胡蝶岩橋を渡りきると、国道は再び陸万と同じ右岸へ。
しかし、ここはもう層雲峡の内部である。
万景壁から続く岩場という言うべきなのか、これ全部で万景壁なのかがよく分からないが(地形図はそのように描いている)、屏風のような岩場は切れ目なく前後2kmばかりも続いて、一大偉景を成しているのである。
そんな絶壁に画された谷底は、なおも雄大な幅を持っていて、峡谷にしては空が広いと思えるが、他に表現する語彙が思いつかないので、やはりこれも峡谷である。
そして、国道も谷の幅に負けじと幅広だ。谷を埋める樹海を豪快に切り開いている。国立公園の特別地域内に踏み込んでいる人工物にありがちな肩身の狭さを微塵も感じさせない。幹線道路らしい爽快な道だ。
2018/5/26 10:23 《現在地》
胡蝶岩橋の袂に砂利敷きのちょっとした駐車スペースがあるが、ここが今回の探索での意味ある地点だ。
写真はその駐車スペースを振り返って撮影しており、左にいま渡ってきた胡蝶岩橋が見えるが、右側にも築堤らしい道が見分けられる。
探索の時点では、その存在を予想はしてはいたが、正体についてはまるで分からなかった廃道だ。
しかし机上調査を終えた今ならば、この廃道の正体は丸わかりだ。
層雲峡林道である。
先ほどは一旦見送った林道の続きに出て来たのだ。
昭和32(1957)年の地形図(←)を見ると、このことがよく分かる。
当時のこの場所は、川縁を通っていた層雲峡林道の路面上であり、道道は山側を通っていた。
それが昭和43(1968)年版になると、山側の道道が国道へ昇格し、川側の層雲峡林道は消えている。
このときに川側のルートは廃道になったのだと思われるが、それから長い年月を経た平成10(1998)年頃になって急に、死んだはずの川側ルートが万景壁橋や胡蝶岩橋を携えて国道へ返り咲いたのだ。道の変遷とは、やはり先が読めないものだと思う。
ともかくそんなわけで、ここから右に分け入れば層雲峡林道の廃道区間であり、その先に廃美を究めた「四号橋」が待ち受けているはずだが、まだ勿体ぶります。
もうちょっとだけ、国道を上流へ行ってみよう。
国道を上流へ向うと、前方に洞門が見えてくる。
洞門は「四の岩覆道」といい、大正10年の地形図にだけ表示があり、その後は万景壁という名に上書きされたと思っていた「四ノ岩石」の名前が、こんなところにひょっこり生き残っている。もしかしたら、万景壁と四ノ岩石は別のものなのだろうか。
それはさておき、胡蝶岩橋から四の岩覆道までは約700m離れているが、この間も旧国道は現在の国道と別の位置を通っていたはずである。
私はその痕跡を求めて、ここまで走ってきたのだが、今のところ、それらしいものは見つかっていない。
旧国道があったと思われる山側を覗いてみても、そこにあるのは一面にクマザサが茂る深い森である。ヒグマには容易く会えそうだが、旧国道には会えそうな気がどうにもしないんだな…。
10:26 《現在地》
更に進み、四の岩覆道まで150mくらいになったが、相変わらず旧国道らしいものが合流してくる様子がない。
これはいったいどういうことだ。
そんなに古いものではないはずなのに、ここまで道の気配は消せるものなのか。
そういえば、下流側の旧国道分岐地点である万景壁橋の袂でも、旧国道のあるべき場所には【奇妙な築堤】が居座っていた。
そしていま、ここにも築堤らしいものがある。
雪崩防止フェンスを上部に乗せたそれは、旧国道のなれの果てとはとても思えないのだが、人工物であることは確かだ。
築堤はこのまま覆道の入口まで続いているようだから、進んでも合流地点なんてますます見つけられなさそう。
10:27 《現在地》
このままでは埒があかないと感じた私は、この探索で初めて埒を出るような行動を取った。
すなわち、上の写真の地点から少し下流側へ国道を戻ったところで自転車を放棄して、ガードロープを乗り越え、ヒグマがうようよしていそうな北海道の原野へ分け入ったわけである。
写真右に見えているのが、現在の国道だ。
この国道もまた大部分は築堤の上にあり、山側はこのような湿気った窪地になっていた。
目指す旧国道の在処は、こんな窪地ではないだろう。
そう思い、山側に視線を向けると……
写真では少し分かりづらいが、斜面の一角に明瞭な平場がある!
想像していたよりも遙かに道路っぽさが薄いが、本当に平成まで使われていた旧国道なのか。
かつては築堤の法面だったのか、人工を感じさせる緩やかな斜面を急いで登ると……
10:30 《現在地》
これが旧国道か?!
思わず「疑問符感嘆符」を付けたくなるほど、想像していたような旧国道ではなかった。
間違いなく、【昭和63(1988)年の地形図】では、ここが国道39号として描かれているのだが…。 これは、昭和40年代くらいに廃止された、相当しょぼい道にしか見えない。
この違和感のある景色を作り出したのは、人工的な廃道化工事だろう。それも相当大規模で、かつ徹底していると思う。
まず、かつての路面など全く地上には残っていないと思う。分厚い客土に覆われている。だから、舗装されていたはずの路面はどこにもないし、砂利すら見当たらない。もちろん、ガードレールも、土留め擁壁すらも、見当たらなかった。
そして、徹底した客土の上に数種類の幼樹を植えたのだろう。成長の遅い針葉樹はみな“ぽよぽよ”とした細身であったが、もう結構太くなっている広葉樹もあった。
わずか十数年で北海道の重要な幹線だった道をここまで自然に還せるのだとしたら、現代の廃道化工事の技術は侮りがたいということになる。
これを全国で徹底されたら、オブローダーの楽しみは半減だぞ…。
テンションが下がってしまった私は、ここから四の岩覆道方向の踏査は取りやめ、車を置いてきている陸万(下流方向)へ向けて歩き出した。
道路跡というよりは、ただ地面の起伏が道路の形をしているだけの森を歩いて行くと、上川町役場水道課が設置した「注意 水道管埋設位置」と書かれた看板と、奇妙に背の高いマンホールが現われた。
おそらくだが、国道に埋設されていた水道管が、今もそのまま残されているのだろう。
盛り土のために埋もれてしまったマンホールを継続使用するために、背の高いものに更新したのだと思う。
…しかし、このくらいの遺構では、ちょっと興奮できないんだよね。
次に現われたのは、スノーポールらしい紅白の棒に取り付けられた小さな看板。
地べたに落ちていたのだが、そこにあった「開発局」の文字が、眠くなり始めていた私の意識を少しだけ覚醒させた。北海道にある全ての国道の管理者である開発局の名には、そういう効果があった。
よく見ると、「KP 2/216」のような表示があり、開発局が設置した216.2kmキロポストだと思った。
徹底的な廃道化処理を乗り越えて偶然遺存した旧国道の遺物だろうか。だったら嬉しいが、国道39号のキロポストとしては疑問符もある。国道39号は旭川を起点に網走に至る路線であり、当地は旭川から数えて60kmくらいである。網走から数えても170km前後。ここに216.2kmのキロポストがあるのは不自然な気がする。
このキロポストだが、やはり国道のものではなかった。読者様の情報によると、河川のキロポストであるとのこと。この場合は、石狩川の河口からの距離を表わしているようである。なぜこの廃道敷きそれがあるのかは謎だが、デザインは北海道で広く見られる河川用のものだという。
見通しの利かない道路跡(なんとなく廃道という言葉は相応しくない気がするので、敢えて道路跡と表現)を更に進んでいくと、車の走る音が段々遠くに感じられるようになってきた。その代わりに、川の瀬音が近づいてきたのを感じた。自分がどのあたりにいるのかを想像しながらなおも進むと、目の前が急に開けて驚いた。
森の中から川縁に出たのだろうかというのが、この景色の変化に対する第一印象。川の音がだいぶ近づいているし、目の前に現われたのがいかにも川縁の堤防のような築堤だったから、そう感じた。
いままで辿ってきた平場が旧国道の路面そのものではなかったことを裏付けるように、平場はこの堤防のような謎の築堤に遮られるような形で終わっていた。築堤との比高はごく僅かだが、道路にあるまじき風景なのは間違いない。
そして、「はてなマーク」を頭上に点灯させながら築堤の上に起立した私を、さらなる驚きが待っていた!
10:35 《現在地》
なんだここ?!
とにかく、もの凄い築堤である!
まるで、極上の廃線跡みたいだ。背景の景色も凄まじいし!
緩やかなカーブを描きながら、万景壁と石狩川の隙間を横断する大築堤が、見渡せる限り続いていた。
相変わらず、旧国道の廃道跡らしい遺物は見当たらないが、ここを通っていたことだけは間違いないはず。
膨大な客土と植樹による徹底的な緑化が、この人造とも天造とも言い切れない奇妙な風景を作り上げたようだ。
振り返ると、そこには二つの築堤が、「行く道を選べ」とばかりに跪いていた。
いま来たのは左の“低い築堤”だったが、右の“高い築堤”は、どこへ通じているのだろう。
その答えは、【地理院地図】から予想が可能だった。
地図上のここにはいかなる道も描かれてはいないけれど、築堤の記号が分岐するように描かれていた。
道なしの築堤が分岐する様は、まるで鉄道廃線跡か鉄道未成線跡を彷彿とさせた。
それはともかく、この地図上の表記から、右の築堤を行けば先ほど通過した【胡蝶岩橋の袂の広場】へ通じていることが予想できた。往復してもたいした距離ではないだろうから、歩いて確かめてみることにした。
この築堤は幅が狭く、ますます鉄道跡、あるいは森林鉄道跡のようだった。
しかし、過密に思えるくらいびっしり針葉樹が植樹されており、それが十分に根付いているのを見る限り、最初から道路や線路として作られた築堤ではないと思う。
歴代の地形図を見る限り、この築堤があった位置は、かつての層雲峡林道をなぞっているが、その要素は全く残っていないといって良かった。
もしこれを見てうっかり、「層雲峡林道の前身になった層雲峡森林鉄道の築堤ではないか!」と期待した人がいたとしたら、気の毒である。
ものの1分ほどで見覚えのある場所に出た。予想通り、現国道の胡蝶岩橋袂と繋がっていた。それを確認して、すぐに引き返した。
10:38 《現在地》
築堤分岐地点の直前まで戻ってきたが、ここで築堤の左下に、“道”が唐突に現われた。
築堤に埋立てられず残った、かつての層雲峡林道である。
その道は河床に近いクマザサの地面をまっすぐ、川の方向へ向っていた。
あの先に、【四号橋】があるに違いない!
すぐさま築堤を駆け下り、接近を試みる。
待っていろ麗しの廃橋! いま行くぞ!!
下ってきた築堤を振り返る。
一筋の踏み跡が見えるが、これは私が歩く前から付いていた。
美橋を求めてきた人々の足跡であり、石狩川を安全に渡りたい獣たちの足跡であろう。
【昭和63年の地形図】だと、四号橋から来る層雲峡林道と国道がここで接続していたように見えるが、現状は高い築堤が邪魔をしていて、往時の様子は窺い知れない。
地形を弄ってまで道があった痕跡を消そうとするのは、本当に執拗な執念を感じる。
私を落胆させた徹底的な廃道化工事も、なぜかこの先には及ばなかったようだ。
その理由は分からないが、ここから四号橋までは、見慣れたいつもの廃道のように見える。
路面は全体に緑っぽいが、故意に緑化されたようではないし、植樹も行われていない。
道はここから川へ向って緩い上り坂になっており、頂上に橋が待ち受けている。
赤茶けたアーチの太い鋼材が2本、ここからだとまるで森の中に門柱でもあるかのように見えていた。
橋へ向って登っていくのは、導かれているような気分の盛り上がりがあった。
しかし、橋へだいぶ近づいても、川はあまり良く見えなかった。
植樹ではない左右の森は、とても鬱蒼としていた。また、間近に国道の橋があるが、雪解け水を奔らせる瀬音が喧しく、車の走行音を遮った。そのため、私と目の前の橋の間に結ばれる深い交渉は、誰にも邪魔されることがなかった。
橋の間近に来ると、路頭に見慣れた「ダム放流注意」の看板が立っていた。
看板自体はそれなりに古びていて、この林道が生きていた時代のものだろうと思えたが、右下に取り付けられていた小さなプレートには、折りたたみ式携帯電話機のイラストとQRコードが描かれていた。それは「川の防災情報」の広告で、この景色の中にあるささやかなミスマッチだった。
10:41 《現在地》
橋頭に立ち対岸を見通そうにも、橋の上は緑に満ちていて、人ではなく両岸の森を“橋渡し”するようだった。
かつては千古不斧の峡谷奥地へ文明を運び、代わりに原木を運び出していた文明の装置が、いまやすっかりうらぶれて、
このような姿になっているのを見るのは、とてもワクワクする。かといって、私は文明の敗北を礼賛しているわけではない。
むしろ逆だ。この橋があることに、その過去の働きに私は誇りを感じる。だからもっと愛でたくなる。
そして、橋自らもその存在を誇らんとするように、橋頭に大きな大きな親柱を装備していた。背は高くないが幅の広い、
いかにも頑丈そうなコンクリート製の親柱。石積み風の模様が刻まれた表面には、洗い出しの加工も施されていた。
親柱といえば、もちろんこれ。銘板だ。
向って左側の親柱には、「昭和三十年八月竣功」と刻まれた銘板が残されていた。
帰宅後に調べた『旭川営林局史』によると、層雲峡林道は昭和29年に上川から層雲峡温泉までの区間が開通したことになっていたが、その重要な位置を占めるこの橋に、その1年後の竣功を伝える銘板がある事情は明らかでない。昭和29年9月の洞爺丸台風によって生じた2000万石に迫る大量の風倒木を電光石火の勢いで運び出した仕事ぶりが、層雲峡林道の歴史における最初にして最大の活躍だったと伝わっているが、この橋は完成の1年前からそうした苛酷な使用に耐えていたのか、その段階では並行する道道が代わりに活躍していたのか。
そもそも、昭和19年に完成した層雲峡森林鉄道は、どこを通っていたのかという疑問もある。この林鉄の路盤からレールを撤去し車道化したものが層雲峡林道だといわれており、であるならば、林鉄時代の橋もここにあったことになるのだ。
向って左側の親柱には、(先にこちらを紹介すべきだったかもしれないが)橋の名刺というべき最も重要な銘板があった。
「石狩川第四号橋」
昭和63年の地形図には「四号橋」とあり、『営林局史』には「本流4号橋」として出ている橋だが、この銘板の名が最も格式高く思える。
それにしても、このネーミングセンスは、いかにも林道的だ。現地の私も、直前に探索した層雲峡隧道で「旭川営林局」の銘板を見ていたせいもあったが、この橋名に確信した。こんな機械的なネーミングセンスは、風雅を訪ねる観光道路には似つかわしくない。林道だ。
ところで、この銘板にある「号」の文字は、JIS漢字コードにない独特の字体になっている。
手元の漢字辞書だと「号」の旧字体は「號」であるが、銘板の文字は「虎」の部分が「乕」になっている。「逓」の旧字体が「遞」であるところを見るに、「虎」を「乕」に変えたこの文字も、「號」の新字体といえるのかもしれない。
この橋をただ渡って終えるだけでは勿体ないと思った私は、藪は濃いが険しくない川縁の斜面を伝って、橋の脇から河原へ降りてみることにした。
肉厚な親柱も、人目に余り触れない脇から見ると、風雪による傷みが正面以上に感じられた。
クリーム色の塗装が残るランガーの鋼桁も、角が丸っこくなってきた橋台に乗っていては、いかにも頼りなさげだ。
そして、人工物のあらゆる部分に小さな“平ら”を見つけては、根気よく緑を植え付けていくこの森の生命力が、少しだけ怖い。
私がここに長く留まればヒグマの餌食になるだろうが、それを免れてさらに長く留まったら、立木に変化しそうだ。
橋の下では、いままで音だけで盛んに存在をアピールしていた石狩川が、いかにも雪解け水らしい白みを帯びた奔流となって、ひとつしかない巨大な橋脚にぶつかっていた。
橋がなければ、とうてい徒渉では横断出来なさそうな強烈な水勢を目の当たりにして、石狩川という全国第3位の長さと第2位の流域面積を持つ川が、その全長の9割以上を残したこの段階でも大河であると知った。
かつての道道がこの本流を一度も跨がず、右岸に終始する道を貫いていたのも、この水の勢い故であったろうし、道道さえない時代の旅人は真に決死の気分で上流を目指しただろう。
やはり、橋は尊かった。
そのまま橋の下をくぐって、下流方向を覗いてみた。
そこにあったのは、万景壁という景勝地の優れた眺めであった。
現国道の胡蝶岩橋からでは、この直立する絶壁の迫力を味わうには少し遠いし、この頭上の橋が主役に立ってしまう。
かといって、旧国道ほどの間近から見上げるようだと、全体像を知り得ない。
それにしても、相変わらず旧国道の人工物的な存在感は上手く消臭されていて、原始のままの万景壁があるように見えるのは凄い。
平成に入ってからもしばらくは、あそこが国道39号だったはずなのに。
唯一、国道の名残なのかなと思えるのは、川岸を固めている護岸の擁壁だ。
その上に高い築堤が築かれているが、かつての路面の高さはどのくらいだったのだろう。往時の写真をお持ちの方がいたら、ぜひ提供をお願いしたい。
橋は見事な対称性を持った2径間で、全く同型のランガー桁2つよりなっているが、橋下の水流は左岸側に偏っている。
そのため、下から見上げた時には障害物のない左側の径間が目立つ。右側の径間は、【こんなに緑まみれ】だ(笑)。
橋の全体像をおさえるには、もっと上流から撮影しないといけないが、そこには現国道がある。
私はこの眺めでも十分に満足したので、水の匂いと音がとても濃くて、何か不安になってくる河原から上がることにした。
橋の外観を堪能し終えたので、今度は橋としての機能を堪能しよう。
とはいえ、これにあまり多くを期待してはいけない。
世の中にある廃橋の一部、橋上がジャングルと化しているような橋は、外見がいくら美しくて渡ってみたいと心揺さぶるものであっても、実際渡ると、なんだかぼんやりとしたまま終わってしまうことが多いのである。
この橋のことだよ(笑)。
橋に入るとまもなく、高欄の外側に両力こぶの如く盛り上がってくる、鋼鉄の桁材。
その片方の付け根の探せばすぐ見つかる位置に、製造銘板がしつらえられていた。
親柱の銘板が表札なら、製造銘板は戸籍だ。
この橋が林道であったことを確定させる内容だった。
林道でありながら、当初から国道に匹敵するような重量に耐える規格で作られていたことが分かる。
『旭川営林局史』に述べられているとおり、道道との併用(1車線ずつの分担)が、計画の時点で考慮されていた証しと思える。
東京で建造され、はるばる海を渡って、ここに架けられたんだなぁ。…しみじみ。
第一径間を横断中。
……なんだけど…
…やっぱり、こういう感じになるよね。
爽快感皆無(笑)。
藪の浅い5月末でこの有様だから、真夏なら普通に手探り藪漕ぎ状態じゃなかろうか。
ランガー橋らしく、橋床の上に出ているアーチ型の上弦材は華奢だ。
この上弦材と下弦材の間には垂直材しかないから、これはランガー形式のアーチ橋。
ここに斜材が入ると、ランガー形式のトラス橋となる。はず。
だけど、『旭川営林局史』は本橋の型式を「ランガートラス」とし、土木学会の橋梁史年表も、「ポニートラス(ランガー桁?)」としている。
これはトラス橋なのか? 私の目が曇っているのか、何か重大な勘違いをしているのか?
ちなみに、両資料における型式以外の緒元は、次の通りだ。
間違いなく、この橋のことだよな。
橋頭から30m前進し、盛り上がった両力こぶが、一度脚下まで降りてきた。
すなわち、第1径間の終了であり、ここから第2径間だ。
右岸寄りの第1径間は、【下から見ても】明らかに緑の中っぽかったからやむを得ないとして、左岸寄りの第2径間は、【下から見ると】完全に見晴らしの良い川の上にあるので、もう少しなんとかなるのではないかと思ったが、なんともなっていない(苦笑)。
相変わらずの橋上ジャングルだ。
横を見ると(チェンジ後の画像)、辛うじて川面が見えたりしたが、さほど爽快ではない。
やっぱり、この手の廃橋は、周りから眺めるのが一番だな。
10:55 《現在地》
さらに30m弱を前進し、まもなく石狩川を渡り終えようとしている。
この左岸側も、橋頭の風景は先に見た右岸とあまり変わらない、鬱蒼とした森だ。
違いがあるとすれば、300mばかり先に現国道のガードレールが見えていることか。
そこまで道は全部直線で、笹藪は濃そうだが行けないことはないだろう。
私はまあ…、ここまででいいかな。
まだやることがあるので、この道はここで引き返そう。
林道というよりは、工事用道路にでもありそうな、こんな荷重制限の看板標識が落ちていた。
肝心の規制トン数が消えていて読めないが、この橋を最後まで自動車で通行していた何者かは、その老朽ぶりに心を痛めていたようだ。
こちら側にも2本の親柱に1枚ずつ、2枚の銘板がちゃんと残っていたが、1枚の内容は竣功年で右岸側と重複しており、残る1枚がこれ。
「いしかりがわだいよんごうばし」と、文字数が多いので2行に分けて書いてあった。
石狩川には名だたる橋たちが無数にあるのに、こんな源流近くの林道橋たちに「石狩川」の名を何度も使われているのが、なんだか愉快。それに、「よんごうきょう」じゃないんだな。「よんごうばし」って、なんか語感が悪い(笑)。
層雲峡の玄関口で石狩川を跨ぐ、見目麗しい橋。
もしこれが真に放置された廃橋であるなら、国立公園のあり方を定めた自然公園法に抵触する
違法な構造物であるのかもしれないが、個人的にはこのまま乱暴なことをせず置いてあげて欲しいなぁ。
最後に、『旭川営林局史』に掲載されていた、本橋と思われる写真を紹介。
親柱の銘板が隅っこだけ写っているが、「ばし」だけでは、ちょっと足りない。
しかし、層雲峡林道にあったランガー橋は4号橋だけだそうだから、この橋なんだろう。
昔は親柱の上部に、こんな厳つい突起があったんだな。橋上は当然舗装もされていた。
周囲も全体的に明るい気がするし、なんだか谷底っぽくない。
次回は、いつまでも尻尾を現さない旧国道と旧道道に、ズームイン!
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