廃線レポート 真室川森林鉄道 高坂ダム周辺区間 最終回

公開日 2015.12.22
探索日 2013.06.09
所在地 山形県真室川町

水の塊を背負う仮終着地、大沢川発電所


2013/6/9 8:22 《現在地》

設置された固定梯子を登って、一気に林鉄路盤と橋の高低差を詰めた。
私がここへ来るのも、来ようとしたのも今回が初めてなので、この場所がどういう場所なのかはよく分からない。
雰囲気的には、ダムの管理区画内っぽく、立入禁止のようにも予想されたが、軌道跡(あるいは川)を辿ってくる限り「立入禁止」を見る機会が無かった。
万が一関係者に見られたら、そんな風に陳謝しようなんて事を考えた。

この橋には親柱があったが、ダム側の2本に銘板は見あたらない。
橋を渡って下界へと戻る前に、折角だから、さらに軌道跡を求めてダム方向へと進んでみよう。
ちなみに、右の写真の左端に見えている入口は、ダム堤体まで続く監査廊(人道トンネル)か。普通に開け放たれていたが、現役施設であり、イラストが妙に上手い「立入禁止」の看板もあったので、立ち入りは遠慮した。



ダム側に少し移動した地点から、橋を振り返って撮影。
林鉄の探索からはテーマが離れるが、なかなか立派な橋に心が躍った。
ダム専用道路に架かる橋としては、異例な規模である。

形式としては単純なアーチ橋だが、アーチが末広がりになっており、シルエットのバランスが素晴らしい。
また、橋が空中に描き出す横のラインと、周辺の地形が見せる縦のラインの対比、および、橋の人工的な白い塗色と、周辺地形が見せる様々な暗色の対比が、本橋の印象の度合いを深めている。
橋の素性については情報が無く推定しか出来ないが、昭和38(1963)年のダム着工に合わせて建造され、昭和42年の竣工までには完成していたと見られる。

ところで、この橋と交差する地点で、軌道跡は完全に断絶している。
大沢川林道(真室川森林鉄道)の最終廃止は昭和40年で、その時に6390mが廃止された記録があるが、ダム周辺より上流の区間は、昭和33(1958)年にダム計画が決定した時点から遅くとも昭和38年の着工までには廃止されたらしい。
とはいえ、この絶壁の中腹が唐突に終点となったというのは解せないので、どこに一時的な終点が置かれていたのか、なお研究の必要がある。



8:24 《現在地》

橋を背にして上流へ100mほど進むと、そこがこの道の終点で、谷底の狭所に建てられた武骨な建造物に突き当たった。
そしてこの建物が御旗のように背負うのは、堤高57mという規模を持つ高坂ダムだ。先ほど見上げた絶壁ほどではないにせよ、かなりの高さを感じさせる。
建物とダム堤体の間がどうなっているのかは見えないが、進む道は無く、またそこに軌道跡が残っているとも思われない。
真室川林鉄跡を下流側から辿る旅は、ここで「強制終了」となった。

なお、建物は部外者が訪れることを想定していないのか、建物名を記した表札が見あたらない。これは多目的ダムとして発電機能を有する高坂ダムに付属した大沢川発電所の建屋である。管理者はダムと同じく山形県企業局だ。
建物には重厚な色合いの定礎板が埋め込まれており、そこには「定礎 昭和40年8月 山形県知事安孫子藤吉」と刻まれていた。
発電所は稼動音が無く、動いているかは不明。
また、背後のダムも放水しておらず、本来この川に迸っていた流れは全て地下の排水路に導かれているため、辺りには険悪な峡谷の風景に見合わぬ静寂が満ちていた。



そう。 ここは険悪だ。

先ほど、我々が命がけで潜り抜けてきた岩場とよく似たものが、今は川の対岸に聳え立っている。
ダムが作られる以前は、この位置から林鉄が対岸の絶壁を怖々と見上げていたのであろう。
此岸だって当時どのくらい険しかったのかは計り知れない。
第4、第5の隧道があった可能性もある。

なんてことを考えながら絶壁を見上げていると、その半ばより上の辺りに、欄干のない廃橋(廃桟橋)のように見えるコンクリートの構造物を見つけてしまった。
な、なんだあれわ?!
前後に道があるようにはまるで見えない絶壁だが…。

…いや、手元の地形図を見ると、確かに道はあることになっている。
ダムの堤上に繋がる、今いる道とは異なるダム専用道路だ。だが、その道は地形図にはトンネルとして描かれている。
また、ダム専用道路の上には、地上を通る林道もあるはずだったが…。




これ以上ダム方向に進むことは出来なくなったので、例の橋まで戻ってきた。

この後は当初の予定通り、スタート前に予めクルマを停めておいた大沢川林道まで、歩いて戻ることにする。
地形図によれば、林道との合流地点までは450mほどの道のりで、50m近い高低差がある。
いずれ、最初にこの橋を渡る事になるわけで、先ほど敢えて取っておいた橋上からの軌道跡俯瞰を堪能しよう!
(中村氏はすでに堪能済みのため、一人だけいい表情になっていたが…)


(←)まずはこれ。

渡り始めてすぐの辺りで真下を見ると、少し前にロープに慰められながら、死中求活の踏破を演じた狭隘の“コ”の字形通路が、いかにも気持ち悪そうな感じに眺められた。

あ〜。 これは気持ち悪いですわぁ…。
実際に歩くよりも、見た感じの方が余計に気持ち悪い気がする。
恐らく下に見える排水路の工事のために、幅も狭まってしまったのだろう。
今の幅では枕木やレールを敷くことが出来ず、列車が通行出来ない。




次はこれ。(→)

橋の中ほど辺りから、やや距離を取って見下ろす第6号隧道(仮称)付近の“垂壁路盤”だ。
もう少し広い範囲を写した写真が別にあるので次にお見せするが、ここで注目したいのは、矢印で示した位置に空いた大きな穴の存在だ。

この穴は崖下の川とほぼ同じ高さに開口しており、林鉄の隧道よりも断面は大きい。
路盤を踏破している我々からはほとんど見えない位置で、見えたとしてもただの崖の窪みと思っただろうが、この穴には明らかに人為の痕跡が認められる。
隧道である。

ただし、水路だ。

中村氏が対岸から良い感じに坑口を撮影してくれていたので、その写真も掲載したが、これは位置的に考えて、高坂ダムの仮排水路と考えられる。
すなわち、ダムの建設工事で河道を閉塞する際、一時的に河水を逃すために掘った隧道である。各地のダムに見られる廃物件で、湛水開始前に内部のどこかで厳重に閉塞処理され、湖底まで通じていることはない。



最後に橋上の決め写真…

いくぞ。いいか?



………ふぅ。 絶景堪能。

この風景、もし林鉄路盤が無かったら、ただ「すげーな」で終わったのだろうけど、
かつて人が積極的に関わりを持ったことにより、私にとって愛すべきものとなっている。

もちろん、人が手を加えたら何でも風景が良くなるわけでは無い。
贅沢だが、自然に対する畏怖と挑戦が汗の親しみを帯びている、この時代の道路がベストだと思う。
現代の道路だと、並大抵の自然など完全に見下してしまえるだけの力があるから、ちょっと押しつけが過ぎる。
もっとも、現代の道路が挑むに相応しい規模の自然に挑んでいるのは大好きだが。巨大橋とか、巨大トンネルとか。



唐突だが、もしかしたらこの巨巌壁の名前は、

“明神岩”

…と言ったのかも知れないと思う。

理由は、かっこいいから…ではなくて、この橋の四隅にある親柱のうち、
渡りきった右岸側の1本にのみ銘板が存在していて、そこに「明神橋」と刻まれていたのだ。
ネットで検索しても全くヒットしないこの橋の名前が判明したわけだが、同時に、
何がそう名付けさせたかという問題を提起している。

明神、語義は神の号であり、特に崇敬される神をさして、明神や大明神などと呼んだ。
この渓を天上から見下ろすような大岩に相応しいように思うのだが、どうだろう。
“明神隧道”なんて、かっこいいしな…。



長さ450m、高低差50m、平均傾斜11%という、かなりの急坂が続くダム専用道路で、一気に谷底から山腹と呼べる辺りまで上っていく。

(←)振り返れば、仮称“明神岩”との背比べの風景で、谷底近い軌道跡などは早々に見えなくなってしまった。

(→)対して、進行方向左に口を開けるのは、急激に遠くなっていく鮭川清流。
余り蛇行をせず谷幅一杯に水を湛えているこの流れを、我々は遡ってきたのである。緑と瓦礫に埋もれた路盤跡が僅かに見下ろされた。




8:47 《現在地》

明神橋から10分ばかり坂道を上ると、閉ざされた門扉が現れた。
ここが大沢川林道との合流地点である。これにて脱出完了!

この後我々は300mほど林道を歩いて、デポしていた“ワルクード”へ辿り着いた。
だが、我々の探索はまだ完全に終わったわけでは無かった。なおも林鉄を求めて。




狭いトンネルの先にある、高坂ダム


9:06 《現在地》

回収したクルマに乗り込んだ一行は、次に高坂ダムの堤上を目指す事にした。
この先は事前情報皆無ながら、もしかしたら湖に沈まなかった遺構が上流にあるかも知れない。それを探すのが最後の目的だ。
ダムを林道で素通りすることも出来たが、そうしなかったのは、初めてここを訪れる者として、挨拶が必要だと考えたからだ。

ただし、堤上に辿り着くための唯一の道路も、大沢川林道から分岐する所にはゲートがあって、「車両通行止」となっていた。
そのため、我々は行儀良く車を降りて、再び徒歩で進む事にした。

そうして2本目のダム専用道路を歩き始めて間もなく、先ほどは見上げる高さに見えた巨大なダムの天端が、今度は目線とほぼ同じ高さに現れた。
その向こうにはきっと広大な水面が広がっているのだろうが、今はまだダムの壁しか見えない。
軌道の命脈を塞いだものの大きさに、思わず嘆息が漏れた。




うおっ! 狭いなッ!

地形図にも描かれているトンネルが現れた。
だが、思っていた以上の小断面に驚く。
軽トラサイズとまでは言わないが、ダムの工事車両、例えばダンプトラックが通れるような大きさでは無い。幅も狭いし、それ以上に天井の低さがキツイ。
現状では、この道がダムの堤上へ通じる唯一の道なのだが、建設当時には道路とは違った手段で建設資材を運び込んでいたのだろう。
また、坑口に銘板などの装飾品も一切取り付けられていなかった。

なお、トンネル脇の斜面に旧道などが無いかを覗いてみたが、手付かずの急斜面しか見あたらなかった。



なるほど、こういうことだったのか!

先ほど、谷底にある大沢川発電所からこちらを見上げたときに見えた“廃桟橋”のようなものの正体は、このトンネルの途中に口を開けた短い明かり区間を蓋する洞門の天井部分だったのである。
地形図はこの短い明かり区間を描いていないが、ここに来て納得。

それにしても、このトンネルはなかなか香ばしいキワモノの雰囲気があって、良いなぁ。
さすがは、“県営ダム”だ。



いよいよ話が林鉄という本題から脱線しているが、“県営ダム萌え”というのが、私のダムに対する基本的スタンスだ。

予め言わせてもらうと、私はダムそのものに対する興味や知識はほとんど無く、あくまでもダム絡みで大規模に道路や鉄道が改変される事に対する興味が主だ。しかしそんな中でも“県営ダム”という一群のダムは積極的に好きなのだ。
何が好きなのか?
しょぼさが好き。

皆さまのお住まいの県にも沢山のダムがあると思うが、その中にいくつか他のダムに較べていかにもアクセスルートが貧弱な(←ここ重要)、余り人も訪れないダムがあるのでは無いだろうか。大抵そういうダムは県営ダムで、そうでは無い大層立派なものが国のダムである。
秋田県を例に取れば、萩形ダムと早口ダムが県営ダムだと言えば、「アーなるほど」という人もいるだろう。

基本的に県営ダムは国のダムよりも低予算で建設されているので、色々な部分で豪奢では無い。例えば、アクセスルートが未舗装だったり(大沢川林道は未舗装)、凄い狭いトンネルがあったり(ここだ)する。→たのしい。



この狭い隧道は中間にごく短い明かり区間があるが、全体としては250mくらいの長さがあり、
しかも最後は全く見通しの効かない急カーブになっているという、“業物”である。
これでは一般車両の立ち入りを規制せざるを得ないのも納得であろう。

で、カーブを曲がりきると出口で、外は即座に堤上路。
この割り切りも、好き。



9:11 《現在地》

高坂ダムの堤上に到達。
案の定、全く人のいる気配は無い。
野鳥の声が聞こえるくらいで、静かなものだった。

(←)堤上路から振り返る来た道。
堤上路のもう一端は堤端の近くで行き止まっているので、いまここでトンネルを封鎖されたら完全に閉じ込められてしまう、なんて事を想像して楽しんだ。

(→)堤上から見下ろす、先ほどまで私がいた辺り。
このアングルで初めて発電所施設のこちら側を目にしたが、案の定、軌道跡の続きなどあるはずもなかった。
これにて完全にダム下流における軌道跡探索は、“終わった”。

となると…




残すはこの湖面の先だけということになる。

昭和42年に完成した高坂ダムが形作るこのダム湖には、誰が名付けたか知らないが、梅花里(ばいかり)湖という洒落た名前が付いている。
ロシアのバイカル湖をモチーフにしたのかは知らないが、実際には梅や花や里の何れからも遠い、正真正銘の深山の気配が漂っている。
これだけの湖面(湖の長さは約4km)を作ったのに、営林署の軌道くらいしか人工物が水没していないといわれているのだから、元よりそういう場所なのだ。




さて、湖への挨拶という、ここへ寄り道した目的を達成した。
これから林道本線に戻り、クルマを使ってバックウォーターより上流へ向かおう。
湖畔の地形は起伏に富んでいるので、約4kmの湖を遡るのに6km以上は走らねばならない。
ただし、今日の水深はかなり高いようだが、最大では無いようだ。
何か水没区域でも、路盤の跡を見つけられる可能性はある。

なお、資料によると、「大川入」と呼ばれている場所が終点だったらしい。しかし、それがどこなのか不明である。新旧地形図にこの地名は書かれていない。
ただし、恐らくこの辺では無いかという場所はあるので、そこを目指そうと思う。



一行は再びクルマに乗り込んで、湖畔の林道を北上開始。

ダムに沈んだ林鉄の代わりに作られた、林鉄と同名の「大沢川林道」が、我々を誘った。




湖の上流、幻の村落跡“平家屋敷”付近での軌道跡捜索


「あ! なんかあるぞ!」

私か、他の誰が最初に見つけたか覚えてないが、車内でそんな声がして、私がクルマを停めた。

そこは、もうそろそろバックウォーターも近いという辺りで、湖畔を見下ろす少し高い所を通っていた。

あ、あれは… ↓↓



9:40 《現在地》

キタかっ?!

あの“吊橋主塔”は、林鉄の遺構なのか!!

秋田営林局… 吊り橋… うっ、     これは来てるぞ。

やべぇぞ、飛ばせ! クルマを飛ばせ〜〜!!急行だ!



9:48 《現在地》

そのまま林道を北上し、やがて完全にバックウォーターに辿り着いた。
そしてそこには我々の期待通り、軌道跡ではないかと疑われる廃道が、湖底の方向から伸びてきて林道とさり気なく合流していた。(←)

現在地から、先ほど湖底に吊橋主塔を発見した場所までは、おおよそ300m離れている。
もし我々の考え通りであったら、この廃道を辿ることで、素直に吊橋主塔に着けるはず!

さあ、もうひと盛り上がり、参りますか〜!




これがダムによって調整される前の鯉川改め、大沢川の流れの風景である。
さほど水量は多くないように見えるが、そのぶん川幅は広々としており、ダムの満水時には低い土地は全体的に水没するのだろう。好水性の樹木が生えている対岸の低地も例外では無いと思われる。

今我々が歩いている道は水面から5mほど高いが、徐々に下っている。
遠からず水没しそうな感じであり、そうで無ければならない。
そうでなければ、この道が軌道跡の続きであるという判断は出来ない。

ここでも相変わらず濃い藪を掻き分けながら、足早に前進した。




我々の期待に沿って、草むした廃道はどんどん河床との比高を減らしていく。
そして遂には山腹から離れ、広大な氾濫原である緑の大地に飛び出していくのだった。
しかも、ここに至っては道はいかにも軌道跡を思わせる築堤で、極めて緩やかに下って行く。

さらに言えば、果たしてこれは偶然なのか。
氾濫原へ躍り出ていく所には、ほんの僅かな距離ではあるが、築堤の両側にまるで並木のように桜らしき木が生えていた。
ヤマザクラならば自生する事もあるし、樹齢もそんなに多いようには見えないが…。



キタ〜!!

これは完全に主塔跡に続いてますわ!
しかも、低地に対し完全には同化しない低い築堤が、長蛇のように続いている!
きたべ!
これは来たでしょ。ダム上流の軌道跡でしょー。

それはそうと、先ほどの桜らしき並木はさて置くとしても、この土地の広々とした過ごしやすさは、なにごとだろう。
あんな絶壁で外界と隔てられた山奥に、こんな土地が隠れていたとは、まさに“秘境”。

確かにこのダムには水没集落は無かったらしいし、実際に家屋跡や移転記念碑のようなもは見あたらない。
だが、この辺りの地勢は、極めて山奥である事にさえ目を瞑れば、人が暮らしていけそうな優しさが感じられる。
あるいは、営林署の職員や木こりのなかには、季節定住をする人もあったのでは無いだろうか。



まるで、かつてここに水田があって、その夏の稲穂を連想させるような、低地を埋める濃い緑の草むらがあった。
近くで見るとそれらはユリ科の群落で、稲穂ではなかったが、花の時期にはさぞ綺麗だろう。

こうした季節水没によって強制的に更新される、新鮮な緑の大地。
その美しさを間近に見ることも、湖底探索の醍醐味だ。

帰宅後に古い文献を漁ったのだが、昭和4(1929)年刊行の「最上郡誌」に、気になる記述があった。
平家屋敷、大澤川を遡る三里余丁岳より出る渓水に沿うて稍(やや)平衍(へいえん、幅広い平らな土地のこと)の草地あり、該地に古時平氏の落人居住したりといひ傳ふ」云々とあって、現地には門前杉という老杉や、寺跡と言われる土地、田代と呼ばれる一面に萱を生やした田圃跡らしき土地などがあるのだという。また、後年にその辺りを耕していた土地の人が、古銭や漆が入った3つの甕を掘り出した云々ともあった。軌道跡とは無関係な古い時代の話ではあるが、この一帯はそんな伝説を古くから醸成する、まさに隠れ里や桃源郷を思わせる秘境だったらしい。

…平家屋敷、なんかゾクゾクするぜ。




良い雰囲気!
ただの“道路”じゃないだろーこれは!

吊橋だよ。林鉄用の吊橋だ。
鉄道と吊橋という組合せは、意外かも知れないが、林鉄の場合は結構あるのだ。

それに秋田営林局は特別。
土木学会が選定する「近代土木遺産2800選」にも選ばれている秋田県仙北市の「神の岩橋」(抱返峡谷にある遊歩道の吊橋)が、かつて秋田営林局生保内営林署が建造した日本初の森林軌道用近代吊橋であったという話は比較的知られているかと思うが、同局は全国の営林局の中で最も積極的に吊橋の林鉄活用を研究し、実際に多く架設しているのである。秋田県能代市にあった“日本一の長大林鉄橋”こと「高岩橋」も、主径間は吊橋だった。
ここは山形県真室川町であるが、管轄は秋田営林局真室川営林署。
完全に秋田営林局の範疇である。
他の地域だったらどうだったか知らないが、こと同局管内に関して言えば、「自動車道が通らなかった土地で近代的な吊橋の主塔を見た」という時点で、「林鉄遺構である」と判断して良いレベルだ。




9:55 《現在地》

真室川森林鉄道に関する具体的な遺構の最奥を更新する発見だと考えている。
ここで林鉄は大沢川の本流を渡っていたのだ。仮称「大沢川橋梁」である。

ダムが建設される前の古い地形図を見ても、この橋や道は全く描かれていない。
だが、これは地図に描かれないことが不自然と思える立派な吊橋だ。全長30mくらいはある。
かつて地形図が林鉄を描くことに対して余り熱心ではなかった事実も、この橋が林鉄用であった可能性を高めている。

記録に因れば、釜淵貯木場を起点とした安楽城林道が、多くの山を越えてここまで延びたのは、昭和14(1939)年のこと。
本線全長30kmに達する県内最長の林鉄だった。それから僅か4年で起点は変更となり、路線名の変更と共に全長は半減したが、
それでも廃止される昭和33〜38年頃まで、この橋は使われていたと想像している。



本橋については、吊橋であったことは間違いないが、肝心の主塔は対岸(左岸)の1本しか残っていない。
こちら岸(右岸)の主塔はどこへ消えてしまったのか。

その答えは、この右岸から3mほど離れた位置の水面からポツンと頭を出している、低い円筒形のコンクリート構造物が握っていると思う。
おそらくこれは、消えてしまった右岸側主塔の一部であろう。
さらに、廃止時の破壊や廃止後の洪水などの作用から、位置も本来の場所からは少しだけ下流にずれているように思う。

すなわち、“想像再現図”(←画像をカーソルオンかタップ操作で変化させてね)に描いた、向かって左側の主塔柱の折損した残骸が、現在露出している部分の正体ではないかと考えている。





なお、現役当時の風景を想像する上では、現在の川の水位は全く無視して考える必要がある。
ここはダム湖の湖底であり、バックウォーター付近でもあるので、非常に堆積が進んでいるはずだ。本来の河底は、それこそ吊橋に相応しいだけの深さ(10m以上)があったと見るべきだろう。

現在も築堤と合体した形でコンクリートのアンカーは残っており、さらにアンカーと主索を連結するための連結棒も支柱部分が残っている。
この支柱は全て切断されているので、橋は意図的に落とされたと考えられる。
また、主塔も流木等の支障とならないよう、故意に破壊されたのかもしれない。



我々はとても開放的で爽快な気分になって、この誰も見ていない主塔の周りを、さながら妖精のように跳ね回った。オブオヤジ軍団だがな。

遂には、どうせすでに濡れているのだからと、深い泥濘の湖底にまで足を踏み入れ、強引にこれを渡河せしめんとする行為にまで及んだのであるが…




残念ながら、この日のバックウォーターは、ぎりぎり渡河地点より上流であったため、完全横断は断念せざるを得なかった。

まあ、この日の水位では迂回して無理に対岸へ向かったとしても、数百メートルも行かないうちに湖底へ引きずり込まれてしまうと思ったので、これより先の湖底区間については、渇水期の楽しみな課題として残すことにした。



この“白い門”を潜り抜けた列車が、やがては驚異の絶壁に挑んでいたのだ。

木を伐って暮らしを立てるという生き方は、こんな山奥まで脈々と通じて、ひっそりと瀟洒な痕跡を残していた。





その後、我々はこの探索の最終目的地と定めていた、現代の大沢川林道の終点でもあるところの、明神沢と大沢川の合流地点(林鉄終点「大川入」の擬定地点)へ向かった。

過程となる林道が、地形的には軌道跡であると見られたが、もはや昔の顔は覗かせていない。ただの車道林道であった。


10:27 《現在地》

そして遂に辿り着いた車道の終点。

そこでは、まさに林道をさらに延伸するための架橋工事が進められていた。
林鉄はすでに過去のものだが、林道がその遺志をしっかりと受け継いでいるとしたら、全国的に林業不振が叫ばれる中にあって、嬉しいことだと思う。
もちろん、木を伐るための林道なのかどうかは、出来てみないと分からないが。



そして、歩いた。
車道の終点にクルマを停め、大沢川本流に沿って、上流へ。

だが、そこにはもはや軌道跡の姿は見つけられなかった。

つまり、これより下流に終点があった可能性が極めて高い。
また、その終点付近も林道と一体化してして、これといった遺構は残っていないという可能性が高いのだろう。

しばらく辺りを捜索していたが、ちょうど山菜採りで上流より降りてきた屈強の山衆に、「この奥に林鉄跡はありや」と問うて「無し」と教えられれば、これ以上探す事は出来なかった。

真室川林鉄の高坂ダム周辺探索には、支線などにまだ若干探索の余地があるが、本日についてはこれにて終了!
事前情報の優れていたこともあって、十分な成果が得られたと思う。



さらに発見された、“新たなる”古写真 2015/12/24追記


今回の探索のきっかけとなった、山形県公式サイト近代化産業遺産「真室川森林鉄道」に掲載されている“例の古写真”について、おそらく同日、同一箇所の、別のアングルから撮影したと見られる写真が、ある雑誌に掲載されていたことが判明した。
この情報の提供者は、森林鉄道の模型を製作されている林鉄ファン氏である。(同氏の作品「秋田風林鉄レイアウト」は、「月刊鉄道模型趣味 2015年8月号」に掲載されている。)

早速、ご提供頂いた誌面のスキャン画像をご覧頂こう。
なお右側の画像は、今回の探索で撮影した同一アングルの写真である。


交友社「鉄道ファン昭和39年4月号」より転載。

見ての通り、今回新たに発見された画像は、“例の古写真”と同じ場所を、川下側の別アングルから撮影したものとなっている。
あの地獄の様な路盤に、整然とレールの敷かれた光景が見られるとはッ!!

しかも、同じ8両編成の列車が、全く同じ位置に写っていることから考えて、2枚の古写真は同一日に撮影されたと考えられる。
これらは、列車を“最も写りの良い位置”に止めて撮影された、何らかの記念撮影であった可能性が高い。手間がかかっている。


書き遅れたが、この新たな画像が掲載されていた雑誌とは、交友社の「鉄道ファン 昭和39年4月号」である。私でもタイトルくらいは知っている、有名な鉄道雑誌である「鉄道ファン」だ。
写真は、連載記事「軽便礼讃」の第7回「森林鉄道雑記」に掲載されていたもので、記事の著者は川上幸義という人物である。

記事の内容は、全国の森林鉄道についての概観を述べたもので、運用されていた車両に重きが置かれている。
森林鉄道が全国から足早に消えていった時代に書かれた文章として、大変興味深い内容であるが、写真については森林鉄道のイメージとして選ばれたようで、本文では触れられていない。写真の解説は以下のキャプションのみである。

仁別渓谷を走る運材列車(仁別森林鉄道―秋田市仁別) '53年      写真:秋田営林局

皆さまもお気づきの通り、このキャプションは誤りである。
仁別森林鉄道にこの風景の場面は存在しない。
写真の撮影者は秋田営林局となっているので、この写真を川上氏が入手する過程で誤謬が生じたのかもしれない。

このように、撮影地については明確に誤りと分かるが、撮影年はどうだろう。
西暦1953年、すなわち昭和28年に撮影されたことになっている。
この正誤を判断する材料は乏しいが、本編で述べた通り、大沢川林道の部分廃止が行われたのは昭和33年以降であるから、なんら矛盾はない。

ところで、記事の著者である川上氏は、記事の中で、「私が20年前に勤めていた木曽には当時から立派な森林鉄道があった」と書いている。
そして、林鉄ファン氏によれば、この記事が掲載された昭和39(1964)年当時、川上氏は「鉄道友の会 東北支部」の支部長であったという。
また、同じ昭和39年に秋田営林局が発行した「80年の回顧」により、同名の人物が、昭和29年から35年にかけて、本荘営林署と村山営林署(何れも秋田営林局管内の営林署)の署長を勤めていたことが判明した。
さらに、「鉄道友の会 秋田支部」の現支部長であるミリンダ細田氏によれば、川上幸義氏は故人であるが、「鉄道友の会東北支部」から「秋田支部」が分離独立して間もない時期に、その支部長を務めた期間があるといい、かつ、秋田営林局に勤めていた川上氏と同一人物であったことが判明した。

これらの川上氏を取り巻く情報がどこへ結び付くかと言えば、本編冒頭の“例の古写真”についての山形県公式サイトの説明文――

真室川町立歴史民族資料館に保管されているもので、写真は「鉄道友の会秋田支部」からの提供

――である。

だからどうしたと言われると困ってしまうが、このように、林鉄に興味を持った人々は、私が生まれる遙か昔、それが現役であった当時から、この真室川森林鉄道の景観を愛していた。
そして、最終的に廃止された後も貴重な古写真を大切に保管していて、それらを地元へ提供するなどの「保存活動」をしたことが伺えるのだ。
景観の産みの親である秋田営林局自らが、列車を止めて、様々なアングルから記念撮影を行ったほどの“奇絶なる景観”は、これに魅了された人々の手によって語りつがれて来たのであるし、これからもそうであるに違いない。


なお、このレポートの完結を祝して、今回探索の功労者である酒井氏から、新たに1枚の写真が送られてきた。
これは、我々の探索の約3週間前、2013年5月17日に同氏が撮影していた、“決め写真” である。

藪が浅い時期ならではの飄々たる絶壁景観を、最後にご堪能下さい!


何度見ても…震える!