廃線レポート 富士電力大間ダム工事用軌道 最終回

公開日 2020.12.29
探索日 2019.05.23
所在地 静岡県本川根町

水の落ちるところをゆく



2019/5/23 8:47 《現在地》

2本目の隧道の横坑から戻ると、本坑の出口が見通せた。
横坑は全長100mほどの隧道の中間付近にあった。

チェンジ後の画像は、反対に横坑の入口を振り返って撮影したもので、本坑の入口はカーブの向こうなので見通せない。
また、本坑の両側の壁に緑色のスプレーで何かが書かれているのが目に付いた。
まさか、こんなところに落書き……?




その、まさかだった。

「 98/11/7 いく トモか イオ゛」

「 赤松レ ともか�� 」

ちょっと解読不明な所もあるが、おそらく平成10(1998)年11月7日にここを訪れた人物がいて、到達の爪痕を残そうと考えたものらしい。(昔のドラクエのパーティみたいなメンバー名…) 当時の状況はもちろん分からないが、廃道状態だったことは間違いないだろう。



出口が近づいてきた。
地上に出ても絶壁のようなところなのか、手摺りがあるのが見える。
しかし、現地の私は、あまりそういう遠くにことに意識を向けられないくらい、“刺激”を受けていた。
それがどんな刺激かというと…… 写真では伝わらないことなので、次の動画を見て欲しい。




土砂降りを越えた、ゲリラ豪雨だ!

天井付近の至る所から、滴るどころではない勢いで、「南アルプス天然水」が流れ出していた。
こんなに水が流れ出しているということは、それだけ地下水脈という名の亀裂が周囲の岩盤を走っているということだろうが、それでも隧道は安定しているらしく、洞床には一つも大きな岩の欠片が落ちていない。
非常に堅牢な岩盤に隧道があることが窺える状況だった。

当然、固い岩盤での隧道工事は至極な難工事であったはずで、横穴は工期短縮のために隧道の中間部分からも掘り進めた名残であろう。
あんな横穴へ外部からアプローチするのは大変だったはずだが、この隧道における横穴の存在理由としては、そのくらいしか考えられなかった。ズリ出し用としては過剰だ。




8:48 《現在地》

最後まで土砂降りの中、汗ばんだ額を爽快に洗われながら、緑鮮やかな地上へ。
事前情報の通り、2本の隧道は確かに健在だった!
そのうえ、思いがけない風景もみせてくれた。
今回の探索のハイライトは、間違いなくこの隧道だったと思われる。

あとは、これがどのようにして私と多く皆様の既知の風景である大間ダムや既存遊歩道と接続するのかということが、注目される点となろう。
もしかしたら、どこかへ通り抜けできるようにはなっていない可能性もあるわけで、まだ油断は禁物だ。(とはいえ残り200m程度であり、何とかなるものと確信していたが)

さあ、私はどこへ出たんだか、見せてみろ!





山汁ブッシャー!

出鼻を挫く、滝行のような水しぶき。

外へ出ても、隧道内と同じ勢いで頭の上から水が落ちてくるのはどういうことだ?!

上の動画は全天球動画なので、グリグリして私の上の方がどうなっているのかを確かめてあげて欲しい。




(写真右下に見えるコンクリートが坑門である)

答えを言うと、ずばり、滝の降り注ぐ所に出てきたという驚きの展開。

しかもその崖がいい感じにオーバーハングしているもんだから、
谷風の影響もあって、道の全体に断続的に水が落ちているという状況だった。

この眺めは一見の価値があるもので、今の歩道にはない優れた観光資源だと思うが、
安全確保を優先すれば、こんな所に観光客を立ち入らせることはもう無理な世の中なのだろう。




これは坑口脇のちょっとしたテラスのような岩場に立って、下を覗いてみた眺めだ。
凄くいい景色だが、ちょうど滝壺のような水の当たり方をしているので、長居するとびしょ濡れ待ったなし。
あと、足元が滑りそうで普通に怖い。もし足を滑らせたら、これは100%助からない。
旧道でもありはしないかと崖の奥も覗いたが、あるわけ無し。

この一連の二連隧道(表現?)は、隧道そのものよりも、両坑口や横穴が接する地上部分に見所があったが、
これは隧道を最小限度の長さに留めようとした設計思想を強く窺わせるものだった。
今の天子トンネルのように、ある程度の長さを甘受して、真に険しい部分の前後にある緩衝帯も潜っていたら、
ここまで出入口がクリティカルな景色にはならなかったのである。

建設された年代的には、千頭林鉄(寸又川軌道)の天子トンネルが僅かに先で、工事用軌道は数年後だったわけだが、
工事用軌道は半永久的に利用するものではないだけに、よりコスト重視の設計になったのだと想像できる。
まさかそれを後から遊歩道にして使おうというのも、無謀に寄った勇気ある決定だったと思うが、そういう時代の寸又峡温泉は、
林鉄に独自の客車列車(無料)を走らせて集客していたくらいだから、安全意識が今とは全く違っていたのだろうな。



ちょっと離れると、もう緑が鬱陶しい感じになるが、路肩の向こうは大展望だ。



これが進行方向の眺め。

地形的に、全くのゼロから崖を削って作り出した路盤だと思うが、往時の道幅が完全に維持されており、
そこが新たな林床になって、峡谷の緑化に一役かっていた。堅牢な岩盤から作られた路盤は強い!!

そして、背景に同化していて目立っていないが、道を通せんぼするトラロープがあった。
木の幹に埋れかけており、相当に古そうである。遊歩道時代の最後を伝えるものなのか?
そういえば、このトラロープって、さっきの横坑のところにもあったよな……。
いずれのトラロープも、始めは私の進路を塞いでいたのだと思うが、どちら側に対して塞いでいたのかが問題だ。

私はいま、封鎖の“外”なのか、“内”なのか?



8:53 《現在地》

なんだこれ?!

吊橋の主塔だ! 人道サイズの。

おとな一人の幅しかない入口は、工事用軌道時代の構造物でないのは明らかで……。




隧道から僅か50mほどの地点に待ち受けていた吊橋……跡。

残念ながら、橋は架かっていなかった。ケーブルも残っておらず、意図的に撤去されたのだろうか。

対岸の主塔が25mほど先に見えたが、なぜか片方しかなかった。折れたのか…。

そして、ここで左へ視線を転じると……。




またしても滝!

吊橋はこの滝を真っ正面から眺めることができる装置だったのだろう。

地形図を見ると、滝の落ち口のさらに上方を右岸林道が横切っているはずなのだが、全く感じなかった。




これを越えれば…………?

風景の険しさは、相も変わらず奥地の果てしなさを彷彿とさせるものがあるが、

距離がもう、残ってねぇんだわ。GPSの現在地が、どう見ても大間ダムに寄っているんだわ。

ゴールが見えなきゃおかしい!




大間ダムまで 残り推定.1km



終点? 大間ダムへ到達


2019/5/23 8:58

滝が懸かる擂り鉢状の谷を横断する主塔だけが不完全に残る吊り橋跡を横断するのは、意外に簡単だった。
谷の周囲に崖錐斜面が発達しており、どこでも歩き回れる状況だったからだ。

谷を越え、対岸の主塔が載った石造橋台跡(軌道時代の物っぽかった)を目印に、対岸路盤のあるべき高さに復帰したが、写真の通り、道は現われなかった。
千頭林鉄の探索でも飽きるほど歩かされた、ただの崖錐斜面と化してしまっていた。
20mほど上部に、天子トンネルから出てきたばかりの右岸林道(千頭林鉄跡)が並走しており、崖錐踏破の虚しさを感じた私は一瞬脱出も考えたが、この道の末路をちゃんと確かめなければならないという使命感を思い出し、怠い崖錐の横断に数刻取り組んだ。




吊橋跡の時点で、GPSの現在地はほとんど大間ダムに近接していたのだから、崖錐斜面も長く続くはずはなかった。
100m足らずで、遂にこの道のゴールと見られる明るい気配が、前方に漂ってきた。
にわかに崖錐の中から古い路肩の石垣も現われ、路盤が原形を復し始めた。

そんななか、これまでこの道で目にしてきた物とは異なる“現代感”を漂わせた建造物が、二つ同時に、目に飛び込んできた。
それらはいずれも、私の進路を妨げるように存在しており……。



明るい広場の前に待ち受けていたのは、廃道を塞ぐ用途では最もお馴染みなアイテムである金属製の網フェンスと、そのフェンスを乗り越えてくるモノラックの線路だった。

前者は、この先が大間ダムの管理敷地内であることを示唆しており、乗り越えることには躊躇いを憶えた。
そして後者は、古い軌道跡を辿っていて現役の軌道に出会うという、新鮮な驚きがあった。

フェンスを越えてきたモノラックは、軌道跡を無視して上方へ急登していた。
その行方にあるのは右岸林道であり、ようするにこれは林道よりダム管理に必要な資材を運び込むための単線軌道なのである。現役施設に違いない。




フェンスの内側にあるこの広場をモノラックが我が物顔で横断しているが、本来は80年も昔に短期間使われていた工事用軌道の終点付近であり、賑々しく複線以上の配線がなされていたものと思われる。
モノラックのおかげでこの敷地は維持されており、工事用軌道跡の全線の中でも特に原型を止めているようでもある。




しかも、軌道跡の終点駅付近にモノラック乗降のためのプラットホームがポツンと設えられていたのであるから、土地に根付いた“駅”の気質が時代を飛び越えて生きているような感激を憶えた。

もっとも、水平方向の輸送施設であった工事用軌道に替わっていまあるのは、右岸林道と大間ダムの上下方向を連絡する落差70mほどの単線軌道であるから、駅位置が共用であっても存在の意義はまるで変わっていた。




モノラックプラットホームからは、大間ダム対岸の少し高い位置に、現在の寸又峡遊歩道の終点である尾崎坂休憩所が見えた。
飛龍橋で大間ダム湖を横断した千頭林鉄はあそこを通過し、さらに奥地の千頭ダム方面へ通じていた。

我が工事用軌道は大間ダムに到達したので、もうこの辺で終わっていいが、明確な終点と分かるモノを求めて、さらに無人の発電所構内にある水平敷地を前進する。




目立ちたくないのであまりウロウロしていないが、引き続きの軌道跡とみられる構内の水平敷地から眼下に目を向けると、3〜40m直下に白濁した水を湛えた大間ダムが見えた。
このダムは堤上路へ通じる道路を持たない谷底の孤立したダムである。
工事用軌道から見てもなおこれほどの落差があるが、周囲にあるいろいろな管理施設ともども、工事用軌道の活躍の上で完成したのである。

ちなみに、昭和50年代に中部電力の手でダムの嵩上げや管理施設の改築を含む大規模な改修が行われているので、現在の施設の配置は当初から大きく変わっているようだ。
写真左の土台だけが見える建物もその一つで、旧管理所の跡地だろう。




連続する水平敷地(山側は古い石垣あり)は、現在のダム管理所の建物に突き当たって終わってしまった。
この建物は前述の通り当初からのものではなく、なんとも横やりを食らったような軌道跡追跡の終点となった。

引き返そうかと思ったが、終点から金属の階段通路があり、現在の遊歩道に抜けられそうだったので進んでみた。
ちなみに、軌道跡が遊歩道として使われていた時期があったと思うが、その頃も建物はここになかったはずだ。




9:05 《現在地》

階段を上ると、案の定、見覚えある場所に出た。
フェンス扉の向こう側にあるのは、ここは右岸林道と夢の吊橋を結ぶ現在の寸又峡ハイキングコースである
閉ざされた扉をワルッとして、何食わぬ顔で遊歩道へ脱出した。

脱出して、上へ向かえば右岸林道、下へ向かえば夢の吊橋だが、地形を俯瞰し、探索を総括すべく、上へ向かった。




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

右岸林道から夢の吊橋へ降りていく急階段の入口に立って、全天球カメラを構えた。

ここから見ていたのでは、今回探索した工事用軌道の存在はまず窺い知れない。
移設後のダム管理所が邪魔をして、眼下に横たわっていた工事用軌道跡が目立たないのだ。
しかし、その真の終点は、一般人が立ち入られないフェンスの内側ではなく、
日々大勢が行き交う夢の吊橋遊歩道の路傍であることが、いま判明した。

最後にその地点を目指してみよう。
「目指す」といっても、足元の階段を降りるだけで着くのだが。



工事用軌道は、移設後のダム管理所の敷地を貫通して、上流側へ伸びていた。
電光形の金属階段で降りていく現在の遊歩道が、地面に降り立った地点が、この工事用軌道の路盤である。
つまり、旧遊歩道と現遊歩道の分岐地点も、そこにあったのだろう。

(チェンジ後の画像)
だが、工事用軌道跡が現遊歩道として使われている部分は、わずか30mほどでしかない。




9:08 《現在地》

複線幅のままで唐突に終わる水平路。
今は使われていない何かの工事施設のコンクリート擁壁に突き当たっていた。

大間ダム工事用軌道、終点。

遊歩道らしく綺麗に玉砂利が敷かれたこの場所に、景色を作り出した無骨な男たちの汗と体臭を想像する人が、どれほどいるだろうか。




振り返った先を塞ぐ高いコンクリートの向こう側に今も眠る、

半世紀前のおぞましい【遊歩道の闇】を想像する人は、

もういない。




机上調査編 〜大間側線から寸又峡遊歩道へ〜


現地探索により、匿名読者さんから寄せられた情報の通り、寸又峡温泉の外れにある草履石公園から大間ダムの管理所へ至る、2本の隧道を有する約1kmの“廃道”の実在が確かめられた。
情報提供では、この廃道の正体は、大間ダムの建設資材運搬用の鉄道跡とのことであったが、明らかに“そのままの廃線跡”ではなく、廃止直前にはハイキングコースのように利用されていた形跡が認められた。

帰宅後の机上調査では、1.工事用軌道としての開通、 2.遊歩道としての再利用、 という二つのフェーズを想定し、それぞれの実態を明らかにすることを目的としたのであるが、総括的な情報を期待した『本川根町史』シリーズには、1.2.いずれについても情報がなく、そのため様々な文献に当たって断片的情報を集めることとなり、思いのほか調査は難航した。



1.工事用軌道としての開通

大間ダムが建設された経緯についてはレポート第1回導入部で既に述べた通りであるが、復習すると、富士電力およびその傍系である第二富士電力による水力発電計画に起因するものであり、現在の管理者である中部電力の管理下になったのは戦後である。
大間ダム(大間発電所)は、昭和10年に完成した千頭ダム(湯山発電所)に次ぐ施設として、昭和11年に着工し13年8月に完成している。
この工事を全面的に請け負ったのは間組で、同社の社史『間組百年史』には工事用軌道のことは出ていないものの、ダムや発電所そのものの工事とは別に「大間発電所工事用材料輸送工事」をも請け負ったという内容があった。これが、工事用軌道の敷設を指していると考えている。

また、千頭森林鉄道のうち千頭〜大間〜千頭ダムの区間は、千頭ダムの資材運搬や流木補償の目的で、富士電力により昭和6年から8年にかけて順次開通したもので、当初は寸又川軌道と呼ばれていた。実際に工事に当たったのはこちらも間組である。
寸又川軌道とその大間川支線は、一連の水電工事が完了した昭和13年に、千頭御料林の管理者である帝室林野局に無償譲渡され、以後昭和43年に全廃されるまで国有林森林鉄道として活用された。


『千頭森林鉄道 30年のあゆみをふりかえって』より

大間ダムが着工した昭和11年時点で、建設予定地の隣接地には寸又川軌道が開通していたが、軌道とダムの間には7〜80mの大きな高低差があり、しかも非常に急傾斜な峡谷斜面のため作業スペースを採ることが難しい地形条件である。

そのため、現地の1km手前で大きな平地を持つ大間(寸又峡温泉)に作業ヤードを設置し、そこからダム現場まで支線(工事用軌道)を敷設して工事に当たったと考えられる。
工事用軌道は現場との高低差を出来るだけ減らすべく、寸又川軌道の20mほど下に建設された。

左の写真は、千頭林鉄を写した有名な写真で、いろいろなところに引用されているが、尾崎坂付近から大間ダムを見下ろしている。
大間ダム関係の施設が崖にへばり付くように建ち並んでおり、両岸とも極めて切り立ったV字谷であったことが見て取れるだろう。

このアングルだと対岸にも千頭林鉄が見えるはずだが、一番目立っている対岸のラインは、実は千頭林鉄ではない。
高さ的に、そこにあるのは今回探索した工事用軌道跡である(赤線)。
昭和50年代に大間ダムでは大規模な改築が行われ、現在と管理所の配置が違っているのだが、これが撮影された昭和40年前後は、今のように管理所は軌道跡を寸断していなかったことが分かる。


状況証拠的に、もはや十分に工事用軌道の存在が肯定できると思うが、残念ながら工事用軌道の開設に言明した一次資料は未発見である。

一次資料として最も期待されたのが、昭和17年に大間ダム建設の当事者である富士電力が刊行した『富士電力株式会社十五年史』という資料だ。
そこには確かに、同社が第二富士電力を設立して大井川水系での水電事業に取り組んだ経緯が述べられており、寸又川軌道についても、次のような“当事者感”のある記述を見つけることが出来た。

千頭付近から現場まで約20kmの軌道は、第二富士電力会社の特設で、設立と共に、諸般の準備を了え直ちに起工したが、この地方は、山岳重畳、断崖聳立の昼なお暗き人跡稀な幽渓で、時々、野猿猛熊が出没し、敷設工事は、その間を縫って、隧道や桟橋を設ける箇所多く、非常な難工事であった。
『富士電力株式会社十五年史』より

しかし、この軌道の活躍があって千頭ダム(湯山発電所)を完成させ、分社であった第二富士電力を再び合併して富士電力として次に当たった大間ダム(大間発電所)の工事については――

湯山発電所竣功後、大間発電所建設工事の着手準備をなし、一年後起工したが、上流御料林の木材は、当社の新設軌道により、千頭駅まで搬出し得、従来の川狩による損傷流失を防止し、間接ながら、国産に寄与した。斯くて、高さ150尺の高堰堤による有効3000万立方尺の貯水池と、○○○○(脱字)キロワットの大間発電所は、同所と湯山発電所との連絡送電線路と共に、昭和13年12月竣功した。
『富士電力株式会社十五年史間組百年史』より

『寸又森林軌道沿線名所図絵』より

――とあるだけで、『間組百年史』が触れている工事用材料輸送工事については、言及がない。
だが、下線部の言及が私には意味深に思われる。
つまりこれは、大間ダム建設工事時点の寸又川軌道では(いうまでもなく民業に優先する皇室の事業である)御料林運材が盛んに行われていたので、狭隘な大間ダム建設現場の軌道上に多数の工事用車両を運行、停留させることは、運材の妨げとなるので憚られた。そのこともあって、作業ヤードとして適切な土地がある大間からダム現場までは、既設の寸又川軌道を用いず、新たに(今回探索した)工事用軌道を開設したのだと読み取ることは、無謀ではないように思われる。

右の写真は、寸又川軌道時代に写されたもので、アメリカから輸入したプリマス社製の機関車がトロッコや人員を輸送している姿が写っている。(撮影地はこの回の7:54の地点だろう)
橋は木造ではなく永久橋になっており、一般的な工事用軌道のイメージよりも上等であるが、重量物を運んでいたことや、将来的に帝室林野局に譲渡する契約があり、その規格に合わせ建設されたことから、このような立派な工事用軌道になったようである。
もっとも、譲渡の対象外であったはずの大間ダム工事用軌道の部分について、橋梁が木造でなかったかどうかは、記録がなく不明。

次に別アプローチとして、大間ダム建設工事の最中か直後に現地を訪れた者の紀行文の捜索も行った。
だが、工事期間は昭和11年から13年までと非常に短いことや、その後は戦争に突入したことで、該当するものを発見できなかった。
そこで、近い時期の昭和3年から8年頃の紀行とされる(文中に明示がなく正確な時期は分からない)平賀文男著『赤石渓谷』(昭和8年刊)を見たが、「オサキ坂からトンネルをくぐって、新しい2間幅の道路を30分で大間に着き、大日ホツのトンネルを過ぎると、千頭に通じている約18kmのりっぱな道……」という記述があった。これはまさに当時の寸又川軌道(工事中でレール敷設前とみられる)を、天子トンネルから大間集落を過ぎ大日山隧道まで歩いた貴重な記録であるが、この時点では存在しなかったはずの大間ダムや工事用軌道のことはもちろん出ていない。


「千頭森林鉄道と智者山軌道」(『産業遺産研究第6号』所収)より

なお、これは一次資料ではないと思うが、工事用軌道について言明した文献を一つだけ確認している。
それは、中部産業遺産研究会が平成11年5月にまとめた『産業遺産研究第6号』に所収の白井昭氏の論文「千頭森林鉄道と智者山軌道」である。
この20ページもある論文、千頭林鉄の調査を試みる者にはぜひ一度お目通しいただきたい優れた内容で、私も最近まで知らなかったことを恥じているが、既存文献以外の白石氏の研究成果もソースになっていて、右図のような手書き感のある地図と共に、1行分の重大な記述があった。

千頭ダムに続いて昭和11年には大間ダムの建設が始まり、大間停車場からダムサイトまで側線が建設され、今も一部その跡を残している。
「千頭森林鉄道と智者山軌道」(『産業遺産研究第6号』所収)より

「大間停車場からダムサイトまで側線があり、今もその跡がある。」
まさしく今回探索したもののことであろう。
ここで側線というワードが出てきた。鉄道好きの人にはお馴染みだろうが、鉄道線路のうち常用される本線に対して、操車用や引き込み用などに用いられる線路を指す用語である。

右図には、千頭林鉄とその支線に加えて、千頭駅で接続した大井川鐵道大井川本線や井川線に加え、こうした側線も記載されている。
たとえば、大井川本線の崎平駅に側線があった(図の青丸)。これは現在、中部電力大井川発電所のアクセス道路として、当時の隧道も含めて現役である。大井川発電所は大井川電力という会社が昭和9年に着工し11年に完成したもので、昭和10年から18年まで側線が利用されていたという。

よく知られているこの側線と同じような仕組みのものが、寸又川軌道の大間駅(図の赤丸)にもあったというのは、分かり易い説明だろう。
こちらも崎平と同時期の昭和11年から13年まで富士電力によって利用されていたが、崎平のように発電所アクセス道路にはならなかったし、千頭林鉄にも引き継がれなかったために、あまり記録が残らず、存在をほぼ忘れられてしまったようなのである。

以上が、大間ダム工事用軌道、あるいは寸又川軌道大間側線と呼ぶべきものが誕生し、数年間だけ運行されていたことに関する、現状得られた全ての調査結果である。



2.遊歩道としての再利用

現地の状況からして、遊歩道時代があったことは間違いないと思うが、このことについても『町史』には一切記述がなく、頼りにしたのは各種の紀行文だった。
まずは、寸又峡温泉の観光地としての黎明を概観したい。

寸又峡が観光地として一般に知られるようになった大きなきっかけは、昭和37年に湯山から大間川を横断する引湯施設が完成し大間に寸又峡温泉が誕生したことや、昭和43年の奥大井県立自然公園への指定も大きかったが、一番は昭和43年2月に発生し、ブラウン管を通じて全国に劇場型の事件報道がなされた、寸又峡温泉を舞台にした金嬉老事件であったといわれる。
だが、これらの出来事の遙か前から関係者による地道な集客の努力が行われていたことは注目される。


『RM LIBRARY96 大井川鐵道井川線』より

中でも私が特筆したいのは、戦後間もない昭和28年から、地元観光協会が大井川鉄道、中部電力、千頭営林署などの協力を得て実現した、観光列車「すまた号」のことである。
それまで旅行者が寸又峡を訪れようとすると、千頭から森林鉄道の運材列車に(非公式的に)便乗するのが基本であり、観光バスが通る道路などは全くなかったことが不便であった。

そこで、千頭森林鉄道の千頭〜大間〜尾崎坂間に、特別仕立ての客車列車を運行し、観光客を無償で乗車させた(当時の地方鉄道法や軌道法で認められた鉄道ではないので料金の徴収は出来なかった)のである。
この極めて珍しい森林鉄道の線路上を走った一種の遊覧鉄道は、昭和38年に現在の県道である林道が開通し、路線バスが寸又峡温泉に入るまで、長期間にわたって運転された。

右写真は、この「すまた号」の姿を捉えた貴重な1枚だ。
今も観光名所として愛されている飛龍橋を、中部電力のディーゼル機関車が牽引する1両だけの客車列車(遠州鉄道で使われていた物という)が渡っている。
観光列車の終点は飛龍橋を渡った先の尾崎坂で、そこから乗客は歩いて夢の吊橋を通って大間ダムを横断、寸又峡温泉へ戻るという1周コースが定番だった。



『賛歌 千頭森林鉄道』より

こちらは同じ年代に撮影された林鉄大間駅の風景で、ちょうど現地レポートの【1枚目の写真】と同アングルである。

注目すべきは、前方の“安全門”(線路や道路を跨ぐこうした構造物の名称)に掲げられた、「歩行厳禁」の大きな文字だ。
観光列車も走った千頭林鉄の路盤上を観光客が歩いて飛龍橋方面へ向かうことは堅く禁じられていたのである。

しかし、門の右側にある看板には「寸又峡キャンプ場入口」という文字も読み取れる。
このキャンプ場は現存しないが、飛龍橋を見上げるような位置にあったらしい。(おそらく以前歩いた夢の吊橋の旧遊歩道沿いの【この広場】だと思う)
どうやってキャンプ場へ行けばいいのかが、この写真からは読み取れないが、フレーム外の右側に今回私が歩いた道がある。

現在、飛龍橋や夢の吊橋を目指すハイカーは、全員、林鉄の廃線跡である右岸林道を歩いて行くが、林鉄が健在だった昭和43年までは、それが許されていなかったことがはっきりした。
ここまで書けばもう、今回探索した道が遊歩道として必須の存在であったことは明らかだ。
なので調査の最後には、実際に旧遊歩道を歩いたという証言を探してみた。


次に紹介するのは、月刊誌『温泉』昭和40年12月号に掲載された橋本広介氏のエッセイ「飛竜橋幻想 寸又峡温泉にて」の一部だ。
時期的には、既に「すまた号」は廃止されているが、林鉄自体は健在であった。
本文は次の書き出しで始まる。

寸又峡の紅葉を夕映えどきに見よう――と私は飛竜橋へ直行した。
(中略)
まがりくねって流れる寸又川の両岸の原生林は、紅、橙、黄と色とりどりに紅葉していた。対岸の裾の一段とあでやかな濃い紅は、“高雄モミジ”であろうか、それとも“ナナカマド”であろうか。雉子が一と声、啼いて飛び立った。空がすんで静かな山峡は流れの音ばかりだった。トンネルの入口が見えてきた。古びた亀裂のあるコンクリートに黄ばんだ蔦の葉がからみあっている。 (つづく)
『温泉 昭和40年12月号』より

彼は、夕暮れ前に寸又峡温泉を経って、1.5kmばかり奥地の飛龍橋を目指している。
現在の感覚だと右岸林道を歩いていると錯覚するが、この時点では林鉄が存在していて、歩行は禁じられていた。
なので、見えてきたトンネルは、天子トンネルではあり得ない。今回探索した右写真の隧道だったはずである。
文章は続く。

大井川水系には、既設の大小八つの電源と未設工事中の五つはいずれも、中部電力会社の開発したものだが、この会社は以前は日英水電といったと思う。このトンネルもその頃出来たものかも知れない。 (つづく)
『温泉 昭和40年12月号』より

鋭い!
これが水電工事によって掘られた隧道であることを、見抜きかけている。
ちなみに、日英水電という会社は富士電力よりも先に、大井川水系では最も早く水電事業に取り組んだ会社であった。

トンネルは「くの字」に曲がって凡そ100m、その中央に窓があり明りとりの役目をしている。窓から岩にしがみついているような高山植物“岩松”の密生しているのが見え、手がとどきそうである。ある観光客が、身を乗り出して、岩に足をかけ取ろうとして、足をすべらし渓谷に転落したそうである。7、80mもあるので、もちろん即死したというが、心なき人々への警告となったようだ。 (つづく)
『温泉 昭和40年12月号』より

隧道内部の状況が明らかにされるに至り、これが天子トンネルではないことがはっきりした。
くの字の線形に中間部の明り区間とは、完全に今回の隧道だ。
そして、ここに手摺りが設けられている理由らしきものも述べられている。案の定というべきか、不幸な事故があったらしい。

トンネルを抜けると、大間ダムが見える。寸又川と大間川の合流する水をせき止めた濃緑色の水面は神秘的だ。紅葉は七分というところで、黄昏の夕陽にてり輝き、額縁にいれたいような風景である。(中略)
ダムの上は、定員5名の“夢の吊橋”がかかっている。(中略)飛竜橋見物は、この吊橋を渡るか、遠回りだが森林軌道に出て線路伝いにいくしかない。 (以下略)。
『温泉 昭和40年12月号』より

このように、昭和40年時点では、間違いなく工事用軌道跡が飛竜橋や夢の吊橋方面への遊歩道として使われていたのである。
しかし、同じ雑誌の同じ寄稿者による6年後の文章では、状況が大きく変化していた。
『温泉』昭和46年8月号は、「奥大井 寸又峡温泉特集」と銘打たれており、橋本広介氏による長編記事「郷愁の中の寸又峡温泉」には、次のように書かれていた。

寸又峡の見どころとして、誰でも指を屈するのは“飛龍橋”と“夢の吊橋”である。温泉街から往復1時間20分とみればゆっくり探勝できる。
つい最近までターミナルの奥の方を営林署の森林軌道が通っていたが、レールを外し道路としたので飛龍橋へ行くには便利になったが、以前のプロムナードを歩くよさには敵わない。新道はプロムナードの上になっているので道路建設工事で、落石その他による被害をうけたので整備するまで歩行禁止となっているようだが一日も早く再開して欲しい。 (つづく)
『温泉 昭和46年8月号』より

金嬉老事件で一躍有名温泉地の仲間入りをした寸又峡温泉は、近代化の真っ只中にあった。
林鉄廃止後、その跡地はすぐさま右岸林道として整備され、歩行者も安全なこの林道を歩くようになったらしい。
将来的には旧遊歩道を再整備するような見通しも書かれているが、実際には再整備が行われなかったのではないだろうか。調べは付いていないが、その可能性が高い気がする。

このように急激に整備が進むと、昔を知る人が懐古の情を抱くのは自然なことで、橋本氏はプロムナード(フランス語で散歩道のこと)と評した旧遊歩道を次のように情感たっぷりに振り返っている。

新緑に紅葉に四季おりおりに楽しかったプロムナードは、原生林と渓流とアオジ、ミソサザイ、ウソ、などの野鳥の声も聞かれて、歩く人々を少しもアキさせない。小渓流の吊橋、小さい滝、ハダカ電球の二つのトンネル等々“思い出の小蹊”として心に残るものがたしかにあった。それが今では道こそよくなって、車も飛龍橋まで行かれはするが、味も素っ気もないと言ったら地元から怒られるかも知れないが、以前のプロムナードを前よりもよく整備して欲しい。手の入れ方とその演出如何によっては、十和田湖の“奥入瀬”や山梨県の“昇仙峡”ほどとはゆかずとも、四国道後温泉近くの“面河渓”程度の規模には造成されよう。
『温泉 昭和46年8月号』より

懐古の者が何を述べようとも、便利と安全は何物にも優先し、“思い出の小蹊(けい)”は既に思い出の奥へと還ってしまったというのが現実だった。
しかし、昭和40年代の彼が述べている懸念は、令和の我々の周りにある観光地の鑑賞路があまりにも“無難”になった現実の前には、とても重い。
利用者が、自分にあった選択肢を選ぶことさえ満足に出来なくなったのが、今日の多くの鑑賞路のように思えるからだ。
険しさという形で印象を形作らなければ活きない種類の観光地は、我々の前から姿を消しつつある。


千頭林鉄と同時期に生まれた工事用軌道は、戦後の寸又峡開発の中で上手に遊歩道へと姿を変え、その魅力を開花させたが、千頭林鉄の廃止に伴って呆気なく役目を終えた。
これが、今回探索した僅か1kmながらも濃密だった廃道の大雑把な歴史であった。