2021/4/24 7:48 《現在地》
約75分間の登山道なき登山によって、霧ヶ滝線の起点とみられる広場に到達した。
ここの海抜は約780mあり、地形図に海抜804mの「写真測量による標高点」が表示されている無名の頂にほど近い南東側の地点であった。
写真は、登頂口を振り返っている。
残念ながら、樹木が生長しているせいで、下界の視界は晴れていない。
ここまでほとんど道形を見ないで登ってきたが、ここで働いた人々も通った下界との連絡歩道は、確かにあったはずだ。
その道形があまり鮮明ではないのは、(それが公式に許されていたかは別にして)多くの従事者が、索道に便乗して行き来していたからだと思う。
写真に写っている2基のコンクリートの台(A・Bと表示)は、その配置からして、索道の門形支柱の基礎ではなかったかと想像する。
そして現在は地面がここで切れているが、往時はここから前方の空中に向けて、まるで清水の舞台のように、盤台と呼ばれる木造の作業台が張り出していて、レールもそこに引き込まれて、索道への積込みを行っていたと思う。
『林鉄の軌跡』によると、ここにあったのは「トロ込索道」という運材台車ごと原木を輸送する仕組みのものであったそうだ。
冬期の運休前後には、5トンもある機関車を吊り下げて運ぶことも出来たそうなので、かなりの力持ちである。
別アングルから、霧ヶ滝線の起点に残る遺構を攻めていくぞ。
私は左の斜面を登ってここへやって来た。
辿り着いた場所は鬱蒼とスギが茂る植林地であるが、その林床は明らかに整地された平らさを持っており、ここに霧ヶ滝線の起点のヤードがあったのだろう。
残念ながら、レール撤去済との情報通り、レールはおろか枕木一つ見当らない。
それらは回収され、索道の最後の積み荷となって下界へ運び出されたのであろう。
軌道の進行方向は、写真の奥である。
霧ヶ滝線の廃止は昭和35年、レールや索道の撤去は昭和39年だそうだが、スギの植林がその直後だとすると、50年以上が経過していることになる。一般にスギは40〜50年で伐採の適齢期を迎えるとされているが、ここに生えているスギも伐採適齢期を迎えているように見える。しかし、索道が失われ、その代わりとなるような適切な林道も整備されなかったためか、近年は下枝を払う管理が行われてこなかったようだ。今後どうするのか。
このヤード跡に残る索道の遺構は、冒頭に見た門形支柱の基礎だけではなかった。
そこから20mほど離れた位置(写真の○印のあたり)にも、遺物があった。
門形支柱基礎からヤードを渡った真向かいに、このような配置で3つの基礎らしき構造物が置かれていた。背後の小高いところが804m峰の山頂だ。
それぞれは単純な直方体でしかなく、単体で正体を暴くにはあまりにも没個性であるが、索道基地であることの想像力を働かせれば、手前2つの基礎(C・D)は、索道を操作する巻揚機(ウィンチ)を据えていた土台で、背後のより大きな基礎(E)は、主索(積み荷の荷重がかかるメインケーブル)を地球に固定するためのアンカレジ(錘)だったのではないかと思う。
メインケーブル類も全て撤去済のようで、基礎だけというのは、索道遺構の現存度としては全般的に低調といわざるを得ないが、索道が存在した証しとしては十分だろう。
廃止から長い年月が経過しており、植えられた樹木の生長にも呑み込まれていて、全体が遺跡然とした佇まいになっている。
索道上部盤台跡およびヤード跡のスケール感を見てもらうために、全天球画像を撮影した。
鬱蒼としたスギ林の中に、いままで紹介してきた各種遺構が、整然と配置されていることが分かると思う。
なお、ヤード跡は広々としていて、複線以上のレールを敷いていた以外にも、宿舎などがあった可能性が高いと思うが、痕跡は見いだせなかった。ただ、機関庫がなかったことは、『林鉄の軌跡』にあった地元の方の証言から判明している。そのため冬期間は機関車を索道を使って青下の機関庫に下ろしていたそうだから。
右の図は、即興の手書きで用意した遺構の配置図だ。
レールの配線は完全に想像だし、スケールも全くの任意である。大雑把なイメージと思って欲しい。
……といったところで、上部盤台跡の探索は終了である。
遺構が少ないので、探索自体は数分しかかからなかったが、平坦な土地を自由に動き回れることに清清としながら、少しのんびりした。
この先に進めば、平坦な場所はたぶんもうなさそうだから。……地形図を見る限り。 あと、“例の看板”の文言からしてもね…。
8:00 起点を出発。
樹木のために広く見通せない場所だが、動き回ってみるとこの起点のヤード跡は広い場所ではなく、長さ50mほどでしかない。あるいはもう少し狭かったかも。
尾根の先端に近いこの山頂南面の位置から、等高線に沿って西へ向かわねばならない軌道の進路は、自ずから一つしかなかった。
そちらへ進むと、たちまち漏斗のように土地が狭くなり、その先には、全くもって見慣れたいつもの軌道跡、その単線分だけの浅い掘割りが、おいでおいでと、怪しく伸びていた。
チェンジ後の画像は、最後にもう一度振り返った起点ヤード跡だ。
この先にはかつて空を渡る道があった。飛び込み台のような陸の突端に、別れを告げた。
計画では、もうここには戻ってこないはず。探索が完全に成功した場合にはそうなる。途中敗退ならおそらく戻ってくるが、一番恐ろしいのは、戻ってこられなくなること……。
スギの落とし物でふかふかになった、浅い掘割りの道を歩き出した。
まるで神社かお寺の参道のように、少し育ちすぎた感じのスギが、道に沿って並んでいた。
これは少しばかり余談だが、私は数年前まで、スギ林というのが嫌いだった。
景色に変化が乏しいことがその最大の理由で、いわゆる自然林、あるいは自然林ではない二次林だとしても、雑木林や広葉樹林を好んでいた。
ひとえに、景色が美しいと感じていたからである。
だが、主に林鉄の探索によって多くの危険な山中を歩いてきて、考えが変わった。
いまでは、スギ林に安らぎと親愛を感じ、自然林ぽいところには不安を感じるようになった。
理由は、万が一私が山で遭難するとしたら、そのとき周りにあるのはきっとスギ林ではない、美しい自然林だろうと予感するからだ。スギ林では、たぶん死なないと思える。
端的に言って、スギ林は安全度が高い。だから、ホッとするのである。
私が登山家ではないせいか、そういう結論に至った。
8:03 《現在地》
歩き出して3分ほどで、左カーブの先に続く浅い切り通しに出会った。
いままでいた無名804m峰の南面から、その西側の鞍部を通り、霧ヶ滝渓谷に臨む畑ヶ平高原北面に舞台を移す、最序盤ながら、軌道跡を取り巻く地形環境を大きく二分する、重要な境界となる切り通しだ。
ここまでは、地形図にある「徒歩道」の通りの展開である。
最後まで地形図通りに行くのかは大きな注目点であったが、外れないなら、もちろんその方がありがたい。
では、ステージチェンジの、切り通しへ……!
こちら側、平穏を感じる、スギ人工林。
あちら側、清純の裏に牙を隠した、天然林。
ザーーーーー
ザーーーーー
ザーーーーー
ここまで聞こえる、滝のような水騒音。
なんかもう、怖くなってきた。
切り通しを抜けて、霧ヶ滝渓谷の北面へ、出た。
視界を遮る樹木が少なくなり、この標高に相応しい眺めが、私を待っていた。
海抜780mより見る北方風景、正面やや右寄りの谷が、今朝その底を走った岸田川だ。
そして谷の下流には、約20km先の日本海まで、ここより高所は存在しない。
霧ヶ滝線は、海が見える林鉄としては、だいぶ内陸に位置する路線かもしれない。
切り通しを潜る途中から聞こえるようになった沢の音の出所は、もちろんこの底である。
霧ヶ滝の上流で、この林鉄の終点の高さまで上り詰める、霧ヶ滝渓谷だ。
現時点では、足元と谷底の落差は実に300mもあるのだが、
ここから2kmも行かないうちに、この300mがゼロになるという、急峻な谷である。
現時点では、さすがに谷底との落差が極めて大きいので、
軌道跡は、この谷の旺盛な浸食力の直接の影響からは逃れられている。
だが、今後いわゆる浸食圏に捉えられ、谷の内部に入ることが、踏破の危機に直結するだろう。
この軌道は進むほど谷底に近づく一方だと思われ、踏破の難度も上がっていきそうだ。
たった全長2kmの路線だが、いまの私には少しの侮りもないと断言して良い。
計画の時点で怖さは感じていたが、谷の深さを目の当たりにして、ますますそう思った。
怯えていても始まらないぞ!
登山をして、この未知の軌道跡へ挑む権利を勝ち取った、それをいまから行使しろ!
無理だと思えば、そこで引き返すことを忘れるな。それだけを忘れるな。
切り通しを境に、風景全く一転した北面の軌道跡へ、第一歩を刻む。
8:08 《現在地》
切り通しを抜けたところで数分停滞したが、前進を再開した直後の場面だ。
果たして植林地を抜けた先の軌道跡が、どのような状況で残っているかを計る、そのための最初のシーンであったが、まあいかにも典型的な荒れた軌道跡っぽい印象だ。
道形としては充分鮮明に残っているが、そこに新しい踏み跡がまったく見えない状態だ。
まさに、廃道である。
さっそくにして石垣が現われたのは嬉しい発見だったが、それがモルタルを用いない純粋な空積みなのは、造りの古さ、低規格さを物語っているようで、心配だった。
あと、一欠片といった量ながらも、北面に入った途端に残雪を踏んだことも、心配すべき要素だった。
芽吹きの山肌をトラバースする軌道跡のラインが、緩やかなカーブを描きながら、ずっと先へ伸びている。
いまはまだ、平穏な世界にいると思う。
少なくとも、視覚の上では平穏だ。
ただし聴覚、常に聞こえる沢の音が心をざわつかせるのだったが、これについてはもう慣れるしかないだろう。
チェンジ後の画像は、路肩から見渡した日本海。
水平線は靄に消えて見えないが、確かに山の端の向こう側は、陸ではなさそうな色をしていた。
いまこのような眺望を得ている路線が、わずか全長2kmの終点で、眼下の谷の底に呑まれようとは、まだ信じがたいんだが……。
切り通しから100mばかり来たところで振り返って撮影した。
写真奥に見える小高いところが、804m無名峰だ。スギのてっぺんがまだ少し見えている。
起点から切り通しまでも100mくらいあったから、これで起点から200mくらい進んだことになる。
全長2kmらしいから、もう10分の1。
早くも1割終わったのか。何事もなければ、すぐに終わる距離だよな2kmは。
今度は路肩側に石垣出現!
それほど規模は大きくないが、緻密に谷積みがされていて、仕事が丁寧だ。
おかげでこの部分の路盤は完全に原型を止め、本来の道幅――2mくらいあったようだ――が温存されていた。
陽気もよく、写真を見る限りでは、山好きの誰もが歩きたいと思うような道ではないかと思う。
でも、私の心境はやはりそういう感じではなかったようで……、次の動画をどうぞ。
「綺麗だけど、怖いな。」
動画の中で口にしたこのコメントが、このときの心境そのものであった。
私を恐れさせている沢の音も、動画でちゃんと聞こえていたね。
8:14 《現在地》
現在、起点から350m付近。
路肩に見事な石垣を連ねた軌道跡は、この先で、最初の小さな谷を越える。
地形図に描かれているこの軌道跡沿いの地形は、旺盛な侵食作用の発露を思わせる小刻みな凹凸が、櫛比のように連なっているものだ。
一つ一つはさほど大きな出入りではないようだが、谷と尾根を連続して越えていかねばならないのが、この路線の風景であろう。
いま、その最初の谷に入っていく。
ここの状況が、この先にもあるはずの同様の谷の難しさを計る試金石となるはずだ。
そういう意味からも、普段以上に緊張した、最初の谷であった。
おーし、よしよし……。
今回の谷は、険しいものではなさそう。
むしろ、谷に入る前の方が、傾斜がキツかった。
今回のは、高原にありそうな穏やかな沢で、ここを越えて再び霧ヶ谷渓谷本流に向き合うところまでは少し緊張感から解放されそうだ。良かった。
多めの残雪が見えているのは、少し不安だけど。
ん?!
ええっ!
マジでか?!?! うほほーいっ!
コンクリート橋(半壊)が、
架かっていた!
正直、これは予想外だ!
わずか2kmという路線の規模や、廃止時期の早さ、先に見た本線での遺構残存度などから、
橋があってもそれは全て木橋であって、とっくに雪で壊されていると思っていたから、
まさかコンクリート桁橋のような上等な橋が用いられているとは、期待していなかった。
確かに、コンクリート橋ならば、雪の重みに耐えて残っても不思議ではなかったが、
それが半身になっているところに、この地の侮りがたい環境の厳しさが滲んでいた。
ともかくこれは……、幸先の良い発見!
この路線、面白くなってきた!!
2021/4/24 8:21 《現在地》
起点から約400mの地点、最初の小さな谷を渡る地点に、半壊したコンクリート桁橋が架かっていた。
期待を越える大型遺構の出現に色めく私。
この喜びの瞬間に花を添えるもう一つの発見が、同時に起きていた。
橋のすぐ下の流れの中に、1本の廃レールが落ちていることに気づいた。
この路線のレールは廃止後に撤去されたそうだが、このレールは現役時代に流失し、そのままになったものかもしれない。
サイズは9kgレールとみられる。9kgは機関車が入線した路線での一般的かつ最低限のレール規格である。
この橋の名前は知らないが、起点側から数えて1本目の橋なので、1号橋(仮称)と呼ぼう。
2号橋以降も現われてくれることを願ってのネーミングでもある。
林鉄の橋としては、木造に次いでありふれた存在である、2本桁のコンクリート桁橋だ。
しかし、圧倒的大多数は木造橋なので、コンクリート橋でも現存には貴重性が十分に認められよう。
中央に橋脚を1本有する2径間の橋だったが、左岸側の桁は墜落してしまっていた。
ちょうど半分だけが原型を止めている。
残っている桁の長さが目測8〜10mであるから、全長16〜20mの橋だったと思う。
本橋の大きな特徴が、中央の橋脚を支点にかなり大きなカーブを描いた曲橋であることだ。
もっとも、使われている桁は直線なので、直線をくの字に配置しただけで、やや強引に曲橋としている。もっと緩やかにするには、橋脚と桁の数を増やせば良いのだが、コストとの兼ね合いでこうなったのだろう。
チェンジ後の画像は、レールを敷設した状況の想像図だ。
黄色い部分の桁は失われているが、図示したように配置された桁の上に滑らかなカーブを置くには、桁の幅をいっぱいに使う必要があったはず。
桁とレールを仲介する枕木の設置段階から、バランスを取ることに苦心したかと思う。
林鉄の廃橋と言えば、渡ることに大きな恐怖を覚えることが多いが、本橋は高さがあまりないことと、桁がとにかく太いので、とても安心して先端まで行くことができる。
桁の太さは、コンクリート単純桁としては長めの径間を持っているので、強度確保のためであろうが、同時に曲橋として利用するためにも、この幅は必要だったろう。
あまり幅が広いので、橋の上にも土が乗り、苔や草が育ちはじめている。
ほんの数秒で、中央の橋脚上にある、途切れた橋の突端へ。
突端から見下ろすと、3mほど下に残雪と流水、そして見事に中央部分がへし折れてしまった2本の桁材が見えた。
失われた第2径間の桁も、第1径間と同様のものであったと思うが、2本とも同じように折れて落ちているのである。
単純にこの高さから落ちた程度では折損しないと思われるので、強い破壊力を持った雪崩の直撃を受けたか、多年にわたって雪渓の重みを支えたために折れ、そのために落橋したのではないかと思う。遠くまで流されなかったのは、その重さのせいだろう。
折れた桁の周辺には、周りと比べても特別に多くの残雪が雪渓のように残っており、雪が破壊の原因であるという説を推していた。
一旦橋の上に行ったが、そこから先に進むことは出来ないので、もとの右岸に戻ってから、徒渉によって対岸へ向かうことにした。
写真は、下流側から見上げる半身となった橋の姿だ。低いけれども、いかにも頑丈そうな、どっしりとした佇まいを見せている。これほど太い桁が、折れて落ちているということが、恐ろしい。
今となっては、この橋を作るために必要な資材をここまで運び込むことも、大規模な空輸以外では無理であろうが、昭和25年当時に索道をかけ、そこからトロッコを伸ばし、大量の資材を運び込んでの土木作業が行われたのだ。当時の林業には、それをするだけの実入りがあったともいえるだろう。
健在である右岸側の桁も、近づいて見れば、表面がズタズタに風化していた。
もはやコンクリートではなく、花崗岩のような風合いになっている。
内部に配置された鉄筋が、至る所に露出していた。
当然、鉄筋は現代使われている表面が凸凹した異形鉄筋ではなく、ツルンとした円い断面の丸形鉄筋だ。露出した鉄筋の腐食も進んでおり、とうに耐用年数を越えてしまっているだろう鉄筋コンクリート橋が、その巨大な自重を支えきれなくなる日も、そう遠くないかも知れない。
足を濡らさずとも容易く越えられる流れを越えて、左岸へ。
迎えてくれるのは、この橋台。
感心するほど緻密に組積された、石造の橋台だ。
目地にモルタルなどは使われておらず空積みが、保存状態はかなり良さそう。
この橋台に登るところで、少しだけ手こずった。
唯一の通路となる部分を巨大な倒木の根が邪魔をしていて、よじ登りづらかった。根に土が付いたままなので、今年の冬の倒木だろう。
8:28
渡り終えたぜ。
写真は、左岸側から眺めた橋の姿だ。
橋の前後の石垣は緩やかな曲線を描いているのに、橋は面白いほど“カクついて”いるな(笑)。
チェンジ後の画像は、同じ橋台から眺めたこれからの進路。
わずかな距離で、再び海を見通せる霧ヶ滝渓谷本流上部斜面に戻るようだ。
怖いなぁ。
なんだこりゃ!
思わずそう声を上げたくなるほど珍妙な形をした樹木があった。
ただそれだけのことなのだが、何があったらこんな形のコブが出来るんだろう。妖怪じゃないよな。
本流谷に臨む斜面に戻ると(相変わらず風景は全然谷っぽくないが)、複線をとれるくらいに道幅が広くなった。
原木積込みのための小規模な側線でもあったのかもしれない。
そしてここを過ぎると、新たな発見が待っていた!
現役の林道に出たかと錯覚するくらい、突然道が良くなった。
というか、廃道を廃道たらしめている路上の障害物や、路肩の欠落などが全くないから、本当に現役の道路みたいだった。
もしかして反対側からブル道が入っているのかと、そんなことも一瞬考えたのだが、結果から言うと、本当にただ偶然、この部分の道が全く壊れずに残っていただけのようである。
これだけの保存状況の良さがあってこそだろうが、ここで初めて、枕木 を発見したのだった。
事前情報通り、レールは撤去されているようだが、枕木については、残されたままのものがあったのだ。
数十年分の落葉が土になるまで放置され、やがてそれが路盤を覆い隠し、枕木と周囲の高さの差を埋めていた。
だから、近づかないと枕木の存在には気づきづらかったのだ(チェンジ後の画像参照)。
しかし1本2本ではない、数え切れないほどの枕木が、この辺りの路面には眠っていた。
(→)
コンスタントな発見に恵まれつつ、爽快な林鉄歩きを楽しんでいる。
常に視界の上半分が青空なのは、この路線が最初に索道で手に入れた“高さ”という名の大きな有利のおかげだ。
圧迫された谷底に始まった林鉄が、索道という工夫によってその閉塞を脱し、多くの林鉄は辿り着けずに終わった高原的な風景に臨んでいることは、それだけでも価値のあることだと感じる。見える風景全てに誇らしさすら感じるのである。
チェンジ後の画像は、路肩から見下ろした霧ヶ滝渓谷の落ち込みだ。
軌道が通じていた辺りの高さを境にして、それより下側の険しさが際立っていた。
現時点でも既に、入り込んだら無事には済まない傾斜だと思った。
願わくは、この険悪からの距離を取り続けたかった。
だが、
魔手とは、望まぬ者に伸ばされるからこそ、そう呼ばれるのだ。
8:45 《現在地》
魔手、私に届く。
恐れていた険悪が、道に届く。
起点を出発して45分で、約700m前進していた。
距離のうえで、全体の3分の1以上を終えたはずだった。
……といったところで来たのが、この場面だったのだが……
待ち受けていたのは、2本目となるこの橋の跡――
2号橋(仮称)跡地。
ここは水無の谷、いわゆるガリーのような凹んだ地形を越える桟橋だったようだが、
まだ250mも下方にある渓谷本流が伸ばした高原侵食の尖兵とも言えるガリーは、
まさしく私にとって、行く手の平穏を脅かす魔手のようなものだった。
すっかり桁がなくなってしまった桟橋の跡を越えるためには、
ほんの少しだが、
険悪の谷に、足を踏み入れねばならないようだ。
このガリーには、何者かが設置した1本の細引きのロープが通じていた。
何者かがここを越えて先へ行ったことは間違いないが、ロープが残った理由は分からない。
少なくとも最初に設置した人間はロープを使わず対岸まで行ったはずだが、
後から来る、見ず知らずの私のような人間への親切だったのだろうか。
正直、ロープの存在は、心強さが半分と、気持ちの悪さが半分あった。
気持ち悪さの正体は、これを設置した何者かの目的も、技量も、
そして、無事に帰還できたかも、何一つ分からないことにあった。
“あんな看板”を見てしまったせいもあって、この山で見る先行者のあらゆる痕跡に、
不吉な出来事を連想してしまう傾向があった。私はとても臆病だ。
幸いにも、この場所を一見した瞬間、自力でも越えられそうだと直感したので、
ロープの有無に関わらず、ここは越えたはずだが、ここまで来た何者かが
ロープを使っていたという事実は、“そういうスキルを持つ人たち”だけに許された奥地へ、
力の足りない自分が、無謀な立ち入りを行いつつあるのではないかという不安を抱かせた。
ロープが用意されていても、私だけは引き返す、
そういう判断を下さなければならない場面は、確実に起こりうる。
意地を張って、存置ロープには触らないなんてことはもちろんなく、使えそうなものは何でも使って探索を完遂させたいスタンスで、積極的に活用した。
ただ、正体不明の存置ロープに体重はかけない。ちょっと力を添えるだけだよ。
この橋も、橋台の形状からして、前回同様のコンクリート桁橋だったと思うが、肝心の桁は目の届く範囲にはなかった。見えないほど下まで滑落したのではないだろうか。
8:48
無事突破して、振り返った。こういう場面が、あといくつくらいあるんだろう…。
チェンジ後の画像は、進行方向。
結構大きな残雪が、斜面をつくって路盤を埋めているのが見える……。
このくらいなら、この軌道歩きの最初から履いている簡易アイゼンと、手持ちのストックで越えられるだろうけど、残雪怖いなぁ……。
8:52 《現在地》
ザーーーッ!
800m地点のカーブを回ると、突然、大きな滝の音が飛び込んで来た。
あっ、
奥に滝がある!
そして手前には、橋の跡と深い切り通しもッ!!
一気にモリッと出て来たーッ!
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