現地探索により、匿名読者さんから寄せられた情報の通り、寸又峡温泉の外れにある草履石公園から大間ダムの管理所へ至る、2本の隧道を有する約1kmの“廃道”の実在が確かめられた。
情報提供では、この廃道の正体は、大間ダムの建設資材運搬用の鉄道跡とのことであったが、明らかに“そのままの廃線跡”ではなく、廃止直前にはハイキングコースのように利用されていた形跡が認められた。
帰宅後の机上調査では、1.工事用軌道としての開通、 2.遊歩道としての再利用、 という二つのフェーズを想定し、それぞれの実態を明らかにすることを目的としたのであるが、総括的な情報を期待した『本川根町史』シリーズには、1.2.いずれについても情報がなく、そのため様々な文献に当たって断片的情報を集めることとなり、思いのほか調査は難航した。
1.工事用軌道としての開通
大間ダムが建設された経緯についてはレポート第1回導入部で既に述べた通りであるが、復習すると、富士電力およびその傍系である第二富士電力による水力発電計画に起因するものであり、現在の管理者である中部電力の管理下になったのは戦後である。
大間ダム(大間発電所)は、昭和10年に完成した千頭ダム(湯山発電所)に次ぐ施設として、昭和11年に着工し13年8月に完成している。
この工事を全面的に請け負ったのは間組で、同社の社史『間組百年史』には工事用軌道のことは出ていないものの、ダムや発電所そのものの工事とは別に「大間発電所工事用材料輸送工事」をも請け負ったという内容があった。これが、工事用軌道の敷設を指していると考えている。
また、千頭森林鉄道のうち千頭〜大間〜千頭ダムの区間は、千頭ダムの資材運搬や流木補償の目的で、富士電力により昭和6年から8年にかけて順次開通したもので、当初は寸又川軌道と呼ばれていた。実際に工事に当たったのはこちらも間組である。
寸又川軌道とその大間川支線は、一連の水電工事が完了した昭和13年に、千頭御料林の管理者である帝室林野局に無償譲渡され、以後昭和43年に全廃されるまで国有林森林鉄道として活用された。
『千頭森林鉄道 30年のあゆみをふりかえって』より
大間ダムが着工した昭和11年時点で、建設予定地の隣接地には寸又川軌道が開通していたが、軌道とダムの間には7〜80mの大きな高低差があり、しかも非常に急傾斜な峡谷斜面のため作業スペースを採ることが難しい地形条件である。
そのため、現地の1km手前で大きな平地を持つ大間(寸又峡温泉)に作業ヤードを設置し、そこからダム現場まで支線(工事用軌道)を敷設して工事に当たったと考えられる。
工事用軌道は現場との高低差を出来るだけ減らすべく、寸又川軌道の20mほど下に建設された。
左の写真は、千頭林鉄を写した有名な写真で、いろいろなところに引用されているが、尾崎坂付近から大間ダムを見下ろしている。
大間ダム関係の施設が崖にへばり付くように建ち並んでおり、両岸とも極めて切り立ったV字谷であったことが見て取れるだろう。
このアングルだと対岸にも千頭林鉄が見えるはずだが、一番目立っている対岸のラインは、実は千頭林鉄ではない。
高さ的に、そこにあるのは今回探索した工事用軌道跡である(赤線)。
昭和50年代に大間ダムでは大規模な改築が行われ、現在と管理所の配置が違っているのだが、これが撮影された昭和40年前後は、今のように管理所は軌道跡を寸断していなかったことが分かる。
状況証拠的に、もはや十分に工事用軌道の存在が肯定できると思うが、残念ながら工事用軌道の開設に言明した一次資料は未発見である。
一次資料として最も期待されたのが、昭和17年に大間ダム建設の当事者である富士電力が刊行した『富士電力株式会社十五年史』という資料だ。
そこには確かに、同社が第二富士電力を設立して大井川水系での水電事業に取り組んだ経緯が述べられており、寸又川軌道についても、次のような“当事者感”のある記述を見つけることが出来た。
しかし、この軌道の活躍があって千頭ダム(湯山発電所)を完成させ、分社であった第二富士電力を再び合併して富士電力として次に当たった大間ダム(大間発電所)の工事については――
『寸又森林軌道沿線名所図絵』より
――とあるだけで、『間組百年史』が触れている工事用材料輸送工事については、言及がない。
だが、下線部の言及が私には意味深に思われる。
つまりこれは、大間ダム建設工事時点の寸又川軌道では(いうまでもなく民業に優先する皇室の事業である)御料林運材が盛んに行われていたので、狭隘な大間ダム建設現場の軌道上に多数の工事用車両を運行、停留させることは、運材の妨げとなるので憚られた。そのこともあって、作業ヤードとして適切な土地がある大間からダム現場までは、既設の寸又川軌道を用いず、新たに(今回探索した)工事用軌道を開設したのだと読み取ることは、無謀ではないように思われる。
右の写真は、寸又川軌道時代に写されたもので、アメリカから輸入したプリマス社製の機関車がトロッコや人員を輸送している姿が写っている。(撮影地はこの回の7:54の地点だろう)
橋は木造ではなく永久橋になっており、一般的な工事用軌道のイメージよりも上等であるが、重量物を運んでいたことや、将来的に帝室林野局に譲渡する契約があり、その規格に合わせ建設されたことから、このような立派な工事用軌道になったようである。
もっとも、譲渡の対象外であったはずの大間ダム工事用軌道の部分について、橋梁が木造でなかったかどうかは、記録がなく不明。
次に別アプローチとして、大間ダム建設工事の最中か直後に現地を訪れた者の紀行文の捜索も行った。
だが、工事期間は昭和11年から13年までと非常に短いことや、その後は戦争に突入したことで、該当するものを発見できなかった。
そこで、近い時期の昭和3年から8年頃の紀行とされる(文中に明示がなく正確な時期は分からない)平賀文男著『赤石渓谷』(昭和8年刊)を見たが、「オサキ坂からトンネルをくぐって、新しい2間幅の道路を30分で大間に着き、大日ホツのトンネルを過ぎると、千頭に通じている約18kmのりっぱな道……
」という記述があった。これはまさに当時の寸又川軌道(工事中でレール敷設前とみられる)を、天子トンネルから大間集落を過ぎ大日山隧道まで歩いた貴重な記録であるが、この時点では存在しなかったはずの大間ダムや工事用軌道のことはもちろん出ていない。
「千頭森林鉄道と智者山軌道」(『産業遺産研究第6号』所収)より
なお、これは一次資料ではないと思うが、工事用軌道について言明した文献を一つだけ確認している。
それは、中部産業遺産研究会が平成11年5月にまとめた『産業遺産研究第6号』に所収の白井昭氏の論文「千頭森林鉄道と智者山軌道」である。
この20ページもある論文、千頭林鉄の調査を試みる者にはぜひ一度お目通しいただきたい優れた内容で、私も最近まで知らなかったことを恥じているが、既存文献以外の白石氏の研究成果もソースになっていて、右図のような手書き感のある地図と共に、1行分の重大な記述があった。
「大間停車場からダムサイトまで側線があり、今もその跡がある。」
まさしく今回探索したもののことであろう。
ここで側線というワードが出てきた。鉄道好きの人にはお馴染みだろうが、鉄道線路のうち常用される本線に対して、操車用や引き込み用などに用いられる線路を指す用語である。
右図には、千頭林鉄とその支線に加えて、千頭駅で接続した大井川鐵道大井川本線や井川線に加え、こうした側線も記載されている。
たとえば、大井川本線の崎平駅に側線があった(図の青丸)。これは現在、中部電力大井川発電所のアクセス道路として、当時の隧道も含めて現役である。大井川発電所は大井川電力という会社が昭和9年に着工し11年に完成したもので、昭和10年から18年まで側線が利用されていたという。
よく知られているこの側線と同じような仕組みのものが、寸又川軌道の大間駅(図の赤丸)にもあったというのは、分かり易い説明だろう。
こちらも崎平と同時期の昭和11年から13年まで富士電力によって利用されていたが、崎平のように発電所アクセス道路にはならなかったし、千頭林鉄にも引き継がれなかったために、あまり記録が残らず、存在をほぼ忘れられてしまったようなのである。
以上が、大間ダム工事用軌道、あるいは寸又川軌道大間側線と呼ぶべきものが誕生し、数年間だけ運行されていたことに関する、現状得られた全ての調査結果である。
2.遊歩道としての再利用
現地の状況からして、遊歩道時代があったことは間違いないと思うが、このことについても『町史』には一切記述がなく、頼りにしたのは各種の紀行文だった。
まずは、寸又峡温泉の観光地としての黎明を概観したい。
寸又峡が観光地として一般に知られるようになった大きなきっかけは、昭和37年に湯山から大間川を横断する引湯施設が完成し大間に寸又峡温泉が誕生したことや、昭和43年の奥大井県立自然公園への指定も大きかったが、一番は昭和43年2月に発生し、ブラウン管を通じて全国に劇場型の事件報道がなされた、寸又峡温泉を舞台にした金嬉老事件であったといわれる。
だが、これらの出来事の遙か前から関係者による地道な集客の努力が行われていたことは注目される。
『RM LIBRARY96 大井川鐵道井川線』より
中でも私が特筆したいのは、戦後間もない昭和28年から、地元観光協会が大井川鉄道、中部電力、千頭営林署などの協力を得て実現した、観光列車「すまた号」のことである。
それまで旅行者が寸又峡を訪れようとすると、千頭から森林鉄道の運材列車に(非公式的に)便乗するのが基本であり、観光バスが通る道路などは全くなかったことが不便であった。
そこで、千頭森林鉄道の千頭〜大間〜尾崎坂間に、特別仕立ての客車列車を運行し、観光客を無償で乗車させた(当時の地方鉄道法や軌道法で認められた鉄道ではないので料金の徴収は出来なかった)のである。
この極めて珍しい森林鉄道の線路上を走った一種の遊覧鉄道は、昭和38年に現在の県道である林道が開通し、路線バスが寸又峡温泉に入るまで、長期間にわたって運転された。
右写真は、この「すまた号」の姿を捉えた貴重な1枚だ。
今も観光名所として愛されている飛龍橋を、中部電力のディーゼル機関車が牽引する1両だけの客車列車(遠州鉄道で使われていた物という)が渡っている。
観光列車の終点は飛龍橋を渡った先の尾崎坂で、そこから乗客は歩いて夢の吊橋を通って大間ダムを横断、寸又峡温泉へ戻るという1周コースが定番だった。
『賛歌 千頭森林鉄道』より
こちらは同じ年代に撮影された林鉄大間駅の風景で、ちょうど現地レポートの【1枚目の写真】と同アングルである。
注目すべきは、前方の“安全門”(線路や道路を跨ぐこうした構造物の名称)に掲げられた、「歩行厳禁」の大きな文字だ。
観光列車も走った千頭林鉄の路盤上を観光客が歩いて飛龍橋方面へ向かうことは堅く禁じられていたのである。
しかし、門の右側にある看板には「寸又峡キャンプ場入口」という文字も読み取れる。
このキャンプ場は現存しないが、飛龍橋を見上げるような位置にあったらしい。(おそらく以前歩いた夢の吊橋の旧遊歩道沿いの【この広場】だと思う)
どうやってキャンプ場へ行けばいいのかが、この写真からは読み取れないが、フレーム外の右側に今回私が歩いた道がある。
現在、飛龍橋や夢の吊橋を目指すハイカーは、全員、林鉄の廃線跡である右岸林道を歩いて行くが、林鉄が健在だった昭和43年までは、それが許されていなかったことがはっきりした。
ここまで書けばもう、今回探索した道が遊歩道として必須の存在であったことは明らかだ。
なので調査の最後には、実際に旧遊歩道を歩いたという証言を探してみた。
次に紹介するのは、月刊誌『温泉』昭和40年12月号に掲載された橋本広介氏のエッセイ「飛竜橋幻想 寸又峡温泉にて」の一部だ。
時期的には、既に「すまた号」は廃止されているが、林鉄自体は健在であった。
本文は次の書き出しで始まる。
(中略)
まがりくねって流れる寸又川の両岸の原生林は、紅、橙、黄と色とりどりに紅葉していた。対岸の裾の一段とあでやかな濃い紅は、“高雄モミジ”であろうか、それとも“ナナカマド”であろうか。雉子が一と声、啼いて飛び立った。空がすんで静かな山峡は流れの音ばかりだった。トンネルの入口が見えてきた。古びた亀裂のあるコンクリートに黄ばんだ蔦の葉がからみあっている。 (つづく)
彼は、夕暮れ前に寸又峡温泉を経って、1.5kmばかり奥地の飛龍橋を目指している。
現在の感覚だと右岸林道を歩いていると錯覚するが、この時点では林鉄が存在していて、歩行は禁じられていた。
なので、見えてきたトンネルは、天子トンネルではあり得ない。今回探索した右写真の隧道だったはずである。
文章は続く。
鋭い!
これが水電工事によって掘られた隧道であることを、見抜きかけている。
ちなみに、日英水電という会社は富士電力よりも先に、大井川水系では最も早く水電事業に取り組んだ会社であった。
隧道内部の状況が明らかにされるに至り、これが天子トンネルではないことがはっきりした。
くの字の線形に中間部の明り区間とは、完全に今回の隧道だ。
そして、ここに手摺りが設けられている理由らしきものも述べられている。案の定というべきか、不幸な事故があったらしい。
ダムの上は、定員5名の“夢の吊橋”がかかっている。(中略)飛竜橋見物は、この吊橋を渡るか、遠回りだが森林軌道に出て線路伝いにいくしかない。 (以下略)。
このように、昭和40年時点では、間違いなく工事用軌道跡が飛竜橋や夢の吊橋方面への遊歩道として使われていたのである。
しかし、同じ雑誌の同じ寄稿者による6年後の文章では、状況が大きく変化していた。
『温泉』昭和46年8月号は、「奥大井 寸又峡温泉特集」と銘打たれており、橋本広介氏による長編記事「郷愁の中の寸又峡温泉」には、次のように書かれていた。
つい最近までターミナルの奥の方を営林署の森林軌道が通っていたが、レールを外し道路としたので飛龍橋へ行くには便利になったが、以前のプロムナードを歩くよさには敵わない。新道はプロムナードの上になっているので道路建設工事で、落石その他による被害をうけたので整備するまで歩行禁止となっているようだが一日も早く再開して欲しい。 (つづく)
金嬉老事件で一躍有名温泉地の仲間入りをした寸又峡温泉は、近代化の真っ只中にあった。
林鉄廃止後、その跡地はすぐさま右岸林道として整備され、歩行者も安全なこの林道を歩くようになったらしい。
将来的には旧遊歩道を再整備するような見通しも書かれているが、実際には再整備が行われなかったのではないだろうか。調べは付いていないが、その可能性が高い気がする。
このように急激に整備が進むと、昔を知る人が懐古の情を抱くのは自然なことで、橋本氏はプロムナード(フランス語で散歩道のこと)と評した旧遊歩道を次のように情感たっぷりに振り返っている。
懐古の者が何を述べようとも、便利と安全は何物にも優先し、“思い出の小蹊(けい)”は既に思い出の奥へと還ってしまったというのが現実だった。
しかし、昭和40年代の彼が述べている懸念は、令和の我々の周りにある観光地の鑑賞路があまりにも“無難”になった現実の前には、とても重い。
利用者が、自分にあった選択肢を選ぶことさえ満足に出来なくなったのが、今日の多くの鑑賞路のように思えるからだ。
険しさという形で印象を形作らなければ活きない種類の観光地は、我々の前から姿を消しつつある。
千頭林鉄と同時期に生まれた工事用軌道は、戦後の寸又峡開発の中で上手に遊歩道へと姿を変え、その魅力を開花させたが、千頭林鉄の廃止に伴って呆気なく役目を終えた。
これが、今回探索した僅か1kmながらも濃密だった廃道の大雑把な歴史であった。