2013/5/2 12:33 《現在地》
線路脇の落ち葉の中に、何枚もの標識が埋もれていたっ!
道路で見慣れた警戒標識と同じ配色だが、「落石」と書かれた標識は、正式なものではあり得ない。
警戒標識の落石注意のデザインは、皆さまもご存知だろう。
しかしこれは単に「落石」という大きな文字を置いており、小坂営林署か名古屋営林局で独自に作ったオリジナル標識に違いない。
同管内の他の路線でも同様のものが使われたと思われるが、見かけたことはない。また林鉄以外の場所で見たことも無い。
そして、埋もれていたのは、それだけではなかった!
ゴミという名の
← “語り部”たちも! →
左は、「SSK」という大きな文字と、おいしそうなサバの切り身のイラストが描かれた、おそらくはサバの水煮の缶詰。
製造業者は、缶が錆びていて完全に読み取れないが、「●●食品株式会社」「清水市築地●●」などの文字が見て取れた。そして上面を見ると、缶切りの切り口と空気穴が残っていた。
右は、アサヒビールのスチール缶だ。
注目すべきはなんといってもその上面の飲み口で、空気穴と飲み口の二つの穴を開けて飲む、プルタブ採用以前のスチール骨董缶であった。
調べてみると、このタイプは昭和33年に日本初の缶ビールとしてアサヒビールが発売し、昭和46年にアルミ缶の採用とプルタブ化によって廃止となったらしい。
さらに辺りをほじくり返すと、出るわ出るわ!
サッポロビールの同年代のスチール缶も大量に発掘された。
ここには営林署の酒飲み会場でもあったのかと思うレベルだ(笑)。
ジュースの缶は一つも見あたらず、有るのはとにかく缶ビールの空き缶(全て昭和40年前後と思われるもの)と、酒を入れていたか水を入れていたか分からないが(ここでは前者っぽい)、大量の酒瓶たちであった。
これが標識類と一緒に出土したのでなければ、「当時のハイカーが捨てていったもの」と考える事も出来るが、この状況だと林業従事者が飲んべえで、そして空き缶をポイ捨てしたと見るのが妥当かと。
(ただし、今日的感覚で「ポイ捨て」は悪事だが、当時の山村ではゴミ収集は一般的ではなく、ゴミは山の中の共同ゴミ捨て場へ運んで捨てるのが普通だった。)
標識の類も、こんなに出て来ました!
道路標識で言うところの案内標識(青看)に相当するような、行き先と距離を表示する標識板もあったが、未使用らしく、文字は入れられていなかった。
というか、これらの標識は何枚かが重ねられた状態で発掘されたので(撮影後その状態に戻した)、全て未使用品と思われる。
現在は建物の形跡は残っていないが、ちょっとした備品庫のようなものが、この場所にあったのかもしれない。
また、例のオリジナル警戒標識「落石」の表面を良く見ると、塗装の下地に新聞紙の模様が浮き上がっていた。
こうしたものの製造方法に私は精通していないが、これも標識が営林署のお手製であった証拠と言えるだろう。
夜の飯場の薄暗いランプ下で、森の男たちが黙々と標識作りをしている、そんな光景が頭に浮かんだ。
そしてこのことの副産物として、標識が作られた年代を概ね特定する事が出来た。
浮き上がった新聞記事の中に、「昭和38年9月」という文字が見えたのである。
濁河線は昭和38年に全線の敷設が終わったとされているので、その時期に標識を新調したのかも知れない。地味ながら、貴重な発見である。
これらのものが発見された場所は、一見すれば何の変哲もない
こんな線路脇だった。(写真は振り返って撮影)
しかし、この先へ少し進んでみると、
やはり「何の変哲もない」場所ではなかったことが判明する。
12:37 《現在地》
標識発見地点のすぐ先で、山側に一段高く造成された平場を見付けた。
緩やかな斜面が30m四方くらい均され、線路側には石垣が築かれていた。
建物などは残っておらず、代わりに杉が植林されていたが、植えられてからは30年くらいしか経っていなさそうだ。
ここには林業関係の何らかの建物があったと考えられる。
平場に登ってみた。
下から見たとおり建造物は無いが、林床を覆う杉の落ち枝に紛れて、綺麗な茶碗の欠片が落ちていた。
きっとこの場所には、林業従事者が住み込みで詰めた飯場があったのだ。
ここには下界との間に(索道を介した)林鉄の運行はあったにせよ、毎日の運行は基本的に木材の伐出のためであり、労働者は週5日を山中で泊まり込み、土曜の仕事が終わると里へ帰って日曜を休むという、全国の奥山といわれる山々での一般的な仕事の仕方と同じであったと思われる。
全国的に通勤での林業従事が可能になったのは、林鉄の代わりに山の隅々へ林道が開通するようになった昭和40年代以降である。
うひょ!
平場から少し先の線路を見下ろしたところ、
綺麗に分岐しているのを発見!!
駆け寄ってみると、やはりそこにはポイントを介して2方向へ分岐していく線路があった。
私の進行方向から見て二手に分かれる向きで分岐していた。
この路線でポイントを見るのは、起点の岳見台停車場以来である。
もちろんレールだけでなく転轍機も健在で、前に見たものと全く同じ、
「岩崎レール商会製造」と陽刻されたダルマだった。
そしてさらに、前とは違い…
この転轍機は、未だに地中の棒を介してトングレールと連結されており、
極めて微小にではあったが、ダルマを倒すことでトングレールを操作することが可能だった!!
上の動画では、トングレールの作動が僅かであることと、手持ちカメラで撮影しているため、大変分かりにくいと思うが、確かにピクッと動いている。
線路上の土砂をどかして多少の修理を施せば、本来のトングレールの動きを蘇らせることが、おそらく可能であろう。
これまで林鉄跡でいくつもの転轍機を見てきたが、少しでも作動するものを見るのは、これが初めてだった! 感動。
← 分岐部から進行方向を撮影。
どうやらこの先は複線になっていたようであるが、谷側の線路は、路盤ごと失われていた。
しかし竹藪の中を詳細に捜索すれば、残骸はあったかも知れない。いずれ、低い桟橋に線路が敷かれていたものと思われる。
植林された杉の幹に飲み込まれつつある、分岐部の線路。→
なお、右端に見える線路は撤去されたもののようで、谷側の線路を邪魔するように置かれていた。
分岐地点のすぐ先の風景。
ここは線路が複線になっていたはずだが、桟橋の上にあったと思しき谷側の線路は、桟橋ごと跡形も無く撤去されていた。
その理由は単に、植林をするうえで邪魔だったからだろう。
この周辺は今日これまで見てきた線路沿いのどこよりも広いスギの植林地となっており、下枝が払われるなど現在も管理がされているようだ。
そのため、軌道跡は山林作業用の歩道として生き延びることが出来たが、複線の桟橋部分は邪魔者扱いされたと思われる。
かつての復線区間は、100mにも満たない程度だった。
少し歩くと早速にして、複線を単線へと戻す2度目のポイントが現れた。
ここは少しだけ空が開けているせいで線路上の枯れ枝や落ち葉が少なく、分岐するレールの形が今日これまでの中で一番よく見えた。
ここで単線に戻ったことにより、この100mに満たない複線は、列車の行き違いのための待避所であったと結論付けた。
もしかしたら木材積み込みのための場所を兼ねていたかも知れないが、植林のために痕跡が(レールと分岐器以外)失われており、判断は難しい。
また、付属して飯場もあったので、人員を乗り降りさせる停車場でもあったのだろう。
以上のことから、ここに 上部軌道の停車場があった と結論したい。
なお、ここまで探索した距離を改めて測定してみたところ、
現在地点は、全長8.7kmとされる上部軌道のほぼ中間に当たる、
起点から4.0km附近であると判明した。
単線である上部軌道の運材列車は、この中間に近い停車場で、
上り列車と下り列車の行き違いをしたのだと思う。
こっからは、後半戦 !!
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