道路レポート 天野橋と天野新道 前編

公開日 2017.02.23
探索日 2012.05.15
所在地 宮城県仙台市青葉区


【位置(マピオン)】

東北最大の都市である仙台の中心部を流れる広瀬川に沿って、関山街道という奥羽山脈越えの重要な道が延びている。現在の国道48号である。
熊ヶ根(くまがね)は関山街道の宿場町として発展した集落で、仙台と国境関山峠のほぼ中間(仙台市中心部から約20km)にある。

この辺りの地形の特徴は、典型的な河岸段丘にある。
広瀬川とその支流である大倉川および青下川の水面が浸食基準面であるが、これら河川により四分されたほぼ同じ標高を持った段丘面上に、熊ヶ根、萱場、苦地、道半などの集落が点在する。集落を隔てる段丘崖の高さは、おおよそ50mもある。
ある人は、平成18(2006)年にこの地の地形を、“杜の都のグランドキャニオン”と名付けている。

さて、こうした地形的特徴を持った場所は、土木技術が貧弱な時代においては特に交通の難所であった。
最低でも、幅100m、深さ50m程度の峡谷を一跨ぎ出来るような架橋技術を持つことで、初めて我々は、移動のたびに段丘崖を上り下りする苦労から解放されたのである。

この地図中に見える、広瀬川を渡る熊ヶ根橋や、青下川を渡る青下橋は、共に現代の技術で架けられた巨大な橋である。
そして、熊ヶ根橋が架けられる前の旧国道のルート(野川橋)も、地図に描かれている。
だが、青下橋の旧道についてはどうだろうか。

それが、今回紹介する 天野橋 である。
今ある青下橋は2代目で、初代の青下橋(橋台が残っている)は昭和33(1958)年に架けられた。
青下川を段丘面から段丘面へと初めて一跨ぎで渡った初代青下橋が出来る以前に、天野橋が使われていた。
最新の地理院地図でも、天野橋がある位置には破線の道が描かれているが、橋の記号は無く、道自体も橋の東側で途切れて描かれている。


なお、天野橋の存在を私が知るきっかけとなったのは、平成20(2008)年8月に宮城県在住の盃氏より寄せられた、次のような情報提供メールであった。

旧青下橋の下流の現青下橋。その更に下流、広瀬川との合流点に廃橋が架かっており、その先は廃道が崖っぷちを登っております。
この廃道は、昔(戦前?)は車が走ったそうです!
廃橋は、確かコンクリ製で、小さいものでしたが、歩いて渡るのも気が引けるくらいの状態だった気がします。この12年間未確認です。

2008年の 盃氏による情報提供(抜粋)

さらに、平成21(2009)年6月には、にょ氏 からも同じ橋の情報をいただいた。

仙台市青葉区の国道48号線熊ヶ根橋近辺で広瀬川が青下川という支流と合流しますが、その合流点付近の青下川に「天野橋」という昭和11年竣工のボロボロのコンクリートの橋が掛かっているそうです。 (中略)
最近行ってみた人の話だと、橋に至る道は完全に廃道になっている(ので辿り着けなかった)そうです。

2009年の にょ氏の情報提供(抜粋)

にょ氏はさらに、天野橋の来歴について解説した資料2点を示し、その記述内容まで教えて下さった。
その詳細な内容は「後編」で紹介するが、最も重要な部分を抜粋すれば、天野橋とその前後の道は、地元の有力者であった天野政吉という人物が、私財を投じて建設したものであり、ゆえに天野橋と名付けられた。


このように、2人から相次いで情報を寄せられた天野橋を私が探索したのは、平成24(2012)年5月15日であった。
以下、現地レポートだ。


野川橋の近くからスタートする、サスペンス劇場


2012/5/15 5:11 《現在地》

ここは仙台市青葉区熊ヶ根の広瀬川畔の一角。 旧国道が広瀬川を渡る野川橋の袂から、川沿いに150mほど入ったところである。
すぐ近くに宮城環境衛生公社の施設があり、ここまでは鋪装された良い道だが、この先は未舗装の狭い道しかないようだ。
よって、この場所から歩き出すことにした。
どんよりと、今にも雨粒の落ちてきそうな朝だった。

なお、今回の探索には、ミリンダ細田氏が同行してくれた。




出発前に、進行方向の眺めを確認する。

すぐ足元を軽やかな音をたてながら広瀬川が流れている。
川は緩やかにカーブしており、ここからは見えないその頂点に、青下川が注いでいる。
合流地点までは100mほどしか離れていないと思われる。
そして目指す天野橋の在処は、青下川を合流地点から100mほど遡った場所である。

合流地点の向こうの川岸はとても急峻で高い。これこそが冒頭で「この地の特徴」であるとした、巨大な段丘崖である。
天野橋を渡った道は、あの斜面を越えて、段丘面上の萱場集落へ達したというのだが……


崖の辺りを、望遠で見てみると――



道のように見える、とても 不自然なライン が…!


最も不自然だと思うのは、斜面全体を鮮やかに彩る地層の模様とは異なる方向に、ラインが現れている点である。

あそこが天野橋に連なる道の跡であることは、ほぼ間違いないと思われる。

そして最大の不安は、果たして、あの場所が通行可能なのかということである。


……けっこう、ヤバそう……。



5:14

出発直後、道はすぐさま鬱蒼とした杉林に入った。
特に封鎖されているわけではなく、その気になればクルマでも入ってこれるだろうが、轍はかなり頼りない。

今回は2件の事前情報によって厳しめな廃道の存在を予期していたのと、細田氏の同行があったため、自転車も使わずに最初から歩くことにしたのだった。


5:18 《現在地》

ぼんやりとした轍を辿ること約100m。
広場とも言えないような微妙な草むらで、轍は完全になくなった。
しかし、前方には川の流れている気配。

当時はGPSを使っていなかったので正確な現在地を知る術が無かったが、青下川の畔まで来たようである。
事前情報では、天野橋に辿りつくだけでも結構大変そうな感じを受けたが、特に苦労はしなかった。だが問題はここからかもしれない。そんな気がする。

橋がありそうな場所は、すぐに分かった。
右である。右。



右を向く。

いきなり藪が濃く、地面の見通しが悪いが、植林のスギがこの方向にだけ生えていないうえに、川に向かってまるで盛り土をしたように地面が膨らんでいる。
いかにも橋の袂にある坂になった築堤だ。

この先に天野橋があるとみて、間違いはないだろう。

この時点で、橋が廃橋であることは明らかだったが、その廃橋としての安否にも、大きな懸念があった。
私が把握している中での最後の訪問者である盃氏が橋を見たのは、平成8(1996)年頃であるという。しかも、その当時既に「歩いて渡るのも気が引けるくらいの状態だった気がします」というではないか。
それから(探索時で)既に16年も経過していたうえ、橋は14ヶ月前に東日本大震災の激震に見舞われているに違いなかった。



ガサゴソと、本日最初のヤブ漕ぎをスタートした。

辺りは見馴れたネマガリタケの藪で、僅かな踏み跡も見あたらない。
周囲よりも高くなっている部分の中央に橋があると見立てて、掻き分けながら上っていく。路面があるようには見えない。
歩き出してからここまでの道もそうだったが、道は最後まで鋪装されなかったようである。

林地と河原の境目がありそうな位置まで進んでみても、前方の藪が途切れる様子が無い。

どうやら、橋は架かってくれているようだ
が、
橋上も激藪なのだ。

正直、廃橋での萎えパターン上位の展開…     ――ん? あれは…。



親柱
キター!!!

思っていたよりも大きな親柱。

単純な四角柱のシルエットだが、コンクリートの表面がモザイク状に見える洗い出し仕上げになっており、古色蒼然たるものがある。親柱のデザインにも流行があり、洗い出し仕上げは昭和初期の橋でしばしば見る意匠だ。
親柱の上面に目を転じると、微かにピラミッド型の膨らみを持たせた笠石を載せていたようだが、破損していた。しかし、こんな場所が破損するのは不思議に思える。これも地震のせいなのか。

親柱の意匠観察はこのくらいにして、次は銘板を見る。
親柱の前面には、表札のような白御影石の銘板が、ちゃんと残ったままになっていた。
書かれた文字は、「昭和十一年四月竣工」というもので、にょ氏の情報にあった通りの竣工年である。




残念ながら、対となる下流側の親柱については、既に脱落してしまったものか、存在が確認出来なかった。

そして、親柱までは地上物で、その先からが橋の上ということになるわけだが、

確かに橋は架かって いた。

だが、絶対に現役の橋としては使えない種類の破損をしていた。

橋台と橋桁の間に、幅20cm程度の隙間が出来ていたのである。
橋桁が、動いてしまっている。
原因はなんだろう。橋脚が変動して橋が沈み込んだのか。それとも橋台の位置がずれたのか。 橋上の藪が濃いため、故障の原因はまだ分からないが、単に藪に覆われただけの橋ではなく、構造的な破損橋であることが確定した。

やはり事前情報の通り、かなり厳しい環境にあるようだ。この橋は。




橋上の藪が、
濃いぃ!

右の写真は、橋の上から上流方向を撮影した。コンクリートの高欄柱があるのだが、全く見えない。それに、柱だけで高欄が無いようなのだが、脱落してしまったのか。

なお、こんなんでも一応進めるは進める。
床版はコンクリートなので、それなりの堅さがある。
木橋だったら絶対に原形を留めていなかっただろうが、コンクリート橋はやはり偉大だ。

本橋は昭和11年架設らしいが、当時まだ珍しかったコンクリートや鉄の橋を指して「永久橋」という言葉をよく使った。重要な木橋を永久橋化するのは当時の花形建設事業であった。
現在では、コンクリートや鉄の橋が“半”永久的でさえないことは十分知られているが、15年程度で寿命と言われる木橋に較べれば、人間の寿命ほども“架かったまま”であり続けられる永久橋は、やはり偉大な存在だった。



ほとんど足元は見えないまま、藪を漕ぐだけの高揚なき渡橋が続く。

さほど長くもないらしい橋の後半に入ったことは、近付く対岸までの距離から理解した。



!!!!! ちょっと細田タンマタンマ!!押さないでー!

が、
ない!

いま思い出すとただただ可笑しいけれど、ちょっとした恐慌に陥った事態だった。
だって、俺の足元にあるはずの橋桁が突然無くて、そこが空中だってことに気付いたときには、後続ですぐ近くにいた細田さんが、メットを被った頭をこちらに向け、前のめりになりながらまるで魚雷みたいに迫ってきてることにも気付いてしまって。このまま火サス的展開「あーっ!」になるんじゃねーかと焦ったのだ。



ようやく恐慌を脱して、冷静に橋の先を観察する。

対岸の陸地まで、最短で4m前後は離れてしまっている。
最初は1スパン分の橋が落ちているのだと思ったが、対岸に橋台らしいものが全く見あたらないので、どうやら橋ではなく橋に繋がる築堤部分が失われているようだ。洪水か何かで流出したのだろう。
橋を渡り切ることが出来なくなっているという情報は無かったが、盃氏が16年前に訪れた時はどうだったのだろう。

それにしても、対岸にはまるで道がありそうな気配が無いのだが…。

…とりあえず、一旦橋を渡る前まで戻ります。




もうやめて!とっくに天野橋のライフはゼロよ!


5:30 《現在地》

渡り得ない橋より退却し、右岸からの渡渉作戦に切り替えた。

道を外れ、上流側から河原へ降りる。
水面ギリギリまで笹藪が茂っているようで、なかなか面倒だ。
しかし、進んでいくと、これまでまるで見ることが出来なかった橋の全体像が見えてきたので、また萌えてきた。

それにしても、橋上ジャングルの類い稀なる元気さよ。
誰がこんなになるまで土と種を与えてしまったのか。




ふふふ…

先にこの状況を見ていたら、渡ってみようとは思わなかっただろうな。
いや、それでも細田さん辺りは渡りたがったかも知れないし、案外私も渡に行ったかも知れないが、完全に橋は空中で跡絶えていた。

それに、なんかいろいろなものが傾いている。
本来は直角や水平であったろう橋の主要な構造体が、どれもこれも歪んで見える。
右岸の橋台と橋桁の隙間が大きくなっていたので、予感はしていたが、やはりひどい有り様だ。



右岸の橋台を下から望む。

玉石練り積みの古びた土留めに囲まれたコンクリートの橋台があり、そこに重々しい橋桁が載っている。
こうして見ていても分かるほど、橋桁が左に向かって傾斜している。2径間の中央を支える橋脚が沈下しているのだろう。

桁そのものはなんとか形を保っているが、表面のコンクリートは所々剥がれ、内蔵した鉄筋の束が露出しはじめている。もちろん、鉄筋は表面にギザギザのない古いタイプの丸形鉄筋だ。

高欄柱が1本空中に浮かんでいるように見えて、すわ何事かと思ったが、良く見れば鉄筋で支えられていた(笑)。




そのまま河原を進んで橋の下へ潜り込んだ。

……酷かった。

いままで、ここだけは無事と思っていた右岸の橋台だが、実は前面を上下に二分するほどの巨大な亀裂が生じており、亀裂を山にして橋台全体が折れ始めていたのである。
もはやこの橋台が、重い橋桁を支えていられる時間は、さほど長くないと思われる。
落橋という決定的な破壊の場面が、我々が下にいるこの状況で起こらないことを願うばかりだった。

ン? 河原に見えるあれは、もしや!!



親柱&銘板
キターー!!

これはおそらく、右岸橋頭に見あたらなかった下流側の一柱だろう。
地震の揺れで橋台からずり落ちてしまったのだろうか。
洗い出し仕上げの親柱に相応しく、河床でときおり流水の洗礼を受けている様子だが、幸いにして流出も埋没もせず、しかも、4分の1のギャンブルに勝利する形で、銘板の取り付けられた面を上にしていてくれた!
オブ神様、ありがとう!!




そんな幸運の銘板に書かれていた文字は……

「〜専用橋」

「青下橋」とでも書かれていると予想していたが、実際に読み取れたのは、予想外の「専用橋」という3文字だった。
だが良く見れば、3文字の上にはさらに1〜2文字分の破損したスペースがあり、辛うじて「野」の左下辺りの字形が見て取れた。
この銘板の壊れた部分には、「天野」の2文字があったと推定された。つまり――

「天野専用橋」

――これが、銘板に書かれた、本橋の正式名というべきものと思われる。

事前情報によれば、この橋を地域住民の便利のため私財を投じ建設したのが天野家であったから、天野橋と呼ばれたという話しだった。
このような美談はときおり聞くが、多くは本来の橋の名前が別にあるのにも関わらず、貢献者への感謝を込めた“通称”の方が広く人口に膾炙したというケースが多いように思う。
しかしこの橋は、天野橋どころか、天野専用橋を最初から名乗っていたようである。

専用橋というネーミングからは、どうしても一般の交通路として解放されていたイメージが遠く、美談的だった橋の由来潭を濁らせかねない一石を投じた印象がある。
とはいえ、あくまでもこれは私の勝手な感覚。ちゃんと記録として残されている史実は「後編」で紹介する。
そしてなにはともあれ、ぎりぎりの状態で残っていた銘板を記録出来たのは、とてもラッキーだった。




この日の青下川の水量は、巨大な谷を彫りだした力をどこに隠しているのかと思える程に少なかった。
長靴を濡らさずに渡れる程度の水深と水勢である。

我々はすぐに川を渡らず、白い礫が目立つ河原を下流へ広瀬川との合流地点まで歩いてみた。そこまで100mもなかった。


合流地点からは、広大な砂利の川原を取り囲むように流れる、広瀬川の巨大な蛇行が一望出来た。
さすがに本流だけあって水量も豊富だった。

ここは決して未開の山奥ではなく、周辺には多くの集落が存在しているのだが、この場所からは一軒の民家も見えない。
どの集落も挙って段丘上に立地し、川はただ橋で渡るだけの場所になっていることが、そのように見える原因だろう。
交通には厳しいが、動植物には恵まれた自然環境なのかもしれない。

さしあたっての問題は、天野橋を越えた先に待ち受ける、あの崖地を横断する道だと思う。樹木がそれなりに生えているので、路面がどうなっているのかはほとんど見えないが…。




振り返って…



「もうやめて!とっくに天野橋の耐久値(ライフ)はゼロよ!」

↑これが言ってみたかった(笑)


昭和11年の竣工から三四半世紀、廃止より半世紀を経て、満身創痍の姿を見せる天野専用橋。

その架橋の効用をもう一度だけ果たすべく、これより2人は天野氏の新道に挑む。