道路レポート 愛知県道368号豊川蒲郡線 灰野坂 後編

所在地 愛知県豊川市
探索日 2014.4.08
公開日 2017.9.15

不通区間明け 〜仏の顔は三度現る〜


2014/4/8 15:16 

感動の(?)デリニエータとの遭遇地点のすぐ先で、道は谷底の広い地平へと降り立った。
ここまで峠からは約400mの距離で、この間に標高も40mほど下って、海抜90m付近である。

道はここで左へカーブして沢沿いに進むようだが、後にしようとしている右側の地平には、明らかに休耕田と分かる野原が広がっていた。
陽当たりのよい部分にもほとんど草木が侵入していないので、放棄されてからあまり年数を経ていないかもしれない。
そこにはっきりとした道も見当たらないが、オフロードバイクのような轍が入り込んでいた。これは御津側に入ってから初めて見る轍だ。

また、休耕田の向かいには鬱蒼とした杉の植林地が広がっているが、その林床には、屋敷割のような段差が工作されていた。



地理院地図を見ると、この峠直下の水源地一帯は、東西にやや扁平な小盆地を形成している。
盆地内に人家らしいものはほとんど描かれていないが、北側の宮路山山麓を中心に妙に密な道路網が描かれているほか、寺と神社がある。
広い休耕田や、整地された植林地の存在と合わせて考えれば、ここにはかつて、それなりの規模を持った集落があったと見て間違いないだろう。

【馬頭観音の解説板】に、「この灰野坂は、江戸時代には灰野村と御油宿の往来が、はげしい道であった」と書かれていたが、現在の地図をいくら眺めても「灰野」という地名は見つからない。代わりに、この一帯の広い範囲は「御津町金野」の大字を持っているようだが、地図から消えた「灰野」という名の村が、この地に栄えていたのかも知れない。
そんな想像は、石仏が佇む静かな峠路の姿とよく重なりあい、私の心を楽しませた。

もっとも、これは行き会ったりばったりに近い探索であり、県道の先を追いかけることに夢中の私は、敢えて集落跡と思われる一帯に踏み込むこともしなかったし、なんら確証を得ることもなかったのであるが、帰宅後に多少追加の調べをしたので、「灰野」という峠名ともなった地名の正体は、最後に説明したい。



小盆地を後に前進を再開すると、路肩と水路を隔てる石垣が現れた。
路上にもいくらか轍がついている。
水路の向かいは休耕田のように見えるが、取り囲むように獣よけのフェンスが設置されており、完全に放棄されているわけではなさそうだ。アヤメとか植えてある?

この先の道は、背後の小盆地と外界を隔てる、山に挟まれた狭いところへ入っていくのだが、そこに再び、アレがあった。




デリニエーター、再び登場!

今度は仲間を連れて現れた。ここには2本ある。
トラ模様のプラスチック製のポールと、反射材を付けた細身の金属製ポールだ。
どちらも路肩の位置を教えてくれるデリニエーターで、前見たヤツよりは新しそう。程度がいい。

そして今回もちゃんと、所属を表す「愛知県」のシールが貼られていた。
愛知県の道路行政が、ここを県道であると認めたうえで設置したポールである。
設置にあたった職員だって、新人のうちは 「え?!これが県道なんですか?」 とか思ったりもするだろう。人間だもの。



矢継ぎ早にいろいろなものが現れるので、退屈する暇が全くない。規模の小さな峠道だけに、峠道の起承転結にあるものがぎゅっと凝縮している印象だ。

山に挟まれた天然の関所のような場所にあったのは、獣の関所だ。獣よけフェンスが道を閉ざしており、通行人は自らフェンスを外して通るのだが、それを知らなければ立ち入り禁止と勘違いするヤツだ。
ここでも数本のデリニエータが活躍しており(?)、真っ当な道に近づきつつあることが感じられた。



15:19 おおっ! 自動車登場!

峠から約600m地点にて、再び明るい場所に出ると同時に、右から来る舗装路と合流した。
手前の県道に頭を突っ込む形で1台の軽トラが停まっており、それは“不通区間”からの脱出を教える存在だった。

なお、誤記と思われる“地理院地図の県道”とは、ここで合流している。



そして、ここまで二度続いていた“ある出来事”が、ここで三度目を実現していた。
分岐地点にある石仏、三度目の登場である。峠の東西の麓と頂上付近の3箇所にあった古そうな分岐地点の全てに、石仏が安置されていたことになる。小さな峠道だが、なかなかに“篤い”。

自動車が主役となった現代の峠道には、舗装された路面が求められるが、生身の人や馬が往来していた時代の峠には、石仏によって可視化された精神的な加護が、同じように求められていたのかもしれない。なくても通行は出来るが、あれば安心するという点で、舗装と石仏には似た部分がありそうだ。

木祠の中には、柔和なお顔立ちの石仏(馬頭観音)が安置されていたが、そのお姿を隠さんばかりに供物が百花繚乱の観を呈しており、無名の信心の根強さを感じさせた。
石仏の光背部分に文字が刻まれており、「文政八年酉八月」などと読み取れたが、道標的な内容は含まれていないようだ。

それにしても、文政8(1825)年といえばかれこれ200年近い昔のことで、明治が始まる43年も前のこと。
当時栄えていたという峠の往来安寧を願って安置されたのだろうが、200年後にそこが“県”道に認定されていることはもちろんのこと、巷に自動車が出現していることなど、絶対に予見しなかっただろう。
だが、世の中を席巻する自動車交通になぜか取り残されたために、峠道は形を留め、石仏にも花が手向けられ続けているのである。
歴史の因果は複雑であり、未来予知は真に難しい。


石仏のある分岐地点を振り返る。
ここから見ると、集落があったと思われる小盆地は小山の影になっていて、うかがい知ることが出来ない。
なんとなく隠れ里的な立地である。
豊川市の眩い新興住宅地から、あんな小さな山を越えただけで、この変わり様。ホタルでもいそうな山村に迷い込んでしまった。

なお、こちら側から県道走破を目指す場合、ここを右折する道が県道だと予想するのは難しいだろう。
少し進めばデリニエーターがあるので、それと分かるのだが…。

また、峠のこちら側には、反対側にあったような車止めのような物理的な封鎖ゲートはないし(獣よけフェンスはあるが)、やはり反対側にはあった「通行止め」(なぜか裏返しになっていたが)の道路標識もない。



そんなこんなで、東三河ふるさと公園前の車止め地点から1.6km続いた未整備区間(不通区間)を、無事に突破した。
要した時間は35分である。MTBでちょいと走るには最高のミニ峠だった。

そしてここで舗装は回復したが、それでもまだ十分“険道”的な県道風景である。
峠の反対側とはまるっきり雰囲気が違う。
この先、広い通りに出るまでの残り500mも見届けていこう。

舗装は復活しても、依然として道幅は狭いままで、県道であることを主張するようなものも見当たらない。
不通区間内にはいくつもあったデリニエーターも、ここに来てなぜか姿を見せなくなった。
普通は逆だろと思ったり(笑)。




最後まで美味しい、集落内の狭路区間


14:56 《現在地》

第3の石仏地点から200mほど狭路をゆくと、峠を越えて初の民家が見えてきた。
一軒だけではないので、集落のようである。豊川市御津町金野に属する地区になるが、個別の集落名があるかどうかは分からない。

民家の出現と同時に道が3本に分かれた。今いる道を合わせれば変則四叉路である。どの道も同じくらいに狭いが、印象として一番進みやすいのは、やはり直進路だ。
しかし、県道は右折である。
この写真の見える範囲にそれを裏付けるものは一切ないが、地理院地図や都市計画図が共にそう主張している。

そして、写真だと目立たないが、県道を含む右折方向の2本の道が1本の橋を共有している。とても小さな橋が架かっているのだ。


この小さな橋、道路の珍風景・・・・・・的に、なかなか美味しい存在だったりする。 私も初見だっただけに、驚きながら、笑いが零れた。

この橋、まずは 短い という特徴がある。
助走を付ければ飛び越えられそうなほど短い橋なのだが、橋上の路面が起点から終点方向へと豪快な末広がりになっている。
その理由は一目瞭然で、橋の終点側袂に2本の道が合わさっているからだ。
しかも2本の道の片方は、明らかに一軒の民家の庭先に入るだけの公道ではない道に見える。れっきとした県道の橋だが、その線形が民家の存在に思いっきり引っ張られている。
そして、これが重要なつっこみポイントなのだが、路面に陰影となって刻まれたタイヤ痕は、どう見ても民家の側が多数派で、県道側は大敗北を喫している。家人が日々出入りする民家の道よりも、万人に開かれているはずの県道がうらぶれているのは、県道の肩を「とんとん」と叩いてやりたくなるような愛すべき風景であった。

ここまででも小さな橋には収まりきらないくらいの個性を述べたつもりだが、最後に、銘板の位置も変だ。
せっかくあるガードレールに、銘板を取り付けなかった理由は不明。(橋が短いために銘板同士が近づきすぎるからか?)
本橋の他にも稀にこの位置(基本的に通行人からは見えない橋桁側面)に銘板を付けた橋を見るが、恥ずかしがり屋だったりするのだろうか。

でも、銘板の内容自体は、至って常識的だ。
橋は、青木橋という名前らしい。
竣工年は昭和46年11月だそうだ。
ここだけは、コメントに窮する平凡さ(笑)。

右の写真は、上流側から撮影した橋の側面だ。(→)
こちら側にも2枚の銘板があり、それぞれ、「円蔵寺川」「あおきはし」と書かれている。
地理院地図には名前の書かれていない県道沿いの小川の名前は、円蔵寺川というようだ。

地理院地図には記名がないが、先ほど通過した小盆地で話題にした“集落跡地のお寺”が、円蔵寺という名前である。
円蔵寺から流れ出るから、円蔵寺川(にこにこ)。
もしかしたら、橋の袂にお住まいなのは「青木」さんな気がする(笑)。




青木橋から振り返る、私が峠から出てきた道。

ちょうどその入口の所に、「豊橋土木事務所」が設置した「この先車両通行止」と書かれた、色褪せた感じの看板が設置されていた。
デリニエーターに続く、この道が県道であることを主張するアイテムであったが、私はうっかり素通りするところであった。
そんな意図は毛頭ないことは重々承知しているが、実質的には、ここを訪れる道路趣味者への誘蛾灯として機能している。

さて、前進を再開しよう。




今までに輪をかけて、狭い!

幅員を規制するような標識はないが、稀に目にする「幅員1.7m」の規制(普通自動車がぎりぎり通れる幅)に匹敵する。
そのことは、転がした自転車との対比や、路面の轍が舗装された道幅の外側ぎりぎりに付いていることから、十分に伝わるだろう。

この右側にある立派な石垣と生垣は、青木橋で袂を分かった民家の敷地を画している。
広々としたお庭と較べ、なんと県道の圧せられていることか!
神の采配に思わず天を仰いだが、そんな私の表情は、満面の笑みに彩られていた! 美味しすぎる展開だ!(笑)



再び出現したデリニエータ。
ちょっと路肩から離れた場所に立っているのは、劇狭カーブと車の内輪差を考慮してか。路肩の位置を示すデリニエータとしては、つっこみどころのある配置だ。

青木橋から50mほど進んだ、このデリニエータの立っているカーブ地点で、また一軒の民家の入口が分かれている。
左折するのが県道だが、道幅はどちらも全く同じなのが笑える。

県道を左折すると、劇狭状態のまま上り坂が始まり、トンネルのように鬱蒼とした竹林へ入っていく。
そういえば、この区間はただ狭いだけでなく、大抵の劇狭県道にはある待避所が、見当たらない。
車で走行中に対向車と遭遇したら、マジで地獄を見そうだ。
相手が下がってくれなければ、こちらが青木橋までバックしなければならない。

そして、竹林に入ると――




路面に奇妙なひび割れ模様が縦横に走っていた!

しかも、ひび割れの部分が微妙に盛り上がっている。

察しのよい方はお分かりだと思うが、これは竹林の仕業だ。
どれだけ薄っぺらな舗装なんだと簡易舗装につっこみを入れたくなるが、
このひび割れと膨らみの原因は、道路の下に潜り込んだ竹の根の生長である。

いずれこの辺りから、ニョキッとタケノコが生えてくるだろう(笑)。



路肩には結構な高低差があるが、脱輪防止用に土嚢が積まれているという。

ないよりは良いけど、なんだかなぁ……(笑)。

豊川蒲郡線、名前はおとなしいけど、中身尖ってるなぁ。



ひとしきり上ると、今度は下り始めた。
そして、向かって左の竹林である斜面の下に、ゴールの気配が近づいてきた。
ここからだと、明るく広い川のようにも見える現代の2車線道路が、灰野坂越えを終えた私を迎えにそこまで来ているのだ。

とても名残惜しいが、この道とのお別れは間もなくだ。




青木橋から250mほど進んだ地点で、竹林から脱出した。
この段階では、両側に庭木のような視界を遮る低木が密生しているために、まるで巨大迷路の中にいるような窮屈さだが、その先にはこれまで以上に広大な空間の広がりが知覚された。遠くの山並みを見ること自体が久々である。

狭隘な土地に狭隘な道が敷かれていた状況から一転し、広い大地に広い道、そんな正反対の変化が目前に迫っていた。



解放!

狭路からの脱出と解放を象徴するような眺めの変化に、胸がすっとした。

これで灰野坂越えは完結したが、県道の目的地である蒲郡までは、さらにもう一つ、
真っ正面にこれ以上なく鮮明に存在を主張している、国坂峠の鞍部を越さねばならない。
道が何をしたいのか、景色からそれが感じられる素朴さは、自然成因の古道がしばしば備える特徴だ。
灰野坂も国坂峠も遠目によく目立つ鞍部であり、この道にはやはり古道の気配がある。



15:26 《現在地》

豊川市御油町の国道1号上にある県道起点「追分交差点」から約3.6km、自転車で約1時間の行程で、この豊川市御津町金野にある無名の交差点に辿り着いた。

我らが県道368号豊川蒲郡線は、こちらから見ると逆三叉路型になっている交差点を直進して、あと8kmほどで終点へ至る。
ここで左後方に分かれる道は、この交差点を起点とする、県道373号金野豊川線だ。

だが見ての通り、道幅や路上の白線的には明らかに県道373号側が“主”であり、こちらは“従”である。
左手前から奥へと異なる県道間でごく自然にバトンが渡されている。不要にドライバーを混乱させるような物は一切ない。あっぱれだ。




最後は、交差点を振り返ってパシャリ。

左の道が県道であることを伺わせる物は、「この先 行き止まり」と冷たくあしらう、「愛知県東三河建設事務所」が設置した1枚の看板だけであった。
ここで気付いたが、【青木橋にあった看板】と設置者の名前が違っている。後日調べたところ、旧「豊橋土木事務所」が現在の「東三河建設事務所」の前身という関係性があるようだ。
県道の分岐地点には青看がなくても大抵ある【この標識】さえないのは、寂しい。

また、本来は分岐の為に用意されているのではないかと思われるスペースに、ゴミ集積場とバス停が設置されていた。
そしてバス停は、「旧藤久保バス停前」という、思わず、「バス停前バス停?!」とのけぞりたくなるようなネーミングだった。
この一風も二風も変わったバス停名命名の原因は、かつてここに豊橋鉄道が運行する路線バスの「藤久保」というバス停があったが、路線が廃止され豊川市が運営するコミュニティバスが代替となった際に、旧「藤久保バス停」の代わりに置かれたからということらしい。(ツイッターでの情報収集より)
とはいえ、それならそれで、「藤久保」というバス停名をそのまま継承したら良さそうなものである。
まあ、このバス停のおかげで、ここが藤久保という小地名であることが分かったのは収穫だ。

県道368号豊川蒲郡線の未整備区間の探索は、これにて終わりである。
このあと私は県道373号を豊川方面に引き返したが、その過程で、灰野坂を通らなくてもほぼ同じくらいの距離の平坦な道だけで豊川市中心部へ戻れることが確認された。
さほど険しい峠道でもないのに未だ改良が進まない原因の一端は、間違いなくそこにあると思った。
灰野坂はあくまでも、今は豊川市の一部になっている御油と金野を結ぶ最短ルートであり、そこに古道としての利用価値があったのだろう。
中でも、今は名前も姿も消えてしまった「灰野村」の存在が大きかったと思うわけだが、これについては少しばかりの机上調査編にバトンを渡そう。




ミニ机上調査編 〜灰野坂の今までとこれからと〜


← 新しい          (歴代地形図)          → 古い
@
地理院地図(現在)

A
平成7(1995)年

B
昭和53(1978)年

C
昭和34(1959)年

D
明治23(1890)年

まずは、いつものように歴代地形図のチェックをしてみたところ、次のような事柄が読み取れた。


次に、『角川日本地名辞典 愛知県』を紐解くと、灰野(はいの)について以下のような解説文があった(抜粋)。

灰野という地名の由来譚として伝承されている草壁皇子は飛鳥時代(7世紀)の人物であり、中世にも荘園の存在が記録されていることから、宮路山麓の小盆地に隠れ里のように立地していた旧来の灰野集落は、非常に長い歴史を有していたことが窺える。
そして、近世には東海道御油宿の助郷村を勤めたという記述は、当時の灰野坂の往来が盛んであったことの理由の一端として重要であろう。
だが、このように長い歴史を持っていた集落が、半世紀ほどの間で完全に無人化したと見られることについては、特に記述がなく事情も判明しなかった。


次に、長い間未改良のままであると思われる県道豊川蒲郡線について調べてみた。
まず、この県道が初めて認定された時期だが、ウィキペディアに、昭和34(1959)年12月15日認定という記述があった。
現行の道路法の公布は昭和27年であるから、おそらく愛知県による一般県道認定の第2弾くらいであると思われる。現行道路法下の県道として、他の多くの路線に勝る長い歴史を持っているといえる。
旧道路法時代の状況は未解明だが、灰野坂や国坂峠を越えて御油と蒲郡を結ぶ路線は長い歴史性に裏付けられたものなのだろう。

それにもかかわらず灰野坂の県道の整備が進まなかった事情としては、御津川沿いの平坦地を通る並行路線である県道が先に整備されたため、豊川〜蒲郡間のルートとしてはほとんど距離が変わらない灰野坂越えを大々的に整備する理由が薄れてしまったのではないかと推測している。そもそも豊川〜蒲郡間の主要ルートは、国道23号という大本命があり、豊川蒲郡線も金野豊川線もバリエーション的存在に過ぎない。

豊川市が公開している都市計画図には、灰野坂を通る都市計画道路の計画線が描かれている。それは(都)金野御油線という、全長3760mの路線だ。

同路線は、御津町金野地内に計画されている国道23号蒲郡バイパスの金野IC(仮称)を起点に、灰野坂をトンネルで抜け、御油町の国道1号上の終点へ至るものだ。
現在のところ、終点から東三河ふるさと公園前までが完成済みであり、県道368号として供用している。
このレポートの前編で通った立派な道がそれだ。
おそらく残りの区間も、開通すれば県道368号の一部になるだろう。

そして、長い間停滞していた灰野坂整備の行く末は、現在地域高規格道路として整備が進められつつある国道23号蒲郡バイパス(名豊道路)が握っているように思う。
というか、この機会を逃したら、これ以上のチャンスはもう二度と来ないかも知れない。


国道23号名豊道路とは、名古屋市と豊橋市を結ぶ全長約73kmの大規模バイパスである。その一部を構成する蒲郡バイパス(全長15km)は、平成3年度に都市計画が決定しているものの、名豊道路全体における唯一の未開通区間になっている。

この重大なミッシングリンクを繋ぐラストピースである、金野ICを中間地点とする蒲郡IC〜豊川為当IC間(9.1km)は、国土交通省によって平成19年度に事業化され、25年度に工事着手している。
最終的な開通年度は不明だが、おそらく10年以内に完成するであろう。

そして、前述した(都)金野御油線は、金野IC(仮)のアクセス道路になる。
そのため、IC予定地と県道368号を結ぶ200mが、愛知県によって既に事業化されている。当然、この区間はICと同時期に開通するであろう。

だが問題は、その先の灰野坂区間が整備されるかどうかである。
WEBで閲覧できる豊川市議会の会議録を見ると、古くは平成6年頃から何度も灰野坂の道路整備が議題に上がっていた。そしてその都度、市の建設部は、蒲郡バイパスの進捗に合わせて整備を進めたいというような答弁をしている。
だが、平成29年時点で事業化されているのは、あくまで金野IC付近の200mだけのようである。
灰野坂のトンネルについては、具体的な計画が見えてこない。


峠はもっと活躍する未来を夢見ているか。それとも現状に寛ぎ続けることを願っているか。
そんな空想に意味はない。
峠の行く末を決めるのは、いつだって大勢の人の力だ。
これからの灰野坂がどうなっていくのかは、我々の決断と行動に委ねられている。