ちょっとした千頭林鉄探訪のメッカとなっている駐車場を後に、徒歩で軌道跡の探索へと出発する。
大小の温泉旅館が建ち並ぶ大間の集落内は道が狭く、終点間近の県道77号の路上には、まるで都会のように人や車が行き交っていた。
そこはこれまでの山峡とはうって変わって、繁盛した温泉街の雰囲気に満ちていたが、源泉が少し遠いためか湯の匂いはない。
この県道から、建物の間隙に南の山手を見渡すと、如何にも軌道跡らしい、ほぼ水平な平場の列が見て取れた。
古びた長い石垣と、まだ新しい落石防止柵の列を従えているので、実によく目立つ。
そしてこれをチラチラ確認しながら、駐車場から約300m進んだ地点が、両者の邂逅点であった。
9:04 《現在地》
軽トラがいる直角カーブは丁字路で、左にも道が分かれている。
この角には歴史の古い如意輪観音堂があり、軌道が敷設される以前(昭和5〜8年)より、ここが大間集落の入口であったようだ。
これより下は、現在の車道(大間林道)が開通してから、新たに市街化した模様である。
千頭森林鉄道および、林鉄以前の古道は、ここを左から右へ抜けていた。
おそらく大間駅はこの附近にあったのだと思うが、大間集落内の探索は未了なので、いずれ終わったら稿を改め紹介するつもりだ。
→参考:【大間集落内の推定軌道位置図(集落内の案内板に加筆)】
さて、今回の主題は集落内ではなく、こちら側だ。
路面にタイルが敷かれ、街路樹があり、ちょっとしたお洒落な公園路になっているが、ここが軌道跡であり、林鉄以前の古道である。
先ほどから林鉄以前の古道という、今まで口にしなかったファクターを持ち出してきているが、やはりここまで来たら触れないわけにはいかない。
この大間や、さらに上流のゥ村(現在は何れも廃村だが)は、何も林鉄と共に黎明を迎えたわけではなく、近世には既に暮しと往来があった。
その通路はもちろん車道ではなかったが、古い地形図を見る限り、それは千頭から大間まで、概ね軌道に近い位置を通っていたことが分かるのである。
進入開始!
9:06 《現在地》/【昭和37年地形図における現在地】
如意輪観音堂の角から脇道に入ると50mほどで未舗装になり、さらに50mでご覧の分岐地点に出る。
シチュエーションが良く、コメントするだけで思わず興奮してしまうが、この左の道が軌道跡で、右の道は古道跡である。
この分岐の光景だけで先を語るのはナンセンスかも知れないが、両者が同じ目的地を持った道だということを肯ける眺めだと思う。
おかげで、登山道の行き先案内板が極めて不親切になってしまっている。
この案内板が指示しているのは下の軌道跡の道なのだが、10人に2人くらいは(“登山”道という先入観も手伝って)上の道を選ぶと思う。
うお〜!
今にも“さっきの編成”が、カーブの向こうから現れそうだ!
ナイスなシチュエーションに胸躍る!!
次第に高低差を増していく古道と軌道跡とを隔てる石垣に、私は“巧みの技”を見た。
この石垣は軌道の建設にともなって整備されたのだろうが、地形の微妙な凹凸に合わせ、上下の石垣が鋸歯状に組み合わされているのだ。
出来るだけ土工量を減らそうとした名残かと思うが、細かな気配りがなければ実現出来ない、複雑な土木構造物といえるだろう。
これは80年余りの風雪に耐え、未だ2本の道をくっきり分明している。
この道の勾配はほぼ水平で、ごく僅かに上っている感がある。
しかし、大間集落がある谷は進行方向に向かって下りであるため、みるみる高低差が増していくのが分かる。
なお、林鉄というのは基本的に上下線非対称の運用形態を持っており(町→山は空荷で力行、山→町は満載で惰行)、多くの「山」が「町」より高標高であることと上手くリンクしている。しかし、経路の都合上この関係性が崩れる、つまり、山→町の経路上に上り坂が出来ると運用上の大きなネックになる。これを「逆勾配」という。
千頭林鉄には逆勾配の難所が何カ所かあったが、ここもそのひとつである。
古道と分かれてから100〜200m進んだろうか。
山手を見上げると、30mも高い所を真一文字に横切る古道の姿が辛うじて認められた。
しかし、あちらも小規模な石垣を従えているようで、ただの獣道然とした徒歩道ではない“格”を持っているように思われる。
千頭までの経路がどの程度軌道跡と重なっているかは不明で、おそらく、かなり長大な廃道が現存しているものと思う。
いずれ折りを見て探索してみたいものだ。
地形を考えると、相当に難易度は高そうだが…。
9:13 《現在地》
路傍に何かの小屋が出現した。
それにしても、ここは別天地のように美しい。
今にも木陰から“森ガール”が出て来そうだ。
しかし、険しを穿つ隧道擬定点まで、残り僅か600m!