道路レポート 層雲峡万景壁の旧道群 後編

所在地 北海道上川町
探索日 2018.5.24
公開日 2018.8.08

万景壁の旧“国道”と旧“道道”


2018/5/26 11:05 《現在地》

麗しの「四号橋」にたっぷり癒されてから、もどってきたぞ。

この不自然の世界に。

ほんと、なんなのこれ。

廃道探索者としては、廃道然とした旧国道が残っていなかったことを残念に思うが、別に非難や批判をしたいと思っているわけではない。
ただただ、ものの数年でこんなに自然を取り戻せるんだなっていう驚きから来る、「なんなのこれ」だ。
これなら、「自然破壊反対!」なんていうのは、単に自分の好きなものを壊されたくないというエゴで、自然は壊したら二度と元には戻らないなんていう、私が子供のころからいろんな場面で教え込まれてきた理論は嘘っぱちかと思ってしまう。仮に壊しても、人間様はそれを元に戻せるんじゃないかなんて、だいぶ傲慢なことも考えたくなる。

実際、金と手間を惜しまなければ、たいていの復元は出来てしまうのだろう。元に戻せないのは、気温とか、環境そのものが変わってしまった場合くらいか。そして、現実はこの“金と手間”が惜しまれるものだから、世の廃道の大半が廃道として放置されているんだろうか。

この緑の築堤も、そこから見える万景壁も、石狩川も、四号橋も、実にすばらしい眺めだ。
読者諸兄の中にも、もし観光ガイドブックにこの景色が載っていたら、行ってみようと思う人がいるだろうし、まして国道から徒歩2分の好立地だ。
この築堤をそのまんま遊歩道にして活用でもすれば良いのに、そんな様子は全くない。

北海道の大自然は恵まれているから、このくらいは見るに値しないのだという意見もあるかも知れないが、これはそんなにありふれた景色ではないと思う。
単純に、ここが国立公園の特別地域内だから、遊歩道ひとつ作るのにも国の許可がいるだろうし、いろいろ大変なんだろうか。



あまりにも風景が変わっているので、本当に最近までここを国道が通っていたのだという証拠を示す必要がありそうだ。

左図は、昭和52(1977)年の航空写真である。
これを「最近」というのは少し無理があるかも知れないが、旧国道が現役だった時期の航空写真でこれより新しいものを見つけられなかった。
しかし、40年ほども昔の風景でありながら、大型観光バスと思われる細長いシルエットの車が多く行き交っており、路面もちゃんと舗装されているのが明確に見える。
今日の一般的な国道と比較しても遜色のない、十分整備された道路が通じていたことが分かると思う。 信じてくれた?

対して、平成24(2012)年の航空写真を見ると、既に国道は現在の位置に移転しており、もとの位置はすっかり緑色に染まっていて廃道化工事が完了していることが分かる。




この国道の換線が行われた時期だが、万景岩橋と胡蝶岩橋の竣功年がそれぞれ平成10(1998)年と平成8年であることから、平成10年だと考えている。しかし、これほど最近の出来事であるにもかかわらず、確定ができていないでいる。北海道新聞データベースも使ってみたが、それらしい記事(の見出し)は見つけられなかった。

2kmを越えるような大規模な換線であり、ニュースにならなかったはずはないのだが、どなたか事情をご存知の方はいないだろうか。
現役当時の写真とかもあったら、ぜひ見てみたいものだ。




このように、換線が行われた正確な時期さえ分かっていない有様だから、なぜ換線が行われたのかも、想像の域を出ない。
まあ、わざわざ川の対岸へ遠回りになるような換線を行っているのだから、次の2つの可能性しかないとは思うが。

    (1)万景壁が崩壊することを恐れて、防災目的で換線した。
  • (2)万景壁が崩壊の兆候を見せたから、防災目的で換線した。

道はいよいよ、万景壁の屹立に接近していく。
本当ならば、道だってもっと距離を取りたかったずだが、反対側は石狩川が遮っていて、それこそ対岸に渡るかトンネルを掘るしか逃げ場のない状態だ。
地形図では2本の計曲線が凝縮されて描かれるこの崖の全高は、河床から100mにも達している。道路の高さから数えても、80mはありそうだ。

とはいえ、今のところは道端から直接垂直にそそり立っているわけではなく、樹木が茂っている急斜面を介している。

この樹木のある斜面は、典型的な崖錐だ。崖錐は崖の下に作られる崩土の堆積地形であり、見るからに岩塊の山という姿をしている(→)。

崖錐は落石の被害を軽減する自然の防災施設としても働くが、当然ながらこんなに崖錐が発達しているということ自体、下を通る道路にとっては悪魔的である。

この崖錐斜面を見ただけで、国道がここから早く逃げ出したかった気持ちが分かった気がした。




なおも進むと、美しすぎる景色の中に、不穏な空気が漂い始めた。

何やら倒木が築堤(何度も言うが、この築堤は旧国道の上に築かれている。位置は変わっていないだろうが、高さはおそらく変わっていて、足元はかつての路面ではない)を塞いでいるのだが、問題は倒木を生じさせた原因だ。
山側の緑の向こうに、大量の落石が透けて見えている。




11:12 《現在地》

やっぱりだ。大きな崩壊があった。

そして、おそらくここが、旧国道が万景壁の険しに最接近していた地点だと思う。
崖錐斜面がここにはほとんどなく、道路と崖がもの凄く近い。
柱状節理の大絶壁は、この層雲峡の核心部にある景勝地で、かつて国道が通っていたが危険すぎることから完全に封鎖された【神削壁】(写真は『旭川営林局史』より)を思わせる。

神削壁は昭和54年に早々と国道から退場させられたが、こちらは平成10年頃まで国道だったはず。
しかも、廃止後の発生だとは思うが、結構やばい感じに崩壊している。もし道路があったら確実に路上まで押し寄せてきていただろう。

こんな危険そうな場所だが、先ほど紹介した昭和52年の航空写真に覆道は見当たらなかった。
現地にも覆道はおろか落石防止ネットさえみられなかったが、廃道化工事に伴って撤去したのだろうか。まさか現役時代から裸だったのか?



まだまだ万景壁は続いているが、ひたすら直進する築堤(=旧国道)からは徐々に離れ始めるので、一難去った感がある。
このまま進めば、あと200mほどで【万景壁橋袂の築堤】の上に立つことになるだろう。

だが、美しいけれどもそれだけ、道路美的な要素が全くない、こんな単調な築堤と最後まで添い遂げる気はない。
もういい。
私の方から進んで出ていく。




右図を見て欲しい。

昭和43年の地形図だと、国道39号はこのままっすぐ進んでいるが、昭和32年版の道道上川留辺蘂線は、この辺りから緩やかに右へカーブしている。まるで万景壁から離れがたいみたいに。
そして約500mで、今回の出発直後に通過した【陸万の三差路】に到達している。

旧国道の現状に絶望に近いものを覚えていた私が探すべきは、旧国道よりさらに世代の古いこの道だ。
この辺りから右へ万景壁に沿うようにカーブしている、そんな脇道はないか?
好みの廃道を求める私の目が光った。




平場があるぞ!

オブローダー大好き用語ベスト3に間違いなく入るだろう、“平場”だ!!

私が立っている場所は何の面白みもない盛り土だが、あちらはなんか違う。
後ろは万景壁の崖錐に半ば呑み込まれていて、手前側も全体的に型崩れもしている。このくたびれ感は、明らかに“いつもの”だ。廃道のままの廃道だ。




旧道道と旧国道の分岐地点を、両者を隔てる窪地の中から振り返って撮影した。
向って左側の一段高い平場が旧道道で、右側の築堤が旧国道だが、廃道化工事に伴う盛り土が行われるまでは、この窪地の高さに旧国道の路面があったと思われる。
つまりこれは、高い位置にある旧道を削り取りながら、その進路を収奪する形で新道が合流してくるという、旧道を廃道化させる前提があるときによく現われるパターンの分岐地点だ。
旧国道が現役だった時代から、旧道道は忘れられた存在だったと想像できる。

旧道道の路盤によじ登る。
美しくなくても良い、いつもの廃道が欲しいんだと願いながら。




11:18 《現在地》

いいね。

手入れされていないなここは。

意外に道幅もある。かつて自動車が往来していた道にあるべき広さだ。

そして、道は結構な急勾配で上っている。




少しだけ進んでから川側を見ると、旧国道の築堤はもうだいぶ低くへ遠ざかり始めていた。
『北海道道路史』には、層雲峡林道と比較して「既存道路は山すそを切り崩して急坂が多い」という記述があるが、始終こんな感じだったんだろうな。
ここ万景壁においても、四号橋を経由する層雲峡林道はほぼ平坦。森林鉄道跡を車道化したという事実が、そんな平坦さの肝になっていると思う。




ああ、いつものだ(笑)。

終わりがどこにあるのか分からないなら、この激藪はキツイし嫌だが、今回はどこに出るのかが分かっているから、気楽だ。
探索時には詳しい来歴は知らなかったが、層雲峡温泉を訪れた大勢がかつて通行した道だろうという想像だけでも、充実した気分で探索ができた。
願わくはあとひとつ、何か印象的なものを見つけられたら。



視界のほとんど効かないクマザサの激藪をひとしきり掻き越えて、少し開けたところに出たぞと振り返れば、

万景壁の威圧が凄い!

藪のせいで気付きづらいが、道は相当アグレッシブに崖錐斜面を横断している。



人間よりも遙かに大きなサイコロみたいな岩が、ゴロゴロと、ゴロゴロと…。



ああ、こっから落ちてきたのね。

石狩川を二度渡る架橋が実現するまでの万景壁は、かの有名な“上高地”に対する釜トンか徳本峠のような、
超一級の景勝地と呼ばれるところがたいてい持っていて、持っているからこそ辿り着いたときの感激が超一級になる、
そんな類の“門番的難関”だったのだろうと思う。これを越えてから、地獄に仏とばかりに層雲峡のいで湯に癒されたり、
あるいはさらなる核心部の絶景に感嘆したり、そういうことが道路未整備時代の層雲峡の醍醐味であったのだろうな。

旅が人を選んだ時代の話である。戻って欲しいとは思わないが、
その時代の景色を見るのが私は好きだ。



旧国道をはずれて200mほど進むと坂道は平坦になり、それからおもむろに下りへ転じた。
この間、次第に川の音が遠くなり、かわりに車の走行音が聞こえ始めた。
数十メートルの高低差があるのと、鬱蒼とした森のために、路肩に立っても見通せないが、万景壁橋の上部あたりを横断しているのだろう。

道は全体的に藪が濃く、また泥濘んでもいる。
総じて爽快なプロムナードではないが、廃道を探索したいという気持ちには応えてくれている。いかにも乗り合いバス好きのする道幅の広さも、グッドだ。




道は層雲峡という非日常の世界を後に、人家の待つ陸万へと下り急ぐ。
傍らに威圧していた岩壁も、警戒を解いた番兵のように遠ざかっていき、あとは緑の森になった。
微かに見覚えのある形をした建物が、前方の木々の隙間に見え始めた。ホテルロックサイドかな。

藪は薄れてきたが、代わりに泥濘み方が酷くなってきた。
油断すると、くるぶしくらいまで泥に浸かりそうだ。
もう、泥はいいよ(笑)。



11:26 《現在地》

ほぼ陸万の地平に降り立つ寸前、木々の隙間に見えていた建物も、ディテールを観察できるまでに近づいた。
地形図にない道は、鮮明な道形を保ったままここまできた。集落の間近なのに、未だ踏み跡はない。

まもなく車を駐めてあるスタート地点に辿り着くから、この探索は完了だ。これで終わりか。
そう思う私の視界の隅の方に、今回の主役に抜擢したい“逸材”が、背を向けていた。
(でも覚悟しておけ、地味だぞ。 四号橋ほど万人受けはしない。)

今回のトリを飾るのは――




ご覧のいしぶみ

「大雪山国立公園 層雲峡」と刻まれた碑だ。



何か特別に衝撃的な告白が刻まれていたわけではなく、むしろその逆であった。

層雲峡の入口にあたる路頭にこの碑があるという状況が、腑に落ちすぎて気持ちいい。
ここが上川町大字層雲峡という地名の入口だということは二の次で、碑が背負う万景壁の存在こそが、ここを層雲峡の入口だと人に印象づけたのだ。地名よりも地形が先である。
万景壁を背負うこの場所に碑があることに、画竜点睛の快感を覚えた。

そしてもう一つ、私の興奮と切り離せない事実が、廃道だということだ。
現在の国道から見て少なくとも2世代は古い道の路頭に、こんな立派な碑が、人知れず取り残されていた。
この碑は道を見下ろしていて、通行人が決して見逃さない、最高の立地に建てられていた。これ見よがしだ。

かつての万景壁の門番としての存在感と、そこを潜り抜ける道の誇らしさが、この碑に結晶している。
ここを通って行けという無言の立ち姿が、惚れ惚れするほどに格好良い。



碑の裏側には、「昭和二十五年六月建之 上川観光協会」と刻まれていた。
層雲峡の繁栄を誰よりも願った人々が、お金を出し合って建てたのだろう。

昭和25(1950)年といえば、層雲峡林道の建設が着工する直前で、道はまだこれ1本しかなかった。
まもなく林道との二人三脚態勢になり、それも長くは続かず、昭和40年前後にはこの碑の前の道は、国道に役割を譲って廃道になったとみられる。

碑を国道沿いに移転することは考えられなかったのだろうか。
この碑はここでなければならない。ここでなければ、ただの看板になってしまうと、誰かがそう考えたのかも。だったらいいなぁ。

(←)碑前に立って、地平へ下る旧道道の最後の坂道を撮影した。
最後まで鬱蒼とした笹藪であり、下からだと碑まで視線は届かない。

そして、道は下へ着くなり建物に遮られて寸断されていた。
もはやそこは廃道でさえなく、なるほどこれでは碑の存在がほとんど知られていなくても無理はないと思った。つくづく、オブローダー好きのする碑だぜ(笑)。




11:29 《現在地》

建物を突き破って(笑)、旧道道は見覚えのある陸万の三差路に合流。

こうして、層雲峡入口の新旧を巡る、1時間15分の小探索は幕を閉じた。



【追記】 国道の換線は、平成4年と平成11年の2回に分けて行われていたことが判明した


間違いなく平成の出来事だろうに、情報がほとんどなくて気持ち悪かった、国道の換線に関する新情報だ。
本レポート公開後、『道道資料北海道』の著者である大島 仁より、貴重な情報のご提供をいただいた。 ありがとうございます!

大島氏によると、旧道に代って現在使われている国道は、北海道開発局が「一般国道39号 四の岩道路」として整備したものだという。
寒地土木研究所が公開している論文『コンポジット舗装の施工について 一般国道39号 上川町四の岩道路舗装工事』に、この工事の概要が出ていた。

3-1. 工事概要
 この区間は特殊通行規制区間になっており、落石・崩落等の危険個所の解消の為に四の岩防災事業として平成元年度より事業実施されており、今回の施工箇所は現道より50m程度川側に中心線が変更された箇所である。
『コンポジット舗装の施工について 一般国道39号 上川町四の岩道路舗装工事』より。

万景壁における国道の換線は、【特殊通行規制】気象や現地の状況等により判断して通行規制を実施する区間。(例:川の増水による冠水、吹雪による視界不良、風雨に伴う落石など) の解消を目的とする「四の岩防災事業」の一環として、平成元年度に着手されたのである。
いつ石が落ちてくるかも知れない万景壁の直下を通過する国道を、道路管理者としていつまでも黙って見てはいられなかったということだろう。
だから、落石が怖いならば道を崖から離せば良いという、分かりやすい論理で新道は設定されたようだ。


そして大島氏は、得意の【官報】道路法によって定められた道路を道路たらしめるための行政行為は、「路線の指定や認定」→「道路の区域の決定(変更)」→「供用開始」という3段階からなっている。国が管理している指定区間内の国道(北海道内の国道は指定区間)についてこれらの手続きが行われると、官報に告示が掲載される。そのため、官報を悉皆調査することで、道内の国道の変化を漏れなく捉えることが出来る。ちなみに指定区間外の国道や都道府県道については、都道府県が管理者であるから官報ではなく各都道府県の県報に告示が掲載される。を調査する手法によって、「四の岩道路」の供用が2段階に分けて行われたことも解き明かした。
判明したルートの変遷を次図に示す。

@
平成4(1992)年10月25日以前
A
平成4年10月26日から平成11(1999)年2月16日まで
B
平成11(1999)年2月17日以降

平成元年5月22日付けの官報に、「道路の区域の変更」の告示がある。長さ1490m(幅員は省略する)の新たな区域が国道39号に追加されている。実際の工事が行われる前に、道路予定地が国道の一部に組み込まれているわけだ。

平成4年10月26日付けの官報に、「道路の供用の開始」の告示がある。これは上記した長さ1490mの新道(右図Aのルート)が開通したことを示している。
これで「四の岩道路」の東側半分(1期)が完成で、残るは西側半分(2期)である。

平成6年5月16日付けの官報に、再び「道路の区域の変更」の告示がある。ここで新たに長さ1380m(幅員省略)の区域が国道39号に追加されている。

平成11年2月17日付けの官報に、上記した長さ1380mの新道(右図Bのルート)の開通を示す「道路の供用の開始」の告示がある。
こうして「四の岩道路」の全線2550mが開通した。

もちろん、「道路の区域」は追加されるばかりではなく、削除もある。
平成12年3月31日付けの官報に、また「道路の区域の変更」の告示がある。
ここで初めて、旧道2459mと、平成4年に開通した新旧道の連絡路部分320mが、「道路の区域」から削除されているのである。これは「供用の廃止」を兼ねるので、法的にも「廃道」になったということだ。


す… すげぇ! 独特の作法で書かれている官報の解読は少しばかり手間だし、何より、頻繁に発行される官報の悉皆調査は大変なことだが、その成果は絶大! 丸わかりじゃないか! 今まで私はほとんど利用をしてこなかったが、道路の変遷を知るうえで、官報がとても大きな力を発揮することが理解できた。


そしてこの結果、私が現地の風景に感じた違和感や疑問も綺麗に解消された。

たとえば、中編の中盤に登場した、謎の築堤が分岐しているこのシーン(←)だが、右側の築堤は平成4年から平成11年まで使われていた新旧国道の連絡路(320m)だったのである。
官報に出ていた道幅と比べると、現状の築堤の天端は幅が狭すぎるので、廃道化工事の際に行われた客土で築堤の形が変わっていると思われるが、位置についてはここで間違いない。




平成24年の航空写真(→)を見ると、この連絡路部分は、平成4年にいち早く旧道となった区間と比べて、遙かに鮮明に見える。

また、連絡路を含む「四の岩道路」の平成4年完成区間は、かつての層雲峡林道の跡地にほぼ重なっていることも、昭和52年の航空写真との比較によって判明している。

【平成4年に旧道化した区間】と、【平成11年に旧道化した区間】では、受ける印象がだいぶ違う。
廃止時期の違いが、その最大の原因だったのだろう。

すっきりした。