2010/5/4(火) 8:43 《現在地》
これより日向林道へ進入し、寸又川谷底近くを通行する軌道跡へのアプローチを行う。
日向林道は、寸又川の右支流である逆河内川の谷へ進入するピストン林道である。林鉄時代の逆河内支線(全長3790m)の置き換えを狙って建設されたのだろうが、全長は19.5kmもあり、林鉄が辿り着けなかった奥地まで道は続いている。とはいえ、今回目指す「自転車デポ地点」までは5.5kmほどだ。
しかもこの間はほぼ全線が下り坂だ。標高1050mの現在地から、約5km先の標高700m辺りで寸又川を渡るところまで下り続け、その平均勾配は7%と、かなりの急坂である。
これは体力的には非常にありがたい“温存区間”だが、自転車での山道走行にまだ慣れていないはじめ氏のことが少し心配だ。
下り坂が上り坂以上に危険なのは当然としても、下りで頑張ってペースを上げたところで、その距離がよほど長いのでなければ、上りで頑張るほど所要時間に差は生じないものだ。
少しペースをセーブしながら下ることを内心に定めて、いざ出発!
8:45
前回最後に紹介したこの眺めは、厳密には日向林道へ入って200mほど進んだところで撮影したものだ。
道は下り坂なので、止まらずに駆け下るのは容易いはずだが、急に目に飛び込んできた湖面の青が鮮やかすぎて、素通り出来なかった。
山好きの人たちに“深南部”と呼ばれている、南アルプスの中で最も人煙疎らな秘境的領域の南口にあたる広大な緑の中に、群青のえのぐを一滴垂らしたような違和感を産み出したのは、千頭林鉄の敷設に最大の動機を与えた千頭堰堤に他ならない。昭和10(1935)年完成。この地における過去(そしておそらく未来にわたっても)最大の人工物だ。
堰堤の周辺をカメラの望遠ズームで覗くと、2週間前にあの先で行われた探索の興奮と戦慄(大袈裟ではなく)が昨日の出来事のように甦ってきたが、それがまもなく今日の出来事として「続く」ことになろうとは…。
…そう、あの数々の戦慄が、私のもとへ還ってこようとしている。一度は自らの意志で踵を返すことで生還を掴んだのに!
(前作は、写真の“★印”の地点から上流を紹介した。また、紫色のラインは、日向林道と堰堤を連絡する「歩道」で、今回探索のアプローチルートの候補となった道。だが、あれを自転車で“上りたくない”と考えたのは、納得して貰えると思う)
8:47
うひょーーー!!
4時間も続いた上り坂という抑圧からの解放は、思わずそんな奇声を発したくなるほどの爽快感があった。
分岐から350mで、一度目の切り返しカーブだ。
絵に描いたよいうな見事なヘアピンカーブで、カーブ部の道幅の広さが半端なかった。
大型の運材トラックが連日行き来していた時代を思わせる、壮大な道路だ。
現在も道自体は維持されているが、それは毎年の春にブルドーザーが入って地ならしをしているからであり、日常的な車両の通行はほとんどないと聞く。
平成16年度以降は伐採や造林といった林業そのものが全く行われていない千頭国有林において、専用林道が未だ維持されている目的は、山林管理というのが名目にはなるけれど、実質的には(数少ない)登山者の便を計っているものであり、国有林と林道の公益性を考えた“サービスのようなもの”と教えてくれた関係者もいる。実際そんなものかもしれない。
8:51
さらにその4分後、2度目の切り返しを迎えた。
1度目と2度目の切り返しの間は約1.2kmもあったが、これをわずか4分で走り抜けられるのだから堪らない。
「コレガジテンシャノパゥワァダァアアア〜〜!!!」と、さっきまでが嘘のようなハイペースぶりにドーパミンが出てしまった私は、毛穴を広げて力説を垂れた。まだ現れない、はじめ氏へ向かって。
2人は合流し、それからまたブレーキレバーを解放した。
8:57 《現在地》
分岐から1.8km下り、道が3度目の切り返しというほど鋭角ではないが、楔状の谷に沿って左へ110度ほど折れ曲がる直前で、道のすぐ下に大きな廃屋があるのを見つけた。
この林道のこの区間を通行するのは初めてだが、おそらくこれは前に見たような営林署の宿舎(跡)ではなく、民家(跡)ではないだろうか。
というのも、2週間前の探索の帰路に、私はこの少し先の山林内でも別の廃屋を見ている。その時は想定外の遭遇だったのと、日が落ちた後だったこともあり、無人境に佇む廃屋に強烈な印象を持ったのだった。(→写真1/2)
そして探索後の調べで、かつてこの辺りに「下日向」という集落が存在していたことを知ったのだ。
以下、少し本編からは脱線するが、調べたことをまとめておこう。
千頭山一帯の地形的隔絶を体感した人間の一人として、この地に(季節定住などではなく)先祖代々というタイムスケールで住んだ人々がいたことには驚きを感じており、又聞き(というか資料の受け売り)であるが、記述を残しておきたいと思った。
いや、俺は立ち止まりたくねぇ!探索の流れのままに先へ進むぜ!…という方は→ ショートカット!
B平成19(2007)年 | A昭和41(1966)年 | @明治42(1909)年 |
右図3葉は、当地周辺を描いた歴代地形図で、明治42(1909)年、昭和41(1966)年、平成19(2007)年当時のものである。
このうち明治42年の地形図には、山中に点在する10を越える数の家屋が描かれており(○で囲んだ範囲にある)、併せていくつかの地名も記されていることが見て取れるだろう。
この地図は、昭和初期に相次いで千頭堰堤や千頭林鉄といった大規模な“文明装置”が導入される以前から、寸又川上流の当地方に人が住んでいた証拠の一つである。
だが、そんな彼らの住み家は、文明の進入に土地を追われでもしたかのように、昭和41年の地図では地名と供に忽然と消えている。全国の農村部で過疎の問題が大きく採り上げられるようになるのが40年代以降だが、それよりもさらに早い段階で、この地は見放されたらしい。
現在の地図と重ねて見ると、昭和40年代から急ピッチで建設が進められた左岸林道や日向林道は、概ねかつての集落跡地を結ぶように作設されたことが伺える。
例えば前回通過した【営林署宿舎】の近くで、スギ植林地の林床を段々に地割りした【沢山の石垣】を見たが、あの一帯にもかつて集落があった。
これらの集落は、「天地」という注記のある一箇所を除けば全て寸又川の左岸、すなわち東側に点在している。
おそらくそのこと“のみ”が由来となったのだろうが、これら散居する小集落群の総称を「東側」といった。
果たしてこの地名が住民の口から出たものなのか甚だ疑わしく思える、いかにも行政上の必要から後年につけたのではないかと思えるような機械的地名だが、そのことがまた、これら集落の独特さを物語っているようで、個人的には逆に印象深く感じる。
次に、手許にあるいくつかの史料から、東側集落について述べた文章を拾い上げてみよう。
山村暮らしが全く珍しくないような早い時期から、このような険阻な南アルプスの真っ直中に孤立して暮らす人々に興味を抱く人はいたようで、色々な方面に記録が残っている。
ただ、私はあくまでつまみ食い程度に拾うだけなので、本格的に知りたい方は、面倒でも元史料に当たって欲しい。
本川根町には消えたムラがいくつかある。その一つに、寸又川ぞいにあった東側と呼ばれる地区があった。そこは、千頭から約20キロほど遡上した寸又川左岸の地で、標高は800〜900メートルに及んだ。東側の中にさらにいくつかの小字があり、山中散居のような状態だった。
そして同書は東側地区に所属した小字(集落名)として、上日向、日向、尾崎、上閑蔵、下閑蔵の5つを挙げている。
また、このような山中高地に集落が営まれた理由として、「焼畑・狩猟・採集・渓流漁撈といった原始生業要素を複合させて本質的には豊かな暮らしを繰り広げてきたのでり、そうした生業を展開するには極めて恵まれた土地だった
」と書いている。ようは、原始人のような暮らしには適しているということなのかもしれないが、「本質的には豊かな暮らし」という言葉の意味はあまりに難解で、易々と理解出来そうにない。
次は、千頭林鉄敷設前(昭和初期)に大間集落から東側集落へ行く道筋についての記述を紹介しよう。
東側へ行くには、(中略)大間川に架かる吊橋を渡り、尾崎に上る山道の途中から分かれ、寸又川沿いを1.5キロほど進むと岩穴に下る。この岩穴には昔、女賊の巨魁が逃げ込んだと言う伝説がある。岩穴から寸又川に架かる吊橋を渡り1キロほど上ると地形の緩やかな尾根筋の下閑蔵に出る。ここが東側集落の最初の一軒家である。さらに奥に向かって、なだらかな坂道を進むと閑蔵沢に出る。橋を渡って1キロほど進むと、朝日岳から西に下った緩やかな尾根の閑蔵に出る。一番上に神社があって(明治の地形図に描かれている)、その下方に民家、御料局(当時の千頭山は皇室の御料林だった)の休泊所、一番下に望月勘一氏宅の計3軒の家があった。(中略)さらに閑蔵から奥に向かって横道を進むと水量の多い日向沢の吊橋を渡る。そして、緩やかな坂道を上ると上閑蔵で石積で土留めをした比較的広い屋敷の一軒屋に到着する。(中略)さて、横道をさらに奥に進みなだらかな尾根沿いを行くと東側集落最奥の地である。平らな山道をさらに1キロほど進むと日向に2軒の民家があった。(以下略)
上記に述べられている集落伝いの道筋は、概ね明治42年の地形図に里道として描かれている道を指すのだろう。文章と地図がよく一致する。
引用ではある程度省略したが、大間集落から車の通れぬ山道を約3km歩いて、ようやく東側地区の最初の集落(一軒)に辿り着いてからもなお、最も奥に位置する日向集落まではさらに約3kmの山道があり、この大間から日向に至る全行程の(推定)累積高低差は1000mを越える!
東側地区は明治22(1889)年の町村制公布当時、千頭集落を役場所在地とする上川根村に属した。(昭和31(1956)年に同村は本川根町に移行するが、その頃には既に無人になっていた。)
いかに山奥の住人であっても、行政としては無視の出来ない構成員であり、また住民としても行政との関わりを無視して暮らすことは出来ない。
だが、あらゆる疎通のために通わねばならない唯一の道が、少なくとも千頭森林鉄道が形を表す昭和8年頃までは、並みの登山家が裸足で逃げ出しそうな前述の行程だったわけだ。(住人が林鉄を利用したという記録も見ないので、案外最後までこの独自の道を歩き続けたものかも知れない。)
さて、このような僻遠の土地における行政サービス…、いや、国民の義務として最も問題とされたのは、教育の問題であった。
この点については、次のような記録がある。
東側というのは、大井川支流寸又川沿いに点在し戸数10戸、人口約50人を有し、上川根村千頭区内に属する小部落である。生業としては、かつては焼畑農業、狩猟を主としていたが、千頭御料林の成立以降はこの領内にあることから、ここの常傭人として林業を営む者が多かった。
小学校が義務制であっても、もっとも近い大間小教場に通うにも片道15キロ、往復6、7時間も要したことで、明治25(1892)年以来義務教育を免除されていた地であった。しかし、村内の教育の普及、部落民の熱意もあって、ここに分教場を建設しようということになった。上川根村長岩田文吉は、帝室林野管理局に、当部落民が永らく千頭御料林の経営に尽くし、また火災などの変事には一身を賭してことに当たってきたことを訴え、その部落民・しいては国民教育のために、と見込み児童数・予定敷地等を添えて、建設資金の補助願いを提出した。(中略)
海抜約1200メートルの山間の地に、校舎7.5坪、教員室5坪、便所2.5坪、運動場24坪の分教場が建設され、大正8(1919)年4月20日に開校式をあげることができた。
このように多数の関係者の熱意が実って大正時代に誕生した東側分教場(後に千頭小学校東側分教場)は、東側地区のほぼ中央にある上閑蔵の見晴らし絶佳の場所に置かれ、同地の若者が代用教員として複複式学級を運営した。生徒数はだいたい12〜3人だったが、千頭堰堤工事をしていた昭和10年頃は30人くらいいたという。
その後、湯山、東側両集落とも生活の改善を求め、昭和25年を最後に全戸が大間、千頭などへ移住した。
自給自足的生活の限界や、都会的利便への羨望から、戦後まもなく無住の地と化した東側ではあったが、この後も千頭営林署による盛大な国有林経営が全山にわたって繰り広げられ、毎年全国から集まる数千人の林業従事者が長期山泊の体制で働いたわけだから、むしろ本当の意味で無人となったのは、昭和43年の林鉄廃止後、左岸林道をはじめとする奥地林道の相次ぐ開通によって山泊勤務が根絶された後か、さらに下って、合理化のために千頭国有林内の林業経営が全面休止された平成16年であるのかもしれない。
では、集落廃絶の反対となる、誕生はいつ頃に遡るのであろうか。
これに関わる記述も『千頭山小史』にある。東側を含む千頭山一帯には、江戸時代に建立された墓石や不動尊、石仏などが散在しており、古いものは17世紀後半(江戸時代前期)の記年を持つという。古文書にも、「大間川」(大間とは異なる場所)や「天地」には寛永10(1633)年頃には既に人が住んでいたことが出ており、また大間には、永正元(1504)年に「小根沢」(東側よりさらに奥、今回の林鉄探索で目指す場所の一つである)辺りに移り住んだと口伝する家系もあるという。さらに、慶長19(1614)年に千頭山から初めて御用材(駿府城本丸用材)が出材されて以降は、全山にわたって伐採が行われるようになったとしたうえで、元禄(1688-1704)に入ってからは短期間で大量の伐出が行われ、各地から1000人を越える人夫が入山しているので、彼らの中にも定住した人が一定数いたのではないかと推定している。
この記述の通りであれば、当地に住んだ人々の多くは、やはり屈強な山稼人の末裔であったということになろう。むしろそうでなければまず入り込もうとは思わなそうな山奥だ。平家の落ち武者だって、さすがにここまでは上って来るまいと思う。
…とは思うがやはり異説もあって、最後に紹介するのは、昭和10(1935)年、千頭森林鉄道の前身となった寸又森林軌道(これは電力会社の第二富士電力(株)が千頭堰堤その他を建設するべく帝室林野局の許可を得て敷設した工事用軌道であり、御料林の木材運搬も委託されていた。昭和13(1938)年2月に帝室林野局へ無償譲渡されて千頭森林鉄道となる。)の関係者が出版した、『寸又森林軌道沿線名所図絵』の中に解説されている「東側」の記述である。本書は当時流行った名所図絵であり、都人士を呼び込むための宣伝でもある。そのことを念頭にお読みいただきたい。
寸又川の流れに沿ひ大間より約十粁、戸数僅かに十戸、山々の間に点在す、万山を覆ふ四季の色彩駿遠甲信四ヵ国に跨る無尽の大御料林の抱れて寸又川の清きせせらぎの音を聞きつつ静かに眠りしこの地東側に住む人も今や大堰堤の出現により訪れ来る天下地名の人士と接し世の変転と偉大なる文化の力唯驚くの他なかるべし東側大根沢付近矢平は往昔甲州武田系の一族居住せりといふ屋敷跡あり又おみねといへる女賊四十人余りの子分を擁し常に出没して里人を脅かし人畜に危害を加へ其暴戻募りし故里人等憤然大挙して岩穴に追詰め遂に惨殺せりと云ふ其の祟りにて其後住民病魔に襲はれ再び災禍至る拠って祠を建て供養を営み其の難を免れたりと伝説のままを記す最近この寸又峡を経て光り岳に上り又信州への山越えは一層趣味ありて登山家の心を唆るべし。
こんな調子で、古来文明に浴さなかった(とする)東側を、都会人受けしそうな好奇の視線でもって描いて見せている。
そして、私が今夜辿り着きたいと願っている大根沢にもかつて屋敷があったなどと興味をそそってくるのであるのだから、なかなかに質が悪い。
さて、幻想郷と化した東側集落については以上とし、本編へ戻ろう。
9:02 《現在地》
分岐から2.6km地点で、ついに2週間前の探索で見た憶えのある場所に出た。
日向林道と千頭堰堤を最短距離で結ぶ歩道の入口である。
前回の探索の帰路のことはレポートにしていないが、無想吊橋を終えた私は、日向林道を延々歩いてここへ来て、それからこの歩道を通って自転車を停めていた千頭堰堤へ下ったのだった。日が落ちた後の話である。
そして、これは今回初めて知ったのだが、この尾根上にある連絡歩道は、千頭堰堤側(左)だけでなく、先ほど分岐した左岸林道側(右)へも通じているようだ。
地形図には描かれていないので最近新たに整備されたのかも知れないが、真新しい木製の階段が法面に取り付けられており、「光岳(てかりだけ)大無間(だいむげん)」という行き先案内の木札が置かれていた。これらの山へ上るのには左岸林道を利用するはずなので、この歩道が左岸林道まで通じていることが分かる。
この区間もおそらく明後日の帰路で活用することになるだろう。
これは、上の写真の“★印”のところで撮影したもの。
千頭堰堤へ下る歩道は、ここから入る。
朽ちかけた立て札に案内された方向に目を向ければ、そこには道などありそうもない急斜面が、そのまま谷底まで続いているのではないかと思われるほど、底知れず広がっている。
だが、良く見れば微かに階段状の木板などが置かれていて、歩道が分明される。
また、ここをしばらく下った先に、前述した日向集落の残影とみられる廃屋が眠っているのだ。
今回も帰路でこの歩道を利用することになると思うが、その時は初めて自転車同伴で通行する予定だ。
しかし、自転車を押したり担いだりして急斜面を移動するのには、それなりに経験的なものが必要である。はじめ氏のことを考えれば、すこし無理があるのかもしれないと、今さら思った。
9:05
帰路のことも考えねばならないが、今はまだ先のことが大切だ。
再出発後、見覚えのある道をさらに数分下っていくと、谷側の障害物が突然消失し、そこに寸又川の大峡谷が展開した!
先ほどまで500mの比高に隔てられていた谷が、もう100mを隔てぬところに迫る。
思いがけない短期間で再会することになった、寸又川上流の仙境。
その想定外が起きた最大の原因は、「なぜか無想吊橋の渡橋動画を削除する」という不可解なミスだ。これでは全く格好が付かないから、「病み付きの魔境」とでも言っておこうか。
実際、そのケはあったのだ。動画を削除してしまったからと、またすぐ行かねばならないなどというのは、不可解である。(約2ヶ月後の7月1日から、町と森林管理署によって無想吊橋の通行が全面禁止&封鎖され、2度と渡れなくなることを予期していたわけではない。)
2週間前は早春の淡さを残していた渓谷は、既に春たけなわで、緑と白と青の強烈なコントラストに満たされていた。
この谷底の川縁(左岸)で繰り広げられた“死闘”は公開済みだ。(→この辺りのレポート)
ここからだとまるで林鉄の路盤は見えないが、それは確かに存在する。
9:10
さらに崖上の荒々しい林道を進むと、2週間前の林鉄探索では最大の苦闘地の一つとなった“隧道”の近辺までやって来た。
おそらくこの日向林道の建設が引き金となって発生した土砂崩れが、軌道跡のある川縁を無惨に埋め尽くしていることが、こうして見るとよく分かる。
林鉄廃止後に、それを置き換える目的で整備されたのがこの林道であるから、無理もないことなのだが。
9:15
なお、軌道跡をボコボコにした大崩壊には、林道自らも巻き込まれていて、自動車の通行が不可能になっている。
分岐から約4kmの地点である。
毎年の春に行われていた(平成29年現在は不明)ブルによる路上整備がどこまで行われるのかを把握していなかったが、この直前までは綺麗だった路面が、唐突に山のような崩土に呑まれている。ちなみに2週間前も状況は変わらなかったと記憶している。
幸い、この派手な崩土の山は、自転車を押して越えることが難しくなかった。
もともとの道幅の広いことが、路上に出来た斜面の傾斜緩和に役立っている。
後続のはじめ氏の通過を見届けてから、いよいよ“廃道”らしくなった区間へ進む。
あと、自転車デポ地点まで、残り1.5km弱である。
もう少しだ! はじめさんも頑張って!!
9:27
分岐から5.3km、とうとう我々と寸又川の間の比高は、橋で一跨ぎにできるほど少なくなった。
日向林道が一度だけ寸又川本流を渡る、その名も寸又橋(昭和48(1973)年10月竣功)へ到達したのだ。
ここは海抜約700m。これまで日向林道だけで350mの比高を駆け下ってきたわけだ。
意気揚々と橋を渡りながら、上流側を見下ろすと、なんとそこに二人の人物を発見!
着ているものから推察して、渓流釣りであろうか。
“彼ら”の立ち位置には、私も2週間前に立って、この橋を眺めた憶えがある。
我々の存在には気付かれなかったのか、お互いに挨拶することもなく(声をかけるには遠い)過ぎ去ったが、偶然出会えるほどの密度で人がいることに安堵した。
というか、そう思いたかったと言った方が正確か。
まもなく私は、私の心の支えとなってくれる“文明の利器”をひとつ手放すことになる。寂しくないといえば嘘になるだろう。
9:32〜9:45 《現在地》
自転車デポ地点、到着!
寸又橋を渡って僅かに登り返した5.5kmキロポストのあるこの場所が、特に目立つ目印はないが、軌道跡への最適な進入路となる吊橋の入口である。
この進入路の存在を知れたことは、前回の探索のとてつもなく大きな成果だった。これを知らなければ、さらに大変なアプローチを計画してしまった可能性が高い。
まずは到着したはじめ氏を労った。
彼にとっても全く予想外の苦闘であったろう約18km(5時間)にも及ぶ自転車による林道走破は、今、終わりを迎えたのだ。
これより先に2日間分も待ち受けているのは、目眩く、 め!く!る!め!く!軌道跡歩行である。
これがしたいから同行を申し出てくれたのだろう!
いつもより少しだけ口数が少ない気がするはじめ氏を励ましながら、自分自身もだいぶ疲れを感じ、少し長い休憩を取ることにした。
そして休憩しながら、荷造りを解いて最後の荷物チェックを行った。
これより先は不要になるいくつかの道具(パンク修理道具や空気入れ、工具など)を自転車と一緒にデポすることを忘れない。
そういえば2人とも自転車のカギなんて持ってきてないけど、さすがに盗まれることはないよな(笑)。
約15分休憩し、呼吸もすっかり整った。
頑張ってくれた自転車を2台並べて、初めての記念撮影。
なお、入口は自転車のちょうど裏の斜面にある。
それでは、はじめさん、 征くとしますか!
ゴウゴウという瀑音がとどろく谷からは、冷たい風が常に吹き上がって頬を擦った。
背景が青みがかって見えるのは、そこに寸又峡の水面があるからに他ならない。
電力会社好みのする樹脂製の階段が、ジグザグに続いている。
あれを見よ! あってはならぬ場所に、一台の車が見えている。
何が起きたのか、だいたい想像が付いてしまう憐れな廃車を脇目に、なおもジグザグ道は続く。
下まで落ちきらなかったのは幸運で、あともう少し滑れば乗員の命は無かった。
廃車のすぐ下には、絶壁と吊橋。
絶対に架かっていてもらわねばならない橋が、2週間前と変わらぬ姿であったことに、安堵した。
9:49 吊橋到着。
対岸にあるのは、紛れもない軌道跡!
やっと戻って来た!!
この地に無想吊橋などというバケモノさえなければ、これとて一端と評価されたかも知れない、可愛らしい程度の吊橋を渡る。
20m下には、これから私たちが目にせんと志す全ての“軌道跡”を既に眺め終えてきただろう渓水が、半端ない速度で奔り去っている。
すぐ上流には、先程来の瀑音の発生源である、打ち破られた巨大な堰堤の姿。谷の水量は、2週前よりも少しだけ多いかも知れない。
それは軌道歩きをするうえでいいニュースではなかったが、進むほど水量は減るはずだから、それに期待しよう。
9:51 軌道跡タッチ!
これより、上流へ向けて進行をはじめる!
まずは、前回探索の終点である「大樽沢橋梁」(約1.5km先)を目指す。
栃沢(軌道終点)まで あと9.8km
柴沢(牛馬道終点)まで あと18.2km
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