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@ 地理院地図(現在) | A 平成7(1995)年 | B 昭和53(1978)年 | C 昭和34(1959)年 | D 明治23(1890)年 |
まずは、いつものように歴代地形図のチェックをしてみたところ、次のような事柄が読み取れた。
- 灰野坂の頂上位置は全ての地図で同じだが、頂上へ至る経路は、東西とも、時代によって変化がある。
- 現在県道に認定されているルートは、峠の西側については、明治23(1890)年の地図に「里道(荷車を通せざる里道)」として掲載されているルートに近い。峠の東側については、昭和34(1959)年の地図に「市町村道」として描かれているルートが近いが、起点から「ふるさと公園」までの市街地区間の現道は、平成に入ってから整備された。(ふるさと公園の着工は平成12年)
- 【峠の東の石仏がある分岐地点】を左に行く道は「明治23年図の道」で、右へ行く道は「昭和34年図の道」である。
- 現地探索で集落跡を疑った場所には、案の定、明治23年図から昭和34年図にかけて、「金野灰野」や「灰野」と注記された集落が描かれていた。だが、昭和53年図では忽然と消え、神社とお寺だけが残った。
- 明治23年図では、地図下方の御津川沿いにほとんど人家はなく草地が広がっているが、昭和34年図でそこを県道(現在の県道373号)が通るようになると、次第に沿道家屋が増え始め、昭和53年図では旧来の灰野集落が無人化している。より交通に便利な位置に集落が移動したように見える。
次に、『角川日本地名辞典 愛知県』を紐解くと、灰野(はいの)について以下のような解説文があった(抜粋)。
- 地名の由来は、草壁皇子の菩提を弔うために建立された宮路寺が兵火に焼かれたことから名付けられたとの伝承がある。
- 鎌倉期〜室町期に羽渭荘という荘園が存在した記録がある。灰野の字をあてるようになったのは、戦国頃であろう。
- 江戸時代を通じて灰野村と呼ばれた。村高は190石前後。東海道御油宿の助郷村を勤めた。
- 灰野村は明治9年に隣接する金割村と村域を合併し、新たな村名は旧村名から1文字ずつとって金野村となった。
- 金野村は明治22年に近隣と合併し、御津村となる。昭和5(1930)年に町制施行し御津町になった。(同町は平成20(2008)年に豊川市に編入するまで存続。)
灰野という地名の由来譚として伝承されている草壁皇子は飛鳥時代(7世紀)の人物であり、中世にも荘園の存在が記録されていることから、宮路山麓の小盆地に隠れ里のように立地していた旧来の灰野集落は、非常に長い歴史を有していたことが窺える。
そして、近世には東海道御油宿の助郷村を勤めたという記述は、当時の灰野坂の往来が盛んであったことの理由の一端として重要であろう。
だが、このように長い歴史を持っていた集落が、半世紀ほどの間で完全に無人化したと見られることについては、特に記述がなく事情も判明しなかった。
次に、長い間未改良のままであると思われる県道豊川蒲郡線について調べてみた。
まず、この県道が初めて認定された時期だが、ウィキペディアに、昭和34(1959)年12月15日認定という記述があった。
現行の道路法の公布は昭和27年であるから、おそらく愛知県による一般県道認定の第2弾くらいであると思われる。現行道路法下の県道として、他の多くの路線に勝る長い歴史を持っているといえる。
旧道路法時代の状況は未解明だが、灰野坂や国坂峠を越えて御油と蒲郡を結ぶ路線は長い歴史性に裏付けられたものなのだろう。
それにもかかわらず灰野坂の県道の整備が進まなかった事情としては、御津川沿いの平坦地を通る並行路線である県道が先に整備されたため、豊川〜蒲郡間のルートとしてはほとんど距離が変わらない灰野坂越えを大々的に整備する理由が薄れてしまったのではないかと推測している。そもそも豊川〜蒲郡間の主要ルートは、国道23号という大本命があり、豊川蒲郡線も金野豊川線もバリエーション的存在に過ぎない。
豊川市が公開している都市計画図には、灰野坂を通る都市計画道路の計画線が描かれている。それは(都)金野御油線という、全長3760mの路線だ。
同路線は、御津町金野地内に計画されている国道23号蒲郡バイパスの金野IC(仮称)を起点に、灰野坂をトンネルで抜け、御油町の国道1号上の終点へ至るものだ。
現在のところ、終点から東三河ふるさと公園前までが完成済みであり、県道368号として供用している。
このレポートの前編で通った立派な道がそれだ。
おそらく残りの区間も、開通すれば県道368号の一部になるだろう。
そして、長い間停滞していた灰野坂整備の行く末は、現在地域高規格道路として整備が進められつつある国道23号蒲郡バイパス(名豊道路)が握っているように思う。
というか、この機会を逃したら、これ以上のチャンスはもう二度と来ないかも知れない。
国道23号名豊道路とは、名古屋市と豊橋市を結ぶ全長約73kmの大規模バイパスである。その一部を構成する蒲郡バイパス(全長15km)は、平成3年度に都市計画が決定しているものの、名豊道路全体における唯一の未開通区間になっている。
この重大なミッシングリンクを繋ぐラストピースである、金野ICを中間地点とする蒲郡IC〜豊川為当IC間(9.1km)は、国土交通省によって平成19年度に事業化され、25年度に工事着手している。
最終的な開通年度は不明だが、おそらく10年以内に完成するであろう。
そして、前述した(都)金野御油線は、金野IC(仮)のアクセス道路になる。
そのため、IC予定地と県道368号を結ぶ200mが、愛知県によって既に事業化されている。当然、この区間はICと同時期に開通するであろう。
だが問題は、その先の灰野坂区間が整備されるかどうかである。
WEBで閲覧できる豊川市議会の会議録を見ると、古くは平成6年頃から何度も灰野坂の道路整備が議題に上がっていた。そしてその都度、市の建設部は、蒲郡バイパスの進捗に合わせて整備を進めたいというような答弁をしている。
だが、平成29年時点で事業化されているのは、あくまで金野IC付近の200mだけのようである。
灰野坂のトンネルについては、具体的な計画が見えてこない。
峠はもっと活躍する未来を夢見ているか。それとも現状に寛ぎ続けることを願っているか。
そんな空想に意味はない。
峠の行く末を決めるのは、いつだって大勢の人の力だ。
これからの灰野坂がどうなっていくのかは、我々の決断と行動に委ねられている。