今回のレポートは、ちょっと変わり種。由来は異なるが近接している、4つの廃道を紹介しよう。
先日公開した隧道レポート「層雲峡隧道」 机上調査編によって、上川から層雲峡を経て石北峠へと至る道路の整備史を知った私。今回はそれが前提となるので、内容を簡単に復習してみよう。
現在国道39号の一部になっているこの道のもとを辿れば、上川から清川へむけて切り開かれた素朴な開拓用道路であった。それが清川の先にある層雲峡温泉や層雲峡を観るための観光道路として延伸され、さらに層雲峡上流の豊富な森林資源を開発する林道としての延伸があって、最後は道央と道東を短距離で結ぶ幹線道路として石北峠越えの延伸が果たされた。そして国道になった。
タイムスケールとしては、明治末から昭和30年代までのおおよそ半世紀のあいだに、開拓道路→観光道路→林道→広域幹線道路というような、ダイナミックな性格の変化が起こったのである。
層雲峡隧道のレポートは、この道の途中にある1本の廃隧道が主役だったが、今回は同じ歴史(ストーリー)を共有する別の地点を取り上げたい。
その地点とは、万景壁 。 マンギョンボ… じゃなくて、読みは素直に「ばんけいへき」。
天下の奇勝 層雲峡の玄関口にあたる場所である。
『層雲峡温泉ミニ観光マップ』(層雲峡ビジターセンター発行)より転載。
層雲峡ビジターセンターが発行している『層雲峡温泉ミニ観光マップ(pdf)』(右図)には、約15kmにわたって石狩川の両岸に聳え立つ様々な奇岩怪石の名が、うるさいくらいたくさん記されている。
その中で、万景壁の名は、最も入口に近い、上川寄りのあたりにある。
一緒に掲載されている説明文によると、「岩の断面が、さまざまな形に削り取られており、あたかも壮大な壁画を見るようだ」
とあって、名前とこの説明だけでも相当の偉容が想像できる。名前負けなんか、しないよね?
@ 地理院地図(現在) | |
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A 昭和63(1988)年 | |
B 昭和43(1968)年 | |
C 昭和32(1957)年 | |
D 大正10(1921)年 |
万景壁における道路の変遷を、歴代の地形図で見てみよう。
いつもなら本編レポート後に掲載するような内容だが、今回の机上調査は以前のレポートでほぼ済んでいるので、先に種明かしだ。
まずは現在の@地理院地図。
上川から約14km石狩川を遡ったところに、陸万(りくまん)という集落がある。上川町大字清川の最上流で、これより上流は大字層雲峡となる。大正中頃までに上川から伸びてきた開拓道路の終点だったのも、当時は双雲別と呼ばれていた清川のはずれにある陸万で、本格的な峡谷はここから始まる。
「万景壁」の名前は、この図中に二つ見える。一つは、屏風のように連なる大絶壁になされた注記(先ほどの観光マップだと、いろいろと個別の名前が付いていたが、地理院地図では万景壁が総称のようになっている)で、もう一つは国道に架かっている橋の名前「万景壁橋」だ。
次に、A昭和63(1988)年の地形図を見ると、@から国道39号の位置が大きく変わっている。
@は万景壁橋と胡蝶岩橋で矢継ぎ早に石狩川の両岸を行き来するが、Aは右岸に終始している。左岸に「青少年旅行村」の注記があり、@の胡蝶岩橋の近くには「四号橋」が架かっていた。この橋は@にも記載があるが、前後の道が消えていて、いかにも廃道っぽい。
続いて、B昭和43(1968)年の地形図。昭和35年に国道39号は石北峠越えに変更され、当地を国道が通るようになった。その8年後を描いたのが本図である。国道の位置はAとほぼ変わらないように見えるが、Aではあまり存在感がなかった「四号橋」を通る道や、陸万より下流で国道と並行する道の存在感が強くなってきた。
さらに遡って、C昭和32(1957)年の地形図。この年に石北峠が開通したのだが、国道39号はまだ北見峠経由で、この道は道道上川留辺蘂線といった。図中には、道道と同じ太さで描かれている、まるで双子のような平行路線があるが、これは層雲峡温泉の奥から木材を搬出するべく昭和27〜29年に整備された層雲峡林道である。この二つの道は、管理者も来歴もまるで異なるのに、まるで一つの道の2本の車線のように振る舞っていたというから驚きだ。
この奇妙な“同居生活”を、道道の整備にあたった側(=北海道開発局)がまとめた『北海道道路史』は、「林鉄は同27〜29年に撤去され、その跡はトラック輸送の専用林道になったが、既存道路は山すそを切り崩して急坂が多いのに比べて平坦であるため、各所で一般自動車道と林道の併用が行われていた
」と述べ、対する林道整備側がまとめた『旭川営林局史』は、「この区間は、道道と併行し2車線と考えられる
」と述べるなど、「縦割り行政の弊害」なんて言葉を感じさせない蜜月が描かれている。
そしてそんな密接な関係があったからなのか、後に国道として取り上げられたのは、必ずしも道道だった道ではない。
CとBを比較してみると、陸万以西では、林道が国道へと昇格していることが分かる。
道道は大正末頃に作られた道をベースとしていたので、それに比べると昭和27年頃に整備された林道の方が線形に恵まれていたせいかもしれない。
また、赤い○で囲ったところにある層雲峡林道由来の2本の橋が、ここまでのC〜@の全ての図に描かれていることにも注目したい。
最後は、D大正10(1921)年の地形図だが、当時の開拓道路が陸万を終点としていた様子が描かれている。またほとんど建物も描かれていない陸万だが、ここより上流は点線で描かれた「小径」しかない。観光ウケしそうな「万景壁」の地名もまだなく、代わりにいかにも素朴な「四ノ岩石」の注記がある。図外だが、下流に三ノ岩石、上流に五ノ岩石があり、道なき道を辿って温泉を目指す者たちの目印になっていたことからの命名だろうか。
以上、5世代の地形図の縦覧によって判明した道のうち、現在の地理院地図に描かれていない部分を抜き出して着色したのが、右図である。
最新の地図からすっかりと消えてしまった道(=廃道)が、思いのほかにたくさんある。ひとつずつ説明しよう。
今の国道にある万景壁橋は平成10(1998)年、胡蝶岩橋は平成8(1996)年の竣功(いずれも銘板による)であるから、この国道の付け替えは平成10年という最近の出来事であるはずだ。しかし、BやAでは現役バリバリだった万景壁直下の旧国道(茶線)は、最新の地図からすっかり姿を消している。
元層雲峡林道だった道(青線)も、一部区間が最新地図からは消えている。Aに「四号橋」の注記があった橋を含む区間である。
この道は、国道の改良によって林道としての役目を終えた後も、石狩川の左岸に造成された青少年旅行村へのアクセス道路として使われれていたようだが、前記した国道の付け替えによって完全に用途を失ったと考えられる。
旧国道が現役だった当時は、国道と「四号橋」を連絡する道(緑線)があり、これはBにのみ描かれていた。
Cの道道が、Bの国道になる過程では、各所のルートが変化している。
このうち、最新地図には描かれていない部分が陸万地区にあるので、これを旧道道(桃線)として書き足した。
今回紹介するのは、万景壁を舞台とする上記4つの廃道(旧国道、層雲峡林道、連絡路、旧道道)である。
読者のみなさまには、先に種明かしを見ていただいたが、探索自体は層雲峡隧道の直後に行っており、層雲峡隧道のレポートを書くために調べた机上調査の内容は、当然のことながら、ほとんど把握していなかった。ただ、歴代地形図だけは持っていたから、上記4つの廃道の存在は予測しており、「旧国道以外は由来不明」という認識でも、探索が可能だった。そんな状況で探索に挑めば当然、現地の私の頭上には、たくさんの「はてなマーク」が点灯することになった(笑)。
読者のみなさまにおかれましても、以下の本編読中に、「今探索している道って何だっけ?」という混乱が起きるかも知れません。その際は出来るだけブラウザは閉じず、ここへ一度戻ってきて下さいね!