道路レポート 愛知県道368号豊川蒲郡線 灰野坂 中編

所在地 愛知県豊川市
探索日 2014.4.08
公開日 2017.9.12

灰野坂、御油側の峠道(県道)を上る


2014/4/8 14:46 

国道1号上の起点から2.2km、公園として整備された区域を外れると同時に、本性らしきものを現した県道368号豊川蒲郡線。

道幅の半分だけを塞ぐ車止めと、裏返しになった「通行止め」標識(←読者情報によると以前は今と反対向きに設置されていたらしい)が、100m手前の交差点にあったが、ここには赤いコーンが一つ、やる気なく路傍に置かれているだけだった。この先がどうなっているかは、自ら入って確かめろということだろうか。



すっごい豹変ぶりだ!(笑)

前回紹介した道と同じ道とは、とても思えない変貌ぶり。
前回のどのシーンからも、3kmと離れていないのに…!

どうやら、私にとってはまだまだ未知に満ちたこの豊川という地の県道も、これまで見てきた沢山の不通県道に負けず劣らず、素敵なギャップの持ち主らしい。期待外れでは終わらなそうだ。

なお、道が豹変して間もなく、車止めやチェーンゲートの一部らしき謎の障害物が、ぽつんと1本だけ路上に突っ立っていた。
しかし路面上の轍は、それを無視して奥へ続いていた。




まるで、昔はやり・・・・の洗濯板だ!

酷い路面状況である。砂利さえ敷かれていない古典的な土道だが、勾配のある土道の宿命に漏れず、洗掘された溝や露出した岩が、路面を激しく凹凸させていた。

しかしそれは、意外にも多くの轍に踏み固められた姿であった。
舗装があったときには窺い知れなかった車止め以奥の交通量だが、この豹変に屈せず踏み込んだ車両が、それなりにあるらしい。

地形図などでは、この先の峠道は一応「軽車道」として、峠の向こう側へ抜けられるように描かれているのだが、無理すれば車両も通れる“不通”県道は、私の特に大好物とするところである。いきなり登山道みたいな道が始まるパターンも覚悟していたが、これはますます良い感じ!
この調子が続くようなら、個人的にかなりの高評価物件になるかもしれんぞ…!



14:50 《現在地》

……やはり、そう簡単には行かないか…。
いい感じに轍を連れた道だったが、豹変から150mほど前進したところで突然広場となり、その濡れた地面には、転回しようとしたタイヤ痕が沢山残っていた。
そしてさらにその30mばかり先にも小さな広場があり、それが“車道としての最終地点”であるようだった。

それにしてもここは、森の中にあって陽当たりに恵まれた、居心地のよい広場だ。
正面には峠の鞍部がある稜線が、低いながらもどっしりと構えており、峠下の最後の足休めに相応しい雰囲気がある。
この場所がひらけているのはなぜだろう。かつて人家でもあったのだろうか。
存外多くの車がここままで入っていたのも、この秘密基地感のある空間が都会の人に愛されてのことかも知れない。

ともかく、ここからはまた一段と“ワルくなった”道が始まることだろう。



これが、豊川と蒲郡の両市役所間を最短距離で結ぶ、県道368号の姿か。
この道に頼らずとも容易く行き来できる両市だけに、何らかの事情で、この道の整備が取り残されてしまったんだろうなぁ。

ただ、それでも完全な廃道というわけではなさそうだ。
足元には鮮明な踏み跡が一筋あり、踏み固められた路面も充分に硬い。
おかげさまで私も自転車に乗車したまま進むことができる。

これは図らずも、MTB乗りが大抵好む“シングルトラック”というジャンルの道になっている。
轍1本分のわずかな幅の外は天然のフィールドという状況に、文明の利器である自転車を漕ぎ進めていくのは、人の本性に含まれる冒険心や征服心を駆り立てられる、とても楽しい体験である。
MTB(山チャリ)の世界から廃道へと入った私にとって、なおさら夢中になれる展開だ。




14:52 《現在地》

広場から150mばかり進んだ地点で、道はこれまで隣にあった小さな沢に高度的な意味で追いつかれ、それを渡って先へ進むことになった。

そしてそこに架かっていたのが、踏み跡の幅に相応しい小さな素朴な橋だった。丸太4本を横に並べただけの、江戸時代もかくやと思える丸木橋である。
果たしてこれが県道の管理者に把握され、現に管理されている橋なのかは疑問が残るが、とりあえず、県道上に架かる現役木橋であるのは確かだ。
さすがに自転車からは降りて通行したが、体重程度ではびくともしない、まだ朽ちていない手作りの木橋であった。

なお、道路地図都市計画図に描かれている新道の建設予定線は、このままあと50mくらい沢沿いを遡ってから、峠の直下に全長3〜400mのトンネルを抜くことになっている。しかし現場一帯には、一切の予備的な工事が行われている様子もなかった。



小さな木橋を渡ると、道は杉林に入った。
そして、路上の陽当たりが悪化したことで藪が薄まり、ここにあった道の本来の姿が鮮明になった。

目の前に現れたのは、私の大好きな“近代車道”(荷車や牛馬車など、自動車以前の車両を相手にしていた車道の総称。後に自動車が通る車道(現代車道)に生まれ変わった道もたくさんあるが、その機会を逃したために、時代に取り残されて衰退したものも相当にある)を思わせる、緩やかな勾配と2m前後の幅を持った道だった。

この道には過去に車道として利用されていた時期があるのではなかろうか。
それも、単なる林業用の作業道のようなものではない、もっと古い謂われを抱えた道である予感がする。その証拠を挙げることはまだ出来ないが、長年の経験から来るこの予感には、まず外さないくらいの自信があった。




鬱蒼とした杉林を進んでいくと、間もなく特徴的なカーブが見えてきた。
どうやら道はこの先で切り返して、一段上へ進むようだ。そしてその向かう先は、ちょうど峠のある方角である。
いかにも車道(特に“近代車道”)らしい線形に、さらにテンションが上がった。

というか、事前に地図上でこの切り返しの線形を確認していたからこそ、周辺にいくつかある不通県道の中でも、ここを優先して訪れたのである。それが見事、期待した通りの展開となった。
旅先で愛車が故障するという悲しい出来事があった(そしてこの時点では復活できるのかも不明だった)が、とりあえずオブローダーとしては、「万事塞翁が馬」の故事を思わせる良展開に恵まれつつあった。



14:56 《現在地》

ここは、ふるさと公園の十字路(車止め地点)から550m地点にある、切り返しのカーブである。
そしてこのカーブには、地図上からは窺い知れなかった、実際に訪れて初めて知ったポイントが、なんと二つ!

一つめは、馬頭観音の祠と案内板の存在だ。
それは、画像上に重ねて描いた赤い矢印の位置に発見された。

二つめは、ここが分岐地点になっていたことだ。
白い矢印の方向に、地図には描かれていない別の道が分岐していた。

前者から見ていこう。




道から数メートル高い斜面に小さな木祠があり、そこに馬頭観音が納められていた。
これだけでも、ここが古い謂われを持った道であることの傍証になりうるが、ありがたいことに、その由来を記した(設置者不明の)解説板と道標が合わせて設置されていた。
そのおかげで私は、本来は机上調査を行わなければ知り得なかったような事柄を、いち早く把握できた。以下に全文を転載する。

  馬頭観音 
この灰野坂は、江戸時代には灰野村、江戸時代には灰野村と御油宿との往来が、はげしい道であった。人や荷物の運搬は専ら馬にたよっていたので、馬は当時は、家族の一員として、重要な存在であった。
その愛馬が死去したのを哀れんで、灰野坂の入口と、毎日通ったこの峠に、文政八(一八二五)馬頭観音が建立されたものと、思はれる。
然し、時代の移りと共に、人の通りも絶えたこの峠で、昔から様々な姿で通る人を見ながら、只独り、百六十余年の風雪に耐えて、今日も、合掌して、私を拝んでいてくださる。

どうやら、地形図には記名のないこの峠道には、「灰野坂」という名が与えられているようだ。
江戸時代から馬による交通が盛んであったとのことだが、私の足元にあるのは明らかに近代車道としての手入れを加えられた道に見える。
近代の出来事については触れられていないので分からないが、近世に活躍した道が、近代には車道としての改築を受けたと考えるのが自然だろう。
そして、現代において一度は忘れ去られたようだが、自然や歴史を愛する人々によって再び発見され、今はまたハイキングの道として愛用されているのだろう。そうでなければ、この解説板や道標、そして私をここまで連れてきた確かな踏み跡の説明が付かない。
有名な東海道と直接結ばれている峠道だけあって、長い時代を生き抜いており、簡単に命脈の尽きない深みを持っているようだ。

解説板の隣にある、手作り感の強い木製の道標は、この地で会合する道の数と同じ3枚羽根で、 峠方向に「宮路山」、 私が来た道には「ふるさと公園」(←うろ覚え…)、 そして残るもう1本の道には「御油神社」と、 それぞれの行き先が振られていた。

御油神社は、峠の麓にある神社なので、ここから見ると下っていく道である。
つまりここで、御油方面から上ってくる2本の道が1本になって峠を目指している形だ。
そして御油神社への道は、県道側と較べると、いくらか狭く見える。

……もしやこれらは、新道(近代の車道)と旧道(近世の歩道)の関係なのでは?
なんか、そんな気がする……。



車道としては廃絶していたが、廃道には堕ちていなかった、県道368号灰野坂。
分岐のあるカーブを切り返して進むと、峠道らしく上り勾配が強まった。
しかしまだ車道を諦めさせるほどの勾配ではない。

そして、浅い堀切のような凹んだ道路構造が印象的だ。
いかにも数多の足跡が累重する“歴史の道”らしい、いぶし銀の道路景観である。
現代的なものは何も視界に入ってこない。

こんな感じで、道は確かな踏み跡を乗せて、遠くはない峠を目指して上っていく。




掘り込まれた道が、山手から流入する土砂や倒木で塞がれていたが、掘り込みの外側に迂回する踏み跡が付いていた。
自転車で越えようとする身には、これがとてもありがたい。

私にとって廃道とは、必ずしも使われていない道だけではない。
かつては車道として作られたが、現在は歩行者だけが利用している、古い道幅を持て余しているようなものも、衰退という廃道のワンシーンであり、部分的な廃道である。
そして、こんな都市に近いところで状態のよい“近代車道”の廃道にお目にかかれるとは、幸運なことだ。



満足を噛みしめながら、自転車で峠道を楽しむ私の姿をご覧ください。↑↑



低山とはいいながら、より高い山に空を圧せられるような場所ではないので、峠に迫ると、ちゃんと空が近くに感じられる。

一度切り返した後は、尾根と沢の交互に現れる起伏に従って右に左に蛇行しつつの平和なトラバースである。
道の周りは杉が多く植えられているが、林業としてはあまり手が込んでいないようで、自然林に近い明るさと風通りがある。
道だけでなく、道の周りの景色がよい。眺望的なものは見事に皆無だが、それでも良い“道路風景”だと感じる。

しばらく進むと、橋と呼ぶにはさすがに厳しい大きさだが、またしても道に丸木が渡されていた。
いかに小さくとも、沢を跨いでいることに変わりはない。
大人の歩幅なら敢えて橋も要らないような溝に渡された、道への愛を感じさせる極小の丸木橋だった。

さらに進むこと数分、切り返しの分岐地点からおおよそ400mで、この探索の【始まりから見えていた】鞍部へと、私は足を踏み入れた。
そこは遠景ではとても大きな鞍部に見えたが、撫でつけられた峠越えの県道は――





なんともささやかな凹みであった。

灰野坂頂上、到達!




灰野坂、御津側の峠道(県道)を下る


2014/4/8 15:06 《現在地》

県道起点(国道1号)から2.5km、ふるさと公園前の車止めからだとちょうど1kmで、江戸時代には馬の往来が盛んだったという灰野坂の頂上へ達した。峠の標高は地図読みで135mほどで、起点が海抜25m付近だったから、プラス110mという、ささやかな峠越えである。

直交する尾根上には縦走路があり、峠が十字路になっている。それぞれの行き先を表示した道標(馬頭観音の所にあったものと同じ作者だろう)もあり、峠を越える方向には、「金野・国坂峠」と書かれていた。

ここまでの峠道では休憩を要するほど消耗しなかったので、立ち止まらずそのまま切り通しへ。



灰野坂、頂上の切り通しを越える。

かつて車馬を通じたであろう切り通しは、踏み跡の数倍の幅を持て余していた。
峠の前後とも高木の雑木林になっており、地上に射し込む木漏れ日が優しい。
樹木のために眺望は全く利かないものの、小さいながらしっかり掘り込まれた、かまぼこ状の切り通しがあり、その中央の膨らみ(サミット)に近づくと、今まで窺い知れなかった峠の先の景色が、かまぼこの中に広がった。この景色の変化する瞬間には、峠越えのカタルシスが凝縮されている。小さな峠でも、それは変わらない。

なお、現在の峠は豊川市御油町と同市御津町金野の大字の界でしかないが、平成20(2008)年1月という最近までは、豊川市と宝飯(ほい)郡御津(みと)町の市町界であった。
県道の市町界だけに市町名の案内標識があったら嬉しかったが、見当たらない。県道としては相当前から管理者に忘れられた存在だったのか、それとも逆に、忘れられていないからこそ、合併時に撤去されたのか。多分前者だろう。



峠を越えてすぐ、切り通しからも見える位置に、再び木の祠が登場!
そして、手元の地図を見る限り、祠の前がちょうど分岐地点になっていそうだ。

この場面、なんとも古道映えがする。
菅笠(すげがさ)の旅装を纏った人物が祠の隣にいても、何ら違和感がない。まんま時代劇のシーンのよう。追い剥ぎ出そう!(←おい!)

そういえば、前回見た【馬頭観音の解説板】には、「灰野坂の入口と、毎日通ったこの峠に、文政八(一八二五)馬頭観音が建立されたものと、思はれる。」と書いてあった。
私はそれを、灰野坂の入口(前回の場所?)と峠の頂上の2カ所に文政8(1825)年の馬頭観音が建っていると解釈したが、これが峠頂上の馬頭観音なのだろうか。


うん! やはり、祠の前に分岐あり。

直進の道と、左へ折れる道。
前者は、峠を既に越えたにもかかわらず、微妙に上っている。
対して後者は、錐を刺すような、捻れながらの急な下り坂だ。
そして、地理院地図・都市計画図ともに、県道はここを左折としている。

またこの分岐にも、峠にあったものと同じ形の道標があった。
注目すべきは左折の行き先で、「金野町灰田」とあるほかに、括弧書きでこう書かれていた。「 県道 豊川↔国坂峠 」と!
やはり左折が県道である!
この峠が豊川から国坂峠を経て蒲郡へと至る県道であることを、道路管理者はあまり公然としたがっていない雰囲気があるが、おそらく地元の人だろう道標の設置者が、それを明るみに引きずり出していた(笑)。



私が選ばなかった直進の道と、馬頭観音らしき石仏。
この道の行き先は、道標には「金野町秋葉神社→国坂峠」と書かれており、左折の県道とどこかで合流して、共に国坂峠へ通じているようである。
確かに地理院地図にも、それらしい軽車道がずっと西へ山腹を横断しているのが描かれている。

石仏については、ちょうど分岐にあるので、道標を兼ねているのではないかと期待したが、お召し物を身につけているせいもあって、それらしい刻字は見つけられなかった。
像自体もだいぶ風化して角が取れている感じだ。記年も見られなかった(と思う)が、江戸時代(安政8年?)の物だろうか。
であるならば、祠を支えている石垣も江戸時代の構造物かもしれない。
しかし、木造の祠が健在だというのは、現代も往来と信仰が完全には途絶えていない証しといえる。




そしてこちらが、これから進む、左折の県道だ。

最初は自転車に乗ったまま入ることを躊躇うほどの急坂になっているが、すぐ先から常識的な勾配に落ち着いているようだ。
相変わらず古道然とした、浅く掘り込まれた道である。

それでは、ここから灰野坂の旧御津町側へ下ろう。
県道373号金野豊川線との合流地点(探索のゴール)まで、地図読みで約1kmの下り道である。

ここからの後半戦、果たしてどんな景色が、そして道が、私を待っているのだろうか。




15:11 《現在地》

祠前の分岐から50mばかり下った現在地は、地理院地図(→)だと再び左右に道が分かれるように描かれている。
だが、実際にはそれらしい分岐は見当たらないし、多少前後まで視野を広げてみても、それは変わらない。
地理院地図が県道を示す黄色で塗り分けている、右へ行く道が見当たらない。
そして、豊川市の都市計画図に県道として描かれている道だけが、相変わらずの鮮明な掘り割りでまっすぐ続いている。



2種類の地図が県道を異なる位置に描いている状況だが、地元自治体が公開している都市計画図の方が、地理院地図より縮尺も大きく、より正確に県道を反映していると判断した。
そのため、見当たらない分岐を無視して、このまま直進することにした。

“地理院地図の県道”が入り込んでいるとされる右側の谷を覗いてみたのが、左の写真だ。
これは峠の直下から始まる谷筋だが、底が妙に平坦だった。
そしてその谷底は、湧き水か溜まり水か分からないが、かなり泥濘んでいる。
自然の地形というよりも、過去に人が手を加えて整地したような気配がある。




これは間違いない。
この谷には大々的に人の手が加わっている。
道から継続的に見下ろされる谷底には、本来の河川勾配を吸収する形で平坦面と斜面を交互に見せる、階段状の整地があった。
このパターンは、屋敷割か水田か。おそらく後者っぽい。
いずれにせよ、人が近くに暮らしていた証しとみて間違いなかろう。峠の直下まで御津町側の生活圏は及んでいたようだ。

そんな整地された谷底にぽつんと佇む、真四角の小さな浴槽があった。
なみなみと湛えられた水面に、どこかから舞い込んだ山桜の花びらが散っていて、仄かな哀愁を漂わせる。
付近で耕作が行われていた時代の水溜めだろうか?



道は相変わらずの掘り割りベースで続いている。
道幅は3m程度を維持しているので、車馬の通行は可能であろう。
道を木陰にするために残されたような大木が路傍に点々とあり、雰囲気がとてもよい。
路面は硬く締まった土道で、砂利も敷かれていないので、雨の日はとても滑りやすそうである。

MTB乗りにとってはとても好都合なダウンヒルだったが、距離が短そうなので勿体なく感じ、
普段以上にブレーキを握って、じっくりと景色を噛みしめながら下った。



“近代車道”らしい道幅と緩やかな勾配が続くが、そこに新しい自動車の轍は見られない。
不通県道は数あれど、このように古い時代の車道が、あまり手を加えられないまま県道になっているケースは、貴重だ。
橋やトンネルのような派手な道路構造物もないし、ハードな廃道探索をしたい人には不向きだろうが、
自転車旅の途中で通過しながら探索するくらいには、こういうのは最高だ。すいすい進めて気分がよい。



15:13 《現在地》

峠から300mほど下ったところで、地理院地図に描かれている細い水線が、道と交差している。
橋があるかもしれないと期待していたが、実際は沢を跨ぐ土の築堤があった。
沢といっても水量はわずかで、築堤はヒューム管で水を通しているようだ。
とはいえ、この築堤は、峠の切り通しに続く、大規模な土工であった。

築堤を越える頃から、前方右側に明るい地平が感じられるようになった。
樹木に遮られて、まだはっきり見えないが、広い開けた場所があるようだ。
このままなだらかにあの地平まで下れれば、峠道的な勾配区間は終わりだろう。
まだ見ぬ集落の出現が、近いかも知れない。




築堤で渡った小川と休耕田らしき地平を右に見下ろしながら、いよいよ下界の気配が濃厚になってきた道を下る。
踏み固められた路面は藪とは無縁の鮮明さで、目立って崩れているような場所もない。
だがそれでもまだ、自動車が我が物顔で通行できるような感じはない。依然として、愛すべき“近代車道”の表情を保っている。

そんな中、
私は驚くべき発見をした!  こっ、これはっ!



デェリィニィーエィタァアァーーー!

……失礼しました。取り乱しました。

デリニエーターですね。正しくは。
皆さんも道路上で見慣れていると思います。いわゆる反射板です。
デリニエーターとは道路上にある視線誘導用のアイテムの総称であり、その代表的なものが、この写真のような路肩に設置される反射板付きのポールであるとか、カーブの外壁に設置される矢印形の反射板などである。

そしてごく基本的な事柄として、反射材を基本材料の一つとするデリニエーターというものは、歩行者用に設置されているものではなく、ライトを装備した自動車向けの装置である。
だから当然、自動車相手ではない“近代車道”には、決して存在しなかったアイテムだ。

……道路管理者さまへ質問です。
この道を、自動車が通ったことがあったのでしょうか?
それとも、通行することを想定していたのでしょうか?

なかなかこれは、興味深いぞ。


しかもそれだけではない。
このようなポール型のデリニエーターには、追加の楽しみがある。
それは、この「愛知県」のように、管理者の名前が書かれていることだ。
基本的には、国が管理する道(国道の指定区間内)には、「国土交通省」ないし「建設省」。都道府県が管理する道(国道の指定区間外と都道府県道)には、都道府県名がペイントされる。

そのため、デリニエーターに書かれた文字で、そこが国道や県道である(あった)ことを推し量ることが出来る。
これは、道路趣味者的に非常に大きな意味がある。
今回の探索でも、地理院地図と都市計画図で県道の位置に対する意見が割れたが、これで後者が正解であったことが(ほぼ)確定した。

ボロボロになった1本きりのデリニエーターと、そこに書かれた「愛知県」の文字は、こんな小さな一品ながら、この不通県道探索の主役を張れるインパクトがあった。
少なくとも、私はそう感じて大喜びしたのだった。
(これなければおそらくミニレポ。それが道路レポに昇格したのは、こいつのおかげが大きい。道路趣味者の価値基準は謎が多い?(笑))