当にただ、GPSの画面を頼りにここへ来た感じ。だから振り返っても道は全くなかった。

そして肝心の駅跡についても――



――まずはこの全天球画像を見て欲しいが、正直、第一印象は、何が何やらである。

まず分かるのは、線路沿いに設置されている通信線らしき架線の位置に線路があり、それがすぐ近くであるということ。
そして、GPS的に駅跡とされている一画が、その周囲に比べて僅かに高いということだ。
これは平坦な場所に駅を設置するときによくみられることだが、少しだけ盛土をしたためではないかと思う。廃駅を含め、古い駅跡でよく観察される地形的な特徴である。おそらく1m程度盛土がされている。

しかし、これらの風景を以て、駅跡を実感するというのは無理がある。
知らなければ、本当にただの線路沿いの原野の一画に過ぎない見栄えだ。
事前に得た情報(主に鉄道車窓からの駅跡観察情報)から、既に駅跡にはホームも建物も現存しないことは了解していたので、ぶっちゃけ、それらがない駅跡を駅跡と認識できるものがあるか不安だったが、その不安がまずは的中した感じがあった。

だが、この場所に辿り着いたときに、ここが他とは違うと感じた要素が一つあった。
それは、足元の地面の土に隠されつつある、ただの原野ではあり得ない“遺物”たちの存在だった。



周囲よりも笹の密度が浅いこの場所には、たまたまなのか、藪の成長に影響を与えているのかは分からないが、いくつかの“遺物”が散らばっていた。

チェンジ後の画像に示した2つの矢印を結ぶ位置に、錆の色をした金属製の棒状のものが、埋れかけているのが分かるだろうか。



そこに落ちていたものは、金属のパイプであった。
元は銀色に塗装されていた気配があり、また複数のパイプを接続して何かより大きな構造物を形作っていた形跡があった。
最初見つけたのは一辺だけだが、目と爪先を使って周囲を探ると、他にも同類のものが埋れていた、



これも同じような物品であったろう。
よく見ると、パイプにチェーンが取り付けられている部分があった。

銀色に塗装された、鉄パイプを組み合わせた構造物で、駅の跡にありそうなもの……、

チェーンが付けられていそうな…………。



私には、“アレ”しか考えられなかった。

古い改札の柵じゃないか? こういうイメージだ。

(実際の神路駅の改札の写真でも残っていれば比較が出来るのだが、未発見である。)


駅舎が解体されたことは聞いていたが、ある意味で駅という機能の核心である改札を構成する物品の残骸と最初にぶつかるなんて……、喩えは悪いが、遭難者が生存している一縷の望みを持って遭難現場を捜索していて、いきなり頭蓋骨を見つけてしまったみたいな印象を持ってしまった。
確かにこれはもう、駅の跡はバラバラに解体され尽くされているという感じがする。

とはいえ、解体は探索によって変更など出来ない事実だ。
むしろ、こんな分かりづらいものをいきなり見つけ出せたことをプラスと考えなければ。
周囲をさらに捜索してみよう。まだ何かあるかも知れない。



あったぞ!

発見した鉄パイプのすぐ隣に、別の人工物が落ちていた。

ひっくり返してみると……



それは、「ATS−S型地上子」であった。

鉄道にあまり詳しくないのでアレだが、ATS(自動列車停止装置)の一種である。
具体的な説明はこちらを見てください。
国鉄時代に使われていた装置とのことで、この地上子は、ここに駅や信号場があった時代に、線路上に埋め込まれていたものだと思う。
廃駅によって不要となって改札の柵と一緒にそこらへぶん投げておいたのが、遂に森の土へ埋没しつつ状況かと思う。

改札柵の擬定物とは違って正体が明瞭なので、確かにここに駅なり信号所なりがあった証拠といえる発見だろう。



さらに地べたの調査を進めると、古い型式の丸形鉄筋が仕込まれたコンクリート廃材と、屋根に使われていたようなトタン廃材が、ごちゃっと小山になって積まれている場所を見つけた。
かなり小さな建物の残骸らしい。

駅本屋は解体されたことが知られているが、他の附属する建物についても解体済……、それも念入りに壊して更地化されているような感じだ。
残念だが、仕方がない。

さらなる発見を期待して、生身の身体で廃材を少し動かしてみたりもしたが、もはやそれは砂漠に落したダイヤモンドを探し出す徒手のようであり、辛く、とても続けられなかった。



廃材が散らばる一帯で見つけた、くしゃッとした何かのゴミ……、次の大風で消えてしまうかもしれない。
一期一会と思い、手に取ってみると、そこにはおそらく北海道民にとって馴染みの深い商品名が印刷されていた。

「YAKISOBA BENTO 焼きそば 弁当」

焼きそば弁当が、北海道で長く愛されているカップ焼きそばの商品名であることは私でも知っていた。
そしておそらくこれは、現在使われている容器ではない古いデザインであろうことも、察せられた。
検索しても、これがいつ頃のデザインかまでは分からなかったが、同ブランドの発売開始が昭和50(1975)年とのことだから、その頃のものかも知れない。

YouTubeで見られる動画「【懐かしい昭和と平成】カップ焼きそばの歴史」で、この柄の容器を確認することが出来た。やはり昭和50年頃に北海道で発売された当時の東洋水産「焼きそば弁当」の容器であった。

いったいどんな状況で食されたものだろうか。
調理にはお湯が必要なので、鉄道の乗客が落したゴミではない気がする。
信号所に務めた鉄道員たちの腹を満たしたのかもしれない。

……焼きそばの容器を見つけてこんなに興奮したのは、初めてだった。
この孤独で閉ざされた河畔に、ありふれた平凡な日用品が入り込む”日常”が存在したことの証しが、このゴミであった。



 神路駅の構内配置について

神路駅 簡易年表
出来事
大正11(1922)年11月8日一般駅として開業
昭和42(1967)年神路集落の最後の農家が離村
昭和49(1974)年10月1日貨物取り扱いを廃止
昭和52(1977)年5月25日信号場化。ただし仮乗降場として旅客扱いを継続
昭和60(1985)年3月14日廃止
平成17(2005)年5月頃残存していた駅本屋を老朽化のため撤去

wiki「神路信号場」を参考に作成

駅跡地での捜索をレポートしている途中であるが、ここで一度、在りし日の駅の姿を把握しておきたい。
どこにどのような施設が配置されていたのかを知ることが、現状との比較をより正確に行うために必要である。

本編「導入」にて既に神路駅や神路集落が辿った経過を解説済だが、ここでは神路駅の構内の模様を知る手掛りとなる資料を紹介しつつ、在りし日の神路駅に思いを馳せてみたいと思う。

右年表のように、神路という駅は大正11(1922)年から昭和60(1985)年までこの地に存在していた。ただし最後の8年は信号場として運用されており、同所へ職員を輸送するという名目で1日1本だけ列車が止まる仮乗降場という扱いであったから、厳密には駅ではなかった。

この駅の構内の模様を知る手掛りとして、まずは航空写真がある。
中でも信号場となった昭和52(1977)年に撮影された画像は、カラーかつ高解像度のため、とても有用である。


右図が昭和52(1977)年の航空写真である。
列車の交換のため駅の前後は複線になっており、それを挟み込む2面のホームが存在した。
1番線側にいくつもの建物が見えているが、これらは全て国鉄の敷地内に配置された鉄道関係と考えられる。既に駅前の神路集落は無人であり、建物らしいものは見えず、道も緑に覆われてしまっている。

駅にある一番大きな青いトタン屋根の建物が、平成17(2005)年まで残っていたという駅本屋(駅舎)とみられる。
他に5軒前後の小さな建物が写っており、大まかな構内の配置を知ることができる。

また、駅の北側は複線プラス1線が敷かれているようで、一番西側の線路は廃止済の貨物線ではないかと思う。当駅は昭和49(1974)年まで貨物の取り扱いもしており、貨物ホームや鉄道倉庫などがあったと考えられるのである。また、神路集落には日通の取り扱い所があったそうだ。

外部と接続する道がない神路駅の主な貨物は、駅東側の全域を擁する北海道大学演習林(現:中川研究林)からの林産物輸送であったようだ。

そもそも、神路駅の設置は、「北海道大学演習林の強い要望もあって、木材を出すことに目的がありました(『中川町史』1975 p.263)」というほど、演習林と深い関わりがあった。
鉄道が開設された土地も演習林内であったし、集落が出来たのも演習林内であった。それくらい、神路駅を語るうえで演習林との関わりは切り離せないものであったが、その割に、駅と演習林内の他の林道を結ぶ林道が整備された形跡がなく、どのようにして駅へ集材していたのかが不明であるなど、謎があるのも事実である。(おそらく、かつての飯田線のように、夜間に駅以外の場所に貨物列車が臨時停車して積込みをしていたのではないかと思うが)



『ふるさとの駅 北海道から鹿児島まで 写真集』1973より

この写真は、昭和48(1973)年にベストセラーズより刊行された鉄道写真家大森堅司氏の写真集『ふるさとの駅 北海道から鹿児島まで』に掲載された神路駅の写真だ。
附属する印象的なキャプション「乗降客はほとんどない。秘境の道標のごとく駅が建つ」は、本編冒頭で紹介済だが、その写真がこれである。

上記の航空写真よりも4年前の風景で、建物の配置は変わっていないように見える。
積雪期のため見通しがとても良いが、貨物線がありそうな場所は雪に埋れきっていて、実質的に廃止状態だったのかもしれない。

また、駅の背後は神路集落があった場所だが、建物は全然見当らない。小学校も含め、既に解体されているようだ。
一方で、川の対岸にある国道40号の存在が、スノーシェッドなどから窺える。
そして、国道の背後に聳えているのが神居山で、アイヌの人々が神聖視した山だ。神路という地名の由来にもなった。



『日本の駅 写真でみる国鉄駅舎のすべて』1979より

続いては、昭和54(1979)年に竹書房から刊行された『日本の駅 写真でみる国鉄駅舎のすべて』に掲載された神路駅の写真だ。

駅前側から駅本屋を撮影している。
大正11年の開業当初からの建物であったのかは不明だが、そう考えるのが自然と思える典型的な古い造りの簡便なる木造駅舎である。
入口に掲げられた「神路駅」のプレートが誇らしげだ。

この駅舎が外観以上に特殊であると思うのは、外部から駅を訪れる経路がないという特殊な立地上、神路に生まれた人でもない限り、ほぼ全ての訪問者が、ホーム側からの景色よりも先にこの正面外観を見なかったことだろう。
そんな駅があるというのがまず面白い。


次に紹介するのは、今回唯一の映像素材だ。
NHKが公開している「NHKアーカイブス」に、「1977年の神路駅」と題された3分51秒の短い映像が存在する。

是非アクセスしてご覧いただきたいが、この映像によって駅本屋の内部の様子が判明した。
一般的な駅舎と同じく、事務室と待合室が合体した建物であり、窓口と改札口があった。
ただ、撮影された時期は信号場となった直後であり、既に窓口も待合室も通常の運用を終えているようだ。





最後に紹介するのは、当サイトの読者からご提供いただいた貴重な写真だ。

撮影者はsakhalin-tan-naru-ippankyaku氏X:@ippankyaku)で、昭和59(1984)年7月25日に「佐久駅から筬島駅への往路と復路の双方が停車して驚き慌てて撮影しました(てっきりこの列車は通過かと)」という経緯から、神路駅の構内で撮影したとのこと。

昭和59(1984)年といえば、神路信号場が廃止される前年であり、仮乗降場としてもまさに最末期である!

ご提供いただいた写真は全部で3枚。

順にご覧いただきたい。




撮影・提供:sakhalin-tan-naru-ippankyaku氏


ホーム側から撮影した駅本屋。
左側の凹んだところが改札口の跡、右側の扉が駅事務所というか信号所事務所の出入口だろう。
「安全第一」の標語が、信号所っぽい。
また、改札柵は既に撤去されていそうに見える。




撮影・提供:sakhalin-tan-naru-ippankyaku氏


おそらく駅本屋北側の構内の様子だ。
仮乗降場となってからも、駅名標は存置されていたことが分かる。
駅名標の後に花壇があり、綺麗に手入れされている。しかし、この翌年には……(涙)。モミっぽい盆栽も形が綺麗だ。

背後には3軒の建物が見えるが、それぞれの用途は残念ながら分からない。
右の建物の入口に3文字の看板があり、「電気室」のような気がする…。
中央の小さな建物はひときわ古びているが、「節約」という文字が書かれているのが印象的。備品庫?
左の建物の外観はトイレっぽくもあり、倉庫っぽくもあり…。




撮影・提供:sakhalin-tan-naru-ippankyaku氏


佐久(稚内)方向へ出発した車内から遠ざかる神路駅を振り返って撮影したものだろう。
右側の線路は奥の構内で終わっているように見え、元貨物線か。しかし線路は意外に綺麗なままである。保線基地などとして利用されていたのかもしれない。

本編の私はいま、この景色のどこかへ辿り着いているのは確かだが、写真に写っているような分明な遺物は、もう何もなさそうである。





この章の最後にまとめとして、これまでに提示したビジュアル資料を総合的に解釈して、昭和52(1977)年頃をイメージした構内の想像図を描いてみたのでご覧いただきたい。

@〜Eの建物は正体が分からないが、ippankyaku氏の2枚目の写真に写っているのは、ABCの建物ではないかと思う。
おそらく鉄道に詳しい方であれば、より具体的かつ正確に配置を再現できると思うので、全て反映できるかは分からないが、ぜひご意見を伺いたいところ。

次回は、このように想定した構内の配置と対照しつつ、さらに駅跡の調査を続行する。



 長居すると精神力が削られるのです……


2023/10/28 14:38

先ほどは大雑把に、「駅前に着いた」というような表現をしたが、かつての構内配置を踏まえると、おそらく今いるのは駅本屋の北側に隣接する領域で、足元に散らばっている廃材は、この辺に建ち並んでいた数棟の附属建築物の残骸ではないかと思う。
これまで見つけた、改札柵らしきもの、ATS地上子、焼きそば弁当の容器に加えて、ビール瓶や酒瓶らしき空き瓶も多数、廃材と混じって土と同化しつつあった。



針葉樹が並木のように一直線に並んでいる一角があった。線路と平行する方向に一列に並んでおり、鉄道林というような規模ではないが、その太さから見ても、駅があった当時に植えられた樹木と思われた。

そして、木々の根元の一帯にも、外壁の残骸らしき木板材や、駅事務所に設置されていた何らかの制御装置らしきものの残骸(赤矢印の位置、チェンジ後の画像はその拡大)が転がっていた。中に機械は入っておらず、ケースだけがあった。
さらに、緑矢印の位置には……



錆ついた金属製の制御ボックスが、いくつも散らばっていた。
こちらもおそらく中身は空だと思う。
こういう形の制御ボックスを線路の周辺で見た憶えが度々ある。

この辺りに散らばっているものは一通りチェックしたと思うので、針葉樹の並木の向こう側、線路がある方へ近づいてみよう。



ほのかに周りよりも高い場所が、細長く帯状に、線路に沿って存在している。
地表を覆う雑草や林立する灌木のため線路は見えないが、写真右の紅葉した山は線路の向こう側である。
おそらくは現役であろう通信線とみられる架線が、帯状の微高地の頭上を南北に縦貫している。


察せられただろうか。

正直、私には少々難解であったが、結論として、

ここが神路駅の1番線ホーム跡だった。

写真は1番線ホームの北寄りの一角から、さらに北側の稚内方向を撮影している。
ホーム北端の1番線と貨物線に挟まれていたあたりではないかと思うのだが、これといった遺物は見当らないように思う。
ホーム跡を明確にする線路際の縁石による明瞭な段差が見当らない。どうやら、1番線の縁石は撤去されているようだ。



昭和52(1977)年と令和2(2020)年の航空写真を比較してみると、駅跡地の圧倒的に緑な変容が見て取れる。
注目は、残っている線路の位置だ。
ここに駅や信号所があった時代は、構内の前後は複線になっていた。
だが、現在は単線である。
現在使われているのは、かつての2番線側の線路である。



同じ位置から、今度は南側、名寄方面を撮影している。
引続き足元は1番線ホーム跡地であり、現役当時であれば写真中央辺りに駅本屋が見えたと思うが、もちろん建ってはいない。

ただ、もしかしたら……



……この妙に枝振りのいいモミの木は、sakhalin-tan-naru-ippankyaku氏の写真に写っていた、ホーム上の”盆栽”が、野生化した姿だったりしないかな……なんて夢を見た。

探索時点では、この貴重な構内写真を知らなかったので、この樹木についてもなんら近寄って撮影したりはしていない。
駅跡地の変化をつぶさに追いかけてきた人なら、答えを知っているかもしれない。
頻繁にこんな駅地を訪れている人なんて居ないと思われるかも知れないが、それは逆で、鉄道の車窓としては毎日でも観察ができる場所である。

まあ、結論を言うと、さっきの夢想、所詮は夢想だった。



駅跡地を歩き回る動画を撮った。

探索者が感じた無力感を、共感して貰えると嬉しい。



本屋方向へ移動してきて、仄かにホーム跡を感じさせる遺物を発見。
黄色と黒の警戒色が塗装された、車止めではないだろうが、いかにも鉄道周辺にありそうなこれ。
具体的に何とは言えないが、田舎駅のホームの上にありそうな逸品じゃないか。

さらに駅本屋方向へ進行。



線路が間近に見える場所があった。
ちょうど私の立っている辺りが、1番線ホームの縁石の位置だと思うが、確かに数十センチ程度の段差がある。
しかし縁石がないので明瞭ではないし、1番線跡地も草地化している。
前述の通り、いま線路が敷かれているのは、かつての2番線位置だ。

チェンジ後の画像は、駅跡地に残されている何かの制御盤。これは明らかに現役設備だと思う。
保線関連の電話ボックスのようだ。
読者さまコメントに次のようなものがあった。

神路駅の駅舎は、末期は待合室が壊されて事務所側の半分になり、保線用の休憩室になっていたようです。すべて消えたあと、駅舎があった付近に連絡用の電話BOXが置かれました。今でも、音威子府の保線員(冬は山腹の除雪をする人)が朝9時ごろの稚内行(4323D)を神路駅跡とは限らず途中で止めて乗務員扉から降り、13時ごろの名寄行(4326D)に乗り込んで引き上げる姿を見ることがあり、冬はともかく夏はヒグマなど大丈夫なのかと心配になります。

読者さまコメントより

線路脇にポツンと佇むこの電話機は、令和の現代まで残された、神路における最後の人類陣地であるようだ。

正確には電話ボックスではなく、「沿線電話端子箱」であるとのコメントをいただいた。
沿線電話は鉄道の保安設備であり、500mおきに設置する決まりがあるとのこと。
保線の関係者が所持している磁石電話という装置を接続して、鉄道電話網と通信することができる。

余談だが、これって昔あった林鉄と同じシステムだ。
多くの林鉄では端子箱ではなく、線路沿いに敷設された裸の通信線に、直接磁石電話を結線して運行連絡などを行っていた。
林鉄は、国鉄の仕組みを簡易化して実装していたわけである。



15:06 《構内現在地》

あった。

駅跡地で唯一明瞭かつ最大の建物基礎。

神路駅本屋の跡地に違いない!

ここに【この建物が】が、【こんな風に】に建っていた。

廃駅後も、平成17(2005)年頃まで建物が残っていて、保線用の休憩室として利用されていたらしいが、老朽化のため撤去された。
ホームの縁石が撤去されたのも同じ頃なのだろうか。どなたかご存知の方がいたら教えて欲しい。



私が今いるこの場所が、神路駅の待合室だった。
今ではただ野天にコンクリート基礎があるだけの平地だが、ある時までは壁があり、窓があり、屋根があり、暖房が焚かれ、ベンチが置かれ、駅員のいる窓口があり、改札があり、時刻表が掲げられ、駅ノート……があったかは分からないが、温かな待合室だった。
今でも線路は敷かれていて、列車も来るが、ここはもう、なんでもない。

駅跡は、ほんの少しだけ周囲よりも高いから、線路に背を向けて駅頭の方向へ目を向けると、神路集落がかつて存在していた低地が一面の人の背丈を超える笹藪となって、おおよそ数百メートルも続いていることが見渡せた。
私は、いまにあの中へと帰らなければならない宿命を呪いたい気持ちになった。
鉄道に、連れて帰って欲しくなった。そんなサービスがあったら、便利なのに…。



発見の深化と、時間の経過によって、徐々に私の精神力が削られているのを感じながら、今度は改めて、駅舎の正面方向へ少しだけ移動してみた。

来るときは藪で何が何だか分からなかったが、今いるこの場所から見る正面の方向が、駅前のメイン通りにあたる場所だと思う。
もし「北海道道神路停車場線」という空想の存在が実現したら、きっとここがそうなっただろうという位置。
集落の建物も、この見える範囲にいくつかはあったはず。一つも残っていないが……。
傍らにある太いモミは、この地の盛衰を全て見たかもしれない。



開店、”MOWSON 神路駅前店”。

商品No.1 古の缶ジュースの大定番中の大定番、HI−Cアップル。
商品No.2 こちらも忘れちゃいけない大定番、POMアップルドリンク。
これらは、普通にピクニックで駅を訪れたお客さんの残したものかも知れないな。ぽっぽやが飲みそうな感じしない(笑)。

閉店、”MOWSON 神路駅前店”。



な〜〜んもない。

雑で申し訳ないが、まずもって道が見いだせないこのだだっ広い空間で、何を拠り所に探せば良いのかが分からない、神路集落跡。

運悪くクマと鉢合わせしないうちに、少しでも人の砦っぽい防御力を感じる駅跡へ戻ろう。



そろそろ帰ろうと思うぞ。

なんというか、喜びに乏しい。

誤解をしてほしくないのは、探索をして後悔したとか、つまらなかったとか、そういう次元のことを言いたいのではない。
皆さまが楽しんでくれたかどうかについても、心配はしていない。このレポートは楽しいはずだ。
私はこの探索をやって良かったと思っているし、探索の成果にも大満足しているが、とにかくここは、居れば居るほど心細くなってくる。それがキツイ。
大人数でワイワイとかならまた違った印象もあっただろうが――

独りで、夕方に、カヤックで、ここへ来たのは、心細すぎる。



《構内現在地》

駅跡の線路に戻ってきた。
現在線のぎりぎりに迫って、駅跡の南方(名寄方)を撮影している。
私が立っている位置は1番線の廃線跡である。
残念ながら、線路向こうの2番線ホームも縁石は撤去済で、遺構は残っていないようだ。

現在も残る神路駅や神路信号場の名残として、当地の前後にある線路の微妙なSカーブが挙げられる。
これは、かつて駅の前後に単線から複線に切り替わるY型分岐があった名残である。
チェンジ後の画像は奥の線路を遠望しているが、不自然に曲がっているのが分かると思う。



今回最も南側で撮影した写真。
駅跡を振り返って撮影している。
正面の藪が1番線の廃線跡、右が元2番線である現在線だ。対面する両側のホームは、こんもりとした地面の盛り上がりとしてのみ痕跡を留める。
すぐそこに立っているのは、旭川起点からの143kmポスト。
神路駅の所在地(駅中心)は143.1kmだったので、これが最寄りのキロポストとなる。


駅跡の探索を終了。
これより帰路に就く。
時刻は15:15で、なんだかんだ約25分間滞在して、乏しい遺物の捜索を行っていた。







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