予想外にハードな探索が待ち受けていた【今回の隧道】だが、予想外といえば、旭川営林局の手によるものだったと判明したこともそうだった。
当初は、その「いかにも」な位置からして旧国道だろうと想像していたが、実態は全く異なる林道であったらしい。
あるいは、林道として建設されて後に、国道になっていた時期があったりするのか。
現地探索では解決しなかった、層雲峡隧道誕生の歴史を、知りたいと思った。
加えて、隧道建設の記録を目にすることができたら、そこに、「建設中に隧道が温泉の熱源を貫いてしまった」というようなことが書かれていないかを確認したかった。
この廃隧道が現状で見舞われている数々の異常な事態のほとんどは、温泉の作用が隧道の構造を劣化させたことに関わりがあると思っている。
私がそう感じているだけで、実際は無関係だったなんてことはないと思うが、やはりはっきりとした記録があれば綺麗に納得できるだろう。
工事中から何かしら異変があったはずだ! 先生怒ってないから正直に言いなさい。
最初に私が手にした資料は、名前からして王道一直線な『北海道道路史』(北海道道路史調査会/1990年)である。
この第3巻「路線史編」に、現在の国道39号のうち特に「大雪国道」と呼ばれている、道央の上川から石北峠を越えて道東の留辺蘂(るべしべ)に至る区間の開発史がまとめられていた。
以下は主にそこで学んだ内容だ。
石狩山地を横断して道東と道央を結ぶ道路としては、北見峠(現在の国道333号)が明治初期に開発され、長らく「中央道路」として道内交通の主要な位置を占めていた。より地形的に険しい石北峠に開発の手が伸びるのはだいぶ後で、昭和32(1957)年まで峠の道は繋がっていなかった。
北見峠と石北峠の分岐点にあるマクンベツ原野(現在の上川)が入植者によって開拓されたのは明治27年頃で、そこから徐々に石狩川上流へと開拓が進められた。そして、後に層雲峡の名を与えられる大峡谷の入口にあたるソウンペツ原野(双雲別、現在の清川)が開拓されたのは大正4(1915)年であった。
さらに上流の峡谷内に豊かな温泉が湧き出ていることや、多くの景勝が存在することは、明治時代に源流探検に訪れた人々によって既に知られていた。開拓の進展により、この峡谷一帯を観光地として開発することが期待されるようになり、大正8(1919)年にいち早く訪れた文豪大町桂月が「層雲峡」の美称を与えて世に紹介すると、訪れる人が増え始めた。道路の開発も歩調を合わせて進み、大正14(1925)年に層雲別から層雲峡温泉の手前までバスが通れる自動車道が開通している。続いて石狩川を渡る神仙橋の工事が行われ、昭和2年に終点の層雲閣まで開通した(上川〜層雲閣間 約20km)。
温泉以奥への道路の延伸は、層雲峡を代表する景勝地である流星・銀河の滝がある小函(こばこ)まで昭和6(1931)年に完成したが、それより上流は峡谷が極めて険しく、観光目的の道路では入り込むことができなかった。そこに進展をもたらしたのは太平洋戦争であった。石狩川源流部に広がる広大な針葉樹林を軍需用材として伐出することや、留辺蘂側で稼働していた国内最大の水銀鉱山イトムカ鉱山の輸送距離短縮のために、石北峠の開削が目論まれたのだ。この工事は昭和17(1942)年に小函から着工したが、2kmほど先の大函手前に達したところで終戦を迎え、工事は中止された。
終戦後、昭和23(1948)年から工事は再開された。
昭和27(1952)年に道路法の公布があり、北見峠は旭川と網走を結ぶ一級国道39号に指定された。当時まだ開通していなかった石北峠は国道ではなく、道道旭川層雲峡線、町村道武華層雲峡線、道道二股留辺蘂停車場線という3本の道路に分割認定されている。昭和29年にこれら3路線は一本化され道道上川留辺蘂線となり、より強力に工事が推進された結果、昭和32(1957)年10月1日、ついに標高1050mの石北峠にて東西道路がつながり、道央と道東を結ぶ新たな幹線が誕生した。
開通から間もない昭和35年には、国道39号の指定が明治以来の幹線だった北見峠経由から石北峠経由に変更され、旭川〜網走間の距離は30km近くも短縮された。(北見峠は一旦道道に降格したが、昭和50年に国道333号に昇格して現在に至る)
国道になった石北峠の重要性はますます高まり、様々な改良を受けながら、現在に至る。
以上が大雪国道の簡単な歴史だが、層雲峡隧道の歴史を紐解くうえで重要な事実は、昭和32年まで層雲峡温泉は袋小路の立地にあったことと、昭和35年まで国道ではなく道道だったということだ。昭和29年竣功の【銘板】が付けられている層雲峡隧道は、そういう時代に生まれていたことになる。
右図は昭和29(1954)年資料修正版の地形図にみる層雲峡温泉周辺であるが、上記した道路整備の進展を全く無視したように、あるべき道が描かれていない。
そもそも、中央付近にあるべき層雲峡温泉の名前が、大正以前に用いられていた双雲別温泉になったままだし、峡谷の名前も層雲峡ではなく、旧称の霊山碧水峡のままである。上川方面から温泉へ通じる道は辛うじて点線で描かれているが、大正時代からバスが通っていたという道の表現では明らかにない。さらに、温泉宿らしい建物もぽつんと1軒あるだけで、温泉郷という表現ではない。
しかしそれもそのはずで、ここに掲載した範囲の描写は、大正10年測図版と何一つ変わっていないのである。つまり、この間は未更新ということだ。
一帯は昭和9年に早々と国立公園にも指定され、既に北海道を代表する温泉地として発展していたはずだが、地形図の更新にこれほど無視されてきた事情は分からない。戦前ここに陸軍第七師団の療養所があったことと関係があるのだろうか。(軍事機密関係の改描?)
そんなわけで、この地形図には昭和29(1954)年竣功の層雲峡隧道は影も形もない。
ただ、隧道が掘られるあたりに「地獄谷」の地名が既に注記されているのは印象的だ。
この名は層雲峡温泉周辺にある地名の中で、もっとも古くからあったものなのかも知れない。その方がなんか、“ワルサ”も筋金入りって感じがするだろう。
『上川町史』より転載。
初期の道路風景をイメージしてもらうのには、この写真が良い。
大正10(1921)年に大町桂月が訪れた当時の「地獄谷丸木橋」だという。
前記旧地形図の「地獄谷」に描かれている橋が、この橋だろう。
位置的には現在の層雲橋付近と思われる。
手摺りのない細い丸木橋だったようで、櫂のような長い棒で川底を突きながらバランスを取って渡るさまは、いかにも危険である。
当時はこの橋を渡った左岸に唯一の温泉宿があったが、自動車も通行可能な新たな木橋「神仙橋」が架けられた昭和2年頃に宿も新築され、層雲閣となった。同ホテルは当地第一の老舗として現在に至っている。
続いて昭和32(1957)年測量の地形図を見ていただこう。
図歴上はたった3年しか経過してないが、止っていた時間を取り戻すように一気に温泉街が花開いている。現在とさほど遜色がない規模の温泉街が登場している。
そしてここにはじめて、我らが層雲峡隧道の姿が見える。
現在の地図からは抹消された廃隧道の在りし日の姿は、全長417mもあるだけあって、なかなかの存在感を見せている。元気そうだ。
しかし、この地図を見てもやはり、層雲峡隧道は林道ではなく、国道や県道のような一般道に見える。
なにせ、地図上の表現方法が「そこそこ太い二重線」、つまり「府縣道」であることを示しているのである。
また、隧道の上川側の道が不思議な描かれ方をしていることにも注目。
府縣道として描かれている2本の道が極めて近接して並行している。間に川があるわけではなく、どちらも右岸である。仮に中央分離帯があるような道路でも、このような表現方法を採らない。しかも、この2本の府縣道の並行は、上川の手前まで約15kmも続いているのである。
これはいったい何を意味しているのだろう。
この疑問の答えに繋がりそうな内容が、『北海道道路史』にあった。
大正末に完成した上川〜温泉間の車道に並行して、戦後の僅かな期間だけ森林鉄道が存在していたという。しかし、昭和29年(層雲峡隧道竣工の年だ)までに自動車道林道へ切り替えられ、既存の車道と併用して使われたそうだ。ようするに地図上で並んでいる2本の府縣道の正体は、道道と林道だったということらしい。
右の2枚の写真は、今回の探索の最後付近のシーンだ。層雲峡隧道の下流側坑口に接続する位置に、現在の国道の山側に並行する正体不明の廃道を目撃したが(未探索)、これが上記の「森林鉄道→林道」という経緯をたどった道の跡だったのだろうか。
さすがに林鉄跡というような予想はしていなかったので驚いた。歴代地形図に一度も描かなかった林鉄である。
少し話が脱線したが、『北海道道路史』は上記引用文に続いて、我らが層雲峡隧道のことを書いていた。内容は以下の通り。
昭和27年着工、29年竣功、全長417m、いずれも銘板にあったとおりの内容だ。
「これも木材搬出のために構築されたもの」とあるのは、林道であったことを意味しているのだろうし、観光バスが通ったり国道工事中の迂回路にもなっていたという情報は、あの【瀟洒な扁額や照明灯】を有する隧道が、一般交通と縁遠い林業専用では終わらなかったことを理解させる。
やはり、旧国道っぽく見えたことにも道理があったということだろう。
机上調査の成果はあった。
が、私が一番知りたかった情報は、書かれていなかった。
層雲峡隧道は、熱源を貫くような難工事ではなかったのか?
やはりこれ以上の詳細は、隧道建設の当事者に求める必要がありそうだった。
そう考えた私は、新たに『旭川営林局史』(旭川営林局/昭和35年)を入手した。
『旭川営林局史』より転載。
キター!!
この写真は、巻末のグラビアページにあった。キャプションはただ「層雲峡隧道」とだけ。
撮影年は不明だが、昭和35年の本に掲載された、昭和29年竣功の隧道だ。だいぶ絞り込める。
初めて目にした、在りし日の層雲峡隧道の姿だった。
完成から5年以内だろうに、新品という雰囲気ではない。なんだか早くも歴戦の気配を感じる。
激しく砂埃を巻き上げながら迫ってくる、丸太を満載したボンネットトラックの姿があるからだろうか。いかにも林道らしい風景だ。
隧道東口から上流へ向けて撮っているようだが、完全な同ポジ写真はもう撮影不可能だ。なにせ、この撮影者のポジションは現状、【熱を帯びた落盤土砂】の下に埋もれている。
これは、層雲峡隧道が現状でもっとも激しく崩壊し、もっとも濃く硫化水素臭と熱気を感じた地点で撮影された、往時の写真なのだ。
写真からは、別段異常なところは感じないが……。
チェンジ後の画像は、現在の東口を埋める崩土のうえから撮影した上流方向だ。
かなり緑化が進んでいるが、同じ場所ということが分かるだろう。
『旭川営林局史』より転載。
層雲峡隧道の写真はこれだけだったが、他に右図の設計図面も掲載されていた。
上段が側面図、下段が断面図である。
前者はかなり勾配を強調して描いているが、東口から約141mが0.2%の上り、そこから西口まで約276mは3%の下りという、全体として微妙な拝み勾配の隧道であったことが分かった。
中間付近にあって私を深い泥沼で苦しめた【大きな待避所】は、全長30mの規模であった。
待避所通過以降、私はいくつもの泥“堰”を壊し、その都度洞内の滞水が西口めがけておし流れる【恐ろしい光景】を目撃したが、粘度の強い泥水なればこそ3%という勾配があっても自然に外へ流出せず、天然の“堰”を作って溜っていたということらしい。
「この本は役に立ちそうだ!」
そんな嬉しいファーストインプレッションを抱いたところで、肝心の本文に目を通してみると、層雲峡隧道を生み出すことになった「層雲峡林道」開設の経緯が、詳しく書かれていた。
それによると、石狩川最上流の大雪山系一帯はエゾマツ・トドマツなどの針葉樹による本邦屈指の大樹海であり、戦前から開発が意図されていたが、前門として立ちはだかる層雲峡のために搬出路の開設が困難で本格的開発が立ち後れていた。そのため、旭川営林局は昭和27年に、石狩川本流に沿って上川〜層雲峡温泉〜大函を結ぶ全長約40kmの層雲峡林道を幹線とする、一大開発計画を立案した。以下が層雲峡林道の計画概要である。
上川貯木場〜層雲峡温泉には戦前に開設された23kmの森林鉄道があったが、これを撤去し幅4.5mの自動車道とすることで、並行する道道(昭和35年から国道)と合わせて実質的な2車線とする。
また、峡谷の核心部である温泉〜大函は、新たに専用林道を建設することが地形的に困難であるから、従来の道道を拡幅して幅7m(2車線)とする。
残りは温泉周辺だが、ここでは――
このように、層雲峡隧道開設の目的が温泉街の迂回にあったことが、明記されていた。
そして実際にこの計画に沿って林道の整備が進められた結果、層雲峡隧道は誕生した。
『旭川営林局史』より転載。
これは『旭川営林局史』に掲載されていた、「層雲峡経営区内自動車道現況図」である。
「ソウウン峡隧道」の道は、林道であることを示す黒い実線で描かれており、「層雲峡自動車道」の注記がある。
これが上川貯木場と層雲峡温泉を結んでいた層雲峡森林鉄道を、昭和27年までに自動車道化した林道だった。
昭和29年に、この林道を延長する形で層雲峡隧道が開通したことで、温泉街を迂回して上流へ抜ける一連の林道が開通したわけである。
なお、ここで改めて注目したいのは、温泉以西における林道と道道(図中では「本道」の注記あり)の位置関係だ。
林道が川側、道道が山側に描かれている。
つまり、昭和32年の地形図で奇妙な併走を見せていた2本の府縣道記号は、実際は右図のように、林道と道道を分担していたということになる。
そしてチェンジ後の画像、昭和43(1968)年版を見ると、さらに太い国道の記号が現われているが、温泉以西では従来の山側の道道ではなく、川側の林道が国道へ昇格したように描かれているのである。
もう一度、さっき見た写真(←)に立ち返ると、このシーンにおいて国道が通っている位置にかつてあったのは、「林鉄→林道」であり、すっかり廃道化している山側の平場が、大正時代に初めて切り開かれた由緒ある道道だったということが判明した。
本題からはずれるが、これは予想外だった。
いまの国道の大部分が林鉄跡だったとは。
…また少々脱線してしまったが、私が一番知りたかった話も、ちゃんとあった!
昭和29年5月完成した層雲峡トンネルは、開発林道計画のうちであって上川貯木場を起点とした林道21kmの位置にあり、通称地獄谷といわれている個所に開設されたものである。この付近は現在の層雲峡温泉の中心街で、各所に温泉の湯気が立ち込め道も険しく、往昔から交通の難所といわれていたところである。当時の道路は温泉の中心を通り懸崖・絶壁にはばまれ迂折して急勾配が続き、橋梁はほとんど木造であった。なお例年5月から11月の間は温泉客の散策の場であって木材輸送の障害と考えられたので、この隘路を取り除くためにこのトンネルが開設されたのである。
トンネルの工事は昭和27年8月に着工したのであるが、高熱に災されて作業が思うように進まず、一時中止の心配もあったが当事者の努力が実を結び、さしもの難工事も満2ヵ年の歳月と8千万円余の工費をもって完成を見たのである。
ほら〜! やっぱり工事中から温泉がワルサしていた! 熱気も異臭も、私の幻覚じゃなかったんだな。
納得である!
このように、はじめからある種の業を背負って生まれた層雲峡隧道であったが、『営林局史』によると、開通の直後にあった“ある出来事”のために、計画より遙かに多く活躍することになったらしい。
普通なら逆じゃないかと思うところだが、もの凄い大活躍だったそうなのだ。
その出来事とは――
『旭川営林局史』より転載。
昭和29年の15号台風とは、日本最悪の海難事故を引き起こした洞爺丸台風のことをさしている。
この台風によって上川営林署管内では2200万石もの風倒木が発生した。特に層雲峡温泉の上流に設定されていた層雲峡経営区の被害は絶大で、総蓄積の46%にもおよぶ1840万石が被害を受け、当初計画による年間出材量(34万石)の54年分にもおよぶ材を数年内に出材しなければ、そのまま腐朽してしまうという未曾有の緊急事態となった。
風倒木処理のため、昭和32年度までの3年間で通常の20年分におよぶ100km以上の林道が開設され、木材を満載したトラックが陸続と連なった。
層雲峡経営区の全体から層雲峡隧道を通じて伐出された材量は、この3年間で500万石におよんだという。
そして、わが国の高度経済成長に乗じ、各地に“夢のマイホーム”を生み出すなどの活躍をしたわけである。
『旭川営林局史』より転載。
この写真は当時、層雲峡の核心部にある小函の景勝地“神削壁”で撮影された。
後に国道としても活躍したこの道は、現在危険防止のために封鎖されているが、
ここに写っている運材トラックの全てが、層雲峡隧道を通じて行き来した。
本当に、大活躍の時代があったのである。
……ところで、層雲峡隧道はいつ頃にどのような事情で廃止されたのだろう。
今のところはっきりした答えは分かっていないが、温泉街を通る国道の整備が進展し、かつてのような狭く曲がりくねった道でなくなった時点で、1車線分しかない隧道を敢えて通行する意義は失われたことだろう。
それはいつ頃なのか。
昭和52年の航空写真では、既に現在とほとんど変わらない立派な国道が完成していることが分かる。
おそらくこの頃に、隧道は永遠の眠りに就いたのではないかと思っている。