道路レポート 層雲峡万景壁の旧道群 前編

所在地 北海道上川町
探索日 2018.5.24
公開日 2018.8.05


今回のレポートは、ちょっと変わり種。由来は異なるが近接している、4つの廃道を紹介しよう。

先日公開した隧道レポート「層雲峡隧道」 机上調査編によって、上川から層雲峡を経て石北峠へと至る道路の整備史を知った私。今回はそれが前提となるので、内容を簡単に復習してみよう。

現在国道39号の一部になっているこの道のもとを辿れば、上川から清川へむけて切り開かれた素朴な開拓用道路であった。それが清川の先にある層雲峡温泉や層雲峡を観るための観光道路として延伸され、さらに層雲峡上流の豊富な森林資源を開発する林道としての延伸があって、最後は道央と道東を短距離で結ぶ幹線道路として石北峠越えの延伸が果たされた。そして国道になった。
タイムスケールとしては、明治末から昭和30年代までのおおよそ半世紀のあいだに、開拓道路→観光道路→林道→広域幹線道路というような、ダイナミックな性格の変化が起こったのである。

層雲峡隧道のレポートは、この道の途中にある1本の廃隧道が主役だったが、今回は同じ歴史(ストーリー)を共有する別の地点を取り上げたい。
その地点とは、万景壁 マンギョンボ… じゃなくて、読みは素直に「ばんけいへき」。
天下の奇勝 層雲峡の玄関口にあたる場所である。



『層雲峡温泉ミニ観光マップ』(層雲峡ビジターセンター発行)より転載。

層雲峡ビジターセンターが発行している『層雲峡温泉ミニ観光マップ(pdf)』(右図)には、約15kmにわたって石狩川の両岸に聳え立つ様々な奇岩怪石の名が、うるさいくらいたくさん記されている。
その中で、万景壁の名は、最も入口に近い、上川寄りのあたりにある。
一緒に掲載されている説明文によると、「岩の断面が、さまざまな形に削り取られており、あたかも壮大な壁画を見るようだ」とあって、名前とこの説明だけでも相当の偉容が想像できる。名前負けなんか、しないよね?



@
地理院地図(現在)
A
昭和63(1988)年
B
昭和43(1968)年
C
昭和32(1957)年
D
大正10(1921)年

万景壁における道路の変遷を、歴代の地形図で見てみよう。
いつもなら本編レポート後に掲載するような内容だが、今回の机上調査は以前のレポートでほぼ済んでいるので、先に種明かしだ。

まずは現在の@地理院地図
上川から約14km石狩川を遡ったところに、陸万(りくまん)という集落がある。上川町大字清川の最上流で、これより上流は大字層雲峡となる。大正中頃までに上川から伸びてきた開拓道路の終点だったのも、当時は双雲別と呼ばれていた清川のはずれにある陸万で、本格的な峡谷はここから始まる。
「万景壁」の名前は、この図中に二つ見える。一つは、屏風のように連なる大絶壁になされた注記(先ほどの観光マップだと、いろいろと個別の名前が付いていたが、地理院地図では万景壁が総称のようになっている)で、もう一つは国道に架かっている橋の名前「万景壁橋」だ。

次に、A昭和63(1988)年の地形図を見ると、@から国道39号の位置が大きく変わっている。
@は万景壁橋と胡蝶岩橋で矢継ぎ早に石狩川の両岸を行き来するが、Aは右岸に終始している。左岸に「青少年旅行村」の注記があり、@の胡蝶岩橋の近くには「四号橋」が架かっていた。この橋は@にも記載があるが、前後の道が消えていて、いかにも廃道っぽい。

続いて、B昭和43(1968)年の地形図。昭和35年に国道39号は石北峠越えに変更され、当地を国道が通るようになった。その8年後を描いたのが本図である。国道の位置はAとほぼ変わらないように見えるが、Aではあまり存在感がなかった「四号橋」を通る道や、陸万より下流で国道と並行する道の存在感が強くなってきた。

さらに遡って、C昭和32(1957)年の地形図。この年に石北峠が開通したのだが、国道39号はまだ北見峠経由で、この道は道道上川留辺蘂線といった。図中には、道道と同じ太さで描かれている、まるで双子のような平行路線があるが、これは層雲峡温泉の奥から木材を搬出するべく昭和27〜29年に整備された層雲峡林道である。この二つの道は、管理者も来歴もまるで異なるのに、まるで一つの道の2本の車線のように振る舞っていたというから驚きだ。

この奇妙な“同居生活”を、道道の整備にあたった側(=北海道開発局)がまとめた『北海道道路史』は、「林鉄は同27〜29年に撤去され、その跡はトラック輸送の専用林道になったが、既存道路は山すそを切り崩して急坂が多いのに比べて平坦であるため、各所で一般自動車道と林道の併用が行われていた」と述べ、対する林道整備側がまとめた『旭川営林局史』は、「この区間は、道道と併行し2車線と考えられる」と述べるなど、「縦割り行政の弊害」なんて言葉を感じさせない蜜月が描かれている。

そしてそんな密接な関係があったからなのか、後に国道として取り上げられたのは、必ずしも道道だった道ではない。
CとBを比較してみると、陸万以西では、林道が国道へと昇格していることが分かる。
道道は大正末頃に作られた道をベースとしていたので、それに比べると昭和27年頃に整備された林道の方が線形に恵まれていたせいかもしれない。
また、赤い○で囲ったところにある層雲峡林道由来の2本の橋が、ここまでのC〜@の全ての図に描かれていることにも注目したい。

最後は、D大正10(1921)年の地形図だが、当時の開拓道路が陸万を終点としていた様子が描かれている。またほとんど建物も描かれていない陸万だが、ここより上流は点線で描かれた「小径」しかない。観光ウケしそうな「万景壁」の地名もまだなく、代わりにいかにも素朴な「四ノ岩石」の注記がある。図外だが、下流に三ノ岩石、上流に五ノ岩石があり、道なき道を辿って温泉を目指す者たちの目印になっていたことからの命名だろうか。



以上、5世代の地形図の縦覧によって判明した道のうち、現在の地理院地図に描かれていない部分を抜き出して着色したのが、右図である。
最新の地図からすっかりと消えてしまった道(=廃道)が、思いのほかにたくさんある。ひとつずつ説明しよう。

今の国道にある万景壁橋は平成10(1998)年、胡蝶岩橋は平成8(1996)年の竣功(いずれも銘板による)であるから、この国道の付け替えは平成10年という最近の出来事であるはずだ。しかし、BやAでは現役バリバリだった万景壁直下の旧国道(茶線)は、最新の地図からすっかり姿を消している。

元層雲峡林道だった道(青線)も、一部区間が最新地図からは消えている。Aに「四号橋」の注記があった橋を含む区間である。
この道は、国道の改良によって林道としての役目を終えた後も、石狩川の左岸に造成された青少年旅行村へのアクセス道路として使われれていたようだが、前記した国道の付け替えによって完全に用途を失ったと考えられる。

旧国道が現役だった当時は、国道と「四号橋」を連絡する道(緑線)があり、これはBにのみ描かれていた。

Cの道道が、Bの国道になる過程では、各所のルートが変化している。
このうち、最新地図には描かれていない部分が陸万地区にあるので、これを旧道道(桃線)として書き足した。


今回紹介するのは、万景壁を舞台とする上記4つの廃道(旧国道層雲峡林道連絡路旧道道)である。

読者のみなさまには、先に種明かしを見ていただいたが、探索自体は層雲峡隧道の直後に行っており、層雲峡隧道のレポートを書くために調べた机上調査の内容は、当然のことながら、ほとんど把握していなかった。ただ、歴代地形図だけは持っていたから、上記4つの廃道の存在は予測しており、「旧国道以外は由来不明」という認識でも、探索が可能だった。そんな状況で探索に挑めば当然、現地の私の頭上には、たくさんの「はてなマーク」が点灯することになった(笑)。

読者のみなさまにおかれましても、以下の本編読中に、「今探索している道って何だっけ?」という混乱が起きるかも知れません。その際は出来るだけブラウザは閉じず、ここへ一度戻ってきて下さいね!




万景岩の軒下にある、陸万集落 


「ここから、層雲峡!」

そんな文字を大書する不格好な看板は、必要ない!

この景色を目にさえすれば、誰もがそんなことは理解できるのだから。

ここから約15kmが、名付けの親の文人大町桂月が、「鬼神の楼閣」と評した層雲峡である。

説明不要のこの景色は本当にすばらしい。ただ、私にはただの景色と見過ごせない問題がある。

道路はどこなんだという、問題が。


現在の国道は、あの見るからにオーバーハングしている大絶壁の対岸を遠巻きに迂回しているが、

近年(平成10年)まで使われていた旧国道は、対岸ではなく、岩壁直下を通過していたはずである。

それも、地図を見る限りはトンネルでなかった。そんな旧国道の実在が、俄に信じがたいような風景であった。



2018/5/26 10:14 《現在地》

ま、まずは…、まずはこの周りの状況から説明しよう。

現在地は上川町大字清川の陸万集落だ。歴代地形図にこの集落名が載ったことはないと思うが、ここにあるバス停の名が「陸万」というし、すぐ先で赤く目立っている大きな看板には、「層雲峡リクマン ホテルロックサイド」の文字が大書されている。
看板の主であるホテルは、国道からも絶壁を背負う姿が【よく見える】し、看板のところを左に入ると辿り着ける。

一方で右へ行く道もある。
こちらは上川町道陸万2号線で、「層雲峡オートキャンプ場」の看板が出ているが、かつての層雲峡林道である。
こちらは後ほどチェックしよう。
車はここに残し、自転車へ乗りかえて探索を開始。目指すは“4本の廃道”だ!



川沿いを通行している陸万の国道の50〜100mほど山側に、並行する1本の道がある。

写真は下流方向を向いて撮影した。
幅は4.5mくらいで微妙に狭く、舗装はされているが、ひび割れたアスファルトが物寂しい。
国道と同一平面上に隣接しているのに、なぜか何キロにもわたって一緒にならず並行するこの道の正体は、旧道道である。大正時代に開拓道路として生まれ、後に道道になった道。

一方で左に見える国道は、こちらが道道だった時代に林道として生まれた。
その後は二人三脚のように仲良く層雲峡への旅路を担ったのだが、林道が国道へまさかの二階級特進のような抜擢を受けると、道道だったこの道は町道へ降格したようである。
廃道にならなかっただけでもマシといえるが、物寂しい。



10:15 《現在地》

この辺りからさっそくややこしくなってくるが、この旧道道は陸万の集落内でさらに二手に分かれている。

どちらも同じような道で、何の案内もないので、これといった印象を持ち得ないが、左の道が旧道道である。
では、まっすぐ行く道は何なのかという問いには、言葉だけでは上手く回答できないので、昭和32年の地形図(↓)を見ながら答えたい。




昭和32年の地形図を見ると、ここを左へ行く道が旧道道であることは、すんなり理解できる。
ではまっすぐ行く道はと言うと、少しややこしい。
とりあえず昭和32年の地形図では、まっすぐ行けば層雲峡林道にぶつかるようになっているから、道道と林道の連絡路だったといえるだろう。こうした連絡路は、ここ陸万だけでなく、層雲峡温泉と上川の間に何箇所も存在していた。

しかし、現在はここを直進しても、かつての層雲峡林道には通じておらず、国道の万景壁橋の袂に出ることになる。
陸万地区を整備する中で道が微妙に付け替えられたのだと思うが、流石に枝葉末節の話だと思うので、これはこのくらいにしておこう。



旧道道は後ほど探索するので、まずは上記分岐地点を直進する。
そうすると、約300mでホテルロックサイド前を通過し、国道に合流する。
写真はその合流地点を望遠で撮影しているが、合流地点のすぐ先に国道の万景壁橋が見えるので、写真にオレンジ色の矢印で示したような方向に旧国道が分岐していたはず。

しかし、そこに見えるのは道ではなく……
堤防のような………
いや、これはまるで、廃線跡のような築堤である。

平成10年頃まで現役の国道だったにしては、その築堤の天端にある道は、あまりに狭く見えるのだが、これはいったいどういうことだろう?
廃道としては年季の全く入っていない旧国道でさえも、一筋縄ではいかない予感がする。




《現在地》

国道へ出るとすぐに万景壁橋が待ち受けていた。
橋はゆったりと右へカーブしながら斜めに石狩川を横断するのであるが、旧国道があったはずの場所は、どこからどう見ても築堤になっていた。
しかも、築堤は明らかに最近盛られた雰囲気だ。まだ角がしっかりしていて、全然崩れた様子がない。
要するにこれは、旧国道の路盤に盛り土をして築堤化してしまったということなのだろう。

そして、わざわざそんな面倒なことをした目的は、廃道敷を確実に森へ還すこと。
ちょうどこの辺りから上流が大雪山国立公園の「特別地域」に指定されており(参考:区域図(pdf))、廃道敷の放置は許されず、道路管理者による原状復帰が求められるはずである(少なくとも建前上はそうなっている)。

……う〜ん。さすがは、天下の国立公園。
廃道探索を楽しみに来た私にとっては、ちょっと残念な状況だったが、まだ全てがこうだと決まったわけじゃない。
案外、国道から見えない場所は徹底されていないかも知れないしな。



万景岩橋から眺める、万景岩と旧国道。

繰り返すが、築堤上が旧国道の路面だったのではなく、旧国道を埋立てて作られたのが、この築堤だ。
しかし、緑豊かな築堤による印象操作は強力で、早くも国立公園の修景に十分に成功しそうな感がある。
エゾマツか何かの幼樹がそこかしこに植えられているから、50年もすれば森と同化するだろう。

それにしても、こうして見ると絶壁と旧国道の間は、それなりに間隔が空いていたようだ。
とにかく崖のスケールがもの凄いので、圧迫感は感じるが、直下というほどは近くないかも知れない。
だからこそ、最近まで国道であり続けられたのだろうと思う。



雄大という言葉がこれ以上なくしっくりハマる、万景壁橋の風景。

ここが層雲峡の始まりと言われても、私のイメージするような「峡谷」よりは、まだ相当に広々としているから、実感が湧かない。

川、山、そして道、その全てが広闊であり、風景というジグソーパズルを組み立てるピース自体が大きいようだ。

向って左の岸辺には、旧国道があったはずだが、やはり路面らしいものは見えない。ここまで上手に隠せることに驚かされる。



10:18 《現在地》

ここで一旦Uターンしてスタート地点へ戻り、旧林道である町道清川陸万2号線へ入った。するとすぐに石狩川を渡る。
万景壁橋の約250m下流に架かるこの橋は、銘板によると凌雲橋といい、昭和62(1987)年10月の竣功であるという。
歴代地形図では、昭和32年版に層雲峡林道の橋が描かれて以来、全ての版にこの橋が描かれているが、明らかに架け替えられていた。

石狩川の橋と堰」によると、初代の橋は昭和20年代に架けられたが、昭和38(1963)年に2代目となり、これは3代目の橋らしい。初代の橋が昭和27〜29年に建設された層雲峡林道だったのだろう。




『旭川営林局史』に管内にある鋼橋の一覧が掲載されているが、層雲峡林道の分として、本流2号橋、本流4号橋、本流6号橋という、いずれも石狩川を渡っていたとみられる3本の鋼橋が記録されている。このうち本流4号橋が、本編で述べる「四号橋」と思われるので、その下流側にあるこれは「本流3号橋」というのが正式名と思われる。

鋼橋ではなかったとして、層雲峡林道時代の三号橋は、どのような橋だったのだろう。
コンクリート橋か木橋だっただろうが、付近の川面を眺めてみても、その痕跡らしいものは見当たらなかった。
わずか10年ほどで2代目の橋に架け替えられているところを見ると、木橋だった可能性大か。



凌雲橋を渡ると、石狩川左岸の広い平地にキャンプ場がある。
少し古い地図だと「層雲峡青少年旅行村」と書かれているが、現在は「層雲峡オートキャンプ場」を名乗っている。
隣接する敷地には、平成14(2002)年に大規模宿泊施設の「かんぽの宿層雲峡」がオープンし、陸万地区にさらなる賑わいをもたらすはずだったが、わずか4年で閉鎖され、平成28(2016)年頃に解体されたらしい。

写真はその跡地である。
街灯やら通路やら樹木やら看板やらはそのままなのに、建物だけが更地で、まるで透明の建物があるみたいだった。
景色の大小にかかわらずどこでも慌ただしい人間の営みを、姿や名を変えながら支えてきた旧林道だったが、入口から約600mで再び国道に突き当たる。



《現在地》

【昭和32年の地形図】で見るここは、層雲峡林道の直線上にある一地点に過ぎないが、平成10年にこれと斜めに交差するように新しい国道が登場したことで、その盛り土によって寸断された。
寸断地点の下流側は分岐部が施工されて生き残ったが、上流側は完全に放棄されている。

覗いてみると、辛うじて道形らしいものは見えるが【一面にクマザサが生い茂り】、とても自転車同伴で踏み込みたいという気持ちにはならなかったので、ここは一旦スルーして、国道を先へ進むことに。




すぐに次なる橋が現われた。
平成8(1996)年竣功の胡蝶岩橋である。

層雲峡温泉ミニ観光マップ(pdf)』には、万景壁のすぐ近くに並んで胡蝶岩の名前があり、解説文には、「赤い大きな岩の姿が、ちょうど美しい蝶が羽を広げたように見える」とある。

そんな美しい岩が、目の前に広がるこの橋の上から、眺められるのだろうか。





10:22 《現在地》

うおおぉぉ!美しい!

すばらしい廃橋だ!

胡蝶岩さんも綺麗だよ。右上に赤っぽい岩場あるもんね。

天造と人造が互いに美を引き立て合う、私の理想の廃道風景である。




現地では橋の正体が分からず、勝手に旧国道だろうと思っていたが、今なら分かる。

これが、層雲峡林道の本流4号橋だ。

古色を隠さない微妙な角の見える曲弦のシルエットが、心の琴線をざわつかせる。

大まかな型式としてはアーチ橋だが、下弦材が上弦材よりも遙かに太いので、アーチ橋の一種のランガー橋だ。

……新緑の柔と鋼鉄の剛、迸る雪解け水の動とコンクリート重力橋脚の静。ここには全部ある。

この景色は額縁に入れても大賞を取れるだろうけど、オブローダーはこれを全身で体感する仕事だから堪らない。




この地に眠る廃の累代。

これから存分に、味わわせてもらうぜ!