探索は終わったが、「解決編」としてはここからが本番。
帰宅後に「早川町誌(昭和55年発行)」を取り寄せた私は、この短い旧道が、想像以上に多彩な変遷を経ていたことを知ることになった。
一番の驚きは、
この切川隧道の旧々道が、鉄道廃線跡 だったということだ。
というか、旧々道だけではなく、旧道もまた鉄道廃線跡だったのである。
右の地図で赤く示したのは、現在の県道37号南アルプス公園線の全線(57km)だ。
早川沿いのこの道が、現在の早川町にとって唯一無二の幹線道路となっているわけだが、昔は異なっていた。
近世まで早川沿いの一帯を「早川入」と呼んでいた。
そしてこの早川入へ向かう道は何本かあったが、最も主要な道が早川入往還(桃色の線)だった。
それは現在のような川沿いの道ではなく、北側山中を通じていた。
では、現在の川べりの道は、いつ頃に開発されたのか。
その答えは、大正7年に早川電力株式会社(東京電灯株式会社、後の東京電力の母体)が早川上流での水力発電計画を決定したことにある。
早川にダムが建設されれば、従来この一帯の林産物を運んでいた早川の水運は利用できなくなる。
この補償と発電所建設のための資材搬入路として、アップダウンが少ない早川沿いに軌道を敷設することが決定されたのは、大正11年である。
そして工事はまもなく始められ、早川橋から新倉まで約20kmの東京電灯工事用軌道が、大正13年に完成した。
右図は明治時代の地形図をもとに作成した、明治期のルートだ。
当時はこの青色のラインのように道は通じていたようである。
高長隧道は大正11年竣工の記録がある。
よって、大正13年に工事軌道が全通する以前から、部分開通していたのだろう。
なお、工事軌道の軌間は762mmだったが、路盤は幅3mとして、片側に歩行するための余地を設けていたようである。
また動力は馬力で、トロ馬車と呼ばれていた。
そして昭和3年、高長隧道の西に切川隧道が開通し、軌道も切り替えられたと考えられる。
この年の1月に工事軌道は東京電灯から、新たに設立された早川沿岸軌道組合(早川沿い9ヶ村の連合会)に譲渡されている。
切川隧道が建設された経緯は不明だが、おそらく従来のルートが川沿いで危険だったために改修を施したのだろう。
運営主体が変わっても軌道は相変わらず馬力で、引き続き木材や生活物資などの輸送を担っていた。
旅客鉄道ではなかったが、(おそらく無賃で)人を乗せて運ぶこともあったという。
だが、往来が盛んになると馬車軌道は不便となり、自動車道への改修が願われるようになった。
そして昭和8年に軌道は山梨県山林課に委譲されると、軌道が撤去され、自動車道の「早川林道」となったのである。
早川町誌より転載(撮影場所は不明)
つまり、現在旧道に架かっている春木川橋は昭和8年の竣工となっているが、これは車道化に際して建設されたことが分かる。
おそらく同時期に高長・切川隧道とも拡幅されたことだろう。
なお、この2本の隧道が連結された時期については不明である。
以上が、短区間にある一連の構造物が大正11年、昭和2年、昭和8年というように微妙に竣工年がずれていたことの説明である。
道路や鉄道といった飾りや遊びの少ない公共物は、何気ない風景にも意味を見出せることが多いものである。
それゆえ、趣味の探求も無駄になることはない。これはそんな嬉しい一例である。
そして、早川入における道路と鉄路入り乱れる探索は、この一件から始まった。
改めて、明治43年測図大正3年製図の地形図「身延」を見たところ、大きな問題が発生した。
なんと、そこには既に隧道が描かれていたのである!
ここに軌道が敷設されたのは、本文中でも述べたとおり大正末。
しかし、それよりも早い段階で既に隧道は存在していた…。 そう言わざるを得ない。
この隧道、図中では1本に見え、しかも高長と切川の2隧道をあわせたくらいの長さに見えるが、さすがに縮尺が小さいので、あまりそこは拘らなくてイイと思う。
しかし、いずれにしてもこの場所には軌道敷設以前から…明治末頃から…すでに隧道が存在していたというのは、たいへんな驚きである。
この件について何か情報をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひご一報頂きたい。
あと更に余談だが、旧春木川橋には“レールが残っている”という仰天証言も頂いている。
これは遠からず、再調査する必要がありそうだ…。