2018/4/27 13:50
ここに谷があることは、地形図に描かれた地形をよく観察すれば分かることだったが、予期していなかった。
ちょうど旧道の前半と後半を隔てる位置にある名も知れぬこの谷、今回の盛りだくさんの探索の中でも、最大の印象を私に残すことになった。
予期しない谷だったが、それを発見してから目前に迫る僅かな間に、ただならぬものを感じた。
谷が間近に来ると、道はこれまで見られなかった大きな石の築堤となって、かなりの高さにまで達していた。
築堤の先端からは、対岸の同じような築堤へ掛け渡された、築堤の規模の割には小さな橋があるようだが、架かっているのか落ちているのかはまだ見えない。
路上から眼下に視線を転じれば、言うまでもなく険しい海岸線。道と海面の落差は30mほどもあって、黒々とした磯場に沸騰したような高波が砕けていた。道を潜った無名の谷水は、最後も滝となって、波の間に消えていた。
反対の山側はといえば、そこには路上にまで覆い被さってくるかのような、極度にオーバーハングした絶壁がそそり立っていた。
しかも、崖の中央部に恐るべき縦穴と化した峡谷が開いていて、その末端から放り出された渓水は、
少しも崖を伝うことなく、路下の滝壺へ向かって20mほども垂直落下していた。
水量こそ多くはないが、このような特徴的な姿の滝は名勝と呼ぶに相応しい。
だが、訪れる道がこの危険な廃道より他にないために、地図からも、人々の記憶からも、
忘却されてしまったもののようである。私が愛する道と景勝の一蓮托生が、ここにもあった。
この滝を眺めるのに、旧道を通行する以上の寄り道は不要だ。
路上こそが滝見の特等席であり、いま私はそこを完全に独り占めにしていた。
海を見下ろし、岩と滝に見下ろされながら、期待と不安がない交ぜとなる石垣の末端へ、近づいていった。
現存木橋発見だ〜!!!
うぉおおおおおおーーー!!!
電信柱より太そうな丸太が、何本も架かったままだ!木橋だ!
国道由来の現存木橋は、旧旧落合橋以来の久々の発見!
北海道の国道の一昔前の姿は、やはり私の知る内地のそれとはひと味違っているのか?!
もともと自動車が通れない区間内とかなら木橋も分かるが、
前後にある鉄の覆道との取り合わせは、異様という他ないぞ!
「見よ! これが50年前の北海道の国道だ!」
今にもそんな声が聞こえてきそうな、「開発局」の文字だった。
この柱、明らかに標識柱に見えるが、肝心の標識板は風雨に吹き飛ばされたか、見当たらない。
ただ、立地からして「最大重量」の規制標識であった可能性が極めて高い。
いったい何トンの車まで、この木橋を通行することが出来たのだろう…。
あまりの興奮で私の身体が突然伸びたので、こんなドローンみたいな高いアングルから撮影出来た。
というのはもちろん冗談で、橋の全景を撮影したい一心から、山側の斜面によじ登って撮影した。
凄まじい断崖絶壁の一画に、この名前も知らない木橋は架かっている。
路上だけは、春の山菜も芽吹いてたいそう平穏そうだが、周りはことごとく凶悪。
最初に道を作った時には全部がこの険しさであっただろうに、本当によくぞ開通させた。
橋の規模自体は特別大きいわけではないが、長さ以上に高さがあるのも印象的だ。
両岸の築堤を長く谷に出すことで、弱い木造桁部分を出来るだけ短くしようとする工夫だろう。
この画像は明るさを調整したので、橋台の様子がよく見える。
未だ橋の建造年は不明だが、とても緻密に造られた石築堤であり橋台ということが分かる。
素材に石を用いているのは古い時期の特徴であるが、もし昭和2年の島歌隧道建設と
同年代のものだとすれば、立地の厳しさも考え合わせて、恐るべき耐久性である。
また、橋台のうち桁を載せる部分だけがコンクリートなのも特徴であり、
後年の補修を窺わせる部分だ。木造桁も幾度となく架け替えられているだろうから、
桁と橋台のこの部分は、他の石造部分よりも新しい可能性が高い。
木橋を渡るか、滝の下の草付きの斜面を迂回するか。
ふたつにひとつ。
どちらかを成さなければ、先へ進むことは出来そうにない。
選べと言うなら……
そんなのもちろん、両方だ!
橋は渡るし、側面から橋を眺められる滝下の迂回も、当然やる!
まずは、滝下の迂回ルートから。(おそらくこっちの方が危険だし、難しい)
岩場にへばり付いて眺める、見事な“裏見の滝”だった。
滝の水の量が少ないとは言っても、海風に煽られた飛沫がときおり
四方八方に散らばるので、私もここに入ってすぐに洗礼を受けた。
しかしそれも本当に心地の良いものだった。
小さな谷だが、きっと名前はあるはずだ。
地形図を見る限り、滝の上は穏やかな森である。源流あたりは牧場でもあるような平坦地だ。
とても穏やかな沢のはずが、たまたま“蝦夷親不知”に河口を持ってしまったために、
最後だけ総落差50mを越す連瀑で海へ落ち込む沢になってしまったのだった。
未だかつて人ひとり魚いっぴき、この谷を遡ったものはないだろう。
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夢中になって、あっという間にこんなところまで入り込んでいた。
ここから先、崖と草付きのラインに沿って、対岸を目指す。
崖下の狭く濡れた草付きで踏ん張りながら眺めた景色だ。
路上に居たときにも肌には感じたが、よく見えなかった石垣の巨大さも、
丸太を並べただけという恐ろしく単純な橋の構造も、ここからだとよく分かる。
降り注ぐ玉垂れのような滝に透かされた北海道の春の秀美に、
人の底力の生み出した、人に忘れられた道が、優しくされていた。
もし十分に時間があったら、海岸線からも見上げてみたかったものだ。
どのような角度から眺めても、この尊い景色は私を熱くさせただろう。
あるいは、こういう景色も想像した。あらゆる交通が完全に途絶えた冬道の姿だ。
滝は巨大な氷瀑となるであろうし、暴王と化した日本海が眺められるであろう。
命がいくつあっても足りないだろうが、もし命を投げ捨てる気になったときは、見に来たい。
擂り鉢のような滝壺を見下ろす崖の縁を、摺り足で慎重に半周して……
橋を使うことなく対岸へ到達!
もし、橋が落ちていたら、この歩行が必須となる。
濡れた岩の急斜面を橋下まで降りるよりは、安全なルートだと思う。
13:57 《現在地》
左岸橋頭からの眺め。
鉄道用を彷彿とさせるような狭くて高い石橋台が綺麗だ。
造りの丁寧さからも、この谷の攻略への念の入り用が窺われる。
区間内の全てが難工事だったろうが、この架橋のためには大量の石材を運び入れる必要があり、
かつ全体の中間地点ということで、どちら側からもいちばん遠い場所だから、難中の難であったろう。
ここにこの橋を架ける力を付けたことで、初めて蝦夷親不知は人に克服されたと思う。
……さて、橋の袂にリュックを置いてきたので、取りに戻るぞ。
今度は渡ってな!
横から見たときにも気付いていたが、この左岸橋頭には、親柱のように見えるものが道の左右に建っていた。
木橋に相応しく木造だったようで、右側のものは腐朽してほとんど原型を残していなかった。
それよりは原形があるように見える左側の柱に、親柱としての情報提供を期待したい!
親柱から与えられる可能性のある情報は基本的に、橋名、橋名の読み、河川名、竣工年などであり、普通一つの柱に一つの情報だ。どの情報も全部欲しいが、一番欲しいのは……
やっぱりまずは橋名だな。
お目当ての情報にあたる確率は、4分の1!
うわーん!(泣)
この柱もダメでしたぁ!
もとの形が分からないのでなんとも言えないが、やはり折損したようで文字を掲げるような高さはなかった。
木造親柱は、橋よりも先に寿命が尽きてしまっていたのである。
だが、別の発見があった。
親柱のすぐ隣に、標識柱と標識板の残骸を見つけた。
朽ちすぎていて標識の識別は不可能だが、橋の両側に標識があったという状況から、最大重量の制限標識とみて間違いないだろう。何トン制限だったかを知りたかった。
肝心の橋の状態は……
(もしこれで渡れないと、また滝の下を往復しなければならない)
うん、まだ渡れる状態だ!
本来の橋の幅は4mほどあったようだが、海側が崩れていて、半分になっていた。
それでも残った部分は歪んだ感じもないし、毎年の大量の積雪を支えているわけだから、今さら人間の体重くらいでグラつくこともないだろう。
唯一恐ろしいのは、“見えない穴”に落ちることだ。
橋上の路面は昔ながらの土橋であり、橋を支えている桁材自体は見えない。そのため、下に中空の部分があったとしても、それを判断することが難しい。
慎重に足元を確かめながら渡ってみよう。
崩れ落ちた海側にも、1本だけ桁材が架かったまま残っていて、国道を支えていた柱の太さを教えてくれた。
建物のどこに使っても十分役目を果たせただろう、直径50cmを超えるような立派な針葉樹の丸太だった。樹種は北海道特産のエゾマツか。
もし、あの丸太1本だけしか架かっていなかったら、そして迂回も困難だったら、ハラハラしながらも渡ったことだろう。それが出来るだけの幅がある。
そして、心配していた“見えない穴”だが、やっぱりあった。
注意していないと踏み抜きそうな……、見えはするけれども、見えにくい穴が、至る所に。
太い桁材は隙間なく並べられているわけではなく、少なくとも30cm以上の間隔を空けて敷かれているようだ。
ただ、そのままだと土橋としては使い物にならない。車輪や歩行者が隙間に落ち込むことが目に見えている。
そこで、橋の上の全体に網状の鉄筋を配置していたようだ。
よく見ると、画像でも隙間に錆びきった丸形鉄筋の格子が見える。
このような、木橋に鉄筋という取り合わせは初めて見るものであり、驚いた!
無事に渡りきったので、改めて右岸側から橋の構造の最終チェック。
主桁材の丸太の本数は、もともとは7本あったようだが、海側の1本目と3本目が脱落してしまっている。
桁材の隙間は40cmくらいあって、その隙間を含めた橋上全体に、5cm四方程度の格子状に配置された丸形鉄筋が敷かれていた。
それでもまだ隙間があるので、さらに木板を敷き広げ、最後に土や砂利を敷いて、土橋の路盤を造っていたようである。
横から見た印象よりは、遙かに手が込んでいた。
鉄筋は桁材として橋を支えているわけではない(加重を均等にする役割は果たしたであろうが)ので、これを鉄筋木橋と呼ぶべきかは判断が難しいが(鉄筋コンクリートのように、桁材の中に鉄筋があるわけではない)、架かった状態で残る貴重な道路用木橋であるだけでなく、その構造についても、国道という幹線道路上にある木橋をいかにして強靱化していたかの工夫が見て取れる、重ねて貴重な遺構であると評価したい。
木橋が道路上で全盛を誇っていた時代の末期には、案外こういう構造の木橋は珍しくなかったかも知れない。
しかし、それは今となっては非常に貴重である。
いやはや……、シチュエーションだけでなく、中身も凄い橋だった。
そして―― 中間地点攻略完了!
2018/4/27 14:01 《現在地》
切通しを前にした。
ここまででは最大規模の切通しで、隧道であっても不思議ではないと思える深さがある。
背にするのは(チェンジ後の画像)、国道にあるまじき木橋だ。
もっとも、この「あるまじき」は今日の常識であり、この国道が生きた時代の北海道では、特異なものではなかったかもしれない。
むしろ特異だったのは、今目の前で切通しの往来を妨げている、金属製の巨大な覆道の方ではなかったろうか。
以前の回にも書いたが、こうした防災施設としての覆道は、昭和30年代の終わり頃から全国へと普及したものであり、昭和47年に旧道になったこの道では、さぞ短命であったはずだ。
しかし、そうした覆道がここには大量に設置されており、ここまでの旧道の3分の1近くは覆道の下にあったのではないかと思われる。
振り返った橋の向こう側にも覆道が見えるが、橋を挟んで前後とも覆道だった。序盤の島歌隧道も、やはり同じ状況だった。
木橋と鋼製覆道という時代的にミスマッチなものが、過渡期にあって併存していた稀少な状況を、この道は保存していた。険しい地形に苛まれ、廃止後も再利用なく放置されてきたことで、保存に成功したのである。
切通しをすり抜けても、さらに崩れた覆道の列が続いていた。
道は結構な勾配で上っており、そのため背景が空と岩だけという突き抜けたものになっていた。
切り立つ法面の高さは凄まじいばかりだが、目を背けたくなるほどの大崩落が道を潰滅させたという、
そういう想像しやすいシーンは現われない。覆道の多くは、潮風によって鉄の柱を痩せ細らされ、
そのために自重(と屋根に乗せた緩衝材である土の重さ)に耐えがたくて崩れたようであった。
見るからに危険な崖ではあるが、しばしば大崩落を繰り返す種類のものではなかったのだろう。
もしそこまで脆く崩れやすいなら、これほど垂直に高く切り立った姿で居ることもないはずだ。
同じ形に倒れた覆道の山側を通るのが、今の自然なルートである。
この覆道の屋根が視界の邪魔をして、そこにある海の眺めを自然に眺める場面は限られる。
チェンジ後の画像は、傾斜した屋根によじ登って見下ろした海だ。
道は依然として上り続け、海面との落差は過去最高の40mを越える。
写真左に見える大きな岩の塊は、前に【日本一大きな落石?】ではないかと思った巨岩だと思う。
ここが“蝦夷親不知”と呼ばれ始めた時期は分からないし、誰の命名かも分からないが、本場である“北陸道”の親不知とは、確かに似ているところがある。
日本海の荒磯を、垂壁に近い海食崖の中腹に付けられた道から見下ろすところは、明治時代に初めて北陸道が車道に当時の古写真に見える景色にそっくりなのである。
ただ、現在あちらは国道8号や北陸自動車道として十二分に整備され、路上にある限りは険しさを感じずらくなった。
しかし、“蝦夷親不知”には、それが残っていた。
……廃道として、ではあるが。
14:03 《現在地》
累々たる覆道の残骸を、脇から上から下からと気ままにすり抜けながら、天を衝く岩の根元を通過していく。
道は頂上を極めて、中盤から終盤へ入っていく。
頭上を支配していた垂壁の終わりが近く、その先には山頂まで続く広大な草斜面が見える。
道路隣接のものとしてはひとつの頂を極めたと思えた険しさも急速に緩解されて、虻羅という長閑やかな漁村を目指して下り始める地点を探している印象。
その長閑な集落の頭上にも、信じがたいほどにオーバーハングした獣の上顎を思わせる断崖が聳えているのが見えたが、人々が長く暮らしているのだから問題視しない。
いま、ここを離れるのがとても惜しいと感じている。
難所であれば、早く抜け出したいと思うことが少なくないが、今回は逆だ。
それは、全体に明るく、険しさに憎たらしいところが全くなかったからだろう。
底抜けに明るい険しさだった。
惜別の大難所。
法面の上方が山みたいに霞んで見える。
この景色もまた、一生涯忘れることはないだろう。
単純な地形の険しさを競うならばまだ上はあるだろうが、路上に直接する崖の高さは、私がこれまで見た中でここが日本一。
記録、おおよそ100m。
そして、この悪地に人がどういう道で挑み、制して、文明を通じ得たか。
そのことの体感と記録こそ、我が喜び。
「おなべのふた」を装備して「ギガンテス」の「痛恨の一撃」を受けんとするような道だったが、
案外その直撃は少なかったようで、しかし短時間で元の自然に還るには、人は多くのものを残しすぎた。
死屍累々。 平和を愛する善人である私の大好きな言葉だ。
折りたたまれた蛇腹のようになってしまった長い覆道。
往時のこの道にはほとんど空がなかったわけで、どれほど恐ろしい崖下を通っているかを、ドライバーは認識しづらかったかもしれない。
僅かに残された覆道の下の空間に目を向けると、そこには風雪から完全に守られたかつての路面が、そのままの形で残されていた。
その砂利には全く草の生えたところがなく、50年前に通り抜けた最後の車の轍も、よく探せば見つけられるかも知れない。
当たり前のように、国道229号はダート国道だった。この先にもまだ集落があったが、ダートであり、木橋であり、素掘り隧道であり、国道だった。
木橋から約150mにわたって崩壊した一連の覆道が続いたが、突破するとそこが峠で、旧道全体で一番高いところであった。
海抜約50mより、風濤の荒ぶ日本海を見晴した。
天気は良かったが、波の飛沫のせいか霞んでいて、遠くまでは見通せなかった。
しかしとにかくここまで来れば、恐ろしい“クズレ”も“蝦夷親不知”も、どうにか無事に突破出来たと思える場所だった。
この印象は、古の旅人も同様であったろう。
ここでまた新規の道路施設を発見した。
現代の道路でも見慣れたガードロープ。
しかしこれも、道路の整備時期をある程度絞り込めるアイテムだ。
今日よく見る形状のガードレールは、わが国で開発されたものであり、昭和31(1956)年に箱根の国道138号に初めて採用された。
そしてガードロープは、その翌年の昭和32年に、初めて京都府の比叡山道路で採用された。
このような歴史が判明しているので、道が生きた時期の絞り込みに役立つわけだ。
まあ、今回については、これに頼らなくても旧道化の時期が明らかだが。
振り返る、長い覆道の出口。
特別に華奢な外見をしているわけではなく、今も各地で現役の姿をよく見る、オーソドックスな鋼製覆道だ。
同時期に整備された覆道が今も多く活躍を続けているのは、正しいメンテナンスの賜物ということだ。
覆道が転倒した状況自体、これまで滅多に見たことがないのに、今回の探索だけで見飽きるほど見た。
海抜50mにあっても、潮気が強い風を浴びることがしばしばであることも、荒廃の大きな原因なのだろう。
決して後を振り返らないならば、見慣れた旧道風景になった。
旧道化から経過した時間を考えれば、荒れ方も普通の範囲だと思う。
しかし、依然として見分けられるような踏み跡はなく、夏場などは背丈を超える一面の草むらとなることは想像に難くない。
とにかく究極に陽当たりがよいので、探索の時期を選ばないと、この終盤の草原区間の突破だけで疲労困憊になりそうだった。
この辺りの道端で、1本のドラム缶を見つけた。
スリップ防止用に撒いたり、穴ぼこを埋めたりに使う、砂や砂利を貯めておく用途が思い浮かんだが、ドラム缶の中には砂や砂利ではなく、なぜか空き缶や空き容器がたくさん入っていた。
空き缶の銘柄を見るに、どれも昭和40年代とはかけ離れたもっと後の時代のものであり、余計に不可解。
探索者がわざわざ捨てて行くには数が多いし、ここに観光地だった時期があって観光客が捨てたと考えるには、空き缶以外の容器の存在が謎だ。
わざわざ集落から300mも離れたここまでゴミを持ち込む理由も分からず、謎のドラム缶なのだが、とはいえ深く追求するほどの魅力は感じない。
道はなかなか下り始めず、高標高のトラバースを続けている。
草地なので従来のような険しさは感じないものの、積雪期であれば最も雪崩を警戒すべき地形である。
実際、頻繁に土砂崩れや雪崩が起きているようで、平らな本来の路面はほとんどが埋没していて、
僅かにガードロープの支柱が路肩に点々と露出しているのを見るばかりであった。
そして、この瑞々しい山菜山を踏み越えると――
どことなく飛行機の胴体を思わせる、丸い覆道が…!
この茫洋とした緑の原っぱが国道だったことを示す、幻影のように儚い覆道の姿だった。
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