2019/5/23 8:33 《現在地》
隧道到達!
今回のレポートの1枚目の写真の地点、すなわち大間集落外れの右岸林道入口ゲート(=旧林鉄大間駅)から約1kmの地点で隧道と遭遇した。右岸林道が天子トンネルで貫いている尾根を僅かに上流側へ回り込んだ地点で、天子トンネルよりは20m以上低い位置だろう。ここまでの1kmのうち、後半の700mは完全な廃道で、おそらく工事用軌道の廃線跡に由来するのだが、最後には遊歩道として使われていた形跡があった。
現われた隧道の姿は、私にとって衝撃的だった。
坑口がほとんど埋没していたことよりも、あまりにも似ていたことが衝撃だった。
この坑門は、千頭林鉄で見た隧道とそっくりだ。
千頭林鉄にたくさんあった隧道の特徴は、コンクリートの坑門があることだ。
林鉄の隧道では、内部はおろか坑門も素掘りというのが珍しくないが、千頭林鉄においては本線も支線も時期が異なる路線も全て、上部に笠石を持つ同じデザインのコンクリート坑門を持っていた。例外が未発見だ。
昭和6(1931)年に第二富士電力の工事用軌道(寸又川軌道)として誕生し、その後は千頭林鉄の本線として昭和42年まで活躍した、起点に近い沢間〜大間間のウムシトンネルも、戦時中に建設されるも昭和24年までには廃止となった、終点に近い栃沢〜柴沢間の隧道も、さらには昭和35(1960)年という最末期に建設された逆河内支線の隧道においても、ほぼ同一デザインのコンクリート坑門を有していることは、私の中で千頭林鉄の大きな特徴のように思っていた。
これらの千頭林鉄の隧道と、ここにある隧道が同一デザインなのは、どういうことなのか。
可能性は二つあって、一つはこの隧道が工事用軌道として建設・利用された昭和11〜13年の時点で、既にこの坑門を持っていたパターン。
もう一つは、遊歩道として再整備を受けたタイミングで、千頭林鉄の隧道を真似るか偶然似通った坑門が整備されたパターン。
もし前者であれば、千頭林鉄は寸又川軌道と呼ばれていた最初期から一貫して、坑門を素掘りのままにしなかったと判断できるだろう。
根拠が示せない「〜っぽい」という類の話はあまりしたくないけれども、この隧道の佇まいには、見慣れた千頭林鉄っぽいものを感じたぞ。
工事用軌道の隧道にこそ、相応しい気がする。
……坑門だけでお腹いっぱいになりそうなくらい語ってしまったが、もちろんこのあとは内部へ行く!
オブローダー向きに調えられた開口部より、内部へ にゅるっ。
埋れていたのは坑口だけで、隧道内部の空間は保たれていた。
とても短い隧道だった。
入った時点でもう出口が見えている。
だが、結構な角度でカーブしているのが特徴的だ。
そして、内部には素掘りの部分とコンクリートで巻き立てられた部分が半々くらいに混在していた。
坑門は千頭林鉄とそっくりだと書いたが、内部についても同様の印象を受けた。というか、千頭に限らない林鉄用隧道っぽいサイズ感である。
ただし、側壁が垂直に落ちているのは、千頭林鉄の大半の隧道が馬蹄形断面なので異なっている。
また、林鉄用の隧道の場合、幅に対して目立って天井が高いものもあるが、この隧道の天井は高くない。木材のようなたっぱのある荷物ではなく、ダム建設資材や土砂を運搬した工事用軌道らしい断面だと思う。
このとき私は、隧道発見と貫通を確認した興奮に心を支配されていて、情報提供に含まれていた“大切なワード”を一つ忘れていた。
だが、歩き出した直後に、これを痛烈に思い出させられることに。
数珠つなぎに隧道が!!
終点とされる大間ダムまで残り300mを切ったところで、
驚くほど短い明り区間を挟み込んだ、2本の隧道が姿を見せた!
こんなに2本の隧道が接近しているのは、とても珍しい。
それだけに、2本の隧道に挟まれた小さな空間は、
極めて貴重で秘密めいた、とても愉しい場所のように感じられた。
間もなく足を踏み込むことになるというのが、堪らなく高揚的だった。
短い隧道だが、かつて天井に電線が張られていた形跡があった。
これまでの区間でも道に沿って電信柱を何度も見ているが、遊歩道時代は隧道に照明があったのだと思う。
だが、今日の観光地で同じ物を目にしたら、よほど不気味と感じられるだろう、そんなほの昏いランプしか似合わない隧道だった。
1本目の隧道は、全長おおよそ50m。
あっという間に出口へ。
8:38 《現在地》
そして、おそらくこれが今回探索のハイライトになると思われる場面。
2本の隧道に挟まれた、恐ろしく短い明り区間へ。
ここで始めて転落防止用の柵を見たが、遊歩道時代には景色を見ようとして身を乗り出す人が多かったのだろう。
明り区間の長さは、わずか5mほど。
しかも、地上とは名ばかりで、行動の自由度は隧道内と変わらない。
山側も川側も崖に阻まれていて、全く抜け出せないのである。
隧道と違うのは、寸又峡の風景を眺めることができることだけだろう。
遊歩道としては大きな美点になったと思われる、展望台じみた明り区間だが、元が工事用軌道である以上、伊達や酔狂からのものではあるまい。
純粋に、隧道を少しでも短くして工費と工期を節約しにかかったことが、この粋な空間を生んだと思う。
大間ダムが見えた!
岩と岩の隙間のような狭い空間(いわゆるルンゼと思われる)からの視界は、樹木もあるので非常に限られているのだが、にもかかわらず、大間ダムの剛健なコンクリートの堤体が、緑色の雲間に浮かぶ舟のように眺められたのは、感動的だった。
大間ダムはこの工事用軌道の目的地であり、工事そのものの目的でもあったわけで、ただ沿線のダムが見えたというのとは違う意義深さを感じる。
ここで挑むべきゴールを一瞥してから立ち向かうというのは、熱い展開だ。
ちなみに、大間ダムは我が国のダム史上での古典に属し、秘境に佇むいぶし銀の姿にファンも多いようだ。
しかし、一般的な唯一の訪問ルートである現行の右岸林道を使ったハイキングコースからは、どうやっても下流側より眺めることはできない(天子トンネルがあるので)。
そこで一部の熱心な訪問者は、寸又峡の谷底を遡行してダム直下よりの仰瞰を獲得しているらしい。
全体として視点の自由度が非常に限られた大間ダムの新しい視点……否、忘れられていた古い視点を、今回の探索は図らずして再発見することになった。
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
全天球カメラの使いどころとして、こんなに相応しいと思える場所も、なかなかないだろう。
絶境の凄みを欲しいままにするこの空間は、かつて人が生み出したものとして、
本邦土木史上における珠玉に数えるに足る逸品ではなかろうか。
私は高く評価したい!
一歩も道から踏み出すことが出来ない、究極の険しさがここにある。
ここは寸又川筋屈指の難所として古くから恐れられ、隧道が出来るまでは、ずっと高い尾根を越えていたらしい。
寸又川の上流、千頭山の境地へと、いかなる近代的開発行為と、その先兵たる車両交通を導くにおいては、
まずここを突破するだけの力量が必須であった。 いわば、千頭山の登竜門として機能した。
ここに立てば、その凄みを全身で体感できる。
これより、再び隧道へ突入する。
出口が見えないが……、また内部が曲がっているのか、それとも出口が埋れかかっているのか。
驚くべき光景が、待っていた――。
大間ダムまで あと推定0.25km
2019/5/23 8:38 《現在地》
テラスのように小さな明り区間を抜け、2本目の隧道へ。
デザインは1本目と同じだが、土砂に埋没しているようなこともなく、ひび一つない現役のように綺麗な坑門だった。
この明り区間、まるで誰かが手入れを続けているかのような綺麗さだ。
だが、実際にそのようなことが行われているとは思えぬ立地であり、たまたまだろう。
固い岩盤に周囲(頭上さえも)を閉ざされた立地だけに、風化には強い耐性があるのだと思う。雨風などでは簡単に揺るがない堅牢な城塞を思わせる空間だった。
2本目の隧道は、やはり1本目よりは長いようだ。
今度も右カーブがあるが、カーブのすぐ先に出口があったとしても1本目よりは長い。
そしてやはり洞奥は素掘りであった。
1本目との違いをもう一つ挙げるとすると、洞床に落葉の堆積がないことだ。
1本目は坑口の崩落して風通しが悪くなっているせいだろうが、多量の落葉が溜まっていた。しかしこちらにはそれがないので、ますます現役のように綺麗である。まあ、今どき、こういうサイズ感で、照明もない素掘り隧道というものが、日本のどこで現役なのかと問われると、まあまあ怪しい隧道しか答えられそうにないが……(笑)。
凄い水出てる、天井から土砂降りだ。
こうやって常に水が流れているせいだろう。洞床が清楚な玉砂利を敷いたみたいになっている。
不気味な廃隧道の内部なのに、神々しい美を感じた。
……さて、真っ暗闇なカーブの先は……
よし! 明かりが見えた!
これで貫通は確定。ほっとした。
ただし、もう一度カーブしているようで、出口そのものはまだ見えない。
見えるのは内壁に写り込んだ緑色の外光だけ。青々とした晩春の森が目に浮かぶようだった。
“黄色い手”が、落ちていた。
未知の闇の中で、生々しい人体の一部をかたどったものを見るのは、いい気分がするものではない。
しかも、色も妙に生々しいし……。
近くで見ると、ゴム手袋だった。
しかしなぜか、掌の側がどこかへ消え、甲だけに被さる形になっていた。
この闇の内でいかなる理由があってこういう変化を遂げたのか、奇妙な印象が残った。
8:41 《現在地》
横穴発見!
東口から50mほど進んだ地点である。横穴の向きは川側。
いかなる目的で掘られたものだろう?
外へ通じているのは間違いないようで、光が漏れ入っていた。
そういえば、この隧道には鉄道用隧道につきものの待避坑がないことを、横坑を見つけたときに気付いた。
横坑の奥行きは10mほどで、高さ幅とも1.5mくらいだろうか。大人は屈まないと通れない。
遊歩道時代のものではないだろう、サイズ的に。深さ5cmほど透き通った水が溜まっていた。
地形図を見る限り、ここから外へ出ても平らな土地はなさそうな気がするが、確かめる必要がある。
横坑へGO!
ほぼ出口まで来たが、 何だこの眺めは?!
寸又川の対岸が、こんなに見えるってことは……
めっちゃ険しいっぽいぞ……!
うううおぉ!
真っ只中! 寸又峡真っ只中!!
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
8:42 《現在地》
穴から出た瞬間、私は畳一枚分ほどの岩屑の足場に立っていた。
穴に引っ込むことと、自死の二つしか、次の選択肢がない場所だった。
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
↑ 足もと見てほら。
……腰引けているって?
許してくれ……怖いんだよここは…。
私の立っている場所の70m下を、コロラド川みたいな色をした寸又川が流れている。
ここから見える外界の大半は対岸で、谷底から230mの高さに寸又川左岸林道が見えた。
あそこは林道の起点から2.5kmの地点で、今から10年前(探索の9年前)に通っている。
2010/5/4 5:25 《現在地》
これは10年前(探索の9年前)に左岸林道から見た景色だ。
当時は「工事用軌道」の存在を知らなかったが、景色から存在に気付くことも難しかったというのが分かるかと思う。
よほど目をこらしても見えないのである。工事用軌道と同年代のもので見えるのは、大間ダムと飛竜橋くらいだ。
そして、私が飛び出した横穴のある絶壁も、このアングルからだと、ただの緑の斜面である。
葉の落ちた時期に正面のアングルから観察すれば、おそらく見えると思うが、試みはまだ果たしていない。
飛龍橋と大間ダムを主題に据えた望遠写真を撮っていたが、今回対象の物はほぼフレームアウトの残念感。
まあ、こういう斜めからでは、いくらズームしても何も見えなかったと思うが。
しかし、どういう地形の所で、我々の父母や祖父母たちの世代が文明の導入に血道を上げていたかは、
これらの写真で十分に伝わると思う。 すごいよなぁ…。日本全土が溌剌としていた時代のパワー。
ひとしきり汗を冷やされた私は、足元の巣穴へ逃げ帰った。
私の普段のリュックと、さっきテキトウに拾って使っている木の杖が、主の帰りを待っていた。
なんて安心できる闇だろう。 お外は本当に怖いところだった。
大間ダムまで 残り推定0.2km
お読みいただきありがとうございます。 | |
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新回の 【トップページに戻る】 |
|